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2008年1月22日 (火)

カルロ・アントーニ『歴史主義から社会学へ』(1)ディルタイ

 『クローチェ注釈』『歴史主義』などで知られるイタリアの思想史家、カルロ・アントーニ(1896-1959)の名著『歴史主義から社会学へ』(1940刊・1959未来社・讃井鉄男訳)には、ディルタイ、トレルチュ、マイネッケ、マックス・ヴェーバーという四人のドイツ思想家と、オランダ人ホイジンハ、スイス人ヴェルフリンについての論考が収められています。特に理由は無いのですが、その中で、ディルタイとヴェーバーについて紹介しましょう。

  ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)は,神秘家と狂信家の古い故郷、ライン川下流のナッサウに改革派教会牧師の息子として生まれました。祖父も曽祖父も、分家を合わせた一族全体も聖職者という家系でした。しかし、すでに曽祖父の代から、この一族にとって神学は我慢のならないものとなっていたのです。寛容の国、オランダからほど遠くないナッサウの聖職者たちには絶対自由の感情があって、官僚的な国家権威そのものとなった神学を自分たちの信条と相容れないものと感じさせたのです。啓蒙、カント、シュライエルマッヘルの影響は無駄ではありませんでした。ディルタイにとっても神学は世過ぎの道であり、父があてがってくれた「世襲」の地位に過ぎませんでした。20歳でベルリン大学の神学部に入学しますが、すぐに自分は宗教の道に入り込めない人間、いっさいのドグマを嫌う人間であることに気づきます。加えて、彼には音楽家の娘であった母親譲りの芸術家的心情がありました。学生時代のディルタイの日記には、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルトについての感情こまやかな記述があふれています。「音楽を聴くことは、もしそれが本当の音楽なら、ひとつの宗教的行為である」と彼は書いています。

 24歳の時、シュライエルマッヘルの厖大な遺稿の整理の手伝いを頼まれますが、これが代表作の一つ、『シュライエルマッヘル伝』執筆のきっかけとなりました。ディルタイはシュライエルマッヘルについて知るにつれ、家柄と音楽家的気質が自分に似ていることに気づき始めます。それが、彼にシュライエルマッヘルの生きた世界に入っていくことを許しました。シュライエルマッヘルと妹の往復書簡、牧師である叔父の家、古きベルリンの町並み、ヘルンフート派の仲間やロマン主義者との交流などをディルタイが書いている頁は、いかなる小説的伝記も達し得ない無比のものとなっている、とアントーニは書いています。

  『シュライエルマッヘル伝』は第一部が刊行されたまま、ついに未完に終わりました。おそらく、ディルタイにとって、晩年の名声赫々たるシュライエルマッヘルにはさしたる興味もなかったのでしょう。シュレーゲルらロマン主義者たちと関係を持った時代はシュライエルマッヘルにとって重要でない過渡期と思われていたのですが、ディルタイはまさしくこの時代に彼の注意を向けたのです。シュライエルマッヘルの親戚は18世紀の真最中に天国の如きエルサレムを建設しようとしたエレリアーナの宗派に属していました。シュライエルマッヘル自身の少年時代は、現実の生き生きした体験の中に天国の救済を感ずるヘルンフート兄弟団の強い敬虔主義の下で過ごされました。恩寵の憧憬は、もはや恩寵の確信になり、素朴なルッター的確認―救済の保証を意味する内面的過程―は、そこでは魂の甘味な状態となりました。イエスは絶えず現存する幸福、美しき魂の花婿であり、礼拝式は清らかな歌と蝋燭の輝きの中で、天国の如き至福の現世における予感となりました。これはプロテスタントのあずかり知らぬ世界、カトリック的な「愛の神秘主義」の世界でした。
 魅力を破壊するのを恐れるかのように急ぎ足で、ディルタイは魂の生命そのものがヴェールを脱いで示されるように見えるこの内面世界に入って行きました。通常は曖昧で錯綜したもの、すなわち感情と情熱の動きが、彼の眼前には不思議にも明るく透明になりました。ここで彼は決定的なことに気づくのです。あらゆる言語と概念による表現に先立って、ある精神的行為、すべての他の精神形式の前提でもある原初的な直接の現実であるところの「体験」が存在するのだ、ということを。

 「体験」Erblenisとは、むろん、きわめて曖昧なものです。しかし、これこそディルタイにとって後の「了解」verstehenにつながる最も重要な哲学的概念となったのです。「人間の幸福の大部分は、他人の心境を感じとることに起因する。文献的で歴史的な学問全体は、一個の人間に対するこのような了解の仕方が、たんに主観的なものでなく、客観性にまで高められうる、という前提に基づいている」(『解釈学の成立』以文社・久野昭訳)

