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2007年10月28日 (日)

ジャネット・フラナー『パリ点描1925-1939』

 富豪のプレイボーイでコラムニスト、タキはつぎのように書いています。自分は、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの文章を読んでパリへの憧れで満たされていた。しかし、実際にパリに来てみると、彼らの言っていることは間違っていることがわかった。パリは彼らが書いているよりも遥かにすばらしい都市である、と。「この街ではノスタルジアがいとも簡単に手に入る」とタキは言います。フィッツジェラルドの小説の主人公、チャーリー・ウェールズのように、パリ再訪は青年にとって常に《バビロン再訪》なのです。タキは久しぶりに訪れたパリのバーで酒を飲んでいるうちに、恐れていたことが、つまり幸せだった日々の記憶、忘れようとしていた日々の記憶が次々と蘇ってくるのを感じました。とっくの昔に忘れていた女性のこと、空のボトル、その場限りの情事と友情、そして浪費された多大な時間と歳月が、、。ヘミングウェイはこう書いています。「パリは、、、青春を送るにはうってつけの場所だ。それは男の教育にはなくてはならない時間である。だれもが一度はパリを愛する。愛しなどしなかった、といえば嘘になる。だがパリは、老いることを知らない娼婦のように、いまはまた別の愛人を胸に抱いている」(タキ『ハイ・ライフ』河出文庫・井上一馬訳)

 「創造的野心は誰よりも豊かだが財布の中身はつつましい」アメリカの若者がパリにやってくるようになったのは1920年代のことでした。禁酒法のアメリカと違ってパリはモラルに寛大でした。そして、29年の大恐慌まではドルはフランよりはるかに強かったのです。彼らは、地価や物価の安いセーヌ左岸に多く住居を借りて住みました。彼らの幾人かは、アメリカのジャーナリズムに定期的に寄稿することで生計を支えていましたが、ジャネットやヘミングウェイも雑誌記者としてパリに来たのです。その後、ヘミングウェイはすぐに小説で頭角を表しましたが、ジャネット・フラナー(1892~1978)は小説では売れず、「ニューヨーカー」に隔月寄稿した『パリ便り』でその名を知られるようになりました。それはジャネットがパリの雑誌や新聞の記事から特筆すべきエピソードをつまみ出して紹介したものでした。『パリ点描 1925-1939』(講談社学術文庫・吉岡晶子訳)はそれらの記事の中からジャネットのファンでコラムニストであるアーヴィング・ドラットマンが一冊に編集したものです。ジャネットの筆致はいくぶんか辛辣であるが、しかし哀惜と共感にあふれています。1920年代パリはまだその美しさを残していました。ジャネットたちアメリカ人が飲んで騒いだサン・ジェルマン・デ・プレはまだパリの一画に過ぎず、パリの大部分はまだ過去の残影と栄光のきらめきの中に眠っていたました。夕暮れに橋の上にたたずんで眺めるパリの景色はどんなに美しかったことでしょう。その美しさは、故郷を流れてきたアメリカの若者の刻まれた夢によってさらに増幅されていたのです。
 印象深い何篇かの記事を紹介しましょう。

 エリック・サティ(1866~1925)の死。パリ郊外の屋根裏部屋で亡くなったサティ。この独創的で革命的な作曲家は晩年の24年をこの屋根裏部屋で困窮な生活を送り、生前と同じく貧窮のうちに死にました。その部屋には、ハンモックひとつ、ローソク一本、古傘、新しい靴、お気に入りの山高帽が残されていました。彼は毎晩この部屋から片道二時間かけて歩いてパリの酒場にピアノを弾きに出かけていたのです。

