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2007年8月22日 (水)

J.P.ヴェルナン『ギリシャ思想の起原』

 「その失われた対話篇『哲学について』の中でアリストテレスは、定期的に人類を亡ぼす自然の大異変について語り、その中でこのような天変地異の起こるたび毎に、わずかな生存者とその子孫が文明を再建するために通過せねばならぬ段階を叙述した」とヴェルナンは『ギリシャ思想の起原』(1970・みすず書房・吉田敦彦訳)の第5章「都市の危機、最初の賢人たち」を書き始めています。ゼウスの怒りによって引き起こされた「デウカリオンの洪水」で死を免れた者たちは、まず生産の基本手段を、次いで、生活を美化する技術を再発見せねばならなかったのですが、第三段階において、彼らはポリスの組織に注意を向け、法律と都市の部分を結合するすべての絆を発明した、とアリストテレスは書いています。「そして、彼らはこの発明を《知恵》と名付けた。七賢人の所有する知恵は、この知恵であり、彼ら七賢人こそまさに市民に固有の徳の発明者だったのである」
 この文脈で重要なことは、ポリスについての知恵が第四段階のピュシス・テオリア(自然学)の知識、第五番目の宇宙的秩序を越えた神的な知恵よりも先行しているということ、そしてその知恵をもたらすのが七賢人である、ということです。事実、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』第一巻は11人の〈賢人〉に充てられており、アナクシマンドロス以下の哲学者は第二巻より登場します。哲学者は都市の娘であるに過ぎず、その都市の魂を作り出すのが賢者の仕事なのです。

 ところで、七賢人とはいかなる人たちでしょうか。ディオゲネス・ラエルティオスはタレス、ソロン、ペリアンドロス、クレオブゥロス、キロン、ビアス、ピッタコスを挙げ、さらにアナカルシス、ミュソン、ペレキュディス、エピメニデスの名を加えています。彼らはその職種も、立法者(ソロン)、僣主(ペリアンドロス)、王族(アナカルシス)、呪術的予言者(エピメニデス)、神学者(ペレキュデス)などさまざまでした。彼らに共通の特徴は、彼らが共同社会の枠の外に基盤を持つことができる例外的で特別な存在、つまり変人であったということです。彼らはその生活の仕方によって社会から孤立しているがゆえに、共同体が身に帯びている災いや汚れを浄め、見えざる罪過を露わにすることができました。密儀宗教の中の個人と同じように共同体も彼ら賢人の知恵で再生し、変様し、より高い存在に持ち上げられるのです。それゆえ彼ら賢人はほとんど神の如きユニークな存在、ティオス・アネル(神人、あるいは奥義に達した人)とみなされ、彼らが言葉または文書によって都市に向かって発言する時、それは常に天来の真理を伝達するものと受け取られたのです。
 後の哲学者たちとの違いはそこにあります。哲学(フィロソフィー)の原義は「知を愛する」ということでしかなく、ルネ・ゲノンが言ったように、知そのものではありません。哲学はプロタゴラスのように世俗的な道具的知識になるか、ピタゴラスのように完全に閉鎖的な秘教に陥るかの道しかなく、かつての賢人が持ったような密儀的力を持ちながらかつ公共的威信も持つ(賢人の言葉は金言と見なされました)存在はついに再び現れなかったのです。

 賢人たちには伝説が残っています。サテュロスによって七賢人の筆頭にあげられたビアスは、人間にとって甘味なものは何かという質問に「希望だ」と答えています。また彼は、不幸に耐えることができない人こそがほんとうに不幸であるとか、つまらない人間を富のゆえに称賛するなとか、人を愛する時にはいつかは憎むことになるかもしれぬように愛せ、なぜならたいていの人間は劣悪だから、とも言いました。青年から老年への旅支度として知恵を用意せよ、これはどんな持ち物よりも確かだからだ、とはまさにそのとおりです。
 スキュティアの人アナカルシスは、どんな船が一番安全か、という問いに「陸に上がった船だ」と答えました。彼はある日、自分より賢い人間はいるか、という神託を伺ったところ、ピュティアの巫女は「オイテーの地のケーンに住むミュソンなる者、汝よりはるかに賢き者なり」と答えました。この神託に興味を持ったアナカルシスはケーンの村にミュソンを訪ねました。そして、ミュソンが夏であるのに鋤の刃に柄を取りつけようとしているのを見て、「ミュソンよ、いまはまだ鋤を使う季節ではあるまいに」と言うと、ミュソンは「そのとおり、だから用意しておくのだ」と答えました。このミュソンはプラトンが『プロタゴラス』の中で七賢人の一人に挙げていますが、あるとき人里はなれた所で一人で笑っているのを不意に通りがかった人がとがめて「なぜ誰もいないのに笑っているのか」と尋ねたところ、「誰もいないからだ」と答えたということです。