 それでは、「体験」とはいかなるものでしょうか。カルロ・アントーニはつぎのように説明しています。「我々は『体験』を直感と同一視することはできない、なぜなら直感はすでに認識であるから。また『体験』を感情と同一視することもできない、感情はすでに魂の一形式であるから。『体験』を主観的可能性、まだ心的行為の外にある単なる素質、あるいはエネルギーとして理解することもできない、なぜなら『体験』はすでに与えられた事実であり、生命ある力強い現実であるから。、、、すなわち、体験はまだ開かない芽であるが、しかし花の構成的部分のすべてを備えている芽である」

  シュライエルマッヘルの伝記の執筆はディルタイにさらにひとつの収穫をもたらしました。学生時代の初めから彼の懸案になっていた歴史的問題、古典的一元論からキリスト教的唯心論と進む宗教の道は果たしていかなる場所に通じているか、彼はその答えをシュライエルマッヘルという人物の中に再発見したのです。罪と恩寵と救済のドグマを伴ったプロテスタンティズムはキリスト教的唯心論の氾濫であり、それは若きシュライエルマッヘルの心の中で、スピノザ、ブルーノ、シャフツべリの一元論的汎神論、あるいは汎神論的神秘主義に変わっていきました。今や、ディルタイにとって近代はまったく違った外観を持つようになりました。ルネサンスは宗教改革によって弁証法的に克服された時期ではなく、17,18世紀を通じて継続され、その汎神論的モチーブをもって、まさしくロマン主義において再び咲き匂ったのです。ゆえに、近代的宗教心の酵母は、シュライエルマッヘルとともに勝利を得た汎神論の中に求められるべきである、とディルタイは考えました。
 この考えは、『シュライエルマッヘル伝』に続く『体験と創作』においてさらに生き生きと表現されています。その劈頭を飾るレッシング論は圧巻で、そこでレッシングの啓蒙とシュライエルマッヘルのロマンティークは、自由なる近代精神の中で補い合い、融合します。レッシングの『賢者ナータン』を読むものは誰も、何か爽やかな風通しの良さを感じないでしょうか。ディルタイはレッシングの「体験」をつぎのように表現しました。すなわち、それは、人種や宗教の多様性にもかかわらず、よりよき未来へ、より明るき信頼へ、より大いなる生の喜びへと向かう自由な人間の意識である、と。ここにおいて、罪過に対するルッター的不安は消え失せ、新しい知識は人間に彼自身の力への信頼を取り戻させたのです。「この解放の世界観から、シラーの『ドン・カルロス』、カントの宗教哲学、ヘルダーの人間性の理念、第九交響曲は生まれた。この世界観によってレッシングは近代的ドイツ精神の不滅の指導者である」

  1883年、ディルタイは『シュライエルマッヘル伝』第二部の完成を断念し、彼の全生涯の天職の自覚であると同時に苦悩となるところのもの、すなわち歴史叙述の科学的価値の問題に着手します。
 ドイツは他の西欧諸国とまったく違った精神の発達過程をたどりました。イギリスやフランスでは経験と感覚による知識の集積化、そして普遍的な人間に関する統一的思考が優先し、それは実証主義、功利主義、経験主義という哲学に実を結んでいました。ところが、ドイツでは精神、および直感、あるいは観念といったものの優位が決してゆるがず、それはカントがその先験的観念論で経験の限界を確定して以来、不動のことだったのです。実際、スチュアート・ヒューズが書いているように1770年から1840年にかけてドイツ人は、その高邁な思想で全ヨーロッパの教師となっていたのです。ところが、「浅薄」な思想である実証主義、功利主義からイギリス人やフランス人はすぐれた自然科学思想、社会思想、政治形態を生み出してきました。ドイツはといえば、まだ国の統一もままならず、政治の形態は旧態依然としたままでした。

ディルタイが研究を始めた19世紀半ばから後半は、もはや偉大な人間たちの亜流しか残っておらず(ランケはまだ生きていましたが)、ドイツ理想主義的観念論の栄光はすでに過去のものとなっていました。ディルタイが自分に課した難題は社会科学において、いかにして実証主義の猛威からドイツの誇る歴史主義の深遠な伝統を守るか、だったのです。

