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2007年10月28日 (日)

ジャネット・フラナー『パリ点描1925-1939』

 富豪のプレイボーイでコラムニスト、タキはつぎのように書いています。自分は、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの文章を読んでパリへの憧れで満たされていた。しかし、実際にパリに来てみると、彼らの言っていることは間違っていることがわかった。パリは彼らが書いているよりも遥かにすばらしい都市である、と。「この街ではノスタルジアがいとも簡単に手に入る」とタキは言います。フィッツジェラルドの小説の主人公、チャーリー・ウェールズのように、パリ再訪は青年にとって常に《バビロン再訪》なのです。タキは久しぶりに訪れたパリのバーで酒を飲んでいるうちに、恐れていたことが、つまり幸せだった日々の記憶、忘れようとしていた日々の記憶が次々と蘇ってくるのを感じました。とっくの昔に忘れていた女性のこと、空のボトル、その場限りの情事と友情、そして浪費された多大な時間と歳月が、、。ヘミングウェイはこう書いています。「パリは、、、青春を送るにはうってつけの場所だ。それは男の教育にはなくてはならない時間である。だれもが一度はパリを愛する。愛しなどしなかった、といえば嘘になる。だがパリは、老いることを知らない娼婦のように、いまはまた別の愛人を胸に抱いている」(タキ『ハイ・ライフ』河出文庫・井上一馬訳)

 「創造的野心は誰よりも豊かだが財布の中身はつつましい」アメリカの若者がパリにやってくるようになったのは1920年代のことでした。禁酒法のアメリカと違ってパリはモラルに寛大でした。そして、29年の大恐慌まではドルはフランよりはるかに強かったのです。彼らは、地価や物価の安いセーヌ左岸に多く住居を借りて住みました。彼らの幾人かは、アメリカのジャーナリズムに定期的に寄稿することで生計を支えていましたが、ジャネットやヘミングウェイも雑誌記者としてパリに来たのです。その後、ヘミングウェイはすぐに小説で頭角を表しましたが、ジャネット・フラナー(1892~1978)は小説では売れず、「ニューヨーカー」に隔月寄稿した『パリ便り』でその名を知られるようになりました。それはジャネットがパリの雑誌や新聞の記事から特筆すべきエピソードをつまみ出して紹介したものでした。『パリ点描 1925-1939』(講談社学術文庫・吉岡晶子訳)はそれらの記事の中からジャネットのファンでコラムニストであるアーヴィング・ドラットマンが一冊に編集したものです。ジャネットの筆致はいくぶんか辛辣であるが、しかし哀惜と共感にあふれています。1920年代パリはまだその美しさを残していました。ジャネットたちアメリカ人が飲んで騒いだサン・ジェルマン・デ・プレはまだパリの一画に過ぎず、パリの大部分はまだ過去の残影と栄光のきらめきの中に眠っていたました。夕暮れに橋の上にたたずんで眺めるパリの景色はどんなに美しかったことでしょう。その美しさは、故郷を流れてきたアメリカの若者の刻まれた夢によってさらに増幅されていたのです。
 印象深い何篇かの記事を紹介しましょう。

 エリック・サティ(1866~1925)の死。パリ郊外の屋根裏部屋で亡くなったサティ。この独創的で革命的な作曲家は晩年の24年をこの屋根裏部屋で困窮な生活を送り、生前と同じく貧窮のうちに死にました。その部屋には、ハンモックひとつ、ローソク一本、古傘、新しい靴、お気に入りの山高帽が残されていました。彼は毎晩この部屋から片道二時間かけて歩いてパリの酒場にピアノを弾きに出かけていたのです。

 アンリ・ルソー(1844~1910)の回顧展。1890年代、ルソーの絵は全然売れず、クリスマス・プレゼントとしてアパートの雑役婦にすらもらってもらえませんでした。やっと絵が売れた時、彼はうれしそうに日記に書いています。「X夫人に、猿のいるメキシコの風景、100フラン」と。1927年、地方のパン屋のボン夫人が、小麦粉の値上がりに困って屋根裏にしまってあった古い絵画を二枚売ることにしました。彼女はそれを持ってパリに上り、画商のベルンハイムに見せました。「この絵はルソーというもう死んでしまったやつが描いたもので」とベルンハイムは彼女に言いました。「今はもう需要がありません」面倒くさそうにそう言ってから「しかし」と彼はつけ加えました。「二点を一万フランで買い上げましょう」てっきり一銭にもならないのではないかと危惧していたボン夫人はその法外の価格に驚きましたが、すかさず一万五千フランを要求しました。フランス人らしい激しいやりとりが闘わされて、結局一万二千五百フランで取引が成立しました。満足して帰りの列車に乗ったボン夫人はその数ヶ月後、ふと手にとった地元の新聞にあのルソーのジプシーの絵が二百五十万フランで売れたという記事を見てびっくりしました。

