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2008年1月22日 (火)

カルロ・アントーニ『歴史主義から社会学へ』(1)ディルタイ

 『クローチェ注釈』『歴史主義』などで知られるイタリアの思想史家、カルロ・アントーニ(1896-1959)の名著『歴史主義から社会学へ』(1940刊・1959未来社・讃井鉄男訳)には、ディルタイ、トレルチュ、マイネッケ、マックス・ヴェーバーという四人のドイツ思想家と、オランダ人ホイジンハ、スイス人ヴェルフリンについての論考が収められています。特に理由は無いのですが、その中で、ディルタイとヴェーバーについて紹介しましょう。

  ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)は,神秘家と狂信家の古い故郷、ライン川下流のナッサウに改革派教会牧師の息子として生まれました。祖父も曽祖父も、分家を合わせた一族全体も聖職者という家系でした。しかし、すでに曽祖父の代から、この一族にとって神学は我慢のならないものとなっていたのです。寛容の国、オランダからほど遠くないナッサウの聖職者たちには絶対自由の感情があって、官僚的な国家権威そのものとなった神学を自分たちの信条と相容れないものと感じさせたのです。啓蒙、カント、シュライエルマッヘルの影響は無駄ではありませんでした。ディルタイにとっても神学は世過ぎの道であり、父があてがってくれた「世襲」の地位に過ぎませんでした。20歳でベルリン大学の神学部に入学しますが、すぐに自分は宗教の道に入り込めない人間、いっさいのドグマを嫌う人間であることに気づきます。加えて、彼には音楽家の娘であった母親譲りの芸術家的心情がありました。学生時代のディルタイの日記には、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルトについての感情こまやかな記述があふれています。「音楽を聴くことは、もしそれが本当の音楽なら、ひとつの宗教的行為である」と彼は書いています。

 24歳の時、シュライエルマッヘルの厖大な遺稿の整理の手伝いを頼まれますが、これが代表作の一つ、『シュライエルマッヘル伝』執筆のきっかけとなりました。ディルタイはシュライエルマッヘルについて知るにつれ、家柄と音楽家的気質が自分に似ていることに気づき始めます。それが、彼にシュライエルマッヘルの生きた世界に入っていくことを許しました。シュライエルマッヘルと妹の往復書簡、牧師である叔父の家、古きベルリンの町並み、ヘルンフート派の仲間やロマン主義者との交流などをディルタイが書いている頁は、いかなる小説的伝記も達し得ない無比のものとなっている、とアントーニは書いています。

  『シュライエルマッヘル伝』は第一部が刊行されたまま、ついに未完に終わりました。おそらく、ディルタイにとって、晩年の名声赫々たるシュライエルマッヘルにはさしたる興味もなかったのでしょう。シュレーゲルらロマン主義者たちと関係を持った時代はシュライエルマッヘルにとって重要でない過渡期と思われていたのですが、ディルタイはまさしくこの時代に彼の注意を向けたのです。シュライエルマッヘルの親戚は18世紀の真最中に天国の如きエルサレムを建設しようとしたエレリアーナの宗派に属していました。シュライエルマッヘル自身の少年時代は、現実の生き生きした体験の中に天国の救済を感ずるヘルンフート兄弟団の強い敬虔主義の下で過ごされました。恩寵の憧憬は、もはや恩寵の確信になり、素朴なルッター的確認―救済の保証を意味する内面的過程―は、そこでは魂の甘味な状態となりました。イエスは絶えず現存する幸福、美しき魂の花婿であり、礼拝式は清らかな歌と蝋燭の輝きの中で、天国の如き至福の現世における予感となりました。これはプロテスタントのあずかり知らぬ世界、カトリック的な「愛の神秘主義」の世界でした。
 魅力を破壊するのを恐れるかのように急ぎ足で、ディルタイは魂の生命そのものがヴェールを脱いで示されるように見えるこの内面世界に入って行きました。通常は曖昧で錯綜したもの、すなわち感情と情熱の動きが、彼の眼前には不思議にも明るく透明になりました。ここで彼は決定的なことに気づくのです。あらゆる言語と概念による表現に先立って、ある精神的行為、すべての他の精神形式の前提でもある原初的な直接の現実であるところの「体験」が存在するのだ、ということを。

