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2007年12月31日 (月)

パリ滞在記第十日カルチェ・ラタン

 11月24日土曜日。パリで道に迷ったりしていると、まず100パーセント近くパリっ子が声をかけてくれます。まるでそれが義務であるかのように。しかし、時折、相手がフランス語をできない(と勝手に決めつけて)途中から英語に変えてくるフランス人もいます。何のことはない、英語を話したいだけだった、ということもあります。
 月曜日に帰国する私たちに残された日はあと二日です。植物園を見たいという妻の要望で、モット・ピケ・グルネルから10番線の終点オーステルリッツ駅まで行きました。このモット・ピケ・グルネルはたいへん便利な駅で、モンパルナスやシャルル・ドゴール・エトワールに至る高架の6番線、コンコルドからオペラ、バスティーユを通る8番線、サン・ジェルマン・デ・プレからオーステルリッツに至る10番線の三路線に乗れます。またホテルの前を通る80番のバスはアルマ・マルソー橋を渡り、モンテーニュ通りを通ってサン・ラザール駅まで行きますが、深夜まで運行する便利な路線です。もし、ストがなかったら、これらを縦横に使えていたと思うと残念でなりません。ホテルを選ぶ時、最初は、宿泊代が安くて交通も至便なレピュブリック広場のホテルにしようかと考えましたが、レピュブリックから東駅、北駅に至る地域は最も犯罪の起きやすいところで、一人旅ならよいが妻がいてはやはり心配です。

 さて、オーステルリッツ駅を降りると、歴史ある建物が立ち並ぶ辺りの落ち着いた雰囲気に、ああやはりここはパリだ、という思いが湧いてきます。駅前のロピタル通りを行くとサルペトリエール病院が、セーヌ川の向うにはリヨン駅(Gare de Lyon)があります。ルイ13世以来の王立薬草園に源を持つ植物園は駅のすぐ隣でした。もうすぐ12月なのに、植物園はさまざまな樹木の緑であふれています。その間をゆっくり散歩する予定でしたが、ちょうど土曜日の朝、園内はジョギングをする人でいっぱいでした。さわやかな空気を吸いながら植物園をぐるりと歩いて北端にある小さな動物園の入口まで来ました。入園料は7ユーロでしたが、まだ開園していない様子です。動物園に沿って歩いていくと、何やら人だかりがして、ジョギングの人々が立ち止まって何かを見上げています。見てみると、動物園から伸びている大きな樹木の上の方で二匹のレッサーパンダ(?)が遊んでいます。その姿があまりにかわいいので見とれているのでした。
 植物園の西出口から出ようとして、その周りを枯葉が風で舞っている大きな彫像があるのに気付きました。近寄って碑銘を見ると、何とこの場所に相応しい彫像でしょう。ベルナルダン・ド・サン=ピエールの像です。椅子に座っているベルナルダン・ド・サン=ピエールの下の部分に体を寄せ合って座っているポールとヴィルジニーの像もあります。私は『バロック論』の中でエウヘニオ・ドールスが描くベルナルダン・ド・サン=ピエールのことを思い出しました。彼は幼い時に、老貴族である親類の婦人から『ロビンソン・クルーソー』の一冊を与えられました。彼はその本に描かれる遥かな土地の情緒に思いを馳せました。彼は、感傷的な母親と老女中にかわいがられた臆病で華奢な子供でした。遠い国への夢想、旅と海への熱い思いは50年の歳月の果てに一冊の本『ポールとヴィルジニー』に結晶することになりました。1789年という決定的な年に出たこの本は、緑なす熱帯で繰り広げられる少年少女の不幸な恋愛の物語を語って、全フランスを熱狂の渦に巻き込みました。その小説の中の細密な植物の描写によって彼は科学アカデミーの会員になり、ビュフォンの後を襲って植物園の園長になったのです、、、。

