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2007年12月31日 (月)

パリ滞在記第十日カルチェ・ラタン

 11月24日土曜日。パリで道に迷ったりしていると、まず100パーセント近くパリっ子が声をかけてくれます。まるでそれが義務であるかのように。しかし、時折、相手がフランス語をできない(と勝手に決めつけて)途中から英語に変えてくるフランス人もいます。何のことはない、英語を話したいだけだった、ということもあります。
 月曜日に帰国する私たちに残された日はあと二日です。植物園を見たいという妻の要望で、モット・ピケ・グルネルから10番線の終点オーステルリッツ駅まで行きました。このモット・ピケ・グルネルはたいへん便利な駅で、モンパルナスやシャルル・ドゴール・エトワールに至る高架の6番線、コンコルドからオペラ、バスティーユを通る8番線、サン・ジェルマン・デ・プレからオーステルリッツに至る10番線の三路線に乗れます。またホテルの前を通る80番のバスはアルマ・マルソー橋を渡り、モンテーニュ通りを通ってサン・ラザール駅まで行きますが、深夜まで運行する便利な路線です。もし、ストがなかったら、これらを縦横に使えていたと思うと残念でなりません。ホテルを選ぶ時、最初は、宿泊代が安くて交通も至便なレピュブリック広場のホテルにしようかと考えましたが、レピュブリックから東駅、北駅に至る地域は最も犯罪の起きやすいところで、一人旅ならよいが妻がいてはやはり心配です。

 さて、オーステルリッツ駅を降りると、歴史ある建物が立ち並ぶ辺りの落ち着いた雰囲気に、ああやはりここはパリだ、という思いが湧いてきます。駅前のロピタル通りを行くとサルペトリエール病院が、セーヌ川の向うにはリヨン駅(Gare de Lyon)があります。ルイ13世以来の王立薬草園に源を持つ植物園は駅のすぐ隣でした。もうすぐ12月なのに、植物園はさまざまな樹木の緑であふれています。その間をゆっくり散歩する予定でしたが、ちょうど土曜日の朝、園内はジョギングをする人でいっぱいでした。さわやかな空気を吸いながら植物園をぐるりと歩いて北端にある小さな動物園の入口まで来ました。入園料は7ユーロでしたが、まだ開園していない様子です。動物園に沿って歩いていくと、何やら人だかりがして、ジョギングの人々が立ち止まって何かを見上げています。見てみると、動物園から伸びている大きな樹木の上の方で二匹のレッサーパンダ(?)が遊んでいます。その姿があまりにかわいいので見とれているのでした。
 植物園の西出口から出ようとして、その周りを枯葉が風で舞っている大きな彫像があるのに気付きました。近寄って碑銘を見ると、何とこの場所に相応しい彫像でしょう。ベルナルダン・ド・サン=ピエールの像です。椅子に座っているベルナルダン・ド・サン=ピエールの下の部分に体を寄せ合って座っているポールとヴィルジニーの像もあります。私は『バロック論』の中でエウヘニオ・ドールスが描くベルナルダン・ド・サン=ピエールのことを思い出しました。彼は幼い時に、老貴族である親類の婦人から『ロビンソン・クルーソー』の一冊を与えられました。彼はその本に描かれる遥かな土地の情緒に思いを馳せました。彼は、感傷的な母親と老女中にかわいがられた臆病で華奢な子供でした。遠い国への夢想、旅と海への熱い思いは50年の歳月の果てに一冊の本『ポールとヴィルジニー』に結晶することになりました。1789年という決定的な年に出たこの本は、緑なす熱帯で繰り広げられる少年少女の不幸な恋愛の物語を語って、全フランスを熱狂の渦に巻き込みました。その小説の中の細密な植物の描写によって彼は科学アカデミーの会員になり、ビュフォンの後を襲って植物園の園長になったのです、、、。

 ムフタール通りに行こうとして、モンジュ通りを横切ると、ヴェルレーヌの死んだ家を見てみようという気になりました。そのアパートはムフタール通りに続くデカルト通りを少し上がったところにあります。アルコール中毒になり、サルペトリエール病院の前で倒れていたヴェルレーヌは、51歳でここデカルト通りの部屋で娼婦にみとられて生涯を終えました。アパートの下は小さなレストランになっていますが、その横の壁に1896年1月8日という死亡した日付が記されています。その下にも小さなプレートがあって、ヘミングウェイも1921-1925年の間このアパートに住んでいたということです。
 ムフタール通りに入るところで、Cafe Senza という感じの良さそうなカフェに入りました。カウンターには一癖ありそうな地元の住民たちがたむろしています。ギャルソンは店名どおりイタリア系の顔立ちの愛想良い人間で、私たちは暖まった器械から絞り出されるエスプレッソをゆっくり楽しみました(パリで最もおいしいコーヒーは常に器械が暖まっている場末の繁盛するカフェにあります)。
 さて、いよいよムフタール通りの市場街へ。ここは大変な活気ある通りで、かわいい山羊の子供を連れてきている農家の人もいます。肉、果物、チーズなどはもちろん、雑貨や食器、衣類を売っているお店もあります。パリの下町の雰囲気を満喫した私たちはムフタール通りの外れからエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)のあるユルム通り(Rue d'Ulm)に向かいました。エコール・ノルマルは警官が警護する威容ある建物で、さすがに入り難い印象があります(難関の試験をくぐりぬけた生徒には政府から給費が支給されます)。私は昔読んだロマン・ロランの『ユルム街の僧院』を思い出しました。地方から上京して寄宿する新入生が経験する様々な「洗礼」のことを書いた思い出ですが、その内容はすっかり忘れています。
 ユルム通りからサン・ジャック通りへと進みます。この辺はまさにカルチェ・ラタンで、所々で古書店にぶつかります。文学専門の古書店の2ユーロの均一本の中から妻はボードレールの『Pour Delacroix』のきれいな本を見つけて買っていました。サン・ミッシェル大通りと並行して走るサン・ジャック通りはパリで最も古い通りの一つです。かつてはヴァル・ド・グラース(陸軍病院)に運ばれる傷病兵や、ソルボンヌへ通う学生、サン・ミッシェル大通りに潜む娼婦たちが歩いたことでしょう。私たちは右手にパンテオンの丸いドームを見ながら北に向かって上がって行きました。左にソルボンヌ大学の歴史ある大きな建物が見えます。右にリセ・ルイ・ル・グラン校がありますが、ここの卒業生はフランスの文化史そのものといってよいでしょう。マルキ・ド・サド、ヴォルテール、ユゴー、ボードレールをはじめ、サルトル、デリダなど枚挙に暇ありません。さらに、ルイ・ル・グランの隣には万人に聴講を許されたコレージュ・ド・フランスの立派な建物があります。ここで教えることはフランスの学者にとって最高の名誉で、ミシュレ、ヴァレリー、ベルグソン、フーコーらが歴代の教授に名を連ねています。ところで、これら学問のまさに中心ともいうべき建築群を通り抜けてくると、フランスの度し難いエリート主義の澱の深さが感じ取れるような気もします。ニコラ・サルコジの人気の一つは、彼がこれらエリート養成機関に乗れなかった移民二世である、という話もうなずかれるでしょう。

 メトロでリヨン駅(Gare de Lyon)へ。リヨン駅はバスティーユよりもさらに東にあります。リヨン、マルセイユ方面のTGVの発着駅で、その雰囲気ある外観と駅周囲の雑踏はかつての上野駅を思い出させます。この構内の二階にあるレストラン、トラン・ブルーはその華麗な天井画を含めた豪華な内装で知られ、映画『ニキータ』の舞台ともなりました。私たちは予約していた一時ちょうどに入店しましたが、案内された正方形の席に着くと妻は「ニキータは丸いテーブルだった」と言い出しました。しかし、丸いテーブルは入口近くに少しあるだけです。私は妻を納得させて、メニューをひろげました。隣の席には中年の身なりの良い男と女子大生らしき娘がシャンパンを飲みながら牡蠣を食べています。ところが、しばらくすると娘は帰る準備をし出しました。すると男は娘を抱き寄せて長いキスを交わすと、娘が消えた後投げやりに一人で酒を飲み出しました。牡蠣はまだ大分残っています。左隣は南米から来たらしい大人数の家族で、注文をあれこれ相談している間にパンを全部食べてしまったのには驚きました。
 私たちは川カマスのグラタンと鴨のソテーを注文しましたが、ジャン・レノ似のオーダー係は私が注文を一つ言うたびに「トレ・ビアン!」と相づちを打ちます。味はまずまずと言ったら良いのか、妻も「こんなものだろう」という顔をしています。雰囲気が良く、ワインとコーヒーがおいしかったので私たちは満足して86ユーロを支払いました。しかし、サービスはさすがで、私が携帯で妻の写真を撮ろうとすると、すかさずギャルソンが飛んできて私たち二人の写真を撮ってくれました。

 先日のモンマルトル散策の続きをするために、私たちはメトロ1番線でナションまで行き、2番線に乗り換えて、パリの右岸をぐるっと回って西のプラス・ド・クリシーで降りました。ヘンリー・ミラーの『クリシーの静かな日々』でその名が知られるこの地域は、猥雑で活気ある下町の香りがします。クリシー広場を東に上り、階段を降りると、そこはもうモンマルトル墓地の入口です。例によって管理所で地図をもらい、訪ねたい墓をチェックしていきましたが、とても全部はまわれません。そこで、私たちは墓地左端の、アルフレッド・ド・ヴィニ、テオフィル・ゴーチェ、スタンダールが眠る一画に絞って歩き始めました。
 天気が良かったので、墓地にはあちこちに猫が出没していました。たいていの猫は用心深いのですが、中には人見知りせず撫でられるままの猫もいます。妻が猫と遊んだり写真を撮っていると、リュックを背負った女の人が現れて、何匹か猫の名前を呼んでいます。どうやら猫に餌を与えにきたらしく、そういえば辺りにはそのような人が何人も見かけられました。
 ところで、なぜ妻が猫に執着するかというと、家に残してきた私たちの飼い猫に会えない淋しさからなのです。実は今回の12日間のパリ旅行の最大の懸念は、一匹で留守番をする飼い猫の世話をどうするかでした。幸い、至近距離に猫好きな身内が住んでいて、毎日二回訪れて食事やトイレの掃除をし、一緒に遊んでくれることになりました。それでも、夜ひとりでさびしくないだろうか、病気にならないだろうか、と心配です。私たちは毎日一回携帯電話で日本に電話して猫の安否を確認していました。この猫は私たちにとってすべての猫族の中から私たちを慰めるために送られてきた選ばれた猫だったからです。

 パリ行きが決まってから、妻の肉親の死という不幸な出来事がありました。とり返しのつかない哀しみから妻が立ち直るのは不可能のように思えました。とにかく何か気を紛らわしてくれるものを求めて、妻が以前から望んでいた子猫を飼うことにしたのです。インターネットで、保健所で殺処分される子猫を不妊・去勢手術をして里親に譲渡するボランティア団体があることをを知り、早速日曜日に子猫をもらいに行きました。簡単な面接と説明を受けてから、私たちは子猫の収容されている部屋に案内されました。部屋には10ほどのケージがあって、それぞれに10匹あまりの子猫が入れられています。人気のある三毛猫やかわいい猫はだいたい予約されており、私たちは一番下のケージに残っている猫から選ばねばなりませんでした。黒猫の集団から離れて一匹の薄茶と白の子猫がぐったりして寝ています。私は係の人に頼んでケージから出してもらいました。その子猫は私の手の中で目を覚ましましたが、やせっぽちで貧相な感じです。妻に、どうか、と聞くと、私がよければその猫でよいとの返事です。明らかにこの猫は妻が持っていたかわいい子猫のイメージと離れていたに違いありません。しかし、私はこの猫をまたケージに戻してもらう勇気が出ず、「この猫に決めます」と係員に言ってしまいました。
 猫を連れて家に帰る道すがら、私は妻の気に入らない子猫をもらってしまったのではないか、という後悔に襲われました。家に着き、猫のトイレに、もらってきた猫砂(センターで使っていたもの)を混ぜ、食事用の皿にやはりいつも食べていたキャットフードを混ぜました。風邪をひき、下痢もしていたので、薬の束を一緒にもらってきたのですが、初日、二日と食べたものを吐き、下痢は一週間も続きました。半月ほど経ってやっと元気になったのですが、もうその頃にはこの子猫の動作、振舞の一つ一つが私たちを笑わせ、和ませるようになり、この猫のいない生活など考えることもできないようになっていたのです、、、。

 スタンダールの墓はすぐ分かりましたが、その近くにあるはずのアルフレッド・ド・ヴィニとテオフィル・ゴーチェの墓はいくら探しても見つかりません。仕方なく、あきらめて、妻が墓地の猫たちと遊んでいる間、私はスタンダールの墓の前でやや神妙に立っていました。有名な「アリゴ・ベール、ミラノの人、書いた・愛した・生きた」という碑銘をゆっくり反芻しながら。「ところで」と私は(心の中で)墓に向かって語りかけました。「私は、かつて、神を信仰したこともなく、いかなる信条も私自身を軽んずるほどまでには私の心の中に食い入ってきたことはない。しかし、私はあなたを知る前からベーリスト(Beylist)であったし、あなたを知った今もなおスタンダリアンであり、幸福な少数者の仲間である」と。