 「体験」Erblenisとは、むろん、きわめて曖昧なものです。しかし、これこそディルタイにとって後の「了解」verstehenにつながる最も重要な哲学的概念となったのです。「人間の幸福の大部分は、他人の心境を感じとることに起因する。文献的で歴史的な学問全体は、一個の人間に対するこのような了解の仕方が、たんに主観的なものでなく、客観性にまで高められうる、という前提に基づいている」(『解釈学の成立』以文社・久野昭訳)

 それでは、「体験」とはいかなるものでしょうか。カルロ・アントーニはつぎのように説明しています。「我々は『体験』を直感と同一視することはできない、なぜなら直感はすでに認識であるから。また『体験』を感情と同一視することもできない、感情はすでに魂の一形式であるから。『体験』を主観的可能性、まだ心的行為の外にある単なる素質、あるいはエネルギーとして理解することもできない、なぜなら『体験』はすでに与えられた事実であり、生命ある力強い現実であるから。、、、すなわち、体験はまだ開かない芽であるが、しかし花の構成的部分のすべてを備えている芽である」

  シュライエルマッヘルの伝記の執筆はディルタイにさらにひとつの収穫をもたらしました。学生時代の初めから彼の懸案になっていた歴史的問題、古典的一元論からキリスト教的唯心論と進む宗教の道は果たしていかなる場所に通じているか、彼はその答えをシュライエルマッヘルという人物の中に再発見したのです。罪と恩寵と救済のドグマを伴ったプロテスタンティズムはキリスト教的唯心論の氾濫であり、それは若きシュライエルマッヘルの心の中で、スピノザ、ブルーノ、シャフツべリの一元論的汎神論、あるいは汎神論的神秘主義に変わっていきました。今や、ディルタイにとって近代はまったく違った外観を持つようになりました。ルネサンスは宗教改革によって弁証法的に克服された時期ではなく、17,18世紀を通じて継続され、その汎神論的モチーブをもって、まさしくロマン主義において再び咲き匂ったのです。ゆえに、近代的宗教心の酵母は、シュライエルマッヘルとともに勝利を得た汎神論の中に求められるべきである、とディルタイは考えました。
 この考えは、『シュライエルマッヘル伝』に続く『体験と創作』においてさらに生き生きと表現されています。その劈頭を飾るレッシング論は圧巻で、そこでレッシングの啓蒙とシュライエルマッヘルのロマンティークは、自由なる近代精神の中で補い合い、融合します。レッシングの『賢者ナータン』を読むものは誰も、何か爽やかな風通しの良さを感じないでしょうか。ディルタイはレッシングの「体験」をつぎのように表現しました。すなわち、それは、人種や宗教の多様性にもかかわらず、よりよき未来へ、より明るき信頼へ、より大いなる生の喜びへと向かう自由な人間の意識である、と。ここにおいて、罪過に対するルッター的不安は消え失せ、新しい知識は人間に彼自身の力への信頼を取り戻させたのです。「この解放の世界観から、シラーの『ドン・カルロス』、カントの宗教哲学、ヘルダーの人間性の理念、第九交響曲は生まれた。この世界観によってレッシングは近代的ドイツ精神の不滅の指導者である」

  1883年、ディルタイは『シュライエルマッヘル伝』第二部の完成を断念し、彼の全生涯の天職の自覚であると同時に苦悩となるところのもの、すなわち歴史叙述の科学的価値の問題に着手します。
 ドイツは他の西欧諸国とまったく違った精神の発達過程をたどりました。イギリスやフランスでは経験と感覚による知識の集積化、そして普遍的な人間に関する統一的思考が優先し、それは実証主義、功利主義、経験主義という哲学に実を結んでいました。ところが、ドイツでは精神、および直感、あるいは観念といったものの優位が決してゆるがず、それはカントがその先験的観念論で経験の限界を確定して以来、不動のことだったのです。実際、スチュアート・ヒューズが書いているように1770年から1840年にかけてドイツ人は、その高邁な思想で全ヨーロッパの教師となっていたのです。ところが、「浅薄」な思想である実証主義、功利主義からイギリス人やフランス人はすぐれた自然科学思想、社会思想、政治形態を生み出してきました。ドイツはといえば、まだ国の統一もままならず、政治の形態は旧態依然としたままでした。

