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2007年9月29日 (土)

ジョージ・エリオット『サイラス・マーナー』

 『Uボート』『ネバーエンディング・ストーリー』で知られるウォルフガング・ペーターゼン監督の1985年の映画『第五惑星』は私に深い感動を残しました。地球軍のパイロット、ダビッジはドラコ星人の戦闘機とともに第五惑星と呼ばれる未開拓の惑星に不時着します。敵はいつしか友になり、ダビッジはドラコ星人の死後、遺言を守って残された彼の子どもを育てていきます。爬虫類に似た醜い容貌の異星人の子どもの世話に最初は手を焼くものの、ダビッジは次第にその子、ザミスに愛情を注ぐようになります。というより、彼はザミスを熱烈に愛するようになります。ザミスに言葉や知識を教え、不器用な手で子供服を作り、フットボールをして遊びます。そして、ザミスがならず者に捕まると、死から蘇るほどの力で全霊を捧げて彼を救出します。前半の単純で軽薄なダビッジが後半では爆発する愛情によって純化されます。
 ジョージ・エリオットの『サイラス・マーナー』(岩波文庫・土井治訳)にも、純な愛情には縁のないような男が愛によって一変する劇的な姿が描かれます。その有名な話は英語の教科書で読まれた人も多いのではないでしょうか。
 サイラスは亜麻糸を織る織工ですが、十年来の親友に裏切られ、謂れのない窃盗の疑いを着せられ、婚約者にも去られて、人間不信の世捨て人になり、故郷の町を去って、ラヴィロウという村の外れで織工として細々と生計を立てています。彼の唯一の慰めは金を貯めることで、毎晩仕事の後に床下に隠してある金貨の袋を取り出しては一枚一枚数えているのです。ところが、ラヴィロウに引っ越してから15年の歳月が経った頃のある晩、ふと家を空けて帰ってくると、金貨を入れた袋をすっかり盗まれているのでした。言いようのない落胆、失望。サイラスは茫然と金貨を納めてあった場所を見つめたまま動きません。そんな時、行き倒れになった母親の手を離れてよちよち歩きをしてきた幼児が偶然サイラスの家に入って来ます。その金髪の巻毛が金貨を思い起こさせたのでしょうか、サイラスはその女の子を育てようと決意します。
 人生は一変します。冷たい金貨と違って、小さい子どもはサイラスの言葉に反応し、いたずらし、呼びかけます。サイラスはその子(エピーと名付けました)を連れて、野原で花を摘み、動物と遊び、小鳥の声を聞きます。彼はエピーをどこにも連れて行きました。織り上がった亜麻布を届けに行く時、楽しそうに二人で田舎道を歩く姿がラヴィロウの人々の目に留まるようになりました。それまで、人々はサイラスを気難しく無口でつきあいにくい男と思ってきたのですが、エピーの存在が彼をラヴィロウの社会に溶け込ませるようになったのです。サイラスがあまりにエピーを可愛がるので、隣家のウインスロップ夫人は「そんなに甘やかして育てるとエピーのためにもよくないんだから、いたずらをした時はもし叩けなかったら石炭置き場にでもいれてやればいいんですよ」と諭すのでした。
 ある日、サイラスは織機で織っている時に、いつものようにエピーが勝手に動き回って怪我をしないよう麻布の紐をエピーにつけてその先を機械に結んでいたところ、不用意にサイラスが置いてあったままの鋏をエピーが取って、その紐を切ってしまいました。しばらくしてエピーの気配が感じられないことに気付いたサイラスは、開け放された戸を見て驚きました。彼は我を忘れて、外に飛び出しましたがエピーの姿は見えません。いつも二人で行く野原にもエピーは見えず、さらに次の野原にもいません。サイラスの心臓は焦りと心配で止まりそうになりました。その野原の先には泥水の池があります。サイラスは気も狂わんばかりにエピーの名を呼びながら草をかきわけて池にたどり着きました。すると、その池の岸でエピーが小さな靴をバケツ代わりにして穴ぼこで作った小さな池に水を運んでいるのです。サイラスはエピーをひったくるように抱き上げると泣き出しそうになって接吻を浴びせかけました。家に連れて帰ってはじめて、いたずらしたらお仕置きしなければと気付いて、体を洗って着物を着せ変えた後で石炭置き場に閉じ込めたのですが、エピーはそれも遊びだと思ってキャッキャッと喜ぶだけでした。そんな風にわがままし放題で育てたものの、エピーは親思いのやさしく慎ましい少女に成長しました。最後はエリオットの作品にはめずらしく、すべてが幸福のうちに物語が終ります。その美しい結末の故に彼女の小説の中では、最高傑作といわれる『ミドルマーチ』(1872)やプルーストが「その2頁を読めば目に涙が浮かぶ」と評した『フロス河の水車場』(1860)などの長編に比べると見劣りがしますが、しかし、おそらく力を入れ過ぎずに書かれた『サイラス・マーナー』にはエリオットの主要な思想、素朴な感情の優位、社会と調和して生きることの理想、分け隔てのない人間への共感、などがよりわかりやすい形で描かれています。