 モンマルトル墓地から階段を上り、右に曲がってジョセフ・ド・メーストル通り(!)を進みます。少し歩いた左手からモンマルトルへカーブしていく上り坂であるレピック通りに入ると、そこは芸術的パリの中心の一つと言ってよいでしょう。ゴッホの住んでいた家、モジリアニが粗末なアトリエを置いていたところ、そして自殺したネルヴァルが八ヶ月入院していた精神病院のあったところ、もちろんユトリロの風景そのものも出現してきます。
 歩き続けると道の左側の上の方に古い大きな風車が見えてきます。気がつくといつのまにか観光客の群れに取り囲まれていました。すぐ近くにルノワールの絵画で知られる『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』があり、今は観光客向けのレストランになっています。レピック通りをさらに行くと、無礼な似顔絵画家のいるテルトル広場、古すぎるサン・ピエール教会、そしてまさに観光客でごったがえすサクレ・クール寺院があります。ここは今やパリでもっともスリの多い俗悪な地帯といえます。私たちは早々と、坂を降りてアンヴェール駅から地下鉄でトリニティ広場へ向かいました。お土産を買いにデパート、ギャラリー・ラファイエットへ行ったのですが、土曜の人混みはすさまじく(中国人の一団が香水やブランドものを買っています)、私たちはやっとの思い出でデパートを抜け出しました。しかし、交差点から見上げるギャラリー・ラファイエットの精妙に変化していくイルミネーションのすばらしさは書いておくべきでしょう。

 (2007年もまもなく暮れようとしています。今年のご愛読を感謝しますとともに、2008年の皆様のご多幸をお祈りいたします)

 

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2007年12月27日 (木)

パリ滞在記第九日クリュニー、ルーヴル

 11月23日金曜日。モット・ピケ・グルネルから10番線でクリュニー・ソルボンヌ駅まで。パリの地下鉄は14路線でパリ中を網の目のように結んでいます。座席は4人掛け、扉はほとんど手動で、ノブを上げるかボタンを押して開けます。(14番線のみ自動運転、自動開閉です)地下鉄はパリの人々を観察するのに絶好の場所です。女性に話しかける酔っぱらい、周りに迷惑をかける家族、などもいますが、全体的に日本と比べ、緊張感と「よそ行き」の感じがあります。ストが終って、名物のメトロ・ミュージシャンも早速現れました。しかし、ホームや通路で演奏する彼らはプロ並のうまさの人が多いのですが、メトロ車内で演奏してまわる「ミュージシャン」には迷惑な連中もいます。すぐそばで下手なサックスを鳴らされるのは苦痛ですし、妻は頭痛の時に近くでアコーディオンを弾かれて我慢できず席を移って行きました。その後、皿を持って喜捨を求めに来たアコーディオン弾きが妻に睨みつけられたことはいうまでもありません。何かしら哀愁が漂うのは年老いたヴァイオリン弾きなどで、中年のパリジャンがその老人の皿に1ユーロ銀貨をのせている姿は様々な人生が交錯するパリのメトロのイメージそのものでしょう。

 さて、朝一番でかつてのクリュニー修道院である中世美術館に出かけました。時間どおり開かないのは予想通りですが、古い門の鉄槌をガンガン叩くと、館員が門から顔を出して、もう少し待ってくれとのこと。入口で待っているのは私たちの他はフランス人夫婦が一組いるのみです。クリュニーの入口とその門はかなり古く、様々な中世風の彫刻に飾られています。ライオン、クマ、猫、ガーゴイル、花、植物など、どこまでも細かい装飾でいっぱいです。少し離れて見ると、クリュニーの建物は14世紀の時代そのままに私たちが思い描く中世という時代そのものを表しているかのようです。
 なかなか門が開かないので、すぐ前のソルボンヌ(パリ第四大学)との間にある小さな公園に入ってみると、何とモンテーニュの像が。思わずその碑に刻まれたモンテーニュの言葉を読んでしまいました。「パリは少年時代のわが心を持ちたり。我はこの偉大な都市によって初めてフランス人となれり。偉大であり比べるもののない都市。フランスの栄光であり、この世界の最も高貴な宝飾であるこの都市によって、、、」
 クリュニーの門が開きました。中庭にはローマ時代の遺跡も残っています。館全体がまるで別世界のような趣です。中に入ると、まさに中世というべき素朴な庶民感情がこめられた彫刻、レリーフでいっぱいに埋められています。妻は目を輝かし、写真を撮ったり、スケッチしたりしています。妻によると、たくさん並べられた聖母マリアの表情がすべて違っていて、特にアルカイック・スマイルともいえる不思議な顔立ちはすばらしいとのこと。確かに全く愛すべき作品の連続で、一つ一つに人々の願いと哀惜がこめられているようです。ところで、部屋から部屋へ鑑賞しているうちに、クリュニーの中世芸術のテーマは三つに絞られることがわかりました。一つは、キリストを抱くマリア像 vierge a l'enfant、次にキリストの生涯と処刑の一代記、そして洗礼者ヨハネの像と首です。それらが、繰り返しくり返し、まるで人々の願いを反復するかのように現れてきます。特にキリストの一代記の浮彫りは絵本のように左右に開くものが多く、それぞれ微妙な違いがあって楽しめます。中世の人々は子供の頃から教会でこれらの話を何度も何度も聞かされ、クリスマスにはこれら聖史劇を自ら演じたのでしょう。
 私自身がこれら中世の彫刻の中で最も衝撃を受けたのは、切り落とされた自分の首を持ったサン・ドニの石の像です。モンマルトルの丘で処刑されたサン・ドニは首を抱えたまま歩き続け、今のサン・ドニ大聖堂のところでついに倒れました。この残酷な話は、素朴でユーモラスな石の像となって子供たちの想像の翼を広げさせたに違いありません。

 クリュニーの素晴らしさは一言では言い表せません。12世紀から15世紀あたりまでの宝飾品、十字架、そしてステンドグラスのコレクションもあります。美術収集家アレクサンドル・デュ・ソムラールが生涯をかけて集めた数々の芸術品、工芸品は彼の死後国家に買取られ、1844年にクリュニー中世美術館として一般公開されました。この館を訪れたライナー・マリア・リルケは、この美術館のある所蔵品について女友達に語りかけています。「アベローネ、ここにゴブラン織の壁掛けがある。僕は君もここにいると想像しよう。壁掛けは六枚ある。ここへ来たまえ。一枚ずつゆっくりと見て行こう。、、何という静かなつつましい感じだろう。この静けさのなかに音楽が聞こえずにいたろうか」(『マルテの手記』岩波文庫・望月市恵訳)
 この壁掛けは、かの有名な「貴婦人と一角獣」で、二階の奥深い一部屋の全部を六枚の驚くべきタペストリーが覆っています。パリで、これほど予想を裏切られて感動したことはありません。このタペストリーは人間の五感の、つまり欲望の静かなる慰めを表しています。一角獣、獅子、小犬、ウサギ、自在に振る舞うそれら動物たちの真中で一人の美しい女性が物思いに沈んでいます。何という美しさ、何という謎に満ちた美しさでしょう。私がこの壁掛けの前に考えながら立っていると、フランス人の女性が部屋の隅に解説のファイルがあると教えてくれました。私は何となくその女性のやさしさに心を打たれました。

 クリュニーを出て、サン・ジェルマン・デ・プレへ。昨日閉まっていたドラクロア美術館を訪問しましたが、ここは狭く、見るべきものがほとんどないのでがっかりしました。しかし、下の売店で、妻は探していたドラクロアの日記を見つけました。完全版はとても大きくて重いので、妻は迷った後で小さな抄録版の日記を購入しました。
 メトロでコンコルド駅へ。地上へ出るとチュイルリー公園の端に改装なったばかりのオランジュリー美術館があります。さすがに行列が出来ていましたが、10分ほどで入館できました。ここでは画商ポール・ギヨームのコレクションをたっぷり見ることができます。絵の選択のセンスの良さは素晴らしい。セザンヌ、ルノワールをはじめ、ユトリロ、モジリアニ、マティス、ルソーの作品をじっくり見るのはこの上ない楽しみです。やや明るすぎるのと、常に人が多く静かに鑑賞できないのが欠点でしょう。
 ところで、この美術館には呼び物のモネの巨大な「睡蓮」があります。自然光を採り入れた大きな部屋の四方をぐるりと睡蓮の絵が囲んでいます。私たちは中央のベンチに座って休憩しながらその絵を見ていましたが、私にはこの絵のどこが良いのかさっぱり分かりませんでした。中国人らしいカップルが睡蓮の絵に近づきすぎて係員に注意を受けていました。それを笑って見ていた妻は双眼鏡で「睡蓮」を見て、なぜかやはり係員の注意を受けてしまいました。

 オランジュリーを出て、そのままチュイルリー公園をルーヴルに向かって進みます。この公園は物乞いの人が多く、避けて歩くのにたいへん苦労します。公園に、パン屋の Paul の出店があって、私は好物のアプリコットのパイ、妻はチーズのタルトを食べました。ここから、金曜日には夜九時四十五分まで開いているルーヴルを見学するのです。ルーヴル美術館をどう説明したらよいでしょうか。すべて鑑賞するためには九ヶ月かかるといわれていますが、それでも展示されているのは所蔵作品の十分の一もありません。かつて王宮として使われていた建物自体も驚異で、中庭に立つと、建築をぐるりと囲む多くの彫像に目を奪われます。
 とりあえず最上階の三階へ上り、オランダ絵画のコーナーから鑑賞することにしました。しかし、それだけを鑑賞するのにかなり時間がかかりました。なにしろ、フロマンタン『オランダ・ベルギー絵画紀行ー昔日の巨匠たち』で馴染みとなったロイスダール、フランツ・ハルス、カルプ、ハイデンなどが部屋から部屋へ続々現れてくるのです。絵を見て作者を当てるのはよくある楽しみですが、そんなことをしてゆっくり見ているうちに、ついにルーベンス、レンブラントが目の前に現れてきました。怒濤のように並ぶルーベンスに圧倒された後で、レンブラントの『エマオの晩餐』を心ゆくまで鑑賞しました。フェルメールの小さな絵画『レースを編む女』は大きな部屋の隅っこにあって思わず見落とすところでした。

 オランダ絵画で疲れた後で、同じ階の反対側のフランス絵画のコレクションへと進みました。G. ラ・トゥール、シャルダン、ワトー、プッサン、クロード・ロランなどの絵画をどうして時間をかけずに通り過ぎることができるでしょうか。くたくたになった後で廊下の出窓に腰かけて夜の薄闇に浮かぶルーヴルの中庭と建物を眺めました。ルーヴルの欠点は広さと部屋の多さです。しかも各室に番号が明示してなく、地図との照合に苦しみます。
 豪華な装飾に飾られた階段を降りると、そこからイタリア絵画の世界が展開します。ジオット、フィリッポ・リッピ、コレッジョ、ウッチェロ、ティントレットをじっくり見ていると、人の数が次第に多くなってきたことに気付きました。『モナリザ』を展示してある室が近づいてきたのです。ラファエロを鑑賞した後で後ろを見ると、『モナリザ』はたいへんな行列です。その反対側にはヴェロネーゼの巨大な『カナの婚宴』があり、これが意外に面白く鑑賞できました。妻は相当昂奮してイタリア絵画を見ていましたが、後で聞くと、私の好みのオランダ絵画にも感動したとのことです。

 さすがに疲れて、その後はミケランジェロなどのギリシア彫刻を見ましたが、エジプト美術まで足が進みませんでした。ルーヴルを出ると、もう夜遅く、それでもリヴォリ通りには人通りが絶えません。私たちはコンコルド広場まで歩き、メトロの駅でサンドイッチを買ってホテルまで帰りました。ロビーは着いたばかりの旅行客で混雑していましたが、フロントの黒人は私たちの顔を見るやいなや「サン・ソン・アン(501)」と言いながらキーを持ってきてくれました。九日も逗留しているのでホテルのスタッフはすっかり私たちの顔を覚えています。 

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2007年12月23日 (日)

パリ滞在記第八日ガーゴイル

 11月22日木曜日。パリで目につくのは物乞いの人々です。教会の出口には必ず待ち構えていて、執拗に手を差し出します。また、繁華街、観光スポット、地下鉄の構内などでも日常的に目にします。私は決して彼らを相手にしないようにしているのですが、不思議なことに彼らの顔や物腰はいつも記憶に鮮明に残ってしまいます。それは、多分、彼らの存在が私に恐怖をおこさせるからでしょう。最底辺に落ちて行くことへの恐怖、夢の中で崖やビルの最上階から落ちそうになる自分を見ることと似ているのかもしれません。モット・ピケ・グルネルの交差点にあるマクドナルドの前で、毎朝アラブ系の若い女性が紙コップを前に置いて地面にすわっています。その前を通るのがいつも辛く感じるのですが、ある朝、ホテルを出るとすぐ0.2ユーロ銅貨を拾いました。それを都合よく彼女の紙コップの中に入れようと思ったのですが、いざ前を通る時にはその勇気が萎えてしまっています。
 さて、モット・ピケ・グルネルから地下鉄に乗ろうとしたところ、改札口のバーは閉じられたままです。ということはストが終ったことを意味しているので私たちはすぐに切符売場に向かいました。ところが、売場の人は10時までは自動販売機で切符を買ってくれ、と言っています。いかにもフランス的ですが、仕方なく私たちは販売機で11.1ユーロのカルネ(10枚綴りの切符)を買いました。