 アンリ・ルソー(1844~1910)の回顧展。1890年代、ルソーの絵は全然売れず、クリスマス・プレゼントとしてアパートの雑役婦にすらもらってもらえませんでした。やっと絵が売れた時、彼はうれしそうに日記に書いています。「X夫人に、猿のいるメキシコの風景、100フラン」と。1927年、地方のパン屋のボン夫人が、小麦粉の値上がりに困って屋根裏にしまってあった古い絵画を二枚売ることにしました。彼女はそれを持ってパリに上り、画商のベルンハイムに見せました。「この絵はルソーというもう死んでしまったやつが描いたもので」とベルンハイムは彼女に言いました。「今はもう需要がありません」面倒くさそうにそう言ってから「しかし」と彼はつけ加えました。「二点を一万フランで買い上げましょう」てっきり一銭にもならないのではないかと危惧していたボン夫人はその法外の価格に驚きましたが、すかさず一万五千フランを要求しました。フランス人らしい激しいやりとりが闘わされて、結局一万二千五百フランで取引が成立しました。満足して帰りの列車に乗ったボン夫人はその数ヶ月後、ふと手にとった地元の新聞にあのルソーのジプシーの絵が二百五十万フランで売れたという記事を見てびっくりしました。

 1927年にある雑誌に載った画商のヴォラールと画家のヴラマンクとの対談。「馬鹿な息子を持った女性がいてね」とヴォラールは言いました。「友人たちから、恋でもしたら分別を取り戻すかもしれないと言われたもんだから、ティーパーティーを開いて、感じのよい女の子たちを招いたんだ。ところが息子は、ケーキを床に投げ捨てて、相変わらず馬鹿な真似をしている。酒のせいだ。だから、彼女に言ってやったよ、息子を画家にしたらいい、ひと身代つくってくれるかもしれない。彼女はそうした。息子もそうなったよ」
 むろん、この息子とはユトリロのことです。

 ユジェーヌ・アッジェ(1857~1927)の死。時代を超えた最高の記録写真家アッジェはその生涯の70年を生死も定かでない無名の存在として送りました。船のキャビンボーイや俳優(悪役だった)を演じた後、亡くなるまでの50年は写真家(画家などの資料写真を撮る)でした。自分の主義と貧乏から、50歳以降はパンとミルクと砂糖だけで暮らしました。彼の写真の大半は街頭の暮らしを撮ったものです。物乞い、手回しオルガン弾き、ありとあらゆる商店の店先、馬、婦人帽、靴、市民の制服や軍服の流行、パリの街の片隅や郊外でつつましい生活や罪深い生活をしている人々を克明に撮り続けました。その価値は、競馬場やバレエの踊り子を描いたドガに匹敵します。また無人の街の美しさを表現した最初の芸術家でもありました。ユトリロはおそらくアッジェの写真をもとに彼の絵を描いたのだろう、と言われています。

 モーリス・ラヴェル(1875~1937)、現代音楽最高の伊達男の死。ささやかな不労所得のおかげで働くことなく、たいてい一年に一曲、ゆっくり時間をかけて作曲しました。気取り屋recherche で派手なところがなく、さりげないウィットに富んでいました。芸術家のボヘミアン気質を嫌い、サロンの常連で、ダンディでした。自分が着るシャツやヴェストは自分でデザインし、そうした服装をほめられ、あれこれ言われることを好みました。50歳近くで、モンフォール=ラモリの田舎町のこじんまりした家に引きこもりました。大物ぶることなどなく、友人の家の居間でピアノを弾いたり、終生優雅に暮らしました。若い頃、フォーレに作曲を学び、サティ、ドビュッシー、シャブリエから大きな影響を受け、そして彼らの誰よりも世界中で演奏されました。ラヴェルは庶民の仲間ではなかったが、クラシックでは唯一人、庶民に人気がありました。死ぬ4年前、自動車事故で脳に傷を負い、作曲どころか自分の名前さえ写しを見なければ書けなくなりました。手術をしても無駄ではないかという不安はあっったが、医学の役に立てばと思い、脳神経の手術を受けました。結果はかんばしくなく、まもなく他界したのです。