 ジョージ・エリオット(1819~1880)、本名メアリ・アン・エヴァンス、は大工から土地差配者まで出世した父のもとにイングランド中部ウォリクシャーの田舎に生まれました。母の死後、家事を見るために17歳で学校を退め、自宅で父や兄弟の世話をすることになりました。しかし、メアリ・アンはほぼ独学で仏・独・伊・ラテン、ギリシア、ヘブライ語を学び、さらにミルトン、シェークスピア、ゲーテその他古今東西の書物を渉猟しました。22歳で父とともにコヴェントリーに引っ越し、そこで知り合ったブレイ夫妻の家で、当時の進歩的な知識人たちと交友を始めました。35歳で、妻子のいた哲学者ジョージ・ヘンリー・ルイスと同棲することになりますが、このことが社会的に彼女に抜きがたい後ろめたさを与えたのです。おそらく、ルイスと彼の子どもたちを養うため37歳で小説を書き始め、それが財産と名声を彼女にもたらしました。ルイスは1878年に死亡、メアリ・アンは61歳で25歳年下の崇拝者と再婚しますが、腎臓病でその半年後に亡くなりました。
 ところで、ジョージ・エリオットはたいへんな知識人でした。哲学、宗教、文学、歴史はもちろん、数学の問題を解くのを楽しみ、化学や物理学、博物学にも詳しく、およそ人間社会で重要な事柄には第一級の興味と知識、深い理解力を持っていたのです。ドイツの作家ハンス・カロッサは「人は、彼が十歳までに愛し行ったことを、常に愛し行うだろう」と書いていますが、ジョージ・エリオット、つまりメアリ・アンの生涯もまさにそのようなものでした。「人生の真実とは何であるか」これが彼女の最初期からの問いでした。メアリ・アンは周囲の人の生活や、多くの書物の中にそれを求めようとしたのです。どのように生きることは自分にとって最善なのか、そもそも人間にとって最善のこととは何なのか、こうした問いを抱き、こうした疑問に常に苛まれている少女にとって、読書はそれがなければ生きてゆけない空気のようなものでした。若いメアリ・アンの生活は、母代わりの主婦として、父や兄弟の世話に明け暮れ、自らの頭痛にも苛まれながら、知的探究心をいささかも損なわぬものだったのです。しかも、そうして積み上げられた知識は、しばしば精神だけが分離した男性知識人と違って、日常の細やかな生活と決して矛盾するものではありませんでした。彼女は24歳で、徹底した合理主義の福音書批判であるダヴィッド・シュトラウスの『イエス伝』Leben Jesu を翻訳出版しますが、『サイラス・マーナー』では田舎の素朴な人々の宗教感情に優しい共感を寄せています。サイラスは親代わりにエピーを育てようと決めた時、隣家のウインスロップ夫人の忠告に従ってあれほど敬遠していた教会に行くことを約束するのです。仮借ない懐疑主義の精神は、またすべてを容認する寛容の精神をも有しているのではないでしょうか。
 R.W. エマソンはジョージ・エリオットとの初対面の印象を「穏やかで澄んだ心を持った女性」と書いています。また、ハーバード・スペンサーは「女性らしい性質と素振りを持つ」メアリ・アンについて最大級の賛辞を寄せています。「その微笑には、常にともに頬笑む人間への共感があった」と。彼女は美人ではなく、貞淑さが第一の美徳と思われたその時代でさえ、その容貌の欠点は思春期の少女の心を痛めたかも知れません。しかし、内面の美というものは確かにあるもので、深い教養と寛容の心、弛まぬ好奇心は表面の美を「薄い皮膜」にしかすぎないと思わせるに足るものでした。それは、最も幸福な人間とは、他の人間の悩み、考えを共有できる強さを持つ人間である、というジョージ・エリオットの生涯の心持ちの証明でもあるのです。