 シテ島で地上に上がり、すぐにサント・シャペルに向かいました。ところが、サント・シャペルは裁判所(Palais de Justice)の敷地内にあるので、入口は裁判所に入る人とサント・シャペルを見学する人でごったがえしています。辺りには自動小銃を持った警備兵が何人もいて、入口での荷物および身体検査は空港なみの厳しさです。私たちは30分かかってようやく裁判所の中庭に入り、サント・シャペルの高い尖塔の前に立ちました。
 サント・シャペルは13世紀に聖王ルイによって建てられたもので、その素晴らしいステンドグラスによって特に有名です。内部は二層に分かれていて、狭い階段を上ると、ステンドグラスで囲まれた鮮やかな光の部屋に導かれます。足下から天井まですべてステンドグラスで埋め尽くされているのです。真ん中の長椅子に座ってぐるりとステンドグラスを見ていきます。これは何とわかりやすい素朴な絵柄でしょう。アダムとイブの話からキリストの受難まで人形劇のようなかわいらしい人物が次々に聖書の物語を演じていきます。色と光のまばゆい部屋から一階に下りると記念グッズを売るお店がありました。私はそこで、ガーゴイルのキー・ホルダー(3.5ユーロ)を買いましたが、それはパリで買ったもっとも忘れ難い土産物です。

 サント・シャペルの次は隣のコンシェルジュリーへ。丸い尖塔が並んだコンシェルジュリーはフランス革命時、処刑前の囚人が入れられたところで、冷たい石で囲まれた房には当時を再現する人形が置かれています。一般人のための房に比べ、ルイ16世の独房はさすがに威厳がありますが、それがなおさらこの不運な王の悲劇的最後を際立たせています。いったん中庭へ出、女性用の房へ入ると、ここで処刑前の2カ月を過ごしたマリー・アントワネットの部屋が再現されています。(実際の彼女の房は贖罪礼拝堂になっています)ソフィア・コッポラの映画『マリー・アントワネット』で、その贅沢な宮殿生活を見せつけられた私たちにはこの独房はあまりに狭くみすぼらしい。机と椅子と祭壇があり、後ろ姿のマリー・アントワネットの人形がそこにすわっているのですが、それは寒気を感じさせる怖さです。ついたての後ろから二名の衛兵に常時監視されているのも哀れをさそいます。

 息の詰まるコンシェルジュリーを出ると、私たちはノートル・ダム寺院へ直行しました。たいへんな混雑ですが、中へ入らず、左側面の階段のところで塔へ上る順番を待っていました。五分ほどで狭い螺旋階段を上り始めましたが、いったい何段あることでしょう。いつまで上ってもなかなか終点につきません。息を切らして上がった場所はノートル・ダムの「回廊」といわれる細いテラスで、二つの塔を結んでいます。ここはパリ観光の最大の見物、ゴシックの塔を目の当りに観察できる最上の場所です。私は小さく切られて隙間なく積まれた白い石の上に手を置いてみます。どのようにしてこれらの石を運び、どのようにしてこれらの石を積み上げたのでしょう。これほどの高さ、これほどの堅牢さに。これは人々のひたむきな信仰の結晶でしょうか。ノートル・ダム・ド・パリの建てられた頃、辺りはまだ貧しい人々が住む平地でした。沼地や農地が残るパリの一角に200年の歳月をかけて奇蹟のような巨大な聖堂が現れたのです。階段を上り、この回廊に立つ人は、この大聖堂が生まれ、なお空に伸びようかとするような精神の息吹を感じるでしょう。勢いよく伸びる細い尖塔、そして屋根の上にそびえる見事な聖像の数々。これらの聖像はただこの回廊に上る人にのみその姿を見せるのです。さらにこの回廊の所々に潜み、人を驚かせる奇怪な石像たち、そうガーゴイルです。雨水を流す樋であり、聖なる堂を守る魔除け。いくつもの怪物の像を間近に見、そのリアリティに驚嘆しましょう。ヘミングウェイが賛嘆した山犬を丸ごと喰らう怪物もいます。私はアニメ『ノートル・ダムの鐘』でカジモドの友だちとなり、彼を励まし、彼を助けてくれる愛すべきガーゴイルたちを思い出します。そしてノートル・ダムの上から一望するパリの景色の穏やかな佇まいの美しさ。左にはアンヴァリッドとサン・シュルピスが、中央にはエッフェル塔、右にはサクレ・クールが遠くに見え、セーヌ川が遥か下をゆったりと流れていきます。双眼鏡で見ていると、時間を忘れるかのようにいつまでも見飽きません。

 ノートル・ダムの近くでサンドイッチを食べようとしましたが、どこも観光地値段で高い。ぶらぶら歩いて行くと、次第に値段が安くなります。私たちはまたポールの店でサンドイッチを買って、歩きながら食べました。次はいよいよアンヴァリッドです。 
 メトロ、ラ・トゥール・モブール駅で降り、ぐるりと芝生をめぐるとアンヴァリッドの入口です。まず右手の軍事博物館を覗きましょう。銃と剣と甲冑のコレクションがこれでもかというぐらい続いていきますが、注目すべきは西洋甲冑の完璧さです。日本の装飾的な甲冑と違って、体のすべて、目さえも覆ってしまう徹底さ、しかも騎乗する馬の顔、首、足、腹さえも輝く鉄版で覆っています。ここから道はまっすぐ20世紀の戦車と装甲車に通じているのです。
 軍事博物館を出ると、映画『ヴィドック』の舞台ともなった矩形の中庭に出ます。そこを通ってドーム教会に出て、ついにアンヴァリッドの中心、ナポレオンの墓所に入っていきます。このナポレオンの墓は一目その豪壮さに圧倒されるでしょう。六重の棺、それを囲む12の女神、さらにその巨大な棺をめぐる床にはナポレオンが戦った戦場の名が刻まれています、アウステルリッツ、マレンゴ、ヴァグラム、フリートラント、、、。フランスという国にとってナポレオンがこれほどの大きな意味を持っていることに驚きます。

 アンヴァリッド通りに出て、すぐ隣のロダン美術館に入りました。これはロココ調の美しい館で、作品を国家に寄贈する条件でロダンが晩年の十年間をすごしたところです。ところが、ここはツアー客や観光客でいっぱいで、彫刻作品をゆっくり見れる雰囲気ではありません。おまけに楽しみにしていたカミーユ・クローデルの作品は海外へ出されていて見ることができないのです。しかし、部屋から部屋へ歩いて、そのあまりの陽光の明るさに戸惑いながらも、見るべきロダンは十分にみることができました。その後私たちは美術館に付随する庭を散策しました。その美しさで有名な庭は、確かにすばらしいのですが、パリのほとんどの庭と同様、あまりに整いすぎて私には感銘を与えませんでした。

 ロダン美術館のあるヴァレンヌ通りをサン・ジェルマン・デ・プレに向かって歩きます。このヴァレンヌ通りは狭く、静かで、いくぶん暗い通りですが、パリでもっとも高級な通りといってよいでしょう。官庁の建物が並び、通りの中程にはオテル・マティニョン(首相官邸)があります。折しも白バイに先導されて数台のシトロエンが私たちの横をすりぬけて行きました。
 サン・ジェルマン・デ・プレ教会の裏にあるドラクロア美術館の前にトラックが停まっていたおかげで、私たちはその入口を見つけるのに苦労しました。ところが、扉の前に張り紙があって、今日まで閉館、明日から再開とのこと、私たちはがっかりして力なくオデオン広場まで歩き、カフェ・ル・ダントンでコーヒーを飲みました。いつのまにか外はとっぷり暮れています。一休みして元気が出てきたので、夜九時半まで入場可能な凱旋門の上にのってパリの夜景を眺めて見ようと思い立ちました。ミュージアム・パスがあるのですべて無料です。さっそく地下鉄に乗ってシャルル・ドゴール・エトワールまで行き、専用の地下道を通って凱旋門の真下に出ました。しかし、何ということでしょう。ストは終ったはずなのに「ストのために、四時半で閉場」との張り紙が。あまりのお役所仕事に怒りさえ覚えました。遠くから来たらしいフランス在郷軍人会の人々があきらめきれずに入口のところにたむろしています。仕方なく地上に出ると、凱旋門が強烈な光線で照らされ、下には戦没者のための慰霊の火が力強く灯っています。私たちは凱旋門の見事なレリーフを眺め、メトロ6番線でモット・ピケ・グルネルまで帰りました。

 

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2007年12月21日 (金)

パリ滞在記第七日マレ、モンマルトル

 11月21日、水曜日。ストはついに8日目を迎えました。今日行われる労使政府三者の話し合いに希望が持たれます。さすがのパリっ子もスト疲れが見えてきました。今回のストには今年から開始された自転車レンタルシステム(velib)が大活躍していたようです(注)。観光客にとっては大打撃で、地下鉄がなかなか来ないし、博物館や記念館は閉館時間が早まったり、あるいは休館したりしました。
 朝9時にホテルを出ました。夜から断続的に降っていた雨も完全に上がっています。カンブロン駅からメトロ6番線に乗ってシャルル・ドゴール・エトワールへ行き、ここで1番線に乗り換えます。私たちがヴァンセンヌ方面行きのホームで待っていると、向う側のデファンス行きのホームは通勤客で鈴なりの人で、ホームから人があふれそうです。ところが、電車が来ても無理して乗らず、乗れない人は次の電車を待っています。日本のように駅員が押し込んだりすることはありません。
 サン・ポール駅下車。ここはマレ地区の入口です。地上に出ると、いきなりシナゴーグがあり、その前にユダヤ人がたむろしています。並んでいる商店をのぞくと、黒い帽子にあごひげをはやしたユダヤ人たちが買い物をしています。なるほど、ここはユダヤ人が多い地区かと思っていると、向うからユダヤ人の子供たちが先生の後について二列に並んで歩いてきます。男の子はみなコースターのような黒い小さな帽子を頭に載せています。「わぁ、かわいい」と妻が言うと、男の子の一人が妻を見て「シノア」と大きな声で言いました。「中国人に間違われた」と、妻はくやしそうな顔をしています。

 「En raison de la greve...」(ストのために、、)という張り紙を見ると、またかと思うのですが、カルナバレ館も開館時間が遅れるとのことで、入口には観光客が何組か待っています。やっと開館されて、まず貴族の館の中庭を通ります。マレ地区は、ヴェルサイユに王や貴族が引っ越す前のパリでの貴族の館が集まっていたところで、今はそのころの館が歴史博物館や図書館となって公開されています。さて、カルナバレ館はあのセヴィニュ夫人が住んでいたところで、今はフランス革命関連の品などが展示されています。フランス革命に登場する著名な人士の書簡や当時の服装、馬車の模型などなどあって興味深いのですが、私は小物が展示されてある部屋に興味を持ちました。まず、辰野隆がフランス革命で最も魅力的な人物とよんだダントンの小物入れ。これは巻物のようになっていて、並んでいる細長い袋にペン、櫛、ナイフ、爪切りなどが収納されており、インクの鉄の缶もついています。つぎにロベスピエールの書類入れ。おそらく議会の演説の原稿などを入れたに違いない黒い皮のブリーフケースです。そしてサン・ジュストの二連拳銃。凝った装飾つきの重そうな拳銃で今でも弾が撃てそうです。
 このカルナバレ館の魅力は、部屋から部屋へ見ていくことによって、かつての貴族の生活が疑似体験できることにありますが、興味津々の妻と比べて、私はすぐに疲れてきました。というのも、見る部屋、見る部屋、同じようなロココ調の家具、疑古典的な壁絵、装飾過多な天井などで、とても心が落ち着くどころではありません。書院造りの日本の居間の清々しさが懐かしい、、、。花模様の布張りの椅子や天使が踊る扉などを見てるうちに吐き気さえ感じてきました。仕方なく外に出て、予定していたスービーズ館やロアン館なども行くのをやめました。「あんな館に住んでいて、居心地がよいはずがないが、、、」と思ったのですが、妻は全く私の気分が理解できない様子。
 気分転換にフラン・ブルジョア通りを散策して、カフェ・カミーユへ入り、コーヒーを飲みました(二人で4.4ユーロ)。カフェは気持ちを落ち着けるには最適の場所です。パリにあって東京に決して無いものはこのカフェ文化でしょう。パリのカフェではすべてが可能でどんな必要にも応じます。食事を頼めば、すぐに白い布が敷かれ、グラスが並べられます。早朝から夜更けまで開けられ、朝からビール、ワインを飲んでも、夜に紅茶を飲んでもよく、顔を知られれば、ビールにピーナツがついてきます。カウンターで飲めば半額ですみ、テーブルにすわれば何時間いても追い出されることはありません。良いカフェを見つけるコツは、中を覗いてカウンターで常連客が楽しく飲んでいるような店で、そういう店は観光客にもたいてい親切です。最近、パリにもスターバックス・コーヒーがあちこちに出来ていますが、その無機質的なサービスがうけるのか、どこも盛況です。コーヒーの値段は2.2ユーロほどでカフェと変わりませんが、席が空くのを順番に並んで待っているのはいかにもパリらしい。(フランスでは列の順番は厳格に守られます)