 ムフタール通りに行こうとして、モンジュ通りを横切ると、ヴェルレーヌの死んだ家を見てみようという気になりました。そのアパートはムフタール通りに続くデカルト通りを少し上がったところにあります。アルコール中毒になり、サルペトリエール病院の前で倒れていたヴェルレーヌは、51歳でここデカルト通りの部屋で娼婦にみとられて生涯を終えました。アパートの下は小さなレストランになっていますが、その横の壁に1896年1月8日という死亡した日付が記されています。その下にも小さなプレートがあって、ヘミングウェイも1921-1925年の間このアパートに住んでいたということです。
 ムフタール通りに入るところで、Cafe Senza という感じの良さそうなカフェに入りました。カウンターには一癖ありそうな地元の住民たちがたむろしています。ギャルソンは店名どおりイタリア系の顔立ちの愛想良い人間で、私たちは暖まった器械から絞り出されるエスプレッソをゆっくり楽しみました(パリで最もおいしいコーヒーは常に器械が暖まっている場末の繁盛するカフェにあります)。
 さて、いよいよムフタール通りの市場街へ。ここは大変な活気ある通りで、かわいい山羊の子供を連れてきている農家の人もいます。肉、果物、チーズなどはもちろん、雑貨や食器、衣類を売っているお店もあります。パリの下町の雰囲気を満喫した私たちはムフタール通りの外れからエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)のあるユルム通り(Rue d'Ulm)に向かいました。エコール・ノルマルは警官が警護する威容ある建物で、さすがに入り難い印象があります(難関の試験をくぐりぬけた生徒には政府から給費が支給されます)。私は昔読んだロマン・ロランの『ユルム街の僧院』を思い出しました。地方から上京して寄宿する新入生が経験する様々な「洗礼」のことを書いた思い出ですが、その内容はすっかり忘れています。
 ユルム通りからサン・ジャック通りへと進みます。この辺はまさにカルチェ・ラタンで、所々で古書店にぶつかります。文学専門の古書店の2ユーロの均一本の中から妻はボードレールの『Pour Delacroix』のきれいな本を見つけて買っていました。サン・ミッシェル大通りと並行して走るサン・ジャック通りはパリで最も古い通りの一つです。かつてはヴァル・ド・グラース(陸軍病院)に運ばれる傷病兵や、ソルボンヌへ通う学生、サン・ミッシェル大通りに潜む娼婦たちが歩いたことでしょう。私たちは右手にパンテオンの丸いドームを見ながら北に向かって上がって行きました。左にソルボンヌ大学の歴史ある大きな建物が見えます。右にリセ・ルイ・ル・グラン校がありますが、ここの卒業生はフランスの文化史そのものといってよいでしょう。マルキ・ド・サド、ヴォルテール、ユゴー、ボードレールをはじめ、サルトル、デリダなど枚挙に暇ありません。さらに、ルイ・ル・グランの隣には万人に聴講を許されたコレージュ・ド・フランスの立派な建物があります。ここで教えることはフランスの学者にとって最高の名誉で、ミシュレ、ヴァレリー、ベルグソン、フーコーらが歴代の教授に名を連ねています。ところで、これら学問のまさに中心ともいうべき建築群を通り抜けてくると、フランスの度し難いエリート主義の澱の深さが感じ取れるような気もします。ニコラ・サルコジの人気の一つは、彼がこれらエリート養成機関に乗れなかった移民二世である、という話もうなずかれるでしょう。

 メトロでリヨン駅(Gare de Lyon)へ。リヨン駅はバスティーユよりもさらに東にあります。リヨン、マルセイユ方面のTGVの発着駅で、その雰囲気ある外観と駅周囲の雑踏はかつての上野駅を思い出させます。この構内の二階にあるレストラン、トラン・ブルーはその華麗な天井画を含めた豪華な内装で知られ、映画『ニキータ』の舞台ともなりました。私たちは予約していた一時ちょうどに入店しましたが、案内された正方形の席に着くと妻は「ニキータは丸いテーブルだった」と言い出しました。しかし、丸いテーブルは入口近くに少しあるだけです。私は妻を納得させて、メニューをひろげました。隣の席には中年の身なりの良い男と女子大生らしき娘がシャンパンを飲みながら牡蠣を食べています。ところが、しばらくすると娘は帰る準備をし出しました。すると男は娘を抱き寄せて長いキスを交わすと、娘が消えた後投げやりに一人で酒を飲み出しました。牡蠣はまだ大分残っています。左隣は南米から来たらしい大人数の家族で、注文をあれこれ相談している間にパンを全部食べてしまったのには驚きました。
 私たちは川カマスのグラタンと鴨のソテーを注文しましたが、ジャン・レノ似のオーダー係は私が注文を一つ言うたびに「トレ・ビアン!」と相づちを打ちます。味はまずまずと言ったら良いのか、妻も「こんなものだろう」という顔をしています。雰囲気が良く、ワインとコーヒーがおいしかったので私たちは満足して86ユーロを支払いました。しかし、サービスはさすがで、私が携帯で妻の写真を撮ろうとすると、すかさずギャルソンが飛んできて私たち二人の写真を撮ってくれました。

 先日のモンマルトル散策の続きをするために、私たちはメトロ1番線でナションまで行き、2番線に乗り換えて、パリの右岸をぐるっと回って西のプラス・ド・クリシーで降りました。ヘンリー・ミラーの『クリシーの静かな日々』でその名が知られるこの地域は、猥雑で活気ある下町の香りがします。クリシー広場を東に上り、階段を降りると、そこはもうモンマルトル墓地の入口です。例によって管理所で地図をもらい、訪ねたい墓をチェックしていきましたが、とても全部はまわれません。そこで、私たちは墓地左端の、アルフレッド・ド・ヴィニ、テオフィル・ゴーチェ、スタンダールが眠る一画に絞って歩き始めました。
 天気が良かったので、墓地にはあちこちに猫が出没していました。たいていの猫は用心深いのですが、中には人見知りせず撫でられるままの猫もいます。妻が猫と遊んだり写真を撮っていると、リュックを背負った女の人が現れて、何匹か猫の名前を呼んでいます。どうやら猫に餌を与えにきたらしく、そういえば辺りにはそのような人が何人も見かけられました。
 ところで、なぜ妻が猫に執着するかというと、家に残してきた私たちの飼い猫に会えない淋しさからなのです。実は今回の12日間のパリ旅行の最大の懸念は、一匹で留守番をする飼い猫の世話をどうするかでした。幸い、至近距離に猫好きな身内が住んでいて、毎日二回訪れて食事やトイレの掃除をし、一緒に遊んでくれることになりました。それでも、夜ひとりでさびしくないだろうか、病気にならないだろうか、と心配です。私たちは毎日一回携帯電話で日本に電話して猫の安否を確認していました。この猫は私たちにとってすべての猫族の中から私たちを慰めるために送られてきた選ばれた猫だったからです。

