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2008年1月 9日 (水)

パリ滞在記第十二日帰国

 11月26日、月曜日。12日間お世話になったホテルに別れを告げて、朝九時に私たちは重いバッグを提げて出発しました。飛行機は1時15分の便ですが、早めに出るに越したことはありません。というのも、成田を発つとき、のんびりし過ぎて、最終コールの後でやっと飛行機に滑り込んだので、帰りはもっと余裕をもちたいと思ったのです。メトロ6番線でシャルル・ドゴール・エトワール駅へ。ロワッシー・バスにはこりごりしたので、帰りは奮発してエール・フランスのリムジンバスで空港まで行くことにしました。リムジンバスの乗り場は凱旋門の裏手にあり、二人分26ユーロを払って私たちは乗り心地の良さそうなバスに乗り込みました。

 バスは、まるでパリに別れを告げるように凱旋門の周りをぐるりと一周してから、グラン・ダルメ通りをポルト・マイヨーに向かって進みます。そこで再び乗客を乗せてから、いよいよシャルル・ドゴール空港に向きを変えました。窓からは、ハイウェイの道脇に点在する工場やスーパーマーケットが見えます。もうパリは私たちの後ろのほうに遠ざかっていきます。パリよ、さようなら。私はボトルに入れて持ってきた昨夜の残りのワインをゆっくり飲み干しました。

  振り返ってみると、滞在中重い病気にもならず、事故や盗難にも遭わなかったので、まず今回の旅行は成功だったといえるでしょう。だが、ストが長引いたのが予想外で、旅行前の予定は大幅に狂いました。計画では最初の2、3日のうちにイル・ド・フランスのどこか(シャルトルかアミアンかシャンティイ)に行き、残りの一週間は、カルト・オランジュという定期券を買って縦横にパリを回りたかったのです。実際は、ストで半身不随のパリに12日間居座ることとなりました。メトロがほとんど利用できなかった前半の無為な過ごし方がやや悔やまれます。妻のためには、オペラ・バスティーユのバレエにも行っていけばよかったと思うし、ルーブルにももう一日行って、雑貨屋やぬいぐるみの店などももっと探してやるべきだったでしょう。私自身はベルヴィルや13区の中華街など移民の熱気と活気が感じられそうなところも行きたかったと思います。また、ギュスターヴ・モロー美術館、贖罪教会、カタコンブなども行けませんでした。

 ただ、私自身はパリの街をあてどもなく歩いて疲れたらカフェに入るというのが一番の楽しみなので(パリの街はあてどもなく歩く人(flaneur)のためにある,とベンヤミンは書いています)、ストのおかげで疲れはしたが、そのためにパリの街路を堪能できたわけです。。パリの寒さは予想以上でしたが、妻も思索しながら散歩できるところがパリの一番の長所で、次は10ユーロでオペラを観劇できるところだ、と言っていました。

 パリの美しさを語ることは難しい。ポール・レオトーはこう言っています。「パリを本当に味わうことができる人間は稀である。だが、パリの良さを知るには、ただ立ち止まってあたりをじっくり眺めさえすればよいのだ。家並みの時としてはっと息を呑むような眺め、ある通りのそれまで見過ごしてきた景色、ある町全体の今まで気づかなかった色調、、、」(「あるパリジャンのパリ」武藤剛史訳)

 このような美はただflaneurのみが見出し、味わうことができるのです。そして不思議なことに、この美は人生の紡ぎだす多様な糸が絡まったときにのみ身にしみて感じられるように思われます。「私は、パリのどこを歩いても、その一歩ごとに回想の世界を見出す」とレオトーは書いています。何かを考えながら、何かを思い出しながら歩くことなしにパリの街路はその秘めた美しさを表さないかのようです。私は、モンマルトルの裏通り、ネッケル小児病院からモンパルナスに至る小道、アメリカン教会のある静かなジョルジュ・サンク通り、寒風の吹きすさぶポン・デ・ザール(芸術橋)、サン・マルタン通りを目的なく歩いてサン・ドニ門にぶつかった時、などに思い出が次々に混じりあう何ともいえない感情に襲われました。60代で死んだ私の母親は東京で生まれ、東京から出ることはほとんどない人生を送りましたが、晩年にぽつりと、一度ヴェネチアに行ってみたい、と口にしたことがあります。足腰が弱っていたので、とても無理だと思ったのですが、今思えば何とかして連れて行ってやるべきだったでしょう。経験は老人にこそ必要です。母はきっと、ヴェネチアの水路に、あるいはパリを訪れてパリの街路に、思い出せなかったさまざまな人や忘れかけた子供時代を再び見出したことでしょう。また、私は幼いときに死んだ私の姉のことを思い出しました。もし、姉が生きていて、たとえばテルヌ広場に住み、訪れた私にパリの街路を案内してくれたらどんなに嬉しかったことでしょう、、、。

  帰りの飛行機は行きよりも速く感じられました。27日朝の九時ちょうどに成田に着きましたが、私たちにとっては子猫の元気な姿を見てはじめて旅は終わります。扉を開けると、びっくりしたように目を丸めて私たちを見ていましたが、すぐに、うれしい時にいつもそうするように台所の爪とぎ板で夢中になって爪を研ぎはじめました。私はその日にもう仕事が入っていたので、風呂に入ってから、猫を抱いてうとうとしている妻を残して家を出ました。

 帰国して一ヶ月あまり経ちましたが、まだ夢の中でパリの街路を妻と歩いている自分を見ることがあります。地下鉄に乗るとパリのメトロのことを、空を見るとパリの空を思い出します。高い建物がほとんど無いので、パリの空は広く感じられるのです。気がつくとパリで履いていたウォーキングシューズの靴底に銀杏の丸い実が挟まっていました。どこで挟まったのか、ペール・ラシェーズだろうか、モンマルトルの丘だろうか、それともリュクサンブール公園の銀杏並木だろうか、私にはそれは、パリが私にくれた最小の贈り物のように思われます。

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コメント

こんにちは トムです。
私は普通の自営業者なのですが読書の習慣だけは学生時代から続き10年ほど前から社会思想、政治思想関係に比重が傾いています。その関連で西洋、特に中世史の本も良く読むようになりました。するとヨーロッパ形成に果たしたフランス(と現在呼ばれる地域)の役割の大きさがよくわかります。実はヨーロッパには行ったことがありません。あまりユーロとしてまとまらないうちに一度フランスへ行ってみたいと考えております。「中世の秋」の舞台となったブルゴーニュ地方は私の憧れでもあります。

投稿: トム | 2008年1月18日 (金) 09時46分

トムさん、こんにちは。
フランスに発つ前にフランス史を徹底的に勉強しようと計画していたのですが、あいにく私事が重なって、旅の直前までフランスのことを考える余裕がありませんでした。ヨーロッパ中世史や近代史を読み込んでいたら、もっと有意義な旅行ができたろうと残念です。パリのホテルでは、普通に朝のニュースにイギリスやベルギーやドイツの番組を見ることができるのですが、もはや統一ヨーロッパは既成のことになっているのでしょう。しかし、だからこそ民族・国民の独自性が強く意識されてくるのかもしれません。ハンナ・アーレントが言っているように、エスペラントを話し、根っこを失った人間たちばかりが住むところは地獄以外のどこでもないでしょう。
ブルゴーニュというとワインを連想していまいます、、、。それでは。

投稿: saiki | 2008年1月18日 (金) 11時25分

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