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2007年11月 8日 (木)

ミルチャ・エリアーデ『オカルティズム・魔術・文化流行』

 「かなり昔の話だが、ブカレスト大学にいる私の恩師のひとりが、著名な歴史家、テオドール・モムゼンの連続講義に出席したことがある」とエリアーデは書き始めます。1890年代の当時、モムゼンは高齢でしたが、まだ矍鑠(かくしゃく)としていて驚くほど完璧で正確な記憶を保っていました。最初の講義で、モムゼンはソクラテス時代のアテネについて話しましたが、黒板に向かうとノートも見ないで紀元前五世紀そのままの市街図を板書しました。次に神殿や公共建築物の位置、有名な泉や森の場所を示しながら、ソクラテスとパイドロスがイリソス川に沿って歩いた道順を地図上に辿り、彼らが立ち止まり、記念すべき対話が行われた「高いプラタナスの樹」の繁る地点を指し示したのです。
 モムゼンの博識と記憶力と文学的洞察の披瀝にすっかり魅了されたエリアーデの恩師は、講義が終った後も、直ちに席を離れられずにいました。するとひとりの年配の従僕が入って来て、優しくモムゼンの腕をとると、階段教室の外に導いていくのが見えました。その時、まだそこらに居残っていた学生のひとりが、この高名な歴史家は自分一人で家へ帰る道が分からないのだ、と説明しました。紀元前五世紀のアテネの家並みを詳細に心得ている人間が、彼自身の住むヴィルヘルム時代のベルリンでは全くお手上げだった、というのです。
 「モムゼンは〈自らの世界に生きること〉の実存的意味を見事に説明している」とエリアーデは書いています。「彼にとって実在の世界、関係をもち意味をもった唯一の世界は古代ギリシア・ローマの世界であった。それは彼の世界—彼が活動し、思考し、生と創造の喜びを享受できる場所であった。彼がいつも帰宅するのに従僕を必要としたか、本当のところはわからない。おそらくそんなことはないだろう。大多数の創造的な学者がそうであるように、彼も二つの世界に生きていたのだ。彼がその理解に一生を捧げた〈聖化された〉世界と、ハイデッガー流にいえば、彼がそこへと〈投企〉された日常の〈俗なる〉世界である。しかし、晩年のモムゼンが現代ベルリンという俗にして無意味な、究極的に混沌とした空間から離脱していると感じていたことは明らかである」

 宗教史家で作家でもあったミルチャ・エリアーデはルーマニアに生まれ、主にフランスで活動しました。同郷であり、やはりフランスで著作を発表したシオランとイヨネスコとは晩年まで交流を保っていました。エリアーデの特徴はその即物的でシンプルな記述にあります。観念的な議論を排除し、民俗学的、文献学的事実を畳み掛けながら時代と世界を超えて〈聖なるもの〉の現存を訴えかけます。『オカルティズム・魔術・文化流行』(未来社・楠正弘/池上良正訳)は、彼の小論集ですが、その思想のエッセンスともいえます。特にその第三章と四章、オカルティズムと魔術を論じた章はたいへん興味深いので簡単に紹介しましょう。