ここで、「歴史主義」について考えましょう。「ドイツの歴史主義は、はじめから、ヘーゲルとともに、そしてドロイゼンにいたるまで、歴史の宗教的、あるいは神学的直感であった」とカルロ・アントーニは書いています。歴史主義にはさまざまな側面と側道があり、単純ではないのですが、根本的な考え方は、歴史に意味を持たせる、ということです。それが神の摂理であろうが、時代精神であろうが、歴史は人知を超えたあるものによって動かされているのだ、という確信です。ところが、時代が下っていくにつれ、この主義は、時代時代によって人々の価値観は移り行く、つまり人間活動のすべては常に時代に制約されているという相対主義と懐疑主義に侵食されてきました。これが、いわゆる「歴史主義の亡霊」です。
 ディルタイは、この相対主義を乗り越え、かつ歴史記述についての実証主義者の迷妄を打ち破るために強力を発揮します。彼は無限に多様な人間行動の記録である歴史記述は自然科学の記述よりもはるかに深い困難がつきまとうので、歴史家はその時代の人間行動の理解のためには、内面的理解、すなわち「了解」が必要である、と語ります。この「了解」は、スチュアート・ヒューズによれば「ドイツ社会科学の方法の迷宮にある数多くの暗部のうち、もっとも闇につつまれた一隅」(『意識と社会』みすず書房・荒川幾男訳)であり、秘教的な危険な香りさえ漂います。「了解」はある種の内面的過程を通して、つまりシュライエルマッヘルについての研究で会得した如く、他人の精神過程の中に入り込み、追体験によって過去をもう一度生きることにほかなりません。しかし、人が追体験する経験は非合理的なものであるので、理解の中にはおさえがたい非合理性が存在します。かくて歴史は心理学とならざるを得ず、記述は論者の心理の動揺とともに変様していくことになります。「最後の法廷は実は心の動きである」とディルタイは書きました。人間の精神と行動は常に予測しがたく、矛盾に満ちたものでしょう。なるほど、とディルタイは説明します。「同時にこれらすべての側面を考察することは我々には許されない。真理の光は分散光線の中においてのみ見ることができる」「我々死すべきものの眼にはみえない宇宙において、矛盾は矯正されるのだ」と。かつて、ディルタイはシュライエルマッヘルを「神学におけるカント」と呼びました。彼自身は歴史記述の限界を指し示すことで「歴史におけるカント」と言われるべきでしょう。もっとも、晩年に意図していた『歴史的理性批判』はついに書かれずに終わったのですが。

 スペインの哲学者オルテガは1905年にベルリン大学で勉強していたのですが、すでにディルタイは半ば伝説的存在となっていて、ごく少数の準備された学生だけを自宅によんで講義していました。彼の主著『精神科学序説』第一巻はすでに絶版になっていて、大学図書館でさえ読むことはできませんでした。ディルタイの著書は、ほかに、やはり第一巻で頓挫した『シュライエルマッヘル伝』、文学的評伝である『体験と創作』があるだけで、あとは講演、断片的な小論、書簡というもlのしかなく、オルテガが彼を読み込むまでにはなお10年の歳月が必要でした。ごく少数の愛弟子だけがディルタイの秘密に参入でき、彼の影響を根底から受けることができた、とオルテガは書いています。
 ディルタイの真価が徐々に露になるのはその死後に選集が出始めたからです。彼はシュライエルマッヘルの研究で、プロテスタンティズムと資本主義の関連について言及し、ゾンバルトやヴェーバーの先鞭をつけました。生の哲学でベルグソンの、心理学でウイリアム・ジェームズやフロイトの、了解の概念でハイデガーやヤスパースの、解釈学でガダマーの先達をつとめながら、「決して徹底的に思索するに至らなかった」(オルテガ『ヴィルヘルム・ディルタイと生の理念』未来社・佐々木孝訳)という感じを私たちに与えます。 
  カルロ・アントーニは公平にディルタイを評しています。ディルタイは時代そのままに自然主義、実証主義の子だった、ゆえに彼はその時代のドイツの誰よりもそれらに敵対し、戦うことができた。また、政治的には自称民主主義で心底は君主制主義者、愛国者だが、トライチェケのように政治に介入せず、穏健な立場を守った。しかし、彼の歴史主義は強者の支配を容認し、最後にはドイツ人のエートスを強調したが、その中にもレッシングとヘルダーの精神は生きていた、人間の中の英雄性、宗教性が形而上学を超越するものと信じてもいたからである。「我々の中にある生の秘密に対するこの尊敬、人間の経験に対する、そして次にこの経験の歴史に対する聖なるものへのこの感覚は、批評家、歴史家としての彼の業績にあの洞察と共感の力(これが彼を巨匠たらしめた)を与えた」とアントー二は書いています。

ディルタイの生涯は穏やかな学者のそれでした。ホーフマンスタールが美文で飾られたその有名な弔辞(ハンナ・アーレントも引用しています)の中で、ディルタイをデモー二ッシュなファウスト博士になぞらえているのをアントーニは誇張であり、誤解であると言明しています。
 あまりに多くを意図しすぎたディルタイは、晩年には未完成の著作のことを思って夜も眠れなかったということです。「生は偶然、運命、そして性格からなる不可思議な織物である」と彼は生涯の最後に語っています。

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