 ジョルジュ・ビゼー(1837~1875)の生誕100年祭。ビゼーは飛び抜けた早熟の天才でした。幼児の時にドアの隙間からもれるソルフェージュを一回聴いただけで覚え、年少でパリ音楽院の一等賞をとり、十九歳でローマ賞を得て、イタリアに留学します。しかし、そこからは不遇で、結婚した後、写譜や編曲などで貧しい家庭を支えますが、作る曲すべてが不評で、批評家からこきおろされました。失意の果てに37歳で死にますが、1937年、オペラ・コミック座で開かれた生誕100年祭には大統領はじめ政界、文学界、音楽会の大物が『カルメン』の第2271回目の公演を楽しみました。あの清らかな旋律の泉である『アルルの女』でさえ、その当時不評にまみれていたとは信じられないことです。

 ジャネット・フラナーが最も力を込めて書いたのは彼女が大ファンであったイサドラ・ダンカン(1878~1927)の死でしょう。イサドラの古代ギリシアの彫刻を思わせる見事な肢体は、実際のところ現代にフェイディアスの美を、エーゲ海のきらめきを蘇らせようとする試みだったのです。舞踊の感動は、オペラや映画や芝居に増して、魂に直接迫り来ます。生涯の間、ただの一度も感動したことのない人間の多くがイサベラの踊りに心を揺り動かされました。ゆるやかなローブを纏い、裸足で踊るイサドラは女性の自由な解放感、服装の改良に深く貢献したとも言われています。彼女はカリフォルニアで生まれましたが、その感覚的な美が評価されたのはピューリタニズムのアメリカでなく、芸術が何よりも受け入れやすいヨーロッパにおいてでした。イサベラはその気質も人並みはずれていました。莫大な金を稼ぎ、いとも豪快に使い果たしました。毎週日曜の大宴会では訪れるあらゆる人にシャンパンやタルトの大盤振舞が行われました。ニューヨークでの公演では舞台を飾るためマンハッタン中の白百合を2000ドルで買い占めました。その時、イサドラの財産は3000ドルしかなかったのに、終演後残りの1000ドルで人々にシャンパンを振舞いました。その後、イサベラと弟子たちはフランスに出港する船が停泊する港で荷物に囲まれていました。一行は乗船チケットもお金も持っていませんでした。しかし、天命を信じ、芸術を理解するヨーロッパに帰るのだという固い決意がイサドラにはありました。船が出港する直前、ひとりの女性教師が現れてお金をくれました。イサドラが会ったこともないその教師が何年もかけて貯えたそのお金のおかげでヨーロッパに旅立つことができました。「イサドラ自身が崇高な生き方をしていたので、ほかの人にも感化を与えたのである。イサドラの人生にはこうした百合や教師のエピソードが絶えなかった」とジャネット・フラナーは書いています。
 イサドラの不幸な最後はよく知られています。彼女は、かつて、止めていた車のサイドブレーキが外れて愛児二人をセーヌ川で失っています。もう一人の子供も医者の車が渋滞にまきこまれ、手遅れで死なせました。「車は私の敵だった」とイサドラは語っていますが、イサドラ自身もニースの「イギリス人の散歩道」promenade des  Anglais をドライブ中、マフラーが車輪に巻き込まれて窒息死してしまうのです。