 カフェを出て歩き始めると、クマのグッズばかり集めたお店があって、妻はそこでクマの財布を買いました。それから、「るるぶパリ」という雑誌に載っていたロジェ通りのファラフェル(薄いビタパンにコロッケや野菜を入れて挟んだもの。ユダヤや中近東の食べ物)のお店で、5ユーロでファラフェルを一枚買って、ヴォージュ広場のベンチで二人で食べましたが、コロッケの味が強烈で、二人とも胸焼けしてしまいました。さて、ヴォージュ広場はその美しさで有名ですが、実際来てみると、その回廊はあまりに古すぎて暗く、鉄の枠で区切られた芝生の広場は何か閉塞感があります。片隅のヴィクトル・ユゴー記念館は特別展が開催されていて有料だったので、入りませんでした。
 ヴォージュ広場からサンタントワーヌ通りに出ると、そのにぎやかさに驚きます。左に行くとバスチーユ広場に行き着きますが、私たちは右の方に歩いて、人通りの喧噪の中に厳然とそびえるサン・ポール・サン・ルイ教会の偉容を眺めました。これはパリで最古の教会のひとつで、内部は昼なお暗く、ところどころで煌めくロウソクの光が粛然とした雰囲気を醸し出しています。内陣の奥の左に特徴ある大きな祭壇画があります。私たちは双眼鏡でかわるがわるその絵を見つめました。劇的な瞬間を動的に捉える独特のタッチ、そう、これはドラクロアのLe Christ au Jardin des Oliviers (オリーヴの園のキリスト)です。

 サン・ポール・サン・ルイ教会の横の道を入ると、学校を終えた生徒たちが三々五々歩いてきます。こういう生徒たちの中に時折天使のような顔立ちの少年少女が混じっているのがいかにもフランスらしい。ここは古い伝統を持つリセ・シャルルマーニュ校で、その学校の一部が城のような丸い塔を持つサンス館になっているのです。サンス館の庭は開放されていますが、そのあまりに幾何学的な造園は落ち着きを感じさせません。この辺り一帯は古い家や街路がそのまま残っていて、ローマ時代を思わせる井戸の名残もあります。
 セーヌ川に沿って、シャトレまで歩くとかなり疲れてきました。ここで、クレープとガレットを食べさせるお店に入りましたが、ガレットは茶色の生地に卵を落としただけのもので全くおいしくありません。クレープもただ甘いだけです。ガレットにつきもののシードル(リンゴ酒)は陶器の杯に入れて飲みますが、これもリンゴ酢のように酸っぱくておいしくありません。外に出ると口直しにオテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)の横にある パン屋 Paul で生ハムのサンドイッチ(フランスでサンドイッチとはフランスパンに具をはさんだものです)を買って、オテル・ド・ヴィル前のベンチにすわって食べました。
 食べ終わって、さて歩き出そうとすると、中年のあか抜けない感じの婦人が近寄ってきて、地図を広げ、何やら話しかけてきます。道を聞こうとしているのかと思いましたが、話す言葉が何語なのかさっぱりわかりません。すると、中年の汚いブルゾンを来た男が来て、いきなり写真つき身分証明書を見せました。そこには Police と大きく書いてあるのですが、妻はそれを見て思わず失笑してしまいました。明らかに二人はグルで何か詐欺をたくらんでいるのですが、私たちが笑いながら手を振って去っていくとポカンとした顔でこちらを見つめていました。

 ルーブルの地下のタバコ売場で待望のパリ・ミュージアム・パスを買うことができました。このパスは連続2日間でほとんどの美術館・モニュメントが無料となるもので、一人30ユーロです。その地下から、ついでにレストラン、トラン・ブルーの土曜のランチの予約を入れておきました。自信満々で予約の電話をした妻ですが、une table をune chamble と間違えたので、傍らで聞いていた私は思わず笑ってしまいました。
 外はまだ明るかったので、私たちはモンマルトル散策を思い立ちました。メトロ7番でショセ・ダンタン・ラファイエットまで行き、まずサン・トリニテ教会の中に入りました。この教会はメシアンがオルガニストとして勤めていたことでも知られています。私たちは後ろの席にすわって、そこだけ明るく照らされている祭壇を眺めていました。何げなく双眼鏡で祭壇を見てみると、十字架に架けられているのは金色に輝く骸骨です。

 サン・トリニテ教会のすぐ横の道を上って行きます。ラ・ロシェフーコー通りに出ると右手にギュスターヴ・モロー美術館がありますが、ストのため早々と閉館しています。アンネー通りに入り、しばらく歩くとその街並の見事さに圧倒されます。パリはすべての建物が高さを揃えて建てられているのですが、この辺り一帯は完璧に、まるでブロックの積木細工を正確にはめ込んだように、高さも色も佇まいも同じ建物が並んでいます。何という街並、何という美しさ、これこそモンマルトルです。この風景が真実美しいと思えるのは、その非人間的な美しさにもかかわらず、内部に人間が生きているからです。この通りが出来た19世紀の初めから、人々はこれらの建物の内部で暮らしてきました。窓を開け、花を飾り、通りを歩く人々に言葉をかけてきたのです。詩人ギョーム・アポリネールの住んでいたアパートはこの通りの端にあり、その一階は今は画廊のようなものになっています。アンネー通りの突き当たりにアリ・シェファーの自宅を改造したロマン派美術館があるのですが、入口には、またまた「ストの影響により、、、」の張り紙が。

 外も暗くなってきたので、モンマルトル散策の続きを後日にまわして、私たちは一番近くの地下鉄の駅サン・ジョルジュまで歩きました。そこからメトロ12番線でコンコルドまで行き、8番線に乗り換え、モット・ピケ・グルネルまで行こうとしたのです。ところが、コンコルド駅で8番線がなかなか来ず(私はホームのベンチでぐっすり眠ってしまったのですが)やっと一時間後に電車に乗れました。本当にストは今日で終るのだろうか。明日からのパリ・ミュージアム・パスは有効に使えるのだろうかという心配が頭をよぎります。
 モット・ピケ・グルネルで降りると俄然お腹が空いてきました。おいしいパンが食べたいと妻が言うので、グルネルの商店街をずんずん歩いて、何軒ものパン屋を物色し、次のコメルス駅の近くでエリック・カイザーというパン屋を見つけました。店内は大変混んでいます。私たちはサンドイッチとチョコレート・エクレアを買い、帰り道のモノプリで一番安いシャンパンを買ってホテルに戻りました。シャンパンは口当たりが良く、あっというまに二人で一本空けてしまいました。特筆すべきはエリック・カイザーのエクレア(2.3ユーロ)です。苦みの効いたとろけるようなチョコレートが隙間無く詰まっていて、ずっしりと金の延べ棒のような重さ、本物とはこのようなもののことなのでしょう。

 早々と妻が寝た後で8時からテレビでユーロ2008の最終予選、キエフで行われたフランスーウクライナ戦のサッカー中継を見ました。すでに予選通過を決めているフランスは、アンリのゴールで2-1としましたが、終了間際にシェフチェンコのヘディングで同点にされました。翌日のニュースではこの試合よりも、同じ日にイングランドがホームで2-3でクロアチアに負けて24年ぶりに予選敗退したことを大きく採り上げています。

(注)今年の夏からの自転車のレンタルシステム velib によってパリの様相は少し変わりました。さらにストによって首都の公共交通機能が麻痺したときに、その存在はいっそう際立っているようです。velib のステーションはメトロの駅や主要スポットなどにパリ全体で600以上設置されています。各ステーションには20台余りの自転車が置いてあり、velibカードかnavigo というパスモに似たカードを自転車のつながれているポストにかざすだけでキーが外れて使用できるようになります。そして、パリ市内のどのステーションでも乗り捨てることができます。登録料は一日1ユーロで、30分までは無料です。30分以内に乗り捨てれば一日何度乗っても無料なので、通勤にはたいへん便利です。自転車は独特のスタイルの丈夫な構造で、パリの坂道に合わせた三段変速ギア、走行時常時点灯するリアランプなどかなり工夫されています。ただ自転車のメンテナンスは大変で、velibの専属技術者が各ステーションを自転車で巡回していますが、とても人員的には足りないようです。壊れやすいのは各自が調節するサドルの部分らしく、完全に壊れているものもあります。
 velibの普及は自転車環境の整備によるところが大きいようです。パリでは自転車の歩道走行は認められていませんが、大きな道路にはほとんど自転車専用レーン(段石で仕切られている)が付随しており、道の真ん中に設置されている場合もあります。驚くことに彼らはみな大変なスピードで自転車を走らせます。半分近くは自転車用ヘルメットを被っており、蛍光色の安全ベストをつけている人も多いようです。11月17日のフィガロ紙によると、パリでのvelib の成功から、ツールーズでも同じ試みがなされるとのことです。

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2007年12月19日 (水)

パリ滞在記第六日ペール・ラシェーズ

 11月20日、火曜日。ワインを飲み過ぎたのか、朝方やや体が重い。ロビーや食堂でのんびりした後、9時半すぎにホテルを出ました。メトロ6番線は1 sur 5(5本に一本)の割で走っています。無料で開放されているカンブロン駅で20分待って混雑する地下鉄に乗りました。この6番線は半分以上が高架で、シャルル・ドゴール・エトワールからナションまで左岸をぐるりと横断します。ナションから右岸をぐるりと走る2番線と合わせると、ちょうどこの2路線を乗り継ぐとパリを一周できることになります。その終点ナションまで行って、2番線に乗り換えました。今日の行き先はペール・ラシェーズ墓地です。ところで、ナション駅で始発の2番線に乗り換える時、(ストで混んでいたのですが)回送電車がホームに入ってくると、間違えて乗ってしまう人が多く、しかもその人たちを乗せたまま車庫に入っていってしまいました。ホームにはひとしきり笑い声が起きました。やってきた始発電車はすぐ満員になりました。すし詰めだったので、三つ目の駅ペール・ラシェーズで無事降りられるかどうか心配になりました。電車がホームに滑り込むと早めに「パルドン」と声をかけてドアの方に移動しようとしましたが、前に立っていた若い黒人の女性が穏やかな声で「ムッシュ、どうかあわてないでください。電車が止まったら、道をあけますから」と私に言いました。この言葉を聞いて妻はそこにフランス人の余裕を感じた、ということです。妻によれば、フランス人は車も自転車も歩き方も速いが、他人のペースを尊重することを忘れないとのこと。確かにスーパーのレジの列でもイライラしている人はいないし、レジの店員も椅子に座ってペットボトルを飲みながらのんびり仕事をしています。

 さて、ペール・ラシェーズ駅を降りると雨が降ってきました。これは妻には残念なことで、彼女は墓地で子猫を見つけたがっていたからです。もしかしたら子猫をポケットに入れて日本に持ち帰ろうとしていたのかもしれません。傘をさしながら入口の管理所に行って墓地の地図をもらいました。訪ねたい墓に鉛筆で印をつけていきましたが、アポリネール、バルザック、ビゼー、ショパン、ドラクロア、ピサロ、ワイルド、ミシュレ、モリエール、ネルヴァル、メルロ=ポンティなどとても回り切れません。雨は激しくなるし、墓地は思ったより広大で、とりあえず右端だけ回ることにしました。まず、何よりアベラールとエロイーズの墓です。ところが、すぐ見つかる筈の墓がなかなか見当たりません。なんと工事中だったので、小さな館のような墓所は工事の枠組みで覆われています。しかし、何とかそばに近寄って、二人仲良く並んで横たわっているアベラールとエロイーズの仰臥像を見ることができました。この墓は圧巻で、この二人にまつわる様々な思いが私たちの頭をよぎります。彼女の運命を翻弄したアベラールの屍体を22年間修道院で守り続け、ついに共に葬られるに至ったエロイーズの生涯についての思いが、、、。冷たく穏やかに降りしきる雨が、二人の墓所をいっそう中世の修道院の冷たさに近づけるかのようです。