 
 

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2007年9月16日 (日)

カンディンスキー/フランツ・マルク『青騎士』

 フランツ・マルク(1880~1916)の描くかわいい動物の絵はいつまでも見飽きるということがありません。水を飲む馬、輝く狐、眠る牡牛、うずくまる犬や猫、そっと立つ鹿など、美しく、不思議な、夢見るような光景、これはほんとうに動物を愛した人間が描く世界です。「私を取り巻く罪深い人間は私の真の感情を呼び覚ますことはなかった。しかし、動物に生まれつき備わる生に対する感覚は、私のなかにあったすべての良きものを引き出した」とマルクは書いています(「賢者の石ころ」より)動物の傍らにいる時、人間が感じる安らぎに似た感じは、人間が失ったものを求める郷愁に似ているのです。フランツ・マルクはそれを描くために動物の心の中を覗こうとします。「芸術家にとって、動物の目にうつるであろうような自然の映像以上に、謎めいた表象がまたとあるだろうか?」とマルクは自問します。「馬はこの世をどう見ているだろう? 鷲は、鹿は、あるいは犬は、、、? ぼくらが動物の映像世界を推量するために動物の内面に身をひそめるかわりに、動物をぼくらが目にする風景のなかにおくのは、なんと心ないみじめな習慣だろう」
 マルクの動物が潜み、吼え、眠る風景は動物自身が見たであろう光景なのです。それは理性によって曇らせられることのない風景、〈物自体〉を見据えている風景なのです。マルクがもっとも影響を受けたヴォリンガーの『抽象と感情移入』にはこんな一節があります。マルクにとっての動物はヴォリンガーにとっては未開人となっています。「未開人にあっては、いわば〈物自体〉に対する本能が最も強烈である。外界に対する精神的支配力の増加と慣れは、この本能の衰弱や退化を意味する。人間精神が数千年の永い発展の過程において、合理主義的認識の道程をすっかり通り過ぎてしまった後にはじめて、再び人間精神のうちに〈物自体〉の感情が知に対する究極的な諦観として目覚めるだろう。かつては本能であったものが、今度は究極の認識的成果となる」(草薙正夫訳)と。

