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2007年12月 9日 (日)

パリ滞在記第三日サン・ドニ

 朝食は宿泊代に含まれているので、私たちは毎朝7時半頃1階(日本の2階)の食堂に降りて朝食をとります。8時になると他の客でいっぱいになり、窓際の地下鉄の見える席でゆっくり新聞が見れないからです。「ボンジュール、マダム」と挨拶すると、食堂係の黒人の女性は「ボンジュール、ムッシュ。ボンジュール、マダム」と大きな声で返事してきます。妻が彼女と話したところ、彼女は朝5時に家を出て歩いてきたとのこと。郊外に住む人は3時に出てくる人もあるそうです。車を持つホワイト・カラーはストにほとんど影響されず、最も被害を受けているのはRER(高速郊外鉄道)で通う労働者たちのようです。ロビーに置いてあった『フィガロ』紙によると、RATP(パリ交通公団)とSNCF(フランス国鉄)は月曜までのスト継続を宣言したとのこと。ストが終わりそうな雰囲気は全くありません。地下鉄が正常に走っていないと自在にパリを歩き回れず、また、国鉄が40パーセントしか動いていないので、日帰りが条件のシャルトルやアミアンへの遠出も心配です。

 今日は土曜なので、妻が行きたいと言っていたヴァンプの蚤の市(marche aux puce)に行くことにしました。幸いメトロ13番線は五本に二本(2 sur 5)は走っているようです。私たちは昨日と同じくモンパルナスまで歩いて、ストのため無料となっている地下鉄に乗りました。四つ目のポルト・ド・ヴァンプで降りて地上に上がると、人通りの少ない交差点に出ました。周りをきょろきょろしていると、汚れた身なりの老人が近づいてきて、信号を向うに渡って、右に真っ直ぐ行けと勝手に指示します。蚤の市に来た日本人だとわかっているようです。言われた通りに行くとすぐに蚤の市の入り口がありました。あまりにガラクタばかりなので、すぐに帰ろうとしましたが、妻は全部見たいような顔をしています。品物は、絵画、陶器、バッジ、本、写真、道具、家具などで、みな汚れていて触る気も起こりません。整理していない机の抽き出しをぶちまけたようなものが多く、古い家族の写真とか色褪せた勲章などもあります。妻は仮面の形の金のラペル・ピンが気に入りましたが、20ユーロの値段は18ユーロまでしか値引きされず、どうも日本人にはあまり値を下げないようです。棺桶の形のキー・ホルダー(30ユーロ)は一銭も値下げされず、店の老人にくだくだとその「歴史的由来」を聞かされただけでした。

 結局、何も買わず、私たちは再びメトロ13番線に乗り込みました。目的は同じメトロ13番線の反対側の北の外れにあるサン・ドニ大聖堂です。実は今回のパリ旅行はほとんど妻の意向に合わせて観光ポイントが決められましたが、この大聖堂訪問は唯一私が主張したものだったのです。
 終点のひとつ手前、バジリク・ド・サン・ドニで降りて地上に上がりました。ここはもうパリの外れで、フランスがワールド・カップで初優勝した時のサッカー場、スタッド・ド・フランスがすぐ近くにあります。黒人の子供たちが遊ぶ商店街の後ろに大きながらんとした広場があって、その正面に壮大なサン・ドニ大聖堂がそびえています。ここは、三世紀に、パリ最初の司教サン・ドニがモンマルトルの丘で殉教したとき、切断された自分の首を抱いて延々と歩き続け、ついにこの地で倒れたのを記念して建てられたのです。五世紀から建築が始まり、現在の典型的ゴシック様式の大聖堂は12,3世紀の大改築によって作り上げられました。内部はその大きさを生かしたダイナミックな採光で、座っていると自然と天上に吸い上げられる感じを抱いてきます。
 さて、この大聖堂の奥に入っていくためには、いったん小さな扉から側庭に出て、ベニヤ板でできた小屋のようなところで入場券を買わねばなりません。太った中年の婦人が暇そうに小さな窓から顔をのぞかせています。妻は、薄い紙に書いてある「入場料一人6.8ユーロ」という金額に驚き、さらに私が財布から20ユーロ札を取り出したのを見てさらに驚きました。「見なくてもいいんじゃない」と妻が言うので、私は「これを見なきゃ、来た意味ないよ」と言って入場料を払い、別の扉から再び大聖堂の奥に入りました。ここには6世紀以来のフランス王家の王と王妃と王太子の70近い横臥像と墓が集まっています。ここに葬られることは王たちにとってその王朝の正統性の証明だったのです。
 メロヴィング朝クロヴィウスから、カロリング朝、カペー朝、そしてブルボン王朝にいたるあまりに多くの王と王妃たちの横臥像を見ていくとこの葬送芸術に対しての満腹感が起こります。彼らは威厳をもって横たわっており、衣服は地上に垂れ下がらず、あたかも直立しているかのように足下に向かって流れています。それは、エミール・マールが書いているように「最後の審判を告げるトランペットが鳴り渡り、すべての人々の眼が永遠の光に向かって開かれる瞬間が来たときの死者たちの姿」を表しているのです。それにしても、病気で死んだであろう幼い王太子たちの小さな横臥像が並んでいる一角には哀しみが満ちています。
 大聖堂の奥の向かって右にはアンリ四世とカトリーヌ・ド・メディシスの豪華な像があり、左奥にはルイ16世とマリー・アントワネットの立派な祈祷像があります。それら多くの彫像を見た後で、足は自然と暗く細い階段に続く地下の墓所に誘われていきます。ここにはブルボン王朝の王族たちの遺骸が眠っているのです。マリー・アントワネットとルイ16世は並んで、そしてここに葬られた最後の王であるルイ18世は手前に横たわっています。(ルイ17世は心臓のみが丸いガラスの容器に入れられて展示されています)