 次も妻の希望で、墓地の右端のバンジャマン・コンスタンの墓へ。地図を見ながら歩きましたが、狭い石の階段をどんどん上へ上がっていきます。結局一番上の見晴らしの良い一角まで来て、妻がすぐにコンスタンの墓を見つけました。見つけられたのが奇蹟なほど、それは平凡な、むしろ簡素すぎる墓です。「 Journal Intime の作者に相応しい」おそらく妻もそう感じたのでしょう。私たちは彼の墓と、その向うに広がるペール・ラシェーズの風景にしばしの間立ちつくして見入りました。
 体が冷えてきたので、雨と泥ですべりやすい道を北出口まで降りていきました。墓地を出る前に私の希望で出口近くのアランの墓を探しましたが見つかりません。うろうろしていると、黒いオーバーコートを着て黒い帽子を被り、傘もささずにいる老人が私たちに近づいてきました。「ミヤゥミヤゥに餌をやりにきたんだ」と白いビニール袋を振って私たちに示しました。歯が一本もないらしく、何を言っているのか判然としません。「誰の墓を探しているんだ」と言うので、妻が「アラン」というと、「フィロゾフィー?」と言って、私の手から地図をとると、早足でずんずん墓地を歩いてアランの墓を探し始めました。雨に濡れるのもかまわず、懸命に探してくれますがなかなか見つかりません。もういいですから、と言おうとしたら、向うで「アラン、イシ!」と叫んでいます。行ってみると確かにアランの墓で、アランという名前の上に誰かが板を置いてあったので探すのが難しかったのです。するとこの老人はエミール・オーギュスト・シャルティエという本名でこの墓を見つけたわけです。メルシーという暇もなく、老人はいつのまにか遠くの方に行ってしまいました。

 ペール・ラシェーズから地下鉄3番線でサンティエールまで行きました。地上に上がり、フォーブール・モンマルトルまで歩き、有名なレストラン・シャルティエへ入りました。ここは大きな大衆食堂で、唯一の特長は全く気楽に飲み食いできるということです。ちょうどランチタイムでほぼ満席、老人ばかりのギャルソンが手際よく料理を運んでいます。お客も年配の夫婦や一人で食事する老人が多く、パリの場末の食堂の雰囲気がよく出ています。私たちは、子牛のソテー、黒ダラの煮込み、それにワイン、クレーム、ヨーグルトなど31ユーロ使いました。味は意外と濃厚でおいしく、ワインとパンでお腹いっぱいになりました。お客も給仕人も全く気さくで、ここにはフランス人らしい食事を楽しむ喜びがあふれています。

 2時間近くシャルティエにいて、外に出ると雨はきれいに上がっています。底冷えのする寒さは変わりませんが、二人ともパリの寒さに慣れてきたようです。グラン・ブールヴァールからぶらぶらとセーヌ川の方に歩いていくとギャラリー・ヴィヴィエンヌがあります。中にはサロン・ド・テとしてよく知られているアプリオリ・テがありますが、私たちはギャラリーの外れにある古書店に入ってみました。フランスの古書店は、店の真ん中に事務机のようなあって、まわりをぐるりと書棚が囲んでいる形が多いようです。妻は古本屋の主人にレオン・ブロアの本はないかと聞いていましたが、なんと一冊もないとのことです。一通り書棚を見てもあまり食指をそそられるものはありません。
 そこからルーブルまで歩いて、地下のフード・コートでコーヒーを飲みました。体を温めてからリヴォリ通りをコンコルド広場まで歩き、グラン・パレ、プチ・パレの間を通って、アレクサンドル三世橋を見学しました。この驚くべき橋は1900年に、まさに最も美しい橋を架けようという理念の下に作られたのです。金色で装飾された数々の彫像で飾られた橋は、そこからの眺めが、パリをさらに美しく見せるために工夫されています。アンヴァリッドの金色のドーム、セーヌ川を挟んで対峙するオルセーとルーブル、右手にはエッフェル塔が遠慮深く立っています。大きな声で話しながらぞろぞろ並んで歩く中国人の観光客の列がなければ、私たちはもっとうっとりと旅情に浸れたことでしょう。

 シャンゼリゼ通りの雑踏の中をしばらく歩いて、「戦争が終わったら、フーケで会おう」という映画『凱旋門』の中の言葉で有名なカフェ・フーケの前を通り、ディズニーストアとフナックを覗いて、メトロ6番線でモット・ピケ・グルネルまで帰りました。高架の6番線は、パッシー駅を過ぎたところでセーヌ川を渡ります。そこから見えるエッフェル塔がおそらく最も美しいエッフェル塔ではないでしょうか。塔からこぼれる光がセーヌ川の上に停泊する船の灯りと流れる滝のように共鳴します。この夢のような数秒のあとで、メトロはビル・アケムの駅へ、つまり現実の世界にすべりこんで行きます、、、。

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2007年12月16日 (日)

パリ滞在記第五日散策

 11月19日、月曜日。朝、食堂へ。ここは、セルフサービスで、パン、コーヒー、紅茶、ジュース、ヨーグルト、フルーツ、チーズ、卵、シリアルなどが揃えてあります。私たちは入口でサインしてから、まず食堂係の黒人の女性に挨拶します。彼女は、食堂に来る宿泊客全員に大きな声で挨拶しますが、返事をして一言二言ことばを交わすのは私たちだけのようです。宿泊客はアメリカ人、スペイン人、ドイツ人などで、彼らは私たち(アジア人は私たちだけのようでした)が挨拶しても無視します。もし、フランス人ならこのような態度は考えられないことです。フランス人がどんな場合もきちんと挨拶するのはパリを訪れた外国人の等しく感じるところでしょう。窓口で切符一枚買うときでも、まず挨拶から始まります。高いレストランでも安いカフェでも、100ユーロ買おうが1ユーロ買おうが、メルシ、オバー・ムッシュ、ボンジョルネ(夕方はボンソワレ)という言葉が返ってきます。ある本によれば、どんな不良少年でもエレベーターで他人と一緒になると、ボンジュールと挨拶してしまうそうです。相手が一人の人間であって、壁や物や空気ではないと認めるのが社会生活の第一歩であると学んでいるかのようです。私はここにフランス人の平等 egalite の感覚を感じるのですが、その平等はアングロサクソンの感じる平等ともアジア人が抱く平等の観念とも違うようです。それは、デカルトがbon sens は公平に与えられていると言った意味での平等なのかもしれません。お互いに理性の通じ合う人間であると確認して、さてそれからすべてが始まるのです、、、。

 ここ四日間の疲れが出たらしく、朝食を食べて部屋に戻ると、体が重く感じられたのでベッドで横になっていました。10時頃になって気分が回復してきましたが、今日は無理をせず、軽く街を散策することにしました。
 モット・ピケ・グルネル駅で20分待って、8番線でオペラ駅まで向かいました。早朝からの雨はほぼ上がりかけていました。オペラ座の正面半分は工事中でしたが、その華やかで堂々とした姿は何度見ても飽きません。妻は映画『オペラ座の怪人』を見て以来、このオペラ・ガルニエでオペラかバレエを観るのを楽しみにしていました。ところが、日本でオペラ座の公演スケジュールを調べても私たちのパリ滞在時には面白そうな演目はありません。バレエ『くるみ割り人形』はなぜかオペラ・ガルニエでなく、オペラ・バスチーユで催されています。仕方なく、日本ではチケットを買わず、パリに行って様子を見ようと思いました。実際にオペラ座の階段を上ってみると、妻はやはりオペラを観たくなったようで、滞在中に演じられる唯一のオペラ『Alcina』のチケットがまだあるかどうかチケット売り場で聞いてみました。10ユーロの席がちょうど二つ残っていました。舞台左側の五階です。あまり期待できない席ですが、それより高い席はすべて売り切れているので、仕方なくその最後の二枚を手に入れました。公演日は25日の日曜、パリを離れる前日です。
 チケットを買った後、オペラ大通りをぶらぶら歩いて、ブックオフとジュンク堂に寄りました。ブックオフは日本の店舗と同じ感じですが、2ユーロ均一はすべて日本のクズ本で埋まっています。ジュンク堂は狭い店舗で新宿や池袋の面影はありません。
 ジュンク堂のはす向かいにあったツーリスト・インフォメーションでパリ・ミュージアム・パスを買おうとしたら、スト中は販売できないと言われました。いつから売ってくれるのか、と聞くと、水曜に大きなストがあるからそれ以降だとのこと。当初の予定は大幅に狂っています。
 今日はもう予定はなかったのですが、オデオン付近の雑踏に浸ってみようと、地下鉄でオデオンまで行きました。まずレストランを探しましたが、ランチ時でみな混んでいます。ムール貝の専門店『レオン・ド・ブリュッセル』に入りましたが、二人とも実は貝は食べられないので、魚のコロッケと魚のステーキ、それにベルギーのビールを注文しました。味はまずまずですが、これで25ユーロ(約4200円)は少し高いような気がしました。

 昼食を食べ、外に出ると、雨が完全に上がり、雲間から日差しも出ています。私たちはぶらぶらとレンヌ通りを越えてラスパイユ通りまで歩きました。途中のサン・シュルピス通りやレンヌ通りには衣服や靴やアクセサリーの洒落た店がありますが、むろん貧乏な私たちは店内には入らず、ウインドウだけのぞきました。ウインドウ・ショッピングのことをフランス語で leche vitrines(ウインドウをなめる)といいますが、それはいい得て妙で、パリの店のウインドウは東京のようにその店のコンセプトを端的にあるいは象徴的に表現するものではなく、即物的にその店の最も魅力的な商品がことごとく展示され、すべて価格が明示されています。いわばウインドウは商品のカタログそのものなのです。
 ラスパイユ通りを歩いていくと、ガリマールの直営店があったので入りました。今はアマゾンで何でも買えるので、わざわざ重い本を持ち帰る意味はありませんが、それでもあれこれ手にとって見ることができるのは本好きの人間ならではの楽しみでしょう。記念にヘンリー・ミラーの『Lire aux cabinets』(トイレで読書)を買いました。これは Folio の2ユーロ均一の文庫です。

 セーブル・バビロンの交差点にくると、すぐにパリで最も古いデパート、ボン・マルシェ(Le Bon Marche Rive Gauche)が見えます。これは、たいへん立派な建物で、中は静かで落ち着いていて、中国人観光客の集団なぞは見られません。特に地階の文房具・玩具・書籍売り場は見応えがあります。妻はぬいぐるみやチェス・セットに目を奪われて買おうかどうか迷っています。書籍売り場は広くて明るく、ソファーで何冊も抱えて試し読みしている客もいます。作家はアルファベット順に整然と並んでいるのでとても探しやすい。私は、またまた Folio の2ユーロの文庫を買いました。今度はユイスマンスの『Sac au Dos』(背嚢を背負って)です。となりのボン・マルシェ別館は食品館(Grande Epicerie)となっています。広々として非常に買いやすい、およそ食材のあらゆるものが揃っています。妻はここでパリ土産のお菓子を多量に買い込みました。

 もう外が暗くなってきました。ヴァノー駅からメトロ10番線でモット・ピケ・グルネルまで帰ろうとしたところ、駅のホームは閑散としています。時折聞こえる駅のアナウンスによると、走ってはいるが、ほとんど走っていない、という曖昧なもの。ベンチに座って電車を待っていると、フランス人の女性がやってきて、どのくらい待っているのか、と聞きます。10分くらい、と答えると、ウーンと考えてから階段を上がって出ていってしまいました。ホームに誰もいなくなったので、私たちもあきらめて外に出ました。ここからならホテルまで歩いてもそれほどの距離ではありません。
 セーヴル通りをデュロック駅まで歩き、さらにネッケル小児総合病院の横を歩くと、急に人通りが少なくなります。暗い通りに、小児病棟の灯りだけがなぜか陰惨な感じで光っています。病院の前に小さな古本屋が灯をつけていました。店の前に均一本の台が二つあって、一つは1ユーロ均一のペーパーバック台ですべて大衆小説。もう一つは2ユーロ均一の単行本の台ですが、暗くて書名がよくわかりません。妻は早くホテルに帰って休みたい様子です。「五分だけ待ってて」と妻に言って、携帯電話の灯りで何とか書名を探っていきました。医学関係の雑誌が混じっているのは場所柄でしょうか。ラマルチーヌの『新瞑想詩集』があったのでぱらぱら見ているうちに読み込んでしまいました。買おうと思ったがよく見ると表紙が無く、裏表紙も外れかけています。迷ったが、買わずに暗い道をホテルまで帰りました。途中のフランプリという格安スーパーでワインとハム、チーズなどを買い、キオスクで夕刊紙のル・モンド(1.3ユーロ)を買いました。

 ホテルでテレビを見ると、ストのニュースを特集しています。21日の水曜日に労使および政府三者による話し合いがもたれるとのこと。SNCFの労働者は水曜までのスト継続を決議した、とのニュースもありました。今日、ル・モンドを買った理由は、ホテルに毎朝届けられるフィガロ紙のあまりの保守ぶりにあります。「サルコジ、労組の要求に屈するな」「サルコジには抑える力と理由がある」等々、またサンジカリストたちへの批判、ストで困っている人たちの話題など、文章は平易ですが、論調も単純です。秩序を愛すると同時に既成のものを打破したいという矛盾する感情を内包するフランス人の特性にストの原因を求める論文も掲載されています。一方、ル・モンドは文章が屈折していて長く、読むのに疲れますが、読んでも何を言っているのかよくわかりません。要するに難しすぎて、すぐに読むのをやめました。ストの話題はわずかで、もっぱら国際ニュースが主眼のようです。