 フランツ・マルクは、風景画家であった父親と、アルザス出身の厳格なカルヴァン教徒であった母親との間にミュンヘンで生まれました。父からは芸術的才能とドイツ語を、母からは深い宗教性とフランス語を受け継いだといわれています。神学と哲学を学んだ後で、フランツはミュンヘンの美術アカデミーに入学し、1903年に卒業するとパリに出ました。しかし、パリの生活の中で画家は深い抑鬱症に陥ります。自分がどこに向かうかわからない不安、自分の絵画が目指す場所が見えないという不安です。しかし、ゴッホの絵を発見したことが彼に心の平安を与えました。彼は自分が愛するもの、馬や鹿について描こうと考えたのです。マルクは動物解剖学を勉強し、動物を通じて根源的な宗教体験に似た認識を獲得します。「ぼくは、馬をあるがままに描こうとは思わない」と彼は言っています。「馬が感じているように、すなわち、われわれが見ている外観の背後に生きている絶対的な存在として描こうと思うのだ」と。「芸術とは、霊域に通じる橋である」という悟りを彼は得たのです。
 フランツ・マルクは1910年3月、ミュンヘンで「新芸術家協会」の展覧会を観て共感し、その中心的人物だったカンディンスキーと親交を持つことになりました。マルク30歳、カンディンスキーが44歳の時でした。当時、ゴッホ、ゴーギャン、ムンクらの表現に影響を受けて、フランスのフォーブ(野獣派)、イタリアの未来派、オーストリアの分離派などと同様にドイツでも表現主義の波が押し寄せていました。というよりドイツこそ形式よりも内容を、客観的自然の把捉よりも内面の真実の表出を重要視する表現主義の嵐の中心地だったのです。ベルリンの新分離派、ドレスデンの《ブリュッケ(橋)》が知られていますが、そのメンバーのきらめく才能によってミュンヘンの《青騎士》に優るものはありません。「私たちは二人とも青が好きで、そしてマルクは馬が、私は騎士が好きだった」とカンディンスキーはその名前について語っています。
 1911年、《青騎士》は二回の展覧会をミュンヘン始めドイツ各地で開催しましたが、この頃、マルクは彼の名声を確立した動物連作を描き始めています。1912年、年刊誌『青騎士』の第一号が出版されました。フランツ・マルクは巻頭の三つのエッセイを書き、カンディンスキーは『フォルムの問題について』という力作の論文を載せています。他に、マルクにアンリ・マティスの絵画を教えた7歳年下の鬼才アウグスト・マッケが『仮面』というエッセイを、シェーンベルクが音楽論を執筆したりしています。しかし、何よりも雑誌『青騎士』の特徴は、古今東西にわたるジャンルを超えた芸術の集積にあります。子どもの絵、ボルネオの彫刻、エジプトの影絵、中国や日本の絵画、メキシコやイースター島やニューカレドニアの彫像、古代ギリシアのレリーフ、バイエルンの民間のガラス絵などに混じって、セザンヌやゴーギャンやゴッホやクレーの絵が掲載されています。その真意は奈辺にあるのでしょうか。マルクは、作品の真実性を保証するのはその内的な生命である、と断言します。「芸術的な事物において、作品の慣習的な外面などまったく顧慮することなく、真実を愛する人々によって創られたあらゆるものは、どの時代にあっても本物でありつづけるのだから」と。形式を超えた内的真実こそ、見る者を感動させるというのです。

 『青騎士』第二号の計画は第一次大戦の勃発とフランツ・マルクの出征により中断しました。物質文明の未来に何の希望も見出せなかったマルクは新しい世界の曙光をこの戦争に託したのではないかと言われています。大戦開始直後に、《青騎士》の同士アウグスト・マッケが戦死したことで衝撃を受け、泥沼戦の中で虐殺を目撃するなど戦争の醜さを感じながら、マルクは来るべき制作の時のためにスケッチブックを離しませんでした。しかし、彼は1916年3月、ヴェルダン攻防戦のさ中、ある教会の中で砲弾に直撃され、あまりに短い36歳の生涯を閉じるのです。

 カンディンスキーは78歳まで生きて1944年に動脈硬化でなくなりました。マルクと違って怜悧な学者肌のカンディンスキーは内的表出という共通の命題をさらに徹底させ、ついには対象と完全に訣別することで純粋な抽象の世界にたどり着きました。そこには、マルクにも見られた、霊的魂の探求、神秘主義、衣装を変えた大時代のロマン主義が隠されています。その道が「かみそりの刃」の上を歩く危険な道であることは、カンディンスキーがブラバツキー夫人のオカルティスムやルドルフ・シュタイナーの神智学に接近したことでもわかるでしょう。カンディンスキーには、マルクの動物のような浄化された一点がなかったのです。フランツ・マルクも晩年には、未来派の幾何学的世界に彼の動物たちを棲まわせようとしました。最後の絵となった《ティロル》には動物は消えて、画面の中央にかすかに幼児を抱いた聖母が描かれています。しかし、いかなるときでも、マルクの眼差しからは、無垢の象徴としての動物の姿は失われることはありませんでした。彼は愛犬ルッシを描いた絵《世界を前にする犬》を残していますが、その絵について、犬がそんな風に座って世界を見つめているとき、犬の中でどんなことが起こっているか知りたいものだ、と語ったと伝えられています。

 『青騎士』(2007白水社・岡田素之・相澤正己訳)は、一号しか刊行されなかった年間誌『青騎士』の忠実な全訳です。論文・挿絵のすべて、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの楽譜、さらにフランツ・マルクの飾り文字まで、そのままに美しく再現されています。いや、再現されているのは1912年という「あらしの前」の時代そのものだと言ってもよいでしょう。(同書に挿入されたマルクの、黄色い鹿の木版画、水彩画による木版画「二頭の馬」それに「牡牛」を載せておきます)