 『パリ点描』には、その他にもたくさんのエピソードがこめられています。オデオン通りの「シェークスピア・アンド・カンパニー書店」とその店主のシルヴィア・ビーチ。そこはアメリカの若い作家のたまり場でしたが、またシルヴィアはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を出版したことで文学史にその名を残しました。ジョイスはその出版によって世界的名声を得たが、その過程でのシルヴィアへの忘恩はその人間性を疑わせるものでした。『ユリシーズ』はパリに流れ着いた故郷喪失者の成功の象徴となりましたが、その当時と同じ昂奮をもってそれを読むことはもはやできないだろう、とジャネット・フラーは書いています。
 女スパイだった混血の踊り子、マタ・ハリ。片足を切断してもなお舞台に立つサラ・ベルナール。モンパルナスの小路に住み、左岸のアメリカ社会に君臨したガートルード・スタイン。、、、しかし、やはりヘミングウェイほどこの時代のパリで絵になる男はいないでしょう。ジャネット・フラナーとヘミングウェイはある日、サン・ジェルマン・デ・プレのカフェー「ドゥー・マゴ」の奥深い静かな席で話していました。二人とも互いのことをよく知ろうとしていたのですが、ジャネットは、ヘミングウェイがごく若い時に父親を自殺で失っていると聞いてびっくりしました。彼は自分の過去を潤色して話すのが常でしたが、自身も父親を自殺で亡くしていたジャネットは強い共通項が二人にあるのを感じました。彼女は、自殺は世間のしがらみや屈辱から自尊心を守る行為だと主張して、最後に二人は声を高くして、もし二人のどちらかが自殺したら悲しまずに、自由のために死んだのだと納得しようと誓い合いました。だから、1961年にヘミングウェイがアイダホ州ケチャムで12口径のライフルを口にくわえて頭を吹き飛ばしたとき、ジャネットは彼の決断を尊重しようとしました。しかし、ヘミングウェイの晩年の悲惨さ、ノイローゼ、糖尿病、強迫症の苦しみを知ったとき、心の底から悲しみがこみあげてきたのです。
 『パリ点描』の多くが死亡記事によって成り立っているのも偶然ではありません。

 

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2007年10月11日 (木)

ロバート・ラッセル『天使をこの手に』

 『目の見えぬ子ら』(1961岩波新書・赤座憲久)を読んだのはずっと昔のことですが、盲学校の生徒たちの活き活きとした日常は強く印象に残っています。
 『ロバータさあ歩きましょう』(1977偕成社文庫、1983旺文社文庫・佐々木たづ)は18歳で失明し、当時日本にいなかった盲導犬を得るためにイギリスまで行った女性の回想記です。失明という暗い現実がロバータという犬によって徐々に光に照らされていく、という過程は障害者の物語というより犬との愛情物語といってよいでしょう。その一生を一人の人間に捧げて静かに死んでいく動物への感謝と畏敬がそこにはあります。
 『全盲学生のアメリカ留学』(1993アドバンテージサーバー・勝山広子)は、盲学校で鍼・灸などの専門技能を学んだ後、両親の反対を押し切って短大に進学し、さらにアイオワ州のコーネル大学、アイオワ州立大学で学んで、ついに日本の大学で教えるまでになった女性の留学記です。全盲の人間が通例の職業以外の分野で生きていくことの難しさは無論ですが、この本ではそれよりも障害者を受け入れて、健常者と同じ土俵で闘う機会を与えるアメリカ社会への賛嘆があります。

 ところで、そのようなアメリカで全盲の人生を歩んだ一人の男、ロバート・ラッセルの半生の回想録『天使をこの手に』To  catch  an  angel   -  Adventures  in  the  world  I  can  not  see (1975みすず書房・佐伯わか子訳)は、自伝文学としては屈指の面白い作品となっています。著者は5歳の時、クロケー(ゲートボールの一種)の槌で玄関の石を思い切り叩いた時、槌の木片が左目に突き刺さって片目を失明します。ほどなく、右目の視力も弱くなり、物の輪郭がだんだんぼやけてきて、六歳の時についに完全に視覚がなくなりました。ロバートは、まだかすかな視力があったとき、母親の腕に抱かれて台所の窓から薄れゆく星空を見たときのことをよく覚えています。「エマソンは、もし星空が千年に一回だけあらわれる現象であったら、それは宇宙の不思議となるだろう、といっている。実際にはそれは夜毎にあらわれる。しかし私にとっては空も星も一回きりのものであった。五歳の私は、衰えいく視力の限りを尽くして、今まさに去ろうとしている世界を見たのだった」