 ところで、森有正は、自身の罪深さへの悔恨のゆえか、人間存在そのものの暗さに気付くことが多いのですが、こんなことを書いています。ある時、日本の知人の息子がパリに来たので世話してやった。一緒に芝居を観にいくと、フランス人がみな笑っているところでその青年も笑っている。ところが、自分(森有正)はどこがおかしいのかよくわからない。何度もそういうことがあって、結局この青年は理解できないのにわかっているフリをしているのだ、と気付きました。しかし、なぜ、そこまでしてフランス語をわかったフリをしなければいけないのだろうか、と森有正は疑問に思います。そして、この優れた哲学者は、次のような結論に達します。つまり、語学というものは自分を一回り大きなものに思わせる毒のようなものがあるのだ、と。これは鋭い指摘です。2チャンネルの語学版などを見ると語学「上級者」が初級者を馬鹿にしたような口調であしらうところをよく目にするのですが、単なる技能にしかすぎない語学がこれほど尊大な自信を持たせることに驚きます。
 なぜ、こんなことを私が書くかというと、実は私はフランスのテレビのニュースを見ても、アナウンサーの言っていることが全くわからないからです。それでもニュースならば全力集中して聞けば何とか内容らしきものはつかめますが、少しでもぼんやりしていたり、またバラエティー番組や討論番組は集中しても全然ついていけません。昔は、もう少しましだったと思いますが、それはまだ語学に挑戦するのが楽しくて、フランス語を積極的に使おうとしていたからです。そういう情熱は語学が面白いという以上に自分という人間の価値を高めるという気持ちがなかった、とはいえません。ところが歳をとってくると、そういう頑張りが苦しくなりますし、あるいはどうでもよくなります。日本に帰って職場にお土産を持っていったところ事務のおばさんから「フランス語がしゃべれると旅行も楽しいでしょう」と言われたので、「いや、全然しゃべれませんよ」「ほんとですか」「ほんとですよ」と、実際そうなのですが若いときの自分ならこうは答えなかっただろうと考えました。
 今回のパリ旅行での会話はほとんど妻に任せっきりでした。妻は毎日インターネットでフランス1のテレビニュースを聞いていたので、そういう地道な努力の結果、独学にもかかわらず聞き取りの力が急速に向上していたのです。メトロの駅での運行状況のアナウンスはスト中の旅行者にとってきわめて重要ですが、もし妻がいなかったらかなり困惑したことでしょう。また、店や街でのとっさのフランス語の聞き取りももっぱら妻に頼りました。といって、フランス語を話すのをすっかりやめたわけではなく、パリの街を歩いているとやはりフランス語を使ってみたくなります。ジッドは60歳をすぎても散歩の時にドイツ語の単語帳を覚えていたそうですが、その気持ちはよくわかります。語学はその難しさがわかってきた時に、はじめてこの世の愉しみとなるのです、、、。

 

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2007年12月13日 (木)

パリ滞在記第四日オルセー

 日曜日には近くのモット・ピケ・グルネルで朝市があります。メトロ6番線の高架の下で100メートルほど露店が並ぶのです。私たちは朝市のついでにコインランドリーで汚れたシャツ類を洗濯することにしました。パリでは洗濯物を外に干せないので、コインランドリーはどこにでもあるようです。モット・ピケ・グルネル駅の近くのその店は明るく清潔で、まだ朝早くなので客は一人しかいませんでした。20台ほどの洗濯機と10台ほどの乾燥機が置いてあり、それが壁の一枚のパネルで集中管理されています。私たちがパネルの説明を読んでいると、管理人らしい中国人の青年が近寄ってきて親切に教えてくれました。まず洗濯物を入れ、買った洗剤と柔軟剤を投入し、コインを入れて機械の番号を押すのです。費用は、洗濯機3.5ユーロ、乾燥機2ユーロ、洗剤1ユーロ、柔軟剤0.5ユーロ、計7ユーロでした。
 機械を動かしている間、朝市を散歩します。まだ早いので準備中の店もありましたが、その慌ただしさがいかにも活き活きしたパリの朝の雰囲気を感じさせます。大鍋に炊きあがったパエリアの目の醒めるような黄色、ほうれん草とチーズのたっぷり入ったキッシュ・ロレーヌの香り、ゆっくりと回転しながらローストされる七面鳥のももから垂れる油、これこそ印象に残るパリの朝の思い出です。私たちは今日の夕食のために、鶏のもも焼き1.5ユーロ、焼いたジャガイモ2.3ユーロ、いちご3.2ユーロ、木イチゴのタルト1.8ユーロを買っておきました。

 今日も厳しい寒さ(0度)ですが、6番線は1 sur 10(10本に1本)になったので、カンブロン駅で地下鉄を待つことにしました。むろん改札は無料開放です。15分ほどで地下鉄は来たのですが、やはり混んでいます。私たちはモンパルナスで4番線に乗り換えてシテ島で降りました。日曜の小鳥市を見ようとしたのですが、いざ来てみると狭くて見るべきものはほとんどありません。小鳥の他はモルモットやリスのような小動物がいるだけでした。私たちは次の予定、オルセー美術館に向かうことにしましたが、私はその前に警察署とオテル・デュウ(市立病院)に囲まれたシテ島の静寂な一角の空気をしばし味わいました。『マルテの手記』にはオテル・デュウに運ばれる重病の人々の姿が描かれています。ノートル・ダム寺院の正面を見上げていると、オテル・デュウに向かって疾走する馬車にあやうく轢かれそうになる、とリルケは書いています。馬車の窓のすりガラスを通して見えるのは苦悶してのたうちまわる病人の姿です。貧乏な人々は幌のない無蓋の辻馬車で瀕死の状態のまま運ばれてきます。「この都会で病気になるとは何と恐ろしいことだろう」29歳のリルケの目に映るものは、道端で倒れる男、うずくまる妊婦、サルペトリエール病院に運ばれる娼婦や乞食です。「人々は生きんがためにこの都会にやってくるが、僕にはここで死ぬためのように思われる」

 ポン・ヌフを渡り、マラケ河岸、ヴォルテール河岸と歩くと、この寒さにもかかわらずブキニスト(古本屋)が店を開けています。面白い本もあるが、値段はどれも高めで、半分は観光客向けの商品で埋まっています。体を温めるためでしょうか、赤ワインを飲みながら店番をしている店主もいます。気候がよかったら何と楽な商売でしょうか。リルケはこう書いています。「僕は時々、セーヌ川の露店の前を散歩する。、、ああ、僕もあのような生活で満足できたら。この場所を譲り受けて、書棚を歩き回る猫や、前でうずくまる犬とならんで20年ほどすわってみることができたら、、」

 ヴォルテール河岸からアナトール・フランス河岸にくると、ついにオルセー美術館(Musee d'Orsay)が姿を現します。1900年にオレルアン鉄道の発着駅として建設され、1986年に女性建築家によってその駅舎の雰囲気を色濃く残したまま美術館に改築されました。私はパリの建築の中でこの美術館が一番美しいといつも思います。アナトール・フランス河岸に沿って、この細長い建物の横をゆっくり眺めていきましょう。建物の上の方に、左から順番にオレルアン鉄道の停車駅の名が彫られています。ボルドー、ナント、リモージュ、トゥーム、ロリアン、オレルアン、、、そして上に飾られた彫像は各地方の守護聖人の像でしょうか。駅舎の魅力は旅への憧れを喚び起こすところにあります。そして素晴らしく大きな二つの丸時計、向うに列車が停車しているのが見えるようなアーチ型の七つの窓! 
 正面の入口にくると、長蛇の列です。日曜日は5.5ユーロで入れるからですが、入場のときの厳しい手荷物検査と赤外線検査が列を滞らせる原因になっているのです。私たちは寒い中40分並んでやっと入場できました。すぐに向かったのは5階のカフェ・デ・オトゥールです。熱いコーヒーを飲んで体を温め、それからじっくり絵を見ようと思ったのです。カフェも混んでいて、少しの間並んで待ちましたが、ホールを取り仕切る洒落た黒人女性が案内してくれた私たちの席は何とセーヌ川に面したあの大時計の前の席でした。私たちは大時計の丸い縁にコートと鞄を置いて、カフェ・ノワゼットとカフェ・ロング(計4ユーロ)を飲みました。隣の席に座った日本人の若い姉妹はサラダなどを頼んで38ユーロも払っています。私たちはその裕福さにびっくりしました。

 ローマについてこんな話があります。「もし、ローマを見学するのに一日しか与えられなかったら、その人は見るべきものの50パーセントしか見ることができないだろう。もし。一週間与えられたら見るべきものの30パーセント、一ヶ月なら10パーセント、一年ならほとんど何も見ることはないであろう」と。つまり、明日見れるものは今日見ないし、いつでも見れると思えば永遠に見ない、ということなのです。パリについていえば、それと同じことが人間の年齢について言えるでしょう。20歳でパリに来ても決して必死に見ることはなく、30,40代では余裕をもってパリを見るが、50代では恐らくこれが最後と思い心して見つめることでしょう。
 私はオルセーの部屋から部屋へ時間をかけてじっくり見ていきました。セザンヌの「オーヴェール・シュールオワーズの首つりの家」やゴッホの「ボヘミアンのキャンプ」、そしてピサロ、ゴーギャン、ルノワールなど、私は自分が感じたものが強い印象になって心に残るまで目に焼き付けていきました。
 妻は私より常に一部屋二部屋先に進んでいて、時折ベンチで手持ち無沙汰に待っています。私はこの日だけは妻の気持ちを無視して思いどおりに時間をかけて絵を見ていきました。不満そうな顔の妻に私は言いました。「オルセーに来るのはこれが最後かも知れないし、ピサロやゴッホの絵を二度と見ることができないかも知れない。だから、これが最後だと思って思う存分時間をかけて見ているんだよ」しかし、妻はきょとんとした顔で私を見ています。妻はまだ若く、彼女にとってはパリに行くのは四国や仙台に行くぐらい容易なことに思えるのでしょう。それはむろん幸せなことではあるが、ある意味不幸であるといえなくもない、と私は思いました。しかし、と同時に私は妻の興味が中世からルネサンスの芸術にあって、19世紀後半の絵画を中心としたオルセーの所蔵作品に永続的価値を認められないのではないかとも気付きました。それはまたそれで仕方のないことではあります。

 オルセーを出てから、温かい飲み物と軽食を食べられるところを探して、私たちは日曜の閑散としたサン・ジェルマン大通りを下っていきました。すぐにサン・ジェルマン・デ・プレの教会が目に入ります。カフェ・ドゥ・マゴとカフェ・フロールが隣り合うこの一角は今や最もコアな観光地といえるでしょう。こういうところで適正な値段であたたかいサービスが受けられると考える方が間違っています。私は昔何回か訪れたカフェ・ボナパルトをのぞいてみましたが、ここも昔の倍くらいの料金表を掲げています。
 いつのまにか、パリに来て初めての雨が降り出しました。私たちはロマネスク様式のサン・ジェルマン・デ・プレ教会の横を通って、小さな折りたたみ傘で冷たい雨をしのぎながらオデオンを越えて歩きましたが、Maubert Mutualite駅近くの横町でLa Petite Perigordine という感じの良いカフェを見つけました。「ペリゴールの小娘」という名のこのカフェはおそらくペリゴール出身者の家族が経営しているのでしょう。店内は田舎のあたたかい雰囲気があって、窓際の席に着くとすぐに体と心が温まるのを感じました。ギャルソンはとても愛想がよく、この仕事を心から楽しんでいることがわかります。隣の席にすわった外国人らしき客が定食のメニューについて何やら質問していると、ギャルソンは外に立ててある大きなボードを中に持ち込んでチョークで書いてあるメニューを指さしながら説明しています。私たちはホット・チョコレートとコーヒーと自家製テリーヌのサンドイッチを注文しました。ゆっくり食べ終わった後、メニューに記されてあった店のホームページ・アドレスを私がノートに写していると、ギャルソンが心配そうな顔でこちらを見ています。「ミシュランか何かの記者だと思ったんじゃない」と後で妻が笑って言いました。