ディルタイが研究を始めた19世紀半ばから後半は、もはや偉大な人間たちの亜流しか残っておらず(ランケはまだ生きていましたが)、ドイツ理想主義的観念論の栄光はすでに過去のものとなっていました。ディルタイが自分に課した難題は社会科学において、いかにして実証主義の猛威からドイツの誇る歴史主義の深遠な伝統を守るか、だったのです。

ここで、「歴史主義」について考えましょう。「ドイツの歴史主義は、はじめから、ヘーゲルとともに、そしてドロイゼンにいたるまで、歴史の宗教的、あるいは神学的直感であった」とカルロ・アントーニは書いています。歴史主義にはさまざまな側面と側道があり、単純ではないのですが、根本的な考え方は、歴史に意味を持たせる、ということです。それが神の摂理であろうが、時代精神であろうが、歴史は人知を超えたあるものによって動かされているのだ、という確信です。ところが、時代が下っていくにつれ、この主義は、時代時代によって人々の価値観は移り行く、つまり人間活動のすべては常に時代に制約されているという相対主義と懐疑主義に侵食されてきました。これが、いわゆる「歴史主義の亡霊」です。
 ディルタイは、この相対主義を乗り越え、かつ歴史記述についての実証主義者の迷妄を打ち破るために強力を発揮します。彼は無限に多様な人間行動の記録である歴史記述は自然科学の記述よりもはるかに深い困難がつきまとうので、歴史家はその時代の人間行動の理解のためには、内面的理解、すなわち「了解」が必要である、と語ります。この「了解」は、スチュアート・ヒューズによれば「ドイツ社会科学の方法の迷宮にある数多くの暗部のうち、もっとも闇につつまれた一隅」(『意識と社会』みすず書房・荒川幾男訳)であり、秘教的な危険な香りさえ漂います。「了解」はある種の内面的過程を通して、つまりシュライエルマッヘルについての研究で会得した如く、他人の精神過程の中に入り込み、追体験によって過去をもう一度生きることにほかなりません。しかし、人が追体験する経験は非合理的なものであるので、理解の中にはおさえがたい非合理性が存在します。かくて歴史は心理学とならざるを得ず、記述は論者の心理の動揺とともに変様していくことになります。「最後の法廷は実は心の動きである」とディルタイは書きました。人間の精神と行動は常に予測しがたく、矛盾に満ちたものでしょう。なるほど、とディルタイは説明します。「同時にこれらすべての側面を考察することは我々には許されない。真理の光は分散光線の中においてのみ見ることができる」「我々死すべきものの眼にはみえない宇宙において、矛盾は矯正されるのだ」と。かつて、ディルタイはシュライエルマッヘルを「神学におけるカント」と呼びました。彼自身は歴史記述の限界を指し示すことで「歴史におけるカント」と言われるべきでしょう。もっとも、晩年に意図していた『歴史的理性批判』はついに書かれずに終わったのですが。

 スペインの哲学者オルテガは1905年にベルリン大学で勉強していたのですが、すでにディルタイは半ば伝説的存在となっていて、ごく少数の準備された学生だけを自宅によんで講義していました。彼の主著『精神科学序説』第一巻はすでに絶版になっていて、大学図書館でさえ読むことはできませんでした。ディルタイの著書は、ほかに、やはり第一巻で頓挫した『シュライエルマッヘル伝』、文学的評伝である『体験と創作』があるだけで、あとは講演、断片的な小論、書簡というもlのしかなく、オルテガが彼を読み込むまでにはなお10年の歳月が必要でした。ごく少数の愛弟子だけがディルタイの秘密に参入でき、彼の影響を根底から受けることができた、とオルテガは書いています。
 ディルタイの真価が徐々に露になるのはその死後に選集が出始めたからです。彼はシュライエルマッヘルの研究で、プロテスタンティズムと資本主義の関連について言及し、ゾンバルトやヴェーバーの先鞭をつけました。生の哲学でベルグソンの、心理学でウイリアム・ジェームズやフロイトの、了解の概念でハイデガーやヤスパースの、解釈学でガダマーの先達をつとめながら、「決して徹底的に思索するに至らなかった」(オルテガ『ヴィルヘルム・ディルタイと生の理念』未来社・佐々木孝訳)という感じを私たちに与えます。 
  カルロ・アントーニは公平にディルタイを評しています。ディルタイは時代そのままに自然主義、実証主義の子だった、ゆえに彼はその時代のドイツの誰よりもそれらに敵対し、戦うことができた。また、政治的には自称民主主義で心底は君主制主義者、愛国者だが、トライチェケのように政治に介入せず、穏健な立場を守った。しかし、彼の歴史主義は強者の支配を容認し、最後にはドイツ人のエートスを強調したが、その中にもレッシングとヘルダーの精神は生きていた、人間の中の英雄性、宗教性が形而上学を超越するものと信じてもいたからである。「我々の中にある生の秘密に対するこの尊敬、人間の経験に対する、そして次にこの経験の歴史に対する聖なるものへのこの感覚は、批評家、歴史家としての彼の業績にあの洞察と共感の力(これが彼を巨匠たらしめた)を与えた」とアントー二は書いています。