 ニューヨーク州ビンガムトンで小さな宝石店を営む両親は七人の子どもたちを愛情をこめて育てました。末っ子のロバートが七歳になったとき、両親は彼の将来を考えて、家から遠いニューヨーク市ブロンクスにある盲学校に入学させることにしました。全寮制のその学校の鉄の門をくぐり、消毒剤のきつい匂いの中で母親がロバートのスーツケースの荷ほどきをしてくれました。そして見知らぬ世界の中に一人取り残されたのです。「カニは成長するためには古い甲羅ー慣れた安らぎーを脱がなければならない。そしてその時から新しい甲羅が固まるまでは、カニにとって非常に傷つきやすい時期である。カニの一生はこうして次々に甲羅を脱いでいくことで費やされる。最後に丈夫な甲羅を作り上げると、もうそこから逃れられない。そしてその中で死ぬ」
 ロバートは新入生でしかもちびなので入学するとまもなく一方的になぐられっぱなしでした。しかし、友人ができ学校になじんでくると、生彩を取り戻します。朝六時のベルと同時に飛び起きて、ロッカーまで競争し、タオルをとってシャワーを浴び、また部屋に駈けもどると着替えをし、20分戸外で散歩をしてから、ぺこぺこになったお腹で朝食に飛びつきます。一年生で点字を習いますが、ロバートの母親は自らも点字を勉強して読み切れないほどの長文の点字の手紙を送ってきました。「私は母がしてくれたことを過小評価するつもりはない。点字を読むのは比較的容易なことであっても、点字を書くということは遥かに努力を要することである」
 同学年にフレディという子がいました。家族から離れる寂しさに耐えられずいつも泣いており、ロッカーのタオルの場所を間違えたり、食堂へ行く道を忘れたりするのでみんなからいじめられていました。「たとえ私たちが愛情と優しさをもって彼を扱ったとしても、フレディにとって盲学校は煉獄だったろう。それを私たちが地獄に変えた。私たちの誰一人も彼を殴ったりしなかったーそんな価値もなかったのだ。ただ軽蔑して、からかっていただけだった。彼こそ私たちの弱さの象徴だった。私たちは自分をいじめるかわりに彼をいじめた」ある朝、フレディが降りてこないので教師が探しに行くと、彼は自分の口にハンケチを詰込んで、頭と顔をタオルでぐるぐるまきにしてロッカーに自分を閉めこんで苦しんでいるところを発見されました。この事件の後、もうフレディをかまう者はいなくなりました。

 盲学校では、フットボール、野球などさまざまなスポーツを行いますが、それらを通じて生徒たちは視覚のない世界での勘を養っていきます。ボールの音が左右の耳に届くごくわずかの時差によってその位置を見分けます。また、かかとと耳の間の距離を規準として足音が壁に反響する音から距離を割り出したりします。
 ロバートは家が遠かったので年に三回しか帰れませんでしたが、12歳になると週末に街に出ることが許されました。それは自由への道の準備でした。初めての外出の時、ロバートは友人のサムと二人で、ブロンクス区を探検してみました。歩道の縁につまづき、街灯の柱にぶつかり、何台もの乳母車と衝突し、多くの人たちに助けられて、ついに十セント均一の店にたどりつきました。二人は店の中をあちこち歩いてみました。カウンターの女の子がみつけて話しかけてきました。「坊ちゃん方、何をお買いになりたいの?」「別に」とロバートは答えました。「ちょっとショッピングしているんです」少しの間、店員はあっけにとられているようでしたが、二人がにこにこしているのに気付くと、声をたてて笑いました。「何というすばらしい笑い声!その笑い声は彼女が私のことを一人の人間ー見ることができないだけのーとして考えていることをあらわしていた!」
 ともにピザが好きなロバートとサムは新しいピザ屋を探して歩きました。街路を歩きながらピザの匂いを嗅ぎ付けるのです。ある時、間違えてピザ屋の隣のクリーニング店に入り、中の椅子にすわって「トマトとチーズのたっぷりかかった25セントのやつ」と注文してしまいました。ある時は、行きつけのピザ屋が満員で席が空くのを待っていたところ、一人の老婦人がロバートの手に25セント銅貨を握らせて去って行きました。後でそれを知ったサムは泣きそうな顔で「ぼくと外出するときはもっときちんとした服を着てくれよ」というのでした。ロバートの友人のニックは一人で外出した時に、道で倒れて泣いている幼児がいたので立たせてやると、その子はまたすぐに倒れて泣いています。再び立たせてやると、また泣き出しました。すると近くで母親の声がして、「うちの子に逆立ちばかりさせないで!」と怒鳴られたというのです。