 居心地の良いカフェで長居しすぎて、私たちは慌てて今日の最後の訪問地、レ・アルにあるサン・トスタッシュ教会に向かいました。メトロのレ・アル駅のすぐ前に立つサン・トスタッシュ教会は壮大な教会です。ここで、毎日曜の17時半から8000本のパイプを使ったパイプオルガンの演奏を聴くことができるのです。着いたとき、すでに演奏は始まっていたので、私たちはそっと空いている席にすわりました。オルガンの音が巨大な天井と壁を振動させています。死者の霊を慰め、これから至りゆく天国の楽園の栄光について語るのにこれ以上の芸術は考えられません。最後の曲に入ると、オルガンの調子は強まり、押し寄せる荒波のような響きが全教会の隅々まで反響します。演奏は終り、盛大な拍手の中を演奏者が退場し、司祭が人々に散会を促します。
 私たちは十分満足して地下鉄に乗りました。妻は疲れたのか座席につくやいなや眠り始めました。私は教会で思い出したことをもう一度思い出していました。それは昔見たミッキー・ローク主演の映画『死にゆく者への祈り』です。IRAのテロリストであった主人公は、誤ってスクールバスを爆破してしまいます。償い切れない罪の負い目から彼はIRAを脱退してロンドンに逃れますが、スコットランド・ヤードは彼への指名手配を緩めていません。ある時、彼は刑事たちに追われて教会に逃げ込みます。教会の祭司の娘は彼の無実を信じ、彼をパイプオルガンの裏に隠します。しかし、刑事は彼を発見し、銃口が一斉に彼に向けられます。娘はとっさに彼をかばい、彼が実はパイプオルガンの修理に来た人間であると訴えます。刑事は冷笑するが、娘の熱心さに負けて、彼に、それではオルガンを弾いてみろと言います。絶望した顔の娘、あざ笑うような刑事、観念した顔の主人公はオルガンの前にすわります。しばしの沈黙の後、彼は二つ三つの鍵を押しますが、不揃いな音が震えるように出るだけです。再び銃口が彼に向けられると、突然、教会全体にバッハの荘厳なトッカータが響き渡ります。あっけにとられる刑事、喜びで顔を輝かす娘、、、。教会に逃げ込んだ凶悪犯がパイプオルガンの名手である確率がどのくらいのものであるかはわかりません。しかし、その確率も、熱沸するタンパク質から生命が合成され、それがついに教会堂とパイプオルガンの崇高な感動を生み出す偶然に比べたら問題ではありえないでしょう、、、。

 モット・ピケ・グルネルの駅前の店で、私たちは中年のおじさんが焼いているクレープ屋に寄りました。クレープが焼けるまで妻がおじさんと何やら冗談を言い合っています。私たちはチョコレート・クレープを一つずつ食べながらホテルまで歩きました。パリのクレープは茶色い色でガレットと区別がつきません。ホテルに着いて、朝買っておいた鶏やジャガイモをワインと一緒に食べました。妻は頭痛がしてきたのですぐに眠りに入りました。明日は一日雨、ストは継続の見込みというニュースを見ながら私もぐっすり眠りこんでしまいました。精神を使い切ってぐったりした日曜日にはワインが深く腹に沁みてくるようです。

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2007年12月 9日 (日)

パリ滞在記第三日サン・ドニ

 朝食は宿泊代に含まれているので、私たちは毎朝7時半頃1階(日本の2階)の食堂に降りて朝食をとります。8時になると他の客でいっぱいになり、窓際の地下鉄の見える席でゆっくり新聞が見れないからです。「ボンジュール、マダム」と挨拶すると、食堂係の黒人の女性は「ボンジュール、ムッシュ。ボンジュール、マダム」と大きな声で返事してきます。妻が彼女と話したところ、彼女は朝5時に家を出て歩いてきたとのこと。郊外に住む人は3時に出てくる人もあるそうです。車を持つホワイト・カラーはストにほとんど影響されず、最も被害を受けているのはRER(高速郊外鉄道)で通う労働者たちのようです。ロビーに置いてあった『フィガロ』紙によると、RATP(パリ交通公団)とSNCF(フランス国鉄)は月曜までのスト継続を宣言したとのこと。ストが終わりそうな雰囲気は全くありません。地下鉄が正常に走っていないと自在にパリを歩き回れず、また、国鉄が40パーセントしか動いていないので、日帰りが条件のシャルトルやアミアンへの遠出も心配です。

 今日は土曜なので、妻が行きたいと言っていたヴァンプの蚤の市(marche aux puce)に行くことにしました。幸いメトロ13番線は五本に二本(2 sur 5)は走っているようです。私たちは昨日と同じくモンパルナスまで歩いて、ストのため無料となっている地下鉄に乗りました。四つ目のポルト・ド・ヴァンプで降りて地上に上がると、人通りの少ない交差点に出ました。周りをきょろきょろしていると、汚れた身なりの老人が近づいてきて、信号を向うに渡って、右に真っ直ぐ行けと勝手に指示します。蚤の市に来た日本人だとわかっているようです。言われた通りに行くとすぐに蚤の市の入り口がありました。あまりにガラクタばかりなので、すぐに帰ろうとしましたが、妻は全部見たいような顔をしています。品物は、絵画、陶器、バッジ、本、写真、道具、家具などで、みな汚れていて触る気も起こりません。整理していない机の抽き出しをぶちまけたようなものが多く、古い家族の写真とか色褪せた勲章などもあります。妻は仮面の形の金のラペル・ピンが気に入りましたが、20ユーロの値段は18ユーロまでしか値引きされず、どうも日本人にはあまり値を下げないようです。棺桶の形のキー・ホルダー(30ユーロ)は一銭も値下げされず、店の老人にくだくだとその「歴史的由来」を聞かされただけでした。

 結局、何も買わず、私たちは再びメトロ13番線に乗り込みました。目的は同じメトロ13番線の反対側の北の外れにあるサン・ドニ大聖堂です。実は今回のパリ旅行はほとんど妻の意向に合わせて観光ポイントが決められましたが、この大聖堂訪問は唯一私が主張したものだったのです。
 終点のひとつ手前、バジリク・ド・サン・ドニで降りて地上に上がりました。ここはもうパリの外れで、フランスがワールド・カップで初優勝した時のサッカー場、スタッド・ド・フランスがすぐ近くにあります。黒人の子供たちが遊ぶ商店街の後ろに大きながらんとした広場があって、その正面に壮大なサン・ドニ大聖堂がそびえています。ここは、三世紀に、パリ最初の司教サン・ドニがモンマルトルの丘で殉教したとき、切断された自分の首を抱いて延々と歩き続け、ついにこの地で倒れたのを記念して建てられたのです。五世紀から建築が始まり、現在の典型的ゴシック様式の大聖堂は12,3世紀の大改築によって作り上げられました。内部はその大きさを生かしたダイナミックな採光で、座っていると自然と天上に吸い上げられる感じを抱いてきます。
 さて、この大聖堂の奥に入っていくためには、いったん小さな扉から側庭に出て、ベニヤ板でできた小屋のようなところで入場券を買わねばなりません。太った中年の婦人が暇そうに小さな窓から顔をのぞかせています。妻は、薄い紙に書いてある「入場料一人6.8ユーロ」という金額に驚き、さらに私が財布から20ユーロ札を取り出したのを見てさらに驚きました。「見なくてもいいんじゃない」と妻が言うので、私は「これを見なきゃ、来た意味ないよ」と言って入場料を払い、別の扉から再び大聖堂の奥に入りました。ここには6世紀以来のフランス王家の王と王妃と王太子の70近い横臥像と墓が集まっています。ここに葬られることは王たちにとってその王朝の正統性の証明だったのです。
 メロヴィング朝クロヴィウスから、カロリング朝、カペー朝、そしてブルボン王朝にいたるあまりに多くの王と王妃たちの横臥像を見ていくとこの葬送芸術に対しての満腹感が起こります。彼らは威厳をもって横たわっており、衣服は地上に垂れ下がらず、あたかも直立しているかのように足下に向かって流れています。それは、エミール・マールが書いているように「最後の審判を告げるトランペットが鳴り渡り、すべての人々の眼が永遠の光に向かって開かれる瞬間が来たときの死者たちの姿」を表しているのです。それにしても、病気で死んだであろう幼い王太子たちの小さな横臥像が並んでいる一角には哀しみが満ちています。
 大聖堂の奥の向かって右にはアンリ四世とカトリーヌ・ド・メディシスの豪華な像があり、左奥にはルイ16世とマリー・アントワネットの立派な祈祷像があります。それら多くの彫像を見た後で、足は自然と暗く細い階段に続く地下の墓所に誘われていきます。ここにはブルボン王朝の王族たちの遺骸が眠っているのです。マリー・アントワネットとルイ16世は並んで、そしてここに葬られた最後の王であるルイ18世は手前に横たわっています。(ルイ17世は心臓のみが丸いガラスの容器に入れられて展示されています)

 大聖堂を後にすると急にお腹が空いてきました。しかし、妻は頭痛がするのでホテルに帰りたいと言い出しました。まだ1時過ぎでしたが、すぐにメトロ13番線に乗って、ホテルにもっとも近い駅サン・フランソワ・グザヴィエで降りました。地上に出ると、すぐ前に美しいサン・フランソワ・グザヴィエ教会が建っています。しかし、その教会に寄る余裕はなく、私たちは陸軍士官学校とユネスコ本部の間にある道を足早にホテルに向かいました。その通りの突き当たりがちょうどホテルで、私はフロントに飛び込むと、「今すぐ部屋に戻っていいか? なぜなら妻が頭が痛いから」と話しました。フロントの女性は、私がフランス語を話したのでびっくりしたようでしたが、すぐに抽き出しから頭痛薬を出し、心配そうに妻の顔色をうかがいました。「薬はいいです。寝れば治ります。いつものように。すぐよくなります。たいしたことではありません。ありがとう、マダム」と矢継ぎ早に言って私は妻をエレベーターに乗せました。

 妻の偏頭痛は、静かな部屋で半日ほど眠るとだいたい快方に向かいます。夕方すぎにやや気分が良くなってきたので、私は妻をホテルに残して近所に買い物にでかけました。
 パリ南西部にある15区は中産階級が多いことで知られる住宅地で、日本人居住者の最も多い地区でもあります。モット・ピケ・グルネルから南へ向かって伸びる商店街を歩くと、品の良く、明るい店が多いのに気付きます。GAPの大人館と子供館 がその商店街の中心にあり、洋服屋、靴屋、眼鏡屋、総菜屋、パン屋、肉屋など、質の高そうな店が並びますが、洒落た子供服の店が多いことから、堅実で未来を持つ中産階級が多いことが感じられます。ここには、いわゆる「パリ」はどこにもありません。有色人種が目立って少なく、大通り以外にカフェやレストランもありません。驚くことに書店も古書店も一軒もありません。むろん映画館などありません。精神を現実から遊離させる無駄なものはできるだけ排除するような仕組みがあるかのようです。モンマルトルやカルチェ・ラタンの対極にあるかのような町、確かに安全な町ではあるのですが、、。

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2007年12月 6日 (木)

パリ滞在記第二日モンパルナス

 もともと、このパリ旅行は妻の熱意によるものです。私自身は体力も気力もなく、最近は休みの日もぐずぐずと本を読んで過ごすことが多いので、面倒なことがいろいろ必要な海外旅行は敬遠していました。それが突然妻の願いに応えるつもりになったのは、今年になって体調が良く、体が動けるうちに行っておかなければ永遠にパリを再訪できないのではないか、と思うようになったのです。妻は早速半年後のエール・フランスのパリ直行便のチケットを購入してしまいました。ホテルは、色々迷ったが、7区と15区の境を通るグルネル通りにある、パリらしいとはいえないが、最も安全で便利な場所に位置するホテルに決め予約をすませました。何よりも無事に日本に帰ってこれなくてはなりません。あの慎重な埴谷雄高でさえ、58歳で初めて外遊したとき、パリで辻邦生に別れて一人になった後で、怪しげなバーに誘い込まれ、身ぐるみはがされて日本大使館に駆け込んでいます。用心に越したことはありません。むろん、海外旅行保険にも入りました。

 二日目の朝、また予期せぬトラブルに襲われました。何と、妻がポケットに入れていたニコンのデジカメが壊れていたのです。電源をONにすると望遠ズームが目いっぱい拡大してしまいます。出発前、新しいデジカメを買いたいと妻が言っていたのを軽く聞き流していた自分が責められます。とりあえず、まずモンパルナスのフナック(fnac)へ行って安いデジカメを探さねばなりません。出かける前にテレビのニュースを見ると、地下鉄は平均して5本に1本しか走っていません。産業都市デファンスへ行く1番と自動運転の14番が通常運転で、あとは5本に1本とか10本に1本、特にホテルのそばのモット・ピケ・グルネルを通る6,8,10番の三路線は quasi nul(ほとんどゼロ)です。

 仕方なく歩いてモンパルナスまで行くことになりました。直線距離は1キロ余りですが、途中でネッケル小児総合病院(NECKER ENFANTS MALADES)を横切らねばなりません。外へ出ると11月半ばなのに肌を切る寒さ、気温は1度です。グルネル通りを高架で走る地下鉄6号線は全く運転していないようでその姿も見えません。ホテルの近くのカンブロン広場は車、人、自転車でごった返しています。すべてがすごいスピードで交差しているようです。カンブロン広場を横切るためには三つの信号を渡らねばなりませんが、それがとても危ない。青と赤の信号は目安に過ぎず、六本の道路が交差する広場では青でも車や二輪が飛び込んできます。歩行者も赤だろうとおかまいなくどんどん渡り、信号を守っている人はほとんどいません。だから、次のような小話が作られるのも当然でしょう。「フランスにやってきた日本人が、車の一台も走っていないのに信号が変わるのを待っていた。やがて青になったので渡り始めた時、信号を無視して走ってきた車にひかれて死んでしまった」