ディルタイの生涯は穏やかな学者のそれでした。ホーフマンスタールが美文で飾られたその有名な弔辞(ハンナ・アーレントも引用しています)の中で、ディルタイをデモー二ッシュなファウスト博士になぞらえているのをアントーニは誇張であり、誤解であると言明しています。
 あまりに多くを意図しすぎたディルタイは、晩年には未完成の著作のことを思って夜も眠れなかったということです。「生は偶然、運命、そして性格からなる不可思議な織物である」と彼は生涯の最後に語っています。

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2008年1月 9日 (水)

パリ滞在記第十二日帰国

 11月26日、月曜日。12日間お世話になったホテルに別れを告げて、朝九時に私たちは重いバッグを提げて出発しました。飛行機は1時15分の便ですが、早めに出るに越したことはありません。というのも、成田を発つとき、のんびりし過ぎて、最終コールの後でやっと飛行機に滑り込んだので、帰りはもっと余裕をもちたいと思ったのです。メトロ6番線でシャルル・ドゴール・エトワール駅へ。ロワッシー・バスにはこりごりしたので、帰りは奮発してエール・フランスのリムジンバスで空港まで行くことにしました。リムジンバスの乗り場は凱旋門の裏手にあり、二人分26ユーロを払って私たちは乗り心地の良さそうなバスに乗り込みました。

 バスは、まるでパリに別れを告げるように凱旋門の周りをぐるりと一周してから、グラン・ダルメ通りをポルト・マイヨーに向かって進みます。そこで再び乗客を乗せてから、いよいよシャルル・ドゴール空港に向きを変えました。窓からは、ハイウェイの道脇に点在する工場やスーパーマーケットが見えます。もうパリは私たちの後ろのほうに遠ざかっていきます。パリよ、さようなら。私はボトルに入れて持ってきた昨夜の残りのワインをゆっくり飲み干しました。

  振り返ってみると、滞在中重い病気にもならず、事故や盗難にも遭わなかったので、まず今回の旅行は成功だったといえるでしょう。だが、ストが長引いたのが予想外で、旅行前の予定は大幅に狂いました。計画では最初の2、3日のうちにイル・ド・フランスのどこか(シャルトルかアミアンかシャンティイ)に行き、残りの一週間は、カルト・オランジュという定期券を買って縦横にパリを回りたかったのです。実際は、ストで半身不随のパリに12日間居座ることとなりました。メトロがほとんど利用できなかった前半の無為な過ごし方がやや悔やまれます。妻のためには、オペラ・バスティーユのバレエにも行っていけばよかったと思うし、ルーブルにももう一日行って、雑貨屋やぬいぐるみの店などももっと探してやるべきだったでしょう。私自身はベルヴィルや13区の中華街など移民の熱気と活気が感じられそうなところも行きたかったと思います。また、ギュスターヴ・モロー美術館、贖罪教会、カタコンブなども行けませんでした。

 ただ、私自身はパリの街をあてどもなく歩いて疲れたらカフェに入るというのが一番の楽しみなので(パリの街はあてどもなく歩く人(flaneur)のためにある,とベンヤミンは書いています)、ストのおかげで疲れはしたが、そのためにパリの街路を堪能できたわけです。。パリの寒さは予想以上でしたが、妻も思索しながら散歩できるところがパリの一番の長所で、次は10ユーロでオペラを観劇できるところだ、と言っていました。