 休暇で家に帰ることはもちろん最大の楽しみでした。夕方、父親が家に帰ってくると、いつもロバートとティドリー・ウィンクス(卓上球戯)をするのですが、父親は負けるとロバートに五セントくれるのでした。たいてい三ゲームやり、いつもロバートが勝って15セントもらうと姉と一緒にアイスクリームを食べにいきます。父親が疲れて帰ってくると、形式的な手続きなしで15セント渡してくれるのでした。
 13歳の時、休暇で家族と行ったセントローレンス河のキャンプで、ロバートは恋をします。相手はアデルという20歳の女性で、どんぐりが好きだという彼女のために蚊に攻め立てられながら下生えの中をどんぐりを探しました。アデルはそのドングリをきれいな色に染めてモカシン(柔らかな革の靴)の縁に縫い付け、ロバートの手をとってその靴に触らせてくれました。「初恋はその経験を簡単に忘れてしまう人にとってはしばしばひやかしの対象になる。私はそうではなかった。アデルを愛することによって、私は少年期の岸辺から一歩踏み出した。自分の障害を痛いほど意識している一人の少年にとって、彼女の親切と思いやりは私に希望をふきこんでくれた。私もまたいつの日か一人の女性—もうひとつの世界に住む、ちゃんと目の見える一人の女性—によって愛されるかもしれないという希望を」

 盲学校での猛勉強によってロバートは16歳で高校過程を卒業して、理学療法士の学位を目指してハミルトン大学に進学します。健常者の学生に混じって視覚障害者が楽しく学生生活を送るためには、自らをアピールしなければなりません。というのも全盲の人間は自分から知人を見つけることはできないので、相手から話しかけてもらわねばならないからです。孤独に耐えられず大学を退めていく障害者の何と多いことでしょう。しかしロバートは、盲学校で鍛えたレスリングと仲間とばか騒ぎのできる才能で自分の存在を十分に認めさせることができました。「私は何人かの盲学生を知っている。ある者はアカデミックな面で業績をあげるだけの十分な能力を持ちながらも、希望を失って大学を去っていった。彼らは孤独に耐えられなかったのだ。喧噪の中での友情—フットボール、ダンス、ビアパーティ、ポーカーのゲーム、自由討論、体育館での練習試合—のただ中で彼らは隠遁と絶望の生活を送る。彼らは仲間入りをするすべを知らない。興奮の友情に参加することがどうしてできようか?」
 ところが、入学して一年経ったとき、ロバートの父親が心臓発作で死亡します。ビンガムトンに家族が再会して葬儀が営まれました。父親の死はロバートに決定的な変化を起こさせました。それは自分を温かく見守ってくれてきた世界の顛落だったのです。「愛する者の死はあまりにも大きなできごとで、とても短時間に事実として把握することはできない。意識の周辺にそれを止めようとする力と、それを拒否しようとする力が拮抗して波のように打ち寄せては退いていく」
 彼はその時、それまで彼が愛誦していた詩の幾篇かが、このような悲しみを経験することによって初めて理解し得る深い内実を有していることに気付いたのです。詩はそれまで、彼にとってはなぞなぞのようなものでした。しかし、コインに表裏があり、人生に喜悦と憂愁があるように、すぐれた詩の意味するものは人生を理解することによって初めて感得できるものなのでした。ロバートは人生の行先を変更し、エール大学に編入して英文学を研究することを決意します。