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2007年9月 6日 (木)

T. ワイルダー『サン・ルイス・レイ橋』

 1714年7月20日金曜日の正午、リマからクスコをつなぐ街道筋にあるサン・ルイス・レイ橋が崩落し、五人の人間が真逆さまに谷底に転落して死亡しました。この橋はペルーの歴史ある名橋で、何人もこの橋が落ちるなどと思いもしないことでした。前日この橋を渡り、あるいは明日この橋を渡る予定だった人々は、運命が自分たちでなくその五人を選んだことに感謝しつつも「もし自分だったら」と思うと肝が冷やされるのを感じたのです。
 しかし、この惨事をたまたま目撃したジュニパー修道士は、そこに神の明白で誤ることのない意思を見ようとしました。なぜ、他の人間でなく、その五人が選ばれたのか? もしこの宇宙に何らかの計画が存在し、この人生に何らかの範型が存在するとすれば、こんなに突如として断ち切られたこの人たちの生涯の中にこそ、たしかにそうした計画や範型が秘め隠されているのを発見しうる筈だ、ジュニパー修道士はそう考えたのです。彼は、その直後から五人の犠牲者の生涯について調べ始めました。リマ中のほとんどすべての家を訪れ、数千という質問を発し、幾十の手帳を書き尽くし、その六年にわたる調査の結果は厖大な一冊の書物となりました。彼はその中に、故人の言葉や逸話やささいな出来事の思い出を細大漏らさず書き残しました。どんなわずかな生活の断片、知人の思い出の中にも、もし後世の炯眼ある人間が注意深く読み込めば、そこに神の摂理の紛うことのない証拠を発見しうると信じたのです。
 この書物は直ちに異端審問官の目に留まり、著者もろとも火中に投ずべしという審判が下されました。こうしてジュニパー修道士は公衆の面前で広場で火刑に処せられ、その書物も焼かれたのです。しかし、秘密の写本が一冊、サンマルティン大学の図書館深くに残っていて、そこには多くの逸話や証言の最後に荘重な文体で神がなぜその日に五人の人間を天に召されたのかが書かれている、ということです。