 パリの美しさを語ることは難しい。ポール・レオトーはこう言っています。「パリを本当に味わうことができる人間は稀である。だが、パリの良さを知るには、ただ立ち止まってあたりをじっくり眺めさえすればよいのだ。家並みの時としてはっと息を呑むような眺め、ある通りのそれまで見過ごしてきた景色、ある町全体の今まで気づかなかった色調、、、」(「あるパリジャンのパリ」武藤剛史訳)

 このような美はただflaneurのみが見出し、味わうことができるのです。そして不思議なことに、この美は人生の紡ぎだす多様な糸が絡まったときにのみ身にしみて感じられるように思われます。「私は、パリのどこを歩いても、その一歩ごとに回想の世界を見出す」とレオトーは書いています。何かを考えながら、何かを思い出しながら歩くことなしにパリの街路はその秘めた美しさを表さないかのようです。私は、モンマルトルの裏通り、ネッケル小児病院からモンパルナスに至る小道、アメリカン教会のある静かなジョルジュ・サンク通り、寒風の吹きすさぶポン・デ・ザール(芸術橋)、サン・マルタン通りを目的なく歩いてサン・ドニ門にぶつかった時、などに思い出が次々に混じりあう何ともいえない感情に襲われました。60代で死んだ私の母親は東京で生まれ、東京から出ることはほとんどない人生を送りましたが、晩年にぽつりと、一度ヴェネチアに行ってみたい、と口にしたことがあります。足腰が弱っていたので、とても無理だと思ったのですが、今思えば何とかして連れて行ってやるべきだったでしょう。経験は老人にこそ必要です。母はきっと、ヴェネチアの水路に、あるいはパリを訪れてパリの街路に、思い出せなかったさまざまな人や忘れかけた子供時代を再び見出したことでしょう。また、私は幼いときに死んだ私の姉のことを思い出しました。もし、姉が生きていて、たとえばテルヌ広場に住み、訪れた私にパリの街路を案内してくれたらどんなに嬉しかったことでしょう、、、。

  帰りの飛行機は行きよりも速く感じられました。27日朝の九時ちょうどに成田に着きましたが、私たちにとっては子猫の元気な姿を見てはじめて旅は終わります。扉を開けると、びっくりしたように目を丸めて私たちを見ていましたが、すぐに、うれしい時にいつもそうするように台所の爪とぎ板で夢中になって爪を研ぎはじめました。私はその日にもう仕事が入っていたので、風呂に入ってから、猫を抱いてうとうとしている妻を残して家を出ました。

 帰国して一ヶ月あまり経ちましたが、まだ夢の中でパリの街路を妻と歩いている自分を見ることがあります。地下鉄に乗るとパリのメトロのことを、空を見るとパリの空を思い出します。高い建物がほとんど無いので、パリの空は広く感じられるのです。気がつくとパリで履いていたウォーキングシューズの靴底に銀杏の丸い実が挟まっていました。どこで挟まったのか、ペール・ラシェーズだろうか、モンマルトルの丘だろうか、それともリュクサンブール公園の銀杏並木だろうか、私にはそれは、パリが私にくれた最小の贈り物のように思われます。

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2008年1月 5日 (土)