 パリ行きが決まってから、妻の肉親の死という不幸な出来事がありました。とり返しのつかない哀しみから妻が立ち直るのは不可能のように思えました。とにかく何か気を紛らわしてくれるものを求めて、妻が以前から望んでいた子猫を飼うことにしたのです。インターネットで、保健所で殺処分される子猫を不妊・去勢手術をして里親に譲渡するボランティア団体があることをを知り、早速日曜日に子猫をもらいに行きました。簡単な面接と説明を受けてから、私たちは子猫の収容されている部屋に案内されました。部屋には10ほどのケージがあって、それぞれに10匹あまりの子猫が入れられています。人気のある三毛猫やかわいい猫はだいたい予約されており、私たちは一番下のケージに残っている猫から選ばねばなりませんでした。黒猫の集団から離れて一匹の薄茶と白の子猫がぐったりして寝ています。私は係の人に頼んでケージから出してもらいました。その子猫は私の手の中で目を覚ましましたが、やせっぽちで貧相な感じです。妻に、どうか、と聞くと、私がよければその猫でよいとの返事です。明らかにこの猫は妻が持っていたかわいい子猫のイメージと離れていたに違いありません。しかし、私はこの猫をまたケージに戻してもらう勇気が出ず、「この猫に決めます」と係員に言ってしまいました。
 猫を連れて家に帰る道すがら、私は妻の気に入らない子猫をもらってしまったのではないか、という後悔に襲われました。家に着き、猫のトイレに、もらってきた猫砂(センターで使っていたもの)を混ぜ、食事用の皿にやはりいつも食べていたキャットフードを混ぜました。風邪をひき、下痢もしていたので、薬の束を一緒にもらってきたのですが、初日、二日と食べたものを吐き、下痢は一週間も続きました。半月ほど経ってやっと元気になったのですが、もうその頃にはこの子猫の動作、振舞の一つ一つが私たちを笑わせ、和ませるようになり、この猫のいない生活など考えることもできないようになっていたのです、、、。

 スタンダールの墓はすぐ分かりましたが、その近くにあるはずのアルフレッド・ド・ヴィニとテオフィル・ゴーチェの墓はいくら探しても見つかりません。仕方なく、あきらめて、妻が墓地の猫たちと遊んでいる間、私はスタンダールの墓の前でやや神妙に立っていました。有名な「アリゴ・ベール、ミラノの人、書いた・愛した・生きた」という碑銘をゆっくり反芻しながら。「ところで」と私は(心の中で)墓に向かって語りかけました。「私は、かつて、神を信仰したこともなく、いかなる信条も私自身を軽んずるほどまでには私の心の中に食い入ってきたことはない。しかし、私はあなたを知る前からベーリスト(Beylist)であったし、あなたを知った今もなおスタンダリアンであり、幸福な少数者の仲間である」と。

 モンマルトル墓地から階段を上り、右に曲がってジョセフ・ド・メーストル通り(!)を進みます。少し歩いた左手からモンマルトルへカーブしていく上り坂であるレピック通りに入ると、そこは芸術的パリの中心の一つと言ってよいでしょう。ゴッホの住んでいた家、モジリアニが粗末なアトリエを置いていたところ、そして自殺したネルヴァルが八ヶ月入院していた精神病院のあったところ、もちろんユトリロの風景そのものも出現してきます。
 歩き続けると道の左側の上の方に古い大きな風車が見えてきます。気がつくといつのまにか観光客の群れに取り囲まれていました。すぐ近くにルノワールの絵画で知られる『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』があり、今は観光客向けのレストランになっています。レピック通りをさらに行くと、無礼な似顔絵画家のいるテルトル広場、古すぎるサン・ピエール教会、そしてまさに観光客でごったがえすサクレ・クール寺院があります。ここは今やパリでもっともスリの多い俗悪な地帯といえます。私たちは早々と、坂を降りてアンヴェール駅から地下鉄でトリニティ広場へ向かいました。お土産を買いにデパート、ギャラリー・ラファイエットへ行ったのですが、土曜の人混みはすさまじく(中国人の一団が香水やブランドものを買っています)、私たちはやっとの思い出でデパートを抜け出しました。しかし、交差点から見上げるギャラリー・ラファイエットの精妙に変化していくイルミネーションのすばらしさは書いておくべきでしょう。

 (2007年もまもなく暮れようとしています。今年のご愛読を感謝しますとともに、2008年の皆様のご多幸をお祈りいたします)

 

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