 その五人とは、モンテマヨール侯爵夫人とそのお付きの少女ペピータ、双子の兄弟の一人エステバン、舞台監督のアンクル・ピオとその女友達の息子ドン・ハイメでした。

 モンテマヨール侯爵夫人はリマの富裕な織物商の娘でしたが、醜い容貌と吃音のため子供時代から引きこもるように暮らしてきました。娘を心配した母親は、何とか彼女を人前で目立たそうと、体中に宝石を飾らせて通りを歩かせたりしましたが、孤独を好む性癖は多くの求婚者があらわれたにもかかわらず、彼女に独身を通させました。しかし、母親のヒステリックな願いに負けて、彼女は26歳のときある年取った没落貴族と結婚します。結婚後も孤独な思いにふける生活は続きましたが、一人娘が誕生するに及んで彼女の生活は変わりました。侯爵夫人はは気違いじみた愛情をこの娘に注ぎ始めたのです。ところが、娘は母親に似ず理知的で冷徹な性格で、成長するに及んで母親を馬鹿にするようになりました。母親は何とか娘の機嫌をとろうとしつこい愛情を示すのですが、娘はそれをうるさく感じ、手紙が届くさえ六ヶ月もかかるスペインの伯爵家に嫁いでしまいます。
 リマで一人で暮らすこととなった侯爵夫人はさらに内向的になり、次第に身なりに無頓着になり、独り言をくり返すようになり、アルコールに溺れ、その奇矯な行動はリマ中の人々の噂に上るようになりました。夫人の唯一の楽しみはマドリッドに住む娘に手紙を書くことで、娘が興味を持って読むよう面白い話や耳目をひく事柄をリマ中から探し求めました。夫人が望むことは、ただ娘から「こんないいお母さんなんていないわ」と言ってもらうことでした。
 彼女は奇妙な麦藁帽子を被り、日がな一日バルコニーに座って、あれこれと思い悩むことがありました。娘の愛を望みながら、しかし彼女は自分が決して娘から愛されないことを知っていました。そのことは彼女の考えの奥深くに浸透し、彼女のものの見方を左右したのです。夫人は神を信じられなくなり、人間はみなエゴイズムの塊で、親しい友人にふりかかった災難にさえ無頓着である、と思うようになったのです。そして悲しい眼差しは自分自身にも向けられ、自分は結局娘を愛しているのではなく自分自身を愛しているだけなのではないか、とも考え始めました。
 その頃、侯爵夫人はサンタ・マリーア・ロサ・デ・ラス・ロサス修道院付属の孤児院からペピータという12歳の少女を話し相手として借り受けていました。ペピータは修道院長であるマードレ・マリーア・デル・ピラールの秘蔵っ子で、彼女は聡明で信仰心厚いペピータを自分の後継者にしようと考えていたのです。侯爵夫人の相手として差し出したのも、大邸宅での起居を経験することは彼女の将来に必要のことと考えたためでした。ペピータは老院長に身も心も捧げていたので、馴れ親しんだ孤児院を離れ多くの召使いの中の生活に入っていくことも甘受し、侯爵夫人の気紛れ多い態度にも我慢しました。そして、いつしかペピータは夫人にとってなくてはならぬ存在となっていきました。少女が邸宅に来てから二年目、スペインに暮らす娘の安産祈願のためアンデス山中のサンタ・マリーア・デ・クルシャンブカの神殿に夫人とペピータは参詣することになりました。サン・ルイス・レイ橋の袂にある宿屋に宿泊すると、早速ペピータは運搬夫に行李を降ろさせ、火桶やタピストリーの置き場を教えると、料理場に下りて、夫人の常食の粥の調理について細々した指示を与えました。それから、部屋に戻って、マードレ・マリーア・デル・ピラール修道院長に手紙を書き始めました。「、、、私は自分が見捨てられたとは思っておりません。もし、私が夫人の許にいることを院長さまがお望みなら、、、。私は始終院長さまのことを考え、院長さまのおっしやったことを思い出しています。私は院長さまのお望みになることだけをしたいと考えておりますが、もし四、五日でも私を修道院に帰していただけたら、いえそれも院長さまがお望みでなければ帰りたくはございません、、、」手紙の途中でペピータが粥の味加減を見に階下に行くと、隣の教会堂でお祈りをしてきた侯爵夫人が部屋に帰ってきました。夫人はふと卓の上のペピータの書きかけの手紙に目をとめ、無意識にそれを開いて読み始めました。読み終えてインクの染みで汚れた手紙をたたんで傍らへおくと、夫人の心はある羨望に似た気持ちでいっぱいになりました。自分の愛情にいつも重苦しく付きまとっている倨傲と虚飾とをかなぐり捨てて、こうした素朴な愛情へ帰れないだろうか、ここには確かに幸福への秘密が隠されている、、、夫人は娘とのやりとり、記憶の底から掘り出された対話、ありもしない侮辱、除け者にされているという意識、を思い出しました。それら記憶の残骸を押しのけて、明日からもう一度人生を生き直すことができるだろうか。夕食の後、夫人はペピータの寝室に入って、その寝姿を眺め、その顔にかかっている長い髪をかきあげました。「これから自分はほんとうに生きるのだ」と彼女は呟きました。
 その二日後、リマへ帰る途次にモンテマヨール侯爵夫人とペピータはサン・ルイス・レイ橋を渡って椿事にあったのでした。