パリ滞在記第十一日オペラ・ガルニエ

 11月25日、日曜日。いよいよ明日パリを発たねばなりません。私たちは朝7時15分にパソコンのあるロビーへ降りて、私が新聞を読んでいる間、妻は出発30時間前から可能なチェック・インのためにエール・フランスのサイトに入りました。まずまずの座席を確保して一安心。それから食堂で朝食をとりながら、今日一日の過ごし方を相談しました。昨夜、お土産の数を数えたらまだ足りないことがわかったので、まずそれを買わねばならないが、あいにく今日は日曜日、お店は全部閉まっています。調べたところ、サン・ジェルマン・デ・プレのシャンピオンというスーパーが午前中だけ開いていることがわかったので、まずそこに行くことにしました。
 モット・ピケ・グルネルから地下鉄8番線でサン・ジェルマン・デ・プレへ。シャンピオンに行くと、日本人旅行者が何組か買い物をしています。シャンピオンを出てサン・ジェルマン大通りを渡り、セーヌ通りからサン・シュルピス通りへ入ります。エルネスト・ルナンゆかりのサン・シュルピス教会を訪ねようと思ったのです。あいにく、サン・シュルピス教会の向かって左の塔が修復中で、すっぽりテントに覆われています。さらに教会前のヴィスコンティ作の有名な噴水も工事中で全く見ることができません。教会前に中学生ぐらいの少女たちが長いテーブルを置いて。自家製のケーキやタルトやコーヒーなどをミサに来た人に提供しています。コーヒーを飲みたいと思ったので、「タダですか? マドモワゼル、シルブ・プレ」と聞くと、「ノン!」と返事して「コム・ヴ・ヴレ(お好きなように)」と言っています。喜捨をしてくれというのですが、いくら出してよいかわからないので、何も飲まず、教会の中に入りました。
 サン・シュルピスはその古い外観にもかかわらず、内部は朝の光に満ちています。重い扉を開けて中に入ると、説教の声が教会内に響いていました。ミサの途中で入室禁止であると、その時気付いたのですが、そっと隠れながら右手の側廊の小部屋にすべりこみました。日本に帰る前にぜひ見ておきたかったドラクロアの祭壇画がそこにあるのです。正面に「ヤコブと闘う天使」そして天井に「悪魔を撃つ大天使ミカエル」の画です。ドラクロアはこの祭壇画を描くために近くのサン・ジェルマン・デ・プレの今はドラクロア美術館になっている家に引っ越してきたのです。ゆっくり見終わってから、私たちは一番後ろの席に静かにすわり、始まったばかりの讃美歌の響き渡る音色に耳を傾けました。差し込む朝の光がこれほど美しいとは。教会内のアーチや祭壇や天井に反射して不思議な色合いを帯びています、、、。

 教会の外に出ると、斜め前のチョコレートのお店ピエール・エルメの前に行列が出来ています。行列の半分は日本人らしき女性です。メトロ10番線でオーステルリッツ駅へ行き、5番線でバスティーユへ。日曜のバスティーユはパリ最大の市場でにぎわっています。昨夜の雨でぬかるんだ地面に、家族連れ、犬を連れた人、一週間分の食料を買う人、さらに観光客がぶつかりながら歩いています。しかし、何という活気でしょう。私たちは、市場中をまわって、七面鳥のモモ焼き(3ユーロ)とバゲット(1ユーロ)を買って、市場の外れのベンチにすわって食べました。今回のパリ旅行でもっとも美味だったものはこの七面鳥だった、と妻は言っています。バゲットもおいしくて、このパンとワインがあれば他に何もなくとも何日も過ごせそうです。私自身は無粋で食にこだわりがないのですが、妻はもともと無類のパン好きで、子供の頃から一人でパンを焼いて食べていたほどなので、パリの食事は全く彼女の嗜好に合っていたはずです(サンドイッチだけで一万円以上使いました!)。唯一私たちが食べられなかったのは山羊のチーズ(fromage de chevre)で、匂いを嗅いだだけで屑箱に捨てました。

 さて、いよいよ8番線でオペラに向かいます。2時半からのオペラ「Alcina」を観るためですが、早く着きすぎたのでオペラ広場辺りの雑踏の中を散策しました。オペラ大通りを横切るカプチーヌ通りは西へ進んでマドレーヌ寺院にぶつかります。それと、ヴァンドーム広場に続く平和通りとBourse(証券取引所)に至る九月四日通りが交錯していますが、日曜日のせいか人通りは多くありません。思えば、ロワッシー・バスで到着したのは、ここオペラ前の広場でした。疲れ切ってバスを降りると、パリの寒さに身を震わせたものでした。もうすっかりその寒さにも慣れています。
 開演30分前に入場が許されました。装飾画に飾られた大広間(グラン・フォワイエ)、豪華な大階段、薄暗い照明の中で四方に煌めく宝石のような灯り、これはパリそのもの、19世紀の夢の世界です。階段を上っていくと各階に正装した係員の姿が見られます。扉の場所を聞くと、そっけない返事をするのは彼らがみな国家公務員だからでしょう。私たちの10ユーロ(約1700円)の席は四階のサイドボックス席の上にありました。座席が傾斜しているので(ボックス席は平ら)舞台は右端が観にくいだけでまずまずよく観ることができます。気がつくとすぐ上からも人の顔が覗いています(そのボックス席も10ユーロです)。私たちの10ユーロの席の一番前の一番左端の席一つだけが7ユーロとなっていて、そこは柱が邪魔で常に身を乗り出してないと見えないのですが、そこに大きなリュックを持った日本人らしき青年がすわって最後まで熱心に観ていました。他の7ユーロの席は私たちの座席のある部屋の右半分で、そこからでは舞台の半分しか見えず、オペラが山場に差し掛かるとほとんどの人は私たちの背後に移って立ち見をしていました。私たちの下のボックス席は21ユーロ、さらに正面は38ユーロで、このへんが最上の席でしょう。一階バルコニーの130ユーロの席にすわれるのはさすがに裕福な人たちでしょうが、それでも日本での外国オペラ観劇の料金に比べればかなり安いといえます。私たちの右隣には、妻が開演前にトイレで出会い、アメリカの田舎から来た素朴な夫婦に会った、と言っていたまさにその夫婦がすわりました。