 オカルト(occulte)という言葉は16世紀に初出し、「人間精神では理解できず、悟性や通常の知識の範囲を超えたもの」を意味したようです。その後、「隠された神秘なる自然の働きに関する知識—呪術・錬金術・占星術・神智学—の利用と運用」をも示すようになりました。オカルティズムという用語は1810年生まれのフランスの神学生、アルフォンス=ルイ・コンスタン(エリファス・レヴィ)によって作り出されました。エリファス・レヴィは、ヤーコブ・ベーメ、スヴェーデンボリ、ルイ=クロード・ド・サン=マルタンらの著作を渉猟し、『高等魔術の教義と祭式』(1856)という「いかがわしいがらくたの寄せ集め」のような著作を出版し、今日では理解しがたいほどの成功を収めました。エリファス・レヴィは1875年に死亡しましたが、その後継者の中で最も知られているのは「パピュス」ことジェラール・アンコースです。彼は謎めいた人物、マルチネス・デ・パスクヮリから秘儀伝授を受けたと主張し、自分こそサン・マルタン、すなわち「知られざる哲学者」の真の弟子であると偽りました。あらゆるオカルトの伝統に通暁したと自称するパピュスは「マルチニスト協会」を設立し、サン・マルタンの秘密の教義を明かそうとしたのですが、そのメンバーには、モーリス・バレス、ポール・アダン、ジョゼフ・ペラダンなどの作家が名を連ねていたそうです。このオカルトへの世紀末的関心はまずフランスの作家たちに広まったので、ユイスマンスの『彼方』(1891)に着想を与えたのは、黒呪術のカトリック神父プーランとスタニスラス・ド・ガイタの間に繰り広げられた有名な呪術合戦であった、ということです。ほぼ同じ頃、英国でもW.B.イェーツ、S.L.マシューズ、アレスター・クロウリーらの魔術協会「黄金の夜明けの会」が活動を始めていました。
 実はオカルトはすでに18世紀から西欧の文学に頻出しています。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイステルの遍歴時代』、シラーの『視霊者』、ジャン・パウル『見えざる会館』、ノヴァーリス『ザイスの弟子』などですが、それらの共通分母を強いて探ってみると、それは「個人的ないし集団的更新(renovatio)—人間の起源的尊厳や力の神秘的回復—を反映していた」とエリアーデは書いています。ところが、エリファス・レヴィやパピュスやスタニスラス・ド・ガイタなどによって大衆化されたオカルトから影響を受けた19世紀の文学者たち(ボードレール、ヴェルレーヌ、ロートレアモン、ランボーなど)には、もう一つの方向性が見てとれます。それはオカルトをブルジョワ体勢とそのイデオロギーに対抗する強力な武器としたことです。彼らは現代の公的な倫理、社会慣習、美学を唾棄し、ユダヤ・キリスト教的価値もギリシア・ローマおよびルネサンスの理想も悉く拒否します。これらの作家たちはオカルトの伝統の中に前ユダヤ・キリスト教的、前古典的要素を探し求めました。ステファン・マラルメは、現代の詩人はホメーロスを超えて進むべきである、なぜなら西洋詩の頽廃はホメーロスを以て始まったのだから、と主張しました。そこで訪問記者が、「だが、ホメーロス以前にどんな詩があったか」と尋ねたところ、マラルメは「『ヴェーダ』だよ」と答えました。
 20世紀の前衛詩人たち、アンドレ・ブルトンとその一派はさらに歩を進めて、アジア・アフリカ・オセアニアの芸術や、共産主義、フロイトによる無意識の研究にまでその詩的着想を広げました。彼らにとってオカルトと関わり合うことは、全西欧的価値の否定のための最も有効な批判と拒絶のひとつを表していたのです。

 ところで、19世紀まではオカルトは、ペラダンやパピュスらのいかがわしさの故に、思想史家の興味を引かなかったのですが、20世紀後半からは文学者たちに変わって、思想史家たちがオカルトの本源に迫ってきました。その底流にはナグ・ハマディ文書や死海文書の発見があります。まず、ゲルショム・ショーレムによるカバラ、およびユダヤ教グノーシスに関する研究。それまでまともな研究者からは見向きもされなかったユダヤの捨て去られた教典はショーレムの見事な博識と洞察力によって、その深遠な意味を現してきたのです。次に、アンリ・コルバンとその弟子たちによる秘教的イスラームについての研究。西欧の哲学者がアヴェロエスやアヴィセンナしか認めて来なかった場所に、コルバンらはイブン・アラビーやスフラワルディーのきらめく哲学を置いたのです。さらに、ジョゼフ・ニーダムの中国の錬金術の研究があります。錬金術の宇宙論は、その実存的ともいえる倫理的前提や救世的含意を理解しなければその全体的把握は不可能であることが示されたのです。エリアーデ自身の寄与も記しておかねばなりません。インドのタントラ的ヨーガやシベリアや中央アジアのシャーマニズムといった先行文献のほとんどなかった分野の研究は特筆すべきでしょう。
 歴史の見方も大きく変わってきました。フランシス・A・イェーツはジョルダーノ・ブルーノについて書いた本の中で、ブルーノがコペルニクスの太陽中心説に賛同した理由はその科学的哲学的重要性のためではなく、太陽崇拝は深い宗教的呪術的意味を持っていると信じていたからである、と書いています。また、マーガレット・マレーは中世の魔女崇拝は、その当時も存在していた前キリスト教的な豊穣祭祀であった、と主張し、カルロ・ギーンズブルグは、異端審問所の弾圧によって、庶民文化として残っていた豊穣祭祀集団が徐々に変容され、ついに魔術の伝統的観念と酷似するに至る過程を解明していきました。