 妻は赤信号でもどんどん渡る習慣をすぐ身につけましたが、私は最後まで進むか止まるか迷うのが常でした。高架線の下を歩いていくと、スピードで走る車にボードを掲げて叫んでいる女性ヒッチハイカーがいます。ストで交通手段をすべて遮断されたので必死なのでしょう。幸いなことに観光客は気楽です。私たちはパリの街並をポケットに手を突っ込んで歩いていきました。
 ほどなく、400メートルも続くネッケル小児総合病院の長い塀にぶつかりました。ここは200年前にできた古い小児病院ですが、塀の中には近代的な建物のパリ最大の大学病院(FACULTE DE MEDECIEN PARIS V)も併設されています。私たちは朝7時から通り抜けられる通用門から病院の構内を横切っていきました。1816年に子供の遊びからヒントを得た医師が聴診器を発明したのはこの病院です。
 出口を出ると、そこはメトロのファルギェール駅です。正面に評判の悪いモンパルナス・タワーがそびえていますが、私たちはまだ開店していないであろうフナックへ行く前に、すぐ近くのラスパイユ通りの市場へ行ってみることにしました。そこはモンパルナス駅前から伸びるレンヌ通りがラスパイユ通りにぶつかったところの通りの真ん中の並木道に沿って続いています。
 パリの市場を訪れた人は誰しもそのディスプレーの見事さに感動を覚えるでしょう。果物はピカピカに磨かれて、レゴのように完璧に積み上げられています。魚たちは氷を敷いた斜めの台の上にびっしりと張り付けられています。羽をむしられた鶏がすきまなく吊るされ、その横では大きなレンジの中で食べごろのチキンが回転しています。パン屋では立ち並んだバゲットと積み上がった田舎パンのために店員の顔も見えません。むろん、タイヤのように大きなチーズを飾ったチーズ屋、手入れよくワインを並べたワイン店もあります。
 まだお腹が空いていなかったので、私たちはクレマンチーヌ(みかん)を二つだけ(0.58ユーロ)買って、食べながら、ヴォジラール通りを歩きました。クレマンチーヌは日本のみかんより皮が薄く、やや小ぶりですが、味は日本のみかんを思わせるおいしさです。

 すぐにリュクサンブール公園の鉄の網でできた小さな入り口にたどりつきました。樹々が立ち並び、枯葉が厚いカーペットのようにびっしり地面を覆っています。おそらく夏は小鳥たちが緑の樹々のすきまから顔をのぞかせるのでしょう(プルーストの『愉しみと日々』の一章を思い出します)。晩秋の今はあまりに静かで、ここには考えながら散策する人を俗界に引き込む自動販売機や汚れたゴミ箱はありません。風景の単調さはたくさんの見事な彫像によって償われています。奥に歩いていくと、リュクサンンブール宮殿とその前に有名な噴水が見えます。天気が良いので、この寒さにもかかわらず、多くの観光客が写真を撮ったり、椅子にすわって談笑したりしています。
 モンパルナスに引き返すため、モンパルナス大通りに出ると、すぐにヴァヴァン(VAVIN)の交差点に出ました。「右岸からタクシーをひろう時、モンパルナスのカフェの名を言うと、いつも決まって《ロトンド》の前で降ろされる」と『日はまた昇る』の主人公がぼやくカフェ・ロトンドがあります。体が冷えきったので、何か温かいものを飲もうと思いましたが、有名店はなにか入り難いものがあります。その隣のカフェ・ル・セレクトも有名店でセザンヌ、ピカソ、ヘンリー・ミラー、フィッツジェラルドらが通った店ですが、たたずまいが普通で入り安そうです。パリのカフェは必ず入り口のところに正確な値段表が張ってあるので、私と妻は近づいてじっくりそれを読みました。掃除のおじさんがにこにこ笑いながら扉を開けてくれ、妻と二言三言話しています。そのまま私たちは入店し、新聞を読んでいる地元客に混じってカウンターに陣取りました。ヘミングウェイも常連だったこのバーの椅子に腰かけて私はエスプレッソを注文しました。これがなんと1.3ユーロ。船橋のドトールより安いのです。妻は3.7ユーロのホット・チョコレートを飲みました。これは冬のカフェの定番でドロッとしたチョコレートを熱いミルクで溶かすのです。店内を見渡すと、例によってアメリカ人観光客の家族が食事していました。猫が一匹動き回っているのがこの店の庶民的な感じをよく表しています。

 さて、いよいよフナックへ、と歩き出しましたが、今度はお腹が空いてきました。駅前の交差点で鶏のサンドイッチ(フランスパンに鶏肉、トマト、チーズをはさんだもの)3.6ユーロを買って、歩きながら半分ずつ食べました。パンが固くてなかなか食べ切らないので、フナックの横の路地で何とか食べ切ると、やっと店内に。ところが、デジタル・カメラの品揃えは実に貧弱で、最も安いのは99ユーロの韓国の製品です。日本製品は日本での二倍近い値段、やはりニコンが欲しい妻はすぐに購入を諦めました。アマゾンで購入して、ホテルに送ってもらうこともできるが、問題の付属品(バッテリーやメモリ・カード)が大量に持参したものと合うかどうかは実際手にとってみなければわかりません。二人の携帯電話のカメラだけで何とかしのごうと結論を出しました。その結果、あまりカメラに頼らず、その都度ノートを細かくとったりすることになり、観察という点では好都合だったと思えます。
 帰りはモット・ピケ・グルネルのモノプリというスーパーでワインや惣菜やケーキを買ってホテルで食べました。明日もストが回避されるニュースは全くありません。

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2007年12月 1日 (土)

パリ滞在記第一日到着

(憂愁書架特別編としてパリ滞在記を12回にわたって連載します。当時1ユーロ169円でした)
 つき抜けるような青空、11月15日木曜日14:00ちょうどにエール・フランス航空のエアバスA330はシャルル・ドゴール空港(CDG)に降り立ちました。日本人ツアー客の列の後について空港の通路を進んでいったのですが、夫婦で交代にトイレに入っているうちに辺りに誰もいなくなってしまいました。進路標示を見たり、人に聞いたりして、やっと出国カウンターを通過して、ロワッシー・バスの乗り場に着いたのはもう三時、外はものすごい寒さです。ところが、乗り場は何やら騒然として、ストで遅れているのではないかという情報も、どうやらRER(高速郊外鉄道)B線パリ北駅行は全く走ってないようで、エール・フランスのリムジンバスは長蛇の列になっています。
 やがて、ロワッシー・バスがすでに別のターミナルの人たちを乗せてやってきました。二人分17ユーロを用意して乗り込むと、何とストなので gratuit(無料)とのことです。混んでいる車内で、赤ん坊を抱いた若夫婦が私たちに向いの席を空けてくれました。ところが、発車して気がつくとその席は後ろ向きに座る席で、私はその姿勢でバスに乗ると必ず酔ってしまうのです。おまけに前日は遅くまで仕事をし、今朝は4時起き、12時間半の長旅で疲れ切っていたので、案の定すぐに気分が悪くなってきました。すぐ前には金髪の幼児が母親に抱かれて眠っています。私は体を捻って顔だけ前方向を向けて、唸りながら耐えていました。私が唸り声を出す度に、背中合わせの外国人の男性がびくっと肩を震わせて不安そうに様子を窺っています。
 もうひとつのターミナルで人がさらに乗ってきて車内はすし詰め状態になりました。バスが幹線道路に入ってスピードが出ている間、やや気分がよくなりましたが、いよいよパリの周辺地区に入ると、また苦しくなりました。バスの窓からは無粋で汚れたビル、落書きでまみれた壁、ゴミで散らかった広場が見えます。早足で歩く人のほとんどは黒人かアラブ系に見えるのですが、パリの中心地区の整った建物とは対照的なこの無機質な街の佇まいもまたもうひとつのパリなのでしょう。それにしても、歩いている人の数は尋常ではありません。メトロもバスも動いてないのかも知れず、ストは13,14日で終るという情報がかなり楽観的だったことに気付きました。
 バスはメトロのクリニャンクールの駅の横を過ぎていきます。おびただしい人の数。赤信号でバスが止まると、人々がバスに群がって運転席の扉を叩いています。バスが走っているときに横で追いかけてくる人もいます。もうこれ以上人を乗せられないのでバスは人混みの中をのろのろ進みます。やがてモンマルトル墓地の上を通り、坂道を大きな音をたてながら降りているうちに、私はまた気分が悪くなりました。冷や汗が吹き出してきて、妻が飛行機に備えてあった非常用の袋を取り出して渡してくれました。終点のオペラ・ガルニエはすぐそこなのに、私は顔を窓に向けながら袋の中にもどしてしまいました。顔を上げると、目の前に聖トリニテ教会のすらりとした正面が見えます。初めてパリを訪れた時、一人で一日中パリの街を歩き回って疲れ切って広場のベンチに腰を下ろした時、突然頭上で鐘がなりました。見上げると聖トリニテ教会の大きな三つの彫像が下を見下ろしています。サン・トリニテ広場の雑踏はその六時の鐘の鳴り出した瞬間に凍り付いたように思えました。それはパリについて私が抱いた最も強い印象の一つでした。しかし、バスの中で苦しんでいた時はそんな思い出どころではありません。後になって妻に聞くと、その時ちょうど向いの席の夫婦のところに携帯電話がかかってきて、どうも肉親の死を知らせているらしい。夫がそのことを妻に伝えると、赤ん坊を抱えた妻は周囲を気にすることなく大声で泣き出したというのです。どうやらこの夫婦は病気の肉親に会うためにパリにやってきたのでしょう。
 やっとオペラ・ガルニエの横に着き、私も妻もふらふらの状態でバスを降りました。妻は長旅の後は必ず体調を崩すのです。四時半過ぎだが、辺りはもう夕闇というより夜に近い暗さになっていて、普段でも人の多いオペラ座周辺は、ストの影響かさらに雑踏でごった返しています。とにかくホテルへ直行ということで、目の前のメトロの階段を降りましたが、電気もついていず、地下鉄が走っている様子はありません。再び外に出ると、バスは一台も見えず、道路は車であふれています。タクシー乗り場を探しましたが、見つからず、通りを走るタクシーに空車はありません。仕方なくホテルまで歩くことにしました。予約していたホテルは、セーヌ河を渡り、アンヴァリッド(廃兵院)を越え、さらに陸軍士官学校の裏手のグルネル通りにあります。直線距離で約3.5キロ、歩けない距離ではありません。とりあえずその方向に歩いていくと、すぐに格調高い建物に囲まれた場所に出ました。これこそパリで最も美しい広場 Place Vendome(ヴァンドーム広場)です。周囲の喧噪をよそに夜の帳の下でここだけは静かで、この広場に面したアパートに住んでいたショパンの時代もやはりこのように静かであったろうと思わせます。

 ヴァンドーム広場からコンコルド広場に向かって歩き、コンコルド橋を渡ります。ここは普通でも交通量の多いところですが、さらに今日はストの影響で信号のない横断歩道を渡るのに冷や冷やの思いをしました。ところが、橋を渡ってみると、今まで見えていたアンヴァリッドの金色に輝くドームが見えなくなってしまいました。仕方なく、それらしき方角に歩いていくと、全く自分たちがどこにいるのか分からなくなったことに気付きました。鞄の中にはすべての通りの名が載っているミシュランの地図があるのですが、暗い中で地図を調べる気力もありません。通りの向うに灯りがあって、透明なプラスチックの箱の中に警官が不動の姿勢で立っています。道を聞こうと妻が近寄ると、すぐに戻ってきて「人形だったよ」と言いました。そんな馬鹿な、と思って近寄ると、確かに人形のような端正な顔立ちです。「ムッシュ、、、」と私が話しかけると、急に表情が緩んで、透明な箱から出てきました。「アンヴァリッドはどこですか、シルヴ・プレ?」と聞きましたが通じない様子。フランス人ではないのか、と思いながらもう一度、アンヴァリッドと発音すると、「レ・ザンバリット les invalides?」と聞き返してきました。「ウィ、もちろん」と答えると、非常に懇切に道順を教えてくれました。妻は冷笑の眼差しでこちらを見ています。
 しかし、歩き出すと疲れはもうピークを迎えています。暗く静かな街路にカフェの灯が見えて、私たちは思わずその店 La Source に入りました。そこでトイレを借り、エスプレッソを飲んで生き返ったようになりました。ギャルソンはたいへん親切で(カフェのギャルソンはほとんどすべて親切です)レシートの裏にホテルまでの道順を詳しく書いてくれました。その店で払った4.6ユーロが私たちが使った初めてのユーロでした。
 ナポレオンも学んだ陸軍士官学校の横を通り過ぎると、右手にシャン・ド・マルス(練兵場跡)が開けて、そこにエッフェル塔が美しいイルミネーションに輝いています。モット・ピケ・グルネルの交差点を左に曲がるとすぐに目当てのホテルが見えました。フロントには感じの良い女性がいて、妻が日本のおみやげを渡すと、二人であれこれ話をしています。後で妻に聞くと、ストは火曜日(20日)まで続くとのこと、これは大変がっかりする話です。部屋は五階(日本の六階)で狭いが清潔でバスルームも広くてきれいです。風呂に入り、ポットで湯を沸かして紅茶を飲むと、ベッドに倒れてしまいました。二度と来ることはできないと思っていたパリについに着いたのです。

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