 2時半になり、さて、いよいよ開演かと思っていると、支配人らしき男が幕前に現れて、何か話しました。うっかりして意味がわからなかったのですが、場内は、ブーイングと笑いで少しざわめきました(何と、舞台上部に出る字幕が、機械の故障で出ないということでした。イタリア語の歌詞では全くお手上げです)。
 ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(1685-1759)の『アルチーナ』の序曲が始まりました。ロマンティックで哀しい調べ、これは予想外の美しさです。いよいよ幕が上がると、たくさんの男性が広い舞台の上に横たわっています。背広をきたり、ズボンだけの男、全裸の男もいます。この『アルチーナ』はバロック・オペラそのものですが、演出家は登場人物すべてに現代の衣装を着せ、舞台背景も大きな部屋だけの簡素なものです。始まりは退屈で、私は不覚にも幕が開いて五分で眠りこんでしまいました。『アルチーナ』は三幕四時間のオペラで、途中2回の幕間休憩があります。最初の休憩になって、やっと私ははっきり目が覚めました。休憩時間に交代で廊下に出てみると、バーカウンターに人が群がっています。ここでシャンパンを飲むのが観光客らしいのですが、混んでいる所で注文するのは気が引けます。ちなみにシャンパン10ユーロ(ボトル65ユーロ)、ビール6ユーロ、赤ワイン5ユーロです。館内をぐるりとまわって席に戻ってくると、妻が同じ10ユーロの席の人たちと話しています。妻の話では、妻がプログラムを持っているのを見て、一番前の席の白人の二人の女性が「一分間だけ見せてくれ」というので妻が「ここは暗くて読めないから、そこで読んであらすじを教えてくれないか」といったところ、承知してくれて、今熱心に読んでいるのだとのこと。やがて、二人の女性のうちの一人が疲れ切った顔で「非常に complicated だ」といって、英語であらすじを説明し出すと、その10ユーロの席のほぼ全員(10人ほど)が立ったまま熱心に聴いていました。どうもその部屋でプログラム(10ユーロ)を買っていたのは私たちだけだったようです(!)。

 ヘンデルの『アルチーナ』はアリオストの『狂乱のオルランド』の挿話を下敷きにしていますが、その筋も内容もバロック的に非常に複雑でねじ曲がっています。アルチーナは魔術を使って自分の島に多くの男たちを誘惑してさそい、飽きると石や樹木や小川にしてしまいます。『オルランド』の主要な登場人物であるルッジェロも魔術により、すっかりアルチーナの虜になっています。そこにルッジェロの婚約者であるブラダマンテがルッジェロを救うためにルッジェロの家庭教師であるメリッソとその島に乗り込んできますが、なぜかブラダマンテは実の兄弟のリッチャルドに変装しています(この辺が無意味に複雑です)。その「リッチャルド」にアルチーナの従者であるモルガーナ(女)とオロンテ(男)が恋してしまうというさらに複雑なねじ曲がりのうちに第一幕が終ります。

 第二幕で話が急に動き出します。ルッジェロはメリッソの尽力でアルチーナの魔術から解放されます。アルチーナはオロンテからルッジェロの裏切りを知らされ絶望の淵に沈みます。ここで、二度目の休憩があります。どうも、10ユーロの席の観客は全員観光客らしく、お互いに写真を撮ってもらい合ったりしています。私は自分の席にすわって、シャガールの天井画の下に広がる幕間の別世界のような光景をオペラグラスでゆっくり観察しました。オペラ・ガルニエのどの席にすわっても場内のほとんどすべての観客を見ることができます。二階のボックス席の客は大きなケーキのようなものを食べています。オーケストラ席の前の客はヴァイオリン奏者に何か話しかけています。眼鏡をかけてプログラムを熱心に読んでいる老人もいます。そして、また人々がそぞろ歩く廊下に出ると、そこにはややけだるい雰囲気も漂っています。吹き抜けの広間の手すりの下に置かれた二つの空っぽのワイングラス、シャンデリアの下で抱き合う若くない恋人たち、、、、。