 1927年にある雑誌に載った画商のヴォラールと画家のヴラマンクとの対談。「馬鹿な息子を持った女性がいてね」とヴォラールは言いました。「友人たちから、恋でもしたら分別を取り戻すかもしれないと言われたもんだから、ティーパーティーを開いて、感じのよい女の子たちを招いたんだ。ところが息子は、ケーキを床に投げ捨てて、相変わらず馬鹿な真似をしている。酒のせいだ。だから、彼女に言ってやったよ、息子を画家にしたらいい、ひと身代つくってくれるかもしれない。彼女はそうした。息子もそうなったよ」
 むろん、この息子とはユトリロのことです。

 ユジェーヌ・アッジェ(1857~1927)の死。時代を超えた最高の記録写真家アッジェはその生涯の70年を生死も定かでない無名の存在として送りました。船のキャビンボーイや俳優(悪役だった)を演じた後、亡くなるまでの50年は写真家(画家などの資料写真を撮る)でした。自分の主義と貧乏から、50歳以降はパンとミルクと砂糖だけで暮らしました。彼の写真の大半は街頭の暮らしを撮ったものです。物乞い、手回しオルガン弾き、ありとあらゆる商店の店先、馬、婦人帽、靴、市民の制服や軍服の流行、パリの街の片隅や郊外でつつましい生活や罪深い生活をしている人々を克明に撮り続けました。その価値は、競馬場やバレエの踊り子を描いたドガに匹敵します。また無人の街の美しさを表現した最初の芸術家でもありました。ユトリロはおそらくアッジェの写真をもとに彼の絵を描いたのだろう、と言われています。

 モーリス・ラヴェル(1875~1937)、現代音楽最高の伊達男の死。ささやかな不労所得のおかげで働くことなく、たいてい一年に一曲、ゆっくり時間をかけて作曲しました。気取り屋recherche で派手なところがなく、さりげないウィットに富んでいました。芸術家のボヘミアン気質を嫌い、サロンの常連で、ダンディでした。自分が着るシャツやヴェストは自分でデザインし、そうした服装をほめられ、あれこれ言われることを好みました。50歳近くで、モンフォール=ラモリの田舎町のこじんまりした家に引きこもりました。大物ぶることなどなく、友人の家の居間でピアノを弾いたり、終生優雅に暮らしました。若い頃、フォーレに作曲を学び、サティ、ドビュッシー、シャブリエから大きな影響を受け、そして彼らの誰よりも世界中で演奏されました。ラヴェルは庶民の仲間ではなかったが、クラシックでは唯一人、庶民に人気がありました。死ぬ4年前、自動車事故で脳に傷を負い、作曲どころか自分の名前さえ写しを見なければ書けなくなりました。手術をしても無駄ではないかという不安はあっったが、医学の役に立てばと思い、脳神経の手術を受けました。結果はかんばしくなく、まもなく他界したのです。

 ジョルジュ・ビゼー(1837~1875)の生誕100年祭。ビゼーは飛び抜けた早熟の天才でした。幼児の時にドアの隙間からもれるソルフェージュを一回聴いただけで覚え、年少でパリ音楽院の一等賞をとり、十九歳でローマ賞を得て、イタリアに留学します。しかし、そこからは不遇で、結婚した後、写譜や編曲などで貧しい家庭を支えますが、作る曲すべてが不評で、批評家からこきおろされました。失意の果てに37歳で死にますが、1937年、オペラ・コミック座で開かれた生誕100年祭には大統領はじめ政界、文学界、音楽会の大物が『カルメン』の第2271回目の公演を楽しみました。あの清らかな旋律の泉である『アルルの女』でさえ、その当時不評にまみれていたとは信じられないことです。