 しかし、オカルティズムは現代に至って、大衆文化の進展に伴い驚異的「発展」を遂げています。怪しげなカルト宗教の跳梁、心霊主義の流行、「ライプニッツがすでに17世紀に否定している占星術」(アドルノ)が大手を奮って新聞や雑誌に掲載されているのです。オカルトは今では蒙昧主義の旗の元に集う最も強力な戦士の一人となっているのです。このように俗なるものに変質していくオカルトには何か根本的な欠陥があるに相違ありません。実は18世紀以来人々の心を捉えていたオカルティズムには看過できない潜在観念があったのです。その一つは楽観主義で、宇宙の調和を信じ、自然の聖性を再発見しようとする衝動には、様々な苦難の後にも人類は更新しうる、真理を発見しうるという素朴な楽観が潜んでいます。さらに、もう一つはゆるぎない人間中心主義です。すべてにおいて人間に特権的地位を与える思考は、真理をいくらでも「人間的相のもとに」ねじ曲げる可能性を孕んでいます。

 「オカルト」についての根本的批判は、外部からでなく、その内部から起こりました。エリアーデが最後に言及するのは現代の秘教の代表者であり、その批判者、ルネ・ゲノンです。彼の伝統主義はエリアーデの思想にも深く影響を与えています。ルネ・ゲノン(1886~1951)はカトリックの家に生まれ、青年時代からパリの多くのオカルト団体に加入した後、それらを捨てて、東洋の伝統に従おうと決心しました。後にイスラム教徒になり、エジプトに渡って「偉大なる導者」としてその地で亡くなりました。彼は豊富な知識と鮮やかな手際でブラバツキー夫人の「神智学協会」やパピュスはもとより多くの降霊術者や似非薔薇十字会の支部に至るまで、いわゆるオカルトや秘教の団体を悉く批判してきました。彼は何らかの秘教的伝統が今も生きているのは東洋のみであり、西欧人はすでに秘教を理解する能力を失っている、と断言します。ゲノンは、また、オカルト実技に強く反対し、その危険性を訴えました。また、彼は一般的楽観論、個人的および宇宙的更新への希望をはっきり拒否します。彼は西欧世界の癒しがたい頽廃を宣告し、その終焉を告げました。インド的な伝統用語を用いれば、現在は宇宙的サイクルの最終段階、カリ・ユガのさらに末期に属します。この顛落の過程を変更することはできず、遅らせることさえ不可能です。新たな周期は、現在の周期が行き着くところまで行き着いた後でなければ始まることはないであろうと、彼は語ります。さらに、ゲノンは人間存在の特権的地位を否定します。「人間は真なる存在が一時的、ないし偶発的に顕現したものに過ぎない」と彼は書いています。

 「ルネサンスを讃え、現代文明のプログラムをなによりもよく要約するひとつの言葉がある。それは『人間主義(ユマニスム)』である。実際、これはすべてを純粋に人間的尺度に還元し、高位の次元のいかなる原理をも捨象することを意味している。、、、人々がその手本を真似ていると主張するギリシア人は、たとえその知的頽廃がもっともひどかった時期においても、この方向にこれほど極端に進むことは決してなかった。少なくとも、現在生じているように実用的関心が彼等において第一等の地位をしめることはなかった。、、、人間をそれ自身が目的だと思いこみ、すべてを人間の尺度に還元しようとして、ついに、人々は一段一段と最下級のレベルに降りていき、自分の本性の物質的側面から生じる欲求の満足だけを追求するようになったのだ。しかも、この追求はきわめて欺瞞に満ちたものである。なぜなら、この追求は、それによって満足させられない新たな人工的欲求をつねに創り出していくからである」(『世界の終末』平河出版社・田中義廣訳)