 最後の第三幕の幕が上がる前にオーケストラに対する盛大な拍手が起こりました。指揮者のジャン・クリストフ・スピノージとアンサンブル・マテウスの面々は立ち上がって観客の拍手の嵐に答えています。第三幕は怒濤の展開となります。アルチーナは心を翻したルッジェロに復讐を誓うが、同時にもし自分のところに戻ってくるなら裏切りの罪は許すと言います。しかし、アルチーナの甘くうっとりした世界に未練を残しつつも、ルッジェロはアルチーナのもとを離れる決意を下します。絶望するアルチーナ。魔術は解け、物に変えられていた囚われの人間たちはもとの姿を取り戻し、アルチーナはついに息絶えます。
 結局のところ、これは深い愛の物語です。アルチーナは真実の愛に落ち込むことで魔術の力を失います。ルッジェロは婚約者の下に帰るが、もっとも美しい日々は終ってしまったのだ、ということに気付いてしまいます。ただ、魔法の中でのみ私たちは幸福なのです、、、。ルッジェロ役の著名なヴァッサリーナ・カサロバよりも、アルチーナを演じたエンマ・ベルの圧倒的な演技と声に魅了されました。妻はあまりに感動して涙が出そうだった、と言っていました。幕が降りると割れんばかりの拍手、皆が立ち上がっています。「ブラボー!」という声があちこちで聞かれ、再び現れた出演者たちが手を振って観客に応えました。
 終演後、観客たちは帰り始めますが、この瞬間がなかなか心地よいのです。正面の大階段をみなゆっくりと降りていきます。気がつくのは老人の多いことで、決して裕福そうな人ばかりではないが、これが人生のひとつの楽しみである、という顔がとても印象的でした。そして、ファサードをくぐって外に出ます。19世紀のパリの建築の最高傑作といわれるオペラ・ガルニエは、その左右対称の美しさもさることながら細部まで徹底して施された装飾がすばらしい。これは、まさにバロックです。

 四時間の観劇を終えると、もう7時近くなっています。パリ最後の夜なのでマドレーヌ界隈からシャンゼリゼに向かって散歩し、どこかのカフェでビールでも飲もうと思っていたところ、妻がオペラに昂奮したのか頭痛がする、と言い出しました。ホテルに直行する前にオペラ大通りの Paul でサンドイッチと渦巻きパンを買いましたが、その時、私は今夜のワインを買ってないことに気付きました。日曜日で、酒類を売る店はすべて閉まっています。日本にいる時はビールか梅酒ぐらいしか飲まなかったのですが、パリではおいしいワインがとても安いのでたくさん飲んでいるうちにワインがなければ眠れなくなってしまいました。オペラ座の周囲でワインを買えるところは全くありません。仕方なく地下鉄でモット・ピケ・グルネルまで帰ると、案の定、普段の喧噪とは裏腹に駅周辺で開いている店は一軒もありません。絶望的な気持ちで、それでも横丁に入って探してみると、何と一軒だけイラン人の親子がやっている食料品店(epicerie)の灯りが点いていました。実は、この店には数日前缶詰を買おうと入ったところ、店の前の果物は腐りかけで缶詰は埃がつもり、しかも値段が高いので、といって何も買わず帰るわけにもいかずペリエの缶をひとつだけ買って、もう絶対にこの店にはこないぞと思って出てきたのでした。しかし、今は砂漠にオアシスの思いで、その店に突入しました。イラン人の父親はテレビを見ながらレジにすわり、愛想のよい息子は客がくるとドアを開けています。入口横にあったワインの棚は思いかけず品揃えも充実していて、私は3.9ユーロのボルドーを買ってホテルに帰りました。
 幸い、妻の頭痛は軽く、ワインとサンドイッチはこれ以上にないおいしさでした。パリ最後の夜はあまりにも静かに更けていきます。

 

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