 ジャネット・フラナーが最も力を込めて書いたのは彼女が大ファンであったイサドラ・ダンカン(1878~1927)の死でしょう。イサドラの古代ギリシアの彫刻を思わせる見事な肢体は、実際のところ現代にフェイディアスの美を、エーゲ海のきらめきを蘇らせようとする試みだったのです。舞踊の感動は、オペラや映画や芝居に増して、魂に直接迫り来ます。生涯の間、ただの一度も感動したことのない人間の多くがイサベラの踊りに心を揺り動かされました。ゆるやかなローブを纏い、裸足で踊るイサドラは女性の自由な解放感、服装の改良に深く貢献したとも言われています。彼女はカリフォルニアで生まれましたが、その感覚的な美が評価されたのはピューリタニズムのアメリカでなく、芸術が何よりも受け入れやすいヨーロッパにおいてでした。イサベラはその気質も人並みはずれていました。莫大な金を稼ぎ、いとも豪快に使い果たしました。毎週日曜の大宴会では訪れるあらゆる人にシャンパンやタルトの大盤振舞が行われました。ニューヨークでの公演では舞台を飾るためマンハッタン中の白百合を2000ドルで買い占めました。その時、イサドラの財産は3000ドルしかなかったのに、終演後残りの1000ドルで人々にシャンパンを振舞いました。その後、イサベラと弟子たちはフランスに出港する船が停泊する港で荷物に囲まれていました。一行は乗船チケットもお金も持っていませんでした。しかし、天命を信じ、芸術を理解するヨーロッパに帰るのだという固い決意がイサドラにはありました。船が出港する直前、ひとりの女性教師が現れてお金をくれました。イサドラが会ったこともないその教師が何年もかけて貯えたそのお金のおかげでヨーロッパに旅立つことができました。「イサドラ自身が崇高な生き方をしていたので、ほかの人にも感化を与えたのである。イサドラの人生にはこうした百合や教師のエピソードが絶えなかった」とジャネット・フラナーは書いています。
 イサドラの不幸な最後はよく知られています。彼女は、かつて、止めていた車のサイドブレーキが外れて愛児二人をセーヌ川で失っています。もう一人の子供も医者の車が渋滞にまきこまれ、手遅れで死なせました。「車は私の敵だった」とイサドラは語っていますが、イサドラ自身もニースの「イギリス人の散歩道」promenade des  Anglais をドライブ中、マフラーが車輪に巻き込まれて窒息死してしまうのです。

 『パリ点描』には、その他にもたくさんのエピソードがこめられています。オデオン通りの「シェークスピア・アンド・カンパニー書店」とその店主のシルヴィア・ビーチ。そこはアメリカの若い作家のたまり場でしたが、またシルヴィアはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を出版したことで文学史にその名を残しました。ジョイスはその出版によって世界的名声を得たが、その過程でのシルヴィアへの忘恩はその人間性を疑わせるものでした。『ユリシーズ』はパリに流れ着いた故郷喪失者の成功の象徴となりましたが、その当時と同じ昂奮をもってそれを読むことはもはやできないだろう、とジャネット・フラーは書いています。
 女スパイだった混血の踊り子、マタ・ハリ。片足を切断してもなお舞台に立つサラ・ベルナール。モンパルナスの小路に住み、左岸のアメリカ社会に君臨したガートルード・スタイン。、、、しかし、やはりヘミングウェイほどこの時代のパリで絵になる男はいないでしょう。ジャネット・フラナーとヘミングウェイはある日、サン・ジェルマン・デ・プレのカフェー「ドゥー・マゴ」の奥深い静かな席で話していました。二人とも互いのことをよく知ろうとしていたのですが、ジャネットは、ヘミングウェイがごく若い時に父親を自殺で失っていると聞いてびっくりしました。彼は自分の過去を潤色して話すのが常でしたが、自身も父親を自殺で亡くしていたジャネットは強い共通項が二人にあるのを感じました。彼女は、自殺は世間のしがらみや屈辱から自尊心を守る行為だと主張して、最後に二人は声を高くして、もし二人のどちらかが自殺したら悲しまずに、自由のために死んだのだと納得しようと誓い合いました。だから、1961年にヘミングウェイがアイダホ州ケチャムで12口径のライフルを口にくわえて頭を吹き飛ばしたとき、ジャネットは彼の決断を尊重しようとしました。しかし、ヘミングウェイの晩年の悲惨さ、ノイローゼ、糖尿病、強迫症の苦しみを知ったとき、心の底から悲しみがこみあげてきたのです。
 『パリ点描』の多くが死亡記事によって成り立っているのも偶然ではありません。

 

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