 「ゲノンは存命中はむしろ人気のうすい著作家であった」とエリアーデは書いています。ごく少数の熱烈な崇拝者のみが彼の思想を信奉していました。死んで後10年ほど経って、ゲノンの悲観的見解は徐々に現代世界に広がっていくことになりました。それは人々の根源的衝動、「至源」の意味と至福とを回復しようとする衝動であり、それ故に、世界における新たな創造的存在様式を再発見したいという希望である、とエリアーデは述べています。

 さて、ここで冒頭のエピソード、「帰る道」を覚えることのできなかったモムゼンの話に戻りましょう。個人的な体験は、また部族、民俗、共同社会の共通の体験をも象徴します。あるオーストラリア原住民の説話では、人間は、誕生以前には純粋に霊的存在であり、生まれてまもないころ、それは俗的、非霊的存在となるのですが、個人が成長し死に近づくにつれ、多くの儀礼を経て徐々に聖なるものとなり、そして死におよんで完全に霊的で聖なるものに戻っていく、のだそうです。してみると、人間における聖なるものとは、忘れられた彼自身の心の故郷であるとも見なせるでしょう。強い外的圧迫、精神的抑圧と絶望がきわまった時に、突然聖なるものが流出して、崩壊寸前の彼の実存を支えるのです。

 

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コメント

こんにちわ トムです。
モムゼンの話しも興味深かったですが、引用されているルネ・ゲノンの言葉が非常に気になり古本屋で「世界の終末」を買いました。巻末にあるアンドレ・ジイドの嘆きは私のものです。恐ろしい本を知ってしまったのではないかと考え込んでいます。
ユマシスムの思想家、支持者は人間の考えた思想の中で最もましなものではないかと思っていただけにまさにゲノンは短剣のように私に突き刺さりました。バーリンのメストルに関する論文以上の衝撃を受けています。これからの人生の中で何らかの解答、もしくは妥協点を見つけていきたいと思います。

投稿: トム | 2007年11月25日 (日) 16時05分

トムさん、こんにちは。旅から帰ったばかりで返事が遅れてしまいました。
ゲノンはまた「個性」の偏重も指摘していますね。作品や思想に個人名が付されることがすでに堕落のはじまりである、と。ウパニシャッドの語源は「師の傍らにある」という意味らしいのですが、そこでは個人の意見など問題にされません。人間主義と個性の重視を近代の病根と見るなら、ルネサンスはゲノンのいうように「何かの始まりなどではなく、むしろすべてのものの終わり」を意味していたのかも知れません。
いつもコメントありがとうございます。それでは。

投稿: saiki | 2007年11月29日 (木) 00時16分


ルネサンスに興味があり見ていました。
12世紀ルネサンスから見て、ルネサンスの絵画、
その中でもサンドロ・ボッティチェリは、何を思いながら「春」プランタン 「ヴィーナス誕生」などを描いていたのでしょうか。

投稿: 石山みずか | 2008年7月25日 (金) 18時45分

石山さん、コメントありがとうございます。
ご質問の内容は私のような人間には荷が重過ぎます。
パノフスキーの本などごらんになってはいかがでしょうか。
お役に立てなくてすみません。それでは。

投稿: saiki | 2008年7月25日 (金) 20時31分

ルネ・ゲノン研究者です。的確な書評大変有り難く拝読させていただきました。「量の支配と時の徴」訳をツイッター上で順次公開しています。よろしければお読みいただければ幸いです。次のアドレスで検索してください。

漆原健@urushiharaken

投稿: 漆原健 | 2014年2月 3日 (月) 08時11分

漆原健さん、コメントありがとうございます。
早速拝見して勉強いたします。それでは。

投稿: saiki | 2014年2月 4日 (火) 13時32分

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