 ある朝、サンタ・マリーア・ロサ・デ・ラス・ロサス修道院の戸口の捨子箱に双子の兄弟が発見されました。直ちに、マヌエルとエステバンという名がつけられましたが、あまりに似ているので、誰もこの二人を区別することはできませんでした。院長のマードレ・マリーア・デル・ピラールはこの二人を愛し、院長室へ呼び寄せては菓子を与えたり、お話を聞かせたりしていました。年頃になると、彼らは修道院を出て、リマの僧院の聖具室で働いたり、十字架を磨いたりしていましたが、いつしか代書人の職を身につけて劇場の舞台の脚本や音譜の筆写を始めました。
 無口で生真面目な二人は、自分たちが似すぎていることを恥ずかしく思い、そのことで周囲の人たちにからかわれることに耐えていました。彼らはお互い同士顔を見合わせることも妙に嫌がり、二人つれ立って市には現れないという暗黙の取り決めができていて、同じ用事で出かけるにしても違った通りを行くことにしていたのです、、、こうした仲というものは何といったらよいのでしょうか、その事実の反面には実はこの二人が互いに相手を必要とすることのやむにやまれぬ衝動があるのです。この二人の仲にはいつも奇蹟ともいうテレパシーが起こって、たとえば一人が家へ帰ってくる時には他の一人は通りをいくつも隔てた遠くからもうそのことに気付いたりするのです。彼らは物を言えるようになった頃から二人だけの秘密の言葉を発明していて、人がいない時はこの言葉を話し、苦しい時には人前でも使いました。この秘密の言葉こそ彼らの一心同体の証しなので、モンテマヨール侯爵夫人がクルシャンブクゥの宿屋で感じたことを一つの言葉で表すことが難しいように、マヌエルとエステバンの間にあるものも「愛情」とはかたづけられないある独特の感情だったのです。

 ところが、彼らが22歳の時、兄弟の仲を割くような出来事が発生したのです。二人は性格もまた酷似していたのですが、ほんのわずマヌエルの方がエステバンより感じやすい心を持っていました。舞台の台本の書写が終った日、支配人の好意で二人は劇場で芝居を観ました。気難しい性格の二人は芝居などなんの興味もなかったのですが、幕間に看板女優のペリチョーレが舞台の上で踊ると、マヌエルはその赤い靴と赤い靴下に強い感銘を受けました。それまでに二人はもちろん女性たちとつきあったことがあったのですが、今度の場合は全く違っていました。彼女がマヌエルには高嶺の花であったにしても、その不思議な情愛に満ちた興奮を抑圧することはできません。エステバンはマヌエルのこの変化にすぐに気付き、それゆえに苦しみました。彼は二人の生活の意味がすっかりなくなってしまったように感じたのです。ある夜、二人の下宿でマヌエルが代書の仕事をしていて、エステバンが寝床に入っていた時、突然戸を叩く音がして、マヌエルが開けるとそこにペリチョーレが立っていました。彼女は夜遅く来た詫びを言い、急な手紙を代書してほしい、とマヌエルに頼みました。エステバンは夜具の隙間からペリチョーレがマヌエルの耳元でささやき、マヌエルが頷きながら代書していく場面を見ていました。それを見ていると、急に自分自身が限りなく小さくなり、不必要な存在に思われたのです。用を済ましてペリチョーレが部屋から出ていくと、暫くしてエステバンは服を着けて少し散歩に出かける、とマヌエルに言いました。マヌエルは兄弟の間の亀裂に直ちに感づくと、「エステバン、どこに行くんだ」と尋ねました。「俺は邪魔な存在なんだ」とエステバンは言いました。「何を言うんだ、俺はあんな女なんか愛していない」とマヌエルは言いました。「どうせ望みなんかないんだから。俺はもうあの女が代書を頼んできても断るよ」そして、実際マヌエルはペリチョーレへの思いを断ち切ったのです。彼はエステバンが、あのかけがえのない存在であるエステバンが遠く地平線の彼方へ消えてゆくのを目の当りにしたように感じました。彼はエステバンの苦しみを感じ、熱に浮かされた幻のために兄弟を犠牲にすることなどできないと思ったのです。