 賢人はだいたい前七世紀末から六世紀の危機の時代に登場します。簡単にギリシア史を振り返ってみましょう。
 ドーリア人の侵入とミュケナイ王制の崩壊はギリシアに決定的な変革をもたらしました。長い暗黒時代の後に各地に並立する貴族的武士階級は互いに反目しながら、なお共存する道を探し求めます。こうして、八世紀に軍事と産業を兼ね合わせた史上まれなポリスが誕生します。ヴェルナンによれば、ポリスの特徴は三つありました。一つは他の権力手段に対する言葉の絶対的優位、第二に社会生活上の最重要事項は必ず公共の場に引き出され、そこで論議の末に決定されるということ、さらに第三にポリスの成員はその出身、社会的地位、職務にかかわらず相互に「似通った」者たちであることを意識し、この類似性がポリスの統一の基盤を与える、というのです。
 「ポリスの出現によって社会生活と人間関係は、ギリシア人自身その独創性を意識する新しい形をとる」とヴェルナンは書いています。しかし、まもなくポリスは危機の時代に突入します。ギリシアは常に土地と食物と貴金属の三つを求めてきた、と云われますが、再びオリエントとの交易が始まり、地中海貿易の拡大とともに貴族間にも貧富の差が拡大します。冨を蓄えた貴族は耕地と農民を収奪することで、自営小農民たちを奴隷に転落させます。葡萄・オリーブなど交易のための営利作物栽培の増大は禾穀(かこく)のための耕地を奪い、その時代に増加した人口を養いきれなくなります。個人主義の増大、共同体の根幹である市民の平等の価値の低下、各ポリスでの僣主の横行は、人々に彼らの基盤であったポリスの精神の喪失を意味しました。

 最も強大なポリスの一つであるアテナイでも、この混乱に乗じてキュロンとその一味が僣主の座を狙いますが、彼らは神殿で殺されてしまいます。神聖な場所を夥しい流血で汚されたと感じた市民は、その汚れを祓うためにクレタ出身の予言者エピメニデスをアテナイに招聘します(596-593年)。この招聘は、市民が、ただ単に神殿の汚ればかりでなく、ポリス全体に漂うアノミア(法のない状態)に不安を感じ、共同社会全体の精神的改造を意図したものと思われます。
 ところで、エピメニデスとはいかなる人物でしょうか。プルタルコスは彼のことを「七賢人の一人であり、神々に愛され、神のことについては霊感による密教的な智慧を持っている」と書いています。彼はティオス・アネルの典型で、葵と赤熊百合を食し、魂を意のままに身体から出すことができたと言われています。また、非常な予見の力を持っていたとも、疫病の都市を浄め、そこに祭壇を作ったという伝承もあります。子供の時に行方不明になり洞穴で57年の間眠っていたとか、その150年にわたる生涯の間、食事する所を見られたことが一度もなかった、とも言われています。アテナイがそのミアスマ(しみ、汚れ)を洗い落とすために迎えたのはこのような人間でした。
 エピメニデスは、アテナイで改革に着手していたソロンを友人として扱い、彼自身数々の改革を行いました。その中で特に知られているのは葬式の時の喪の規定を緩やかにし、女性が従わねばならなかった野蛮な習慣を廃止したことです。彼は、むろん、宗教上の儀式を整え、神殿神像を建立し、アテナイに神聖な習慣を取り入れて、人々を正義に服し協和に向かうようにさせました。彼が帰るとき、アテナイ市民は彼に一タラントンのお金とクレタへの船を提供しようとしたが、彼はオリーブの枝を一本所望しただけだった、とも言われています。