 エール大学は、のんびりしたハミルトンと違って、あまりに大きく、すべて事務的に物事が進んでいました。その大変な勉強もさることながら、彼は学費を稼ぐためにゴルフ場でマッサージをしたり、当時視覚障害者を積極的に採用していた国際ビジネスマシン会社(IBM)でタイムレコーダーの組立てのアルバイトをしたりしました。彼が大学院に入って、将来大学の教員を目指していることを知ったエール大学の教授はこう言いました。「君は自分の言う意味が分かっているか? 学位を取るためには五つか六つの与えられた課題をこなして、さらに学位論文を仕上げねばならないが、一つの課題を成し遂げるのに10日間で百冊以上の本に目を通さなければならない。それができたとしても、ノートはどうやって取るのか? まさか点字タイプを図書館に持ち込む分けにはいかないし、できたとしても4,50キロある点字用紙をどう処理するのか。そして、たとえ、学位を手に入れたにしても、君のねらっているポストは目の見える優秀な人間が十人以上争っている。誰が君にチャンスをくれると思うかね。しかも、そんな努力をしてもサラリーはたかが知れてる。盲学校の教師になるほうが君にとっても社会のためにも良いと思うのだが」と。ロバートは深い失望を感じながら、さらにもう一人の教授に相談してみました。その英知と学識で人気のあるチャンシー・ティンカー教授です。「成功の見込みは限りなくゼロに近い」と教授は言いました。「しかし、ミシガン大学にはその学識で私も尊敬する盲目のポール・ミュスキー教授もいる。いかにしてその学識を彼が身に付けたかは知らない。しかし事実だ。もし、君が英文学の教授になろうとするなら、条件は一つ、絶対に第一級にならねばならない、ということだ。公平に考えてそれ以外に君にチャンスはない」
 もう盲学校には戻りたくなかったので、ロバートはそのわずかの可能性に賭けました。日夜を問わぬトップスピードの猛勉強が始まりました。アメリカでは盲目の学生に年300ドルが支給されますが、ロバートはそれを全て大学に委託し、リーダー(盲人のために本を読む人)の費用に当てました。スターリング記念図書館に点字タイプを持ち込んで関連文献をどんどんノートにとりました。朝五時から夜八時までの勉強にもかかわらず、他の学生が読み込んでいる厖大な書評や評論までは目を通せません。彼は作品自体に重点を置いて、それを深く読み込む方策を立てました。実際、それ以外にチャンスはなかったのです。

 それ以後の話は簡単に済ませましょう。ロバートは優秀な成績を収め、ロータリー基金で念願のオックスフォード留学を果たします。そこで、メアリー・コールリッジ(詩人。サムエル・テイラー・コールリッジの甥の孫娘)の研究で博士号を取得し、同時に結婚してアメリカに戻りました。しかし、盲目という障害はあまりに大きく、大学の教員職は見つかりません。妻子を養うため、再び I B M でコンピューターのパネルの単純労働に就くことになります。その屈辱と敗北感の中でも希望を捨てず、ついにペンシルヴァニア州のフランクリン・アンド・マーシャル大学で助教授の職を得るところでこの物語は終ります。ここで、著者はかの古くからの成長のパターン、カニの甲羅を思い出します。「実はこれこそ真理だったのである。私は盲であるということのために、一般の人よりもいっそう古い甲羅にしがみついていた。私の探索の旅はナルシスと同じく、エゴのけばけばしい器を求めることから始まった。次第にそれは聖杯—人間の秘密をたたえる—に変わっていった。これを手に入れようと努力することは、すなわち天使の群れの最後の一位を手にすることである」

 「子どものときから私はじろじろ見られてきた」とロバート・ラッセルは半生を振り返って語っています。「『どんな感じなんですか? ただの暗闇? 真夜中のような?』人々は私に尋ねる。私はそんなに不思議な人間か?」
 恐らくこういうことなのだ、と彼は考えます。我々はみな孤独である。そして、みな同じ希望の前に胸おどらせ、同じ怪物の前にたじろぐ。とりわけ我々は誰でも何の予見もなしに行動することを強いられる。結果を予見できぬままにコミットし、その結果は取り返しがつかない。この険しい人生行路において、我々はみな盲人である。盲人は、見えないものに向かう不安定な人間の足どりの象徴なのだ。それゆえに、盲人の物語は読者の物語そのものである、と。

 
 

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