 ある夕方、仕事中にマヌエルは金具で膝の肉を引き裂きました。二人はこれまで病気をしたことがないので、兄弟ともパニックに襲われました。襲い来る痛みと不安にマヌエルは自分を失い、兄弟の苦しみにエステバンは気が狂いそうになりました。町の理髪屋兼外科医が隣町から朝戻るのを待って診てもらい、水薬と塗薬を渡されました。一時間ごとに当てる湿布の激痛のためマヌエルは我を失って、朦朧とした気持ちでペリチョーレの名を叫び、仲を割いたエステバンを憎み、痛みが治まるとそれを否定しエステバンに許しを請うのでした。三日目の夜、エステバンは坊さんを呼びにやりました。そして、暗い部屋の中で臨終の塗油を受けてマヌエルは息を引き取りました。下宿の大家が修道院に連絡すると、院長は飛んできて一切の後始末を済ませました。エステバンを見つけて、手伝ってくれるよう頼むと、エステバンは黙り込んでから「いやです」とだけ言いました。白昼に蝋燭を輝かしてマヌエルの葬列が市中を通るとき、エステバンはその葬列と並行する通りを葬列に遅れながら遠くから隠れるように追って行きました。
 それ以来、エステバンは幽霊のように町や墓をさまよい、修道院の周りをひそかに徘徊するところも人々に目撃されました。院長はエステバンを心配して、船長で旅行家であるキャプテン・アルバラードに相談することにしました。キャプテン・アルバラードは地球上をくまなく航海して、その豊富な人生経験と気高い性格でリマの町の人々から尊敬されていたのです。実は兄弟が修道院長以外に心を許した人間はただ彼一人でした。アルバラードは最愛の一人娘を失ってから、ただその面影を求めるためにだけ、あるいは悲しみを忘れるためにだけ世界を旅行しているのだということでした。船長は、代書の仕事のためクスコにいるというエステバンを訪ねて行きました。
 アルバラードは宿屋にいるエステバンを夕食に誘いました。しこたま酒を飲ました後、「わしは次の航海に連れて行く若い男を探しているんだが、どうだ、わしといっしょに働かないか?」と誘うと、エステバンは頷きました。それから椅子からずり落ちるほど酔ったエステバンを抱えて部屋のベッドに寝かせると、アルバラードは宿の前の広場でアンデス連山の上に懸かるおびただしい数の星の光を見上げました。すると、中空にさまよいながら自分に微笑みかける懐かしい娘の幻影が見えるのでした。
 翌朝、宿の下でアルバラードが待っているとエステバンが降りてきて、やはり行けなくなった、というのです。「なぜだい、昨夜は行くって約束したじゃないか」「どうしても駄目です。私はお伴できません。このペルーを離れることはできないんです」「いや、エステバン、今のお前にはペルーより海の方がいいんだ。リマもクスコも、その街道もお前はみんな知ってしまっただろう。お前に必要なのは海だよ。海にいれば年が年中仕事はある。さあ、お前の荷物を取っておいで。そしたらわしたちは出発しよう」そう言われて、エステバンは何とか決断をつけようと、ゆっくり階段を上がっていきました。船長は彼を待っていましたが、ずいぶん待たされるので思い切って階段を途中まで上がって耳を澄ましました。つづけざまに物音がしたので、体をぶつけ戸を壊して中へ入るとエステバンが梁から切れた綱にからまって床に倒れていました。「あっちへ行ってください、一人にして下さい」とエステバンは叫びました。「私はひとりぼっちだ、ほんとうにひとりぼっちだ」と彼はうめきました。船長は蒼白になりながらエステバンを見下ろして立っていました。彼の心に今ふたたび蘇ってくるのは、かつての日の彼の心情に外なりませんでした。「エステバン」とキャプテン・アルバラードは言いました。「人間には自分の力だけのことしかできないんだよ。できるだけ頑張るまでのことさ。エステバン、永いことはないんだ。時はどんどん過ぎてゆくんだ。後になってみれば、年月の経つのは早いものだとびっくりするぜ」
 二人はリマへ出発しました。サン・ルイス・レイ橋を渡るとき、船長は荷物の運搬を監督するため河へ降りていきましたが、エステバンは橋を渡ろうとして、その墜落と運命をともにしたのでした。

 残りの二人、アンクル・トムとドン・ハイメについては割愛しましょう。私たちの周囲にいる人々、そのうちどの五人をとっても、モンテマヨール侯爵夫人やペピータやエステバンと同じくらい、あるいはさらに狂おしく、孤独に苦悩し愛を求めているのではないでしょうか。しかし、それがわかるのはその人が死んだ時なのです。その人が亡くなってはじめて、私たちはその人について考え、その人の秘密に気付き、しかし、もっとも隠された部分は謎であったことがわかるのです。

 ソーントン・ワイルダー(1897~1975)はユージン・オニールとテネシー・ウイリアムズの間に記憶される劇作家ですが、中国大使をしていた父の下に生まれ、若き日をローマで過ごしました。『サン・ルイス・レイ橋』(岩波文庫・松村達雄訳)の驚くべき構想のヒントはこのローマ時代の古典と歴史研究にあるといわれています。

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