 しかし、アテナイを再生させたのはやはり七賢人の一人ソロンでした。彼はアテナイの貴族の出ですが、財産から見れば中産階級に属していました。彼はその家柄には珍しく若い時に海外貿易に従事し、さまざまな国を渡り歩きましたが、それは単に蓄財のためばかりでなく修養のためだった、と思われます。彼の知識欲は「年老いても尚多くを学ぶ」と言って、老年を遊歴に過ごした生涯を見てもわかります。ソロンは外国貿易の経験から、奢侈や惰弱、船員に伴う危険な快楽も経験したようです。40歳頃ソロンは、自分をホイ・メソイ(中産者階級)と自覚し、人々に推されて、富裕と貧困の間の調停者の役を引き受けました。彼はアルコン(政務官)になり、ドラコンの立法を全面的に改正し、崩壊寸前にあったポリスを救おうとしたのです。
 賢人であることの必要条件は、私利を離れる、ということですが、これはまさに賢人ゆえにできることです。彼らは、一様に、生涯のある時期に自分自身を放下し、公的な利益のために没入することがありますが、アテナイ市民がソロンに期待したこともまさにそのことでした。彼は権力を握っても僣主の地位を狙うようには見えなかったのです。「独裁は美しい山だが、一度登れば下りられなくなる」とソロンは言っています。

 ソロンの情熱は富裕貴族階級の持つヒュブリス(傲慢、狂気の虜になって分(モイラ)を越すこと)への憎悪に表れています。それは冨の一極集中への憎悪です。「富に限度というものなし。コロス(飽満・横柄・傲慢)はヒュブリスの父なり」とソロンは言いました。富の本質は行き過ぎであり、それはいわばヒュブリスがこの世においてとる姿そのものです。「富の根源には従って一種の腐敗した精神、曲がった邪悪な意志、プレオネクシア(貪欲・強欲)が潜んでいる」とこれはヴェルナンの言葉です。
 富者のヒュブリスに対立しこれと対照をなして、節度、均衡、適度、中庸からなるソプロシュネ(慎み・自制)の理想が描き出されます。ソプロシュネは「限度を越すなかれ」というソロンの金言であるばかりでなく、ギリシアが全歴史を通じて求めたものでした。ソプロシュネは心の平静も意味し、それは神秘主義的雰囲気の中では悪より遠ざかり、すべての汚れを避けることのできる抑制と潔斎の徳になります。しかし、ソロンはそのソプロシュネを天上より下ろし、アゴラ(広場)に据えました。そうすることによって、彼はすべての市民がそれについて考え、議論することができるようにしたのです。人々はソプロシュネが自分たちが理想としていた「ポリス的人間」の範型であることを思い出しました。慎みこそ、貴族の尊大や傲岸、庶民の放縦や野卑を戒めさせるものだったのです。「賢人の役割は、その格言や詩の中に、市民の行動や社会生活の中に多かれ少なかれ含蓄されていた価値を明瞭な形で抽き出し、言葉で言表することにある。教訓は一時的には誤解され、拒否されるかもしれない。しかし、賢人は時に信頼する。真理を公表し、またソロン自らの言葉によれば、真中に(エス・ト・メソン)おいてさえおけば、それは何時か必ずアテナイ人らに認められるであろう」とヴェルナンは書いています。

 ソロンの多くの改革の中では「重荷おろし」の法が有名です。借金を帳消しにし、また身体を抵当にしての借財を禁じました。こうして自由農民が奴隷に転落するのを防いだのです。さらに、彼は市民の一人が傷つけられたとき、それは都市全体の傷にもなりうる、と示しました。どんな国家が住みやすいか、という問いにソロンは、「不正な目にあっていない人たちが、不正な目にあっている人たちと同じように憤りを感ずる国家だ」と答えました。彼は、戦争で死んだ者の子供をポリスの費用で扶養・教育する定めや、父親から技術を教えられなかった子供は父親を養う義務はない、など市民生活の細部まで規定しました。むろん、徹底しない部分もあって、官職は財産の多寡によって決められるとか、貴族にほぼ独占されていた土地の再分配を行わなかったとかは後のクリステネスの時代まで待たねばなりませんでした。ソロンの改革は、自前で武装できる軍事力としての都市中産階級の増大を促してポリスの強化に役立ったと言われています。彼は、この改革が富裕層にも貧困層にも恨まれるだろう、と予想しましたが、あなたはアテナイ人のために最良の法律を作ったかと聞かれてソロンは「人々が受け入れる内で最良のものを」と答えました。「彼は僣主となることができたにかかわらず、祖国を救い、また最良の立法を行って、双方から憎まれる道を選んだ」とアリストテレスも『アテナイ人の国政』で評価しています。ソロンは、この法律に百年の効力を与え、木の回転板に記して行政府に掲げました。500年後、プルタルコスがアテナイを訪れた時にもまだその回転板の朽ちた残りがあった、ということです。ソロンは立法を終えると、十年間は帰って来ないと宣言して直ちにアテナイを発って旅に出てしまいました。「無知は重荷である」とは彼の有名な金言です。