 大聖堂を後にすると急にお腹が空いてきました。しかし、妻は頭痛がするのでホテルに帰りたいと言い出しました。まだ1時過ぎでしたが、すぐにメトロ13番線に乗って、ホテルにもっとも近い駅サン・フランソワ・グザヴィエで降りました。地上に出ると、すぐ前に美しいサン・フランソワ・グザヴィエ教会が建っています。しかし、その教会に寄る余裕はなく、私たちは陸軍士官学校とユネスコ本部の間にある道を足早にホテルに向かいました。その通りの突き当たりがちょうどホテルで、私はフロントに飛び込むと、「今すぐ部屋に戻っていいか? なぜなら妻が頭が痛いから」と話しました。フロントの女性は、私がフランス語を話したのでびっくりしたようでしたが、すぐに抽き出しから頭痛薬を出し、心配そうに妻の顔色をうかがいました。「薬はいいです。寝れば治ります。いつものように。すぐよくなります。たいしたことではありません。ありがとう、マダム」と矢継ぎ早に言って私は妻をエレベーターに乗せました。

 妻の偏頭痛は、静かな部屋で半日ほど眠るとだいたい快方に向かいます。夕方すぎにやや気分が良くなってきたので、私は妻をホテルに残して近所に買い物にでかけました。
 パリ南西部にある15区は中産階級が多いことで知られる住宅地で、日本人居住者の最も多い地区でもあります。モット・ピケ・グルネルから南へ向かって伸びる商店街を歩くと、品の良く、明るい店が多いのに気付きます。GAPの大人館と子供館 がその商店街の中心にあり、洋服屋、靴屋、眼鏡屋、総菜屋、パン屋、肉屋など、質の高そうな店が並びますが、洒落た子供服の店が多いことから、堅実で未来を持つ中産階級が多いことが感じられます。ここには、いわゆる「パリ」はどこにもありません。有色人種が目立って少なく、大通り以外にカフェやレストランもありません。驚くことに書店も古書店も一軒もありません。むろん映画館などありません。精神を現実から遊離させる無駄なものはできるだけ排除するような仕組みがあるかのようです。モンマルトルやカルチェ・ラタンの対極にあるかのような町、確かに安全な町ではあるのですが、、。

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コメント

始めまして、遠い昔に30代前半の夫婦でパリに3泊か4泊した時のこと、朝ホテルの従業員の女性に「ボンジュール、マダム」というと「ボンジュール、マドモアゼル」と返事されたことが、ずっと気にかかっていました。ああいう場合、マダムとつけても良いのか、と。今ここを見て、かまわないんだなと解り、うれしいです。私は独身に見えたのは、身なりがラフだったせいでしょうね。まあどっちでもいいかも知れません。突然飛び込んで失礼しました。

投稿: | 2008年5月 1日 (木) 16時14分

はじめまして。
コメントありがとうございます。
明らかに子供でないかぎり、マダムでよいようです。
また、一般的に日本女性は年齢より幼く見えてしまうようですね。
こんなご返事しかできませんが、またお立ち寄りください。それでは、失礼します。

投稿: saiki | 2008年5月 1日 (木) 19時27分

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