 政治学を専攻する院生が私の職場にアルバイトに来て、話を聞いたところ、現在は時事的な問題、国の将来についての問題で権威をもって意見を言える知識人がいなくなった、と語っていました。私はその時は何も答えなかったのですが、一人になったとき、マイリンクの『ゴーレム』の一節を思い出しました。人の住まない部屋で何年も積もった埃がやがて何かのきっかけで火がついて燃え上がるように、ゲットーに住む人々の想念が次第に積もり積もってやがてゴーレムという怪物を生み出します。私たちを導いてくれる賢者を望む気持ちが、いつの日か渦巻いて巨大な形をとり、道を知らせてくれる人物を作り出すのではないか、それが賢者かゴーレムかは神のみぞ知るとしても、、、。

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2007年8月11日 (土)

J.C.キャネル『フーディーニの秘密』

 ケネス・シルバーマンの『フーディーニ!!!』(1999 アスペクト・高井宏子・庄司宏子・大田原眞澄訳)は偉大な人間の詳細な伝記です。フーディーニ(本名エーリッヒ・ヴァイス1874~1926)はハンガリーのブタペストにユダヤ教のラビである父親のもとに生まれました。彼が二歳の時、家族はアメリカに渡り、父親はニューヨークなどでユダヤ教の儀式についての何でも屋で生計を立てるかたわら妻と六人の子供を養うためにネクタイ工場で働いたりもしました。四番目の息子エーリッヒは幼い頃から靴みがき、新聞配達などをして家計を支えていました。ほとんど学校教育を受けていないのですが、エーリッヒは自分がラビの息子であること、立派な学者の家柄の出であることを常に誇りにしていました。晩年に魔術の歴史についての厖大な書物のコレクションの整理・研究のためH.P.ラブクラフトを助手として雇ったのですが、ラブクラフトは最初はフーディーニを「くだらない野郎」だと思っていたのですが、次第にある分野での正確な知識と量、人間についての鋭い認識、研究態度の誠実さに敬愛を覚えるようになりました。もっとも「一般教養が足りない」とつけ加えていましたが、これがフーディーニの悩みで、死ぬ数年前にはコロンビア大学の英語コースの新入生になることを真剣に考えていたということです。
 子供の頃からスポーツと手品が好きだったエーリッヒが肉体を使った奇術の世界に入ることはいわば必然的でした。芸名のフーディーニは近代最高の奇術師ロベール・ウーダンを英語読みにしたものです。フーディーニはまず手錠抜けの技術で有名となりました。手錠についての深い知識と強い肉体の鍛錬と勇気が彼に名声をもたらしたのです。その後も危険を伴う脱出技が常にフーディーニの最高の呼び物で、彼はアメリカにおける世紀の境目に出現した最も成功した人間の一人になりました。

 しかし、フーディーニの名を高らしめているのは最晩年における彼の心霊主義との闘いでしょう。心霊主義は19世紀の半ばに興ったもので、真理を3000年前の預言者の言葉から引き出すのでなく、他界してしまった愛する家族や知人から直接得ようとするものです。特別の能力を持った霊媒(medium)が降霊会という催しで死者を呼び出し、呼び出された死者は生者の質問に答えたり彼らを励ましたりするのです。アーサー卿コナン・ドイルが最も有名な伝道者で、ウイリアム・ジェイムズやダヌンチオ、ベルグソンらも賛同者だった、と云われています。心霊主義が流行した理由の一つは、極端に進んだ科学主義があります。科学至上主義に対する反撥と、その反対に科学が人間の無意識また霊の世界さえも解明できるという無条件の信頼、の両面があるというのですが、世紀が変わって、第一次大戦が夥しい犠牲者を出した後で、肉親の死を認めきれない遺族が死を乗り越える思想を心霊主義に求めたとも云われています。降霊会は部屋を暗くした中で行われ、人々が輪を作って卓の回りに手をつないで座ります。霊媒に呼び出された死者はメガホンで叫んだり、ベルを鳴らしたり、人の頭を叩いたりしますが、この間、霊媒は両手を左右の人間に拘束されています。フーディーニは「霊媒たちのすることはすべてトリックで可能であり、そもそもなぜ死者が生者の世界に関心を持つ必要があるのか」と言い、世に名高い霊媒たちのペテンに対して闘いを宣言します。
 手錠して河に沈められる、拘束衣をつけて檻に入れられるなどの修羅場をくぐり、さらにあらゆる奇術についての豊富な知識を持っていたフーディーニにとって霊媒たちのインチキを暴くなど朝飯前のことでした。しかし、彼の前に最強の霊媒「マージェリー」が登場します。マージェリーの夫クランドン博士はハーヴァード大学の著名な外科医で、ボストンの優雅で知的な邸宅で開かれた降霊会には多くの文化人、科学者が参加していました。マージェリーが呼び出す死者は事故で死んだ実の兄ウォルターで、ウォルターは口笛を合図に現れると、次々とふざけたいたずらを行います。フーディーニは直ちにマージェリーの仕掛けを見抜きますが、巧妙なマージェリーは決して証拠を掴ませません。あろうことか、ウォルターは「フーディーニ、奴はやっぱりユダ公だ」と降霊会で叫んだりします。実際、この二人の対決は、ボストンの洗練されたインテリ仲間といかがわしいユダヤ人の手品師との闘いと見られたのです。そして、ついにフーディーニは公開の降霊会でマージェリーに「霊力」を使わせず、彼女が伸縮自在の定規(奇術師が普通に愛用しているもの)を隠していることを見破りました。この勝利以降、フーディーニは心霊主義を装い、超能力を自称する手品師たちを次々に告発していきます。その背景には、いかがわしい「霊力」で無知な人々から金をだまし取る霊媒師たちの跋扈する20世紀初頭のアメリカ社会がありました。

 伝記『フーディーニ』は感動を与える書物ですが、この本には決定的なものが欠けているために読者にそれなりの満足を与えてくれません。欠けているものはもちろんフーディーニの行った様々な奇術の種明かしです。手品師とは、人を騙すことが仕事なので、いかに正義を装っても本質的に何かいかがわしさが残るのは仕方がありません。しかし、彼らの魅力はそこにあるので、裏に隠された秘密の通路こそ彼ら自身の深い人間性に通じるものなのです。J.C.キャネルの『フーディーニの秘密』(『ミステリ・リーグ傑作選上』所収、2007論創社・白須清美訳)はフーディーニの死の直後に少部数のみ刊行された本で、ここにはフーディーニの驚くべき脱出のトリックが暴露されています。
 まず、厳重な金庫からの脱出。これはイギリス遠征の時にただ一回だけ行われたものですが、彼の冷静さと大胆不敵さのよい例証と見られています。フーディーニはロンドンの劇場で、ロンドン中のいかなる金庫からも衆人環視の中で脱出できると公言しました。あるメーカーがこの挑戦を受けて、人の入れるほどの大きな金庫がキングス・クロスの劇場に運ばれました。フーディーニからの条件はただ一つ、挑戦の24時間前に金庫を劇場に運んでほしいということだけでした。メーカーはこの厳重な金庫に絶対の自信があったので快くその条件を受け入れました。当日、劇場はその挑戦を目撃しようとする人であふれました。幕が開くと、ガウンの下に水着を着たフーディーニ、地元の高名な医師、金庫製造会社の社長(彼が金庫の唯一の鍵を持っています)が大きな金庫の前に立っています。フーディーニは観客に向かって、これから挑戦することは大変危険なことで、金庫の中は空気が非情に少ないと語りかけます。そして、観客から立会人を一人選んで舞台に上げると、医師と社長と立会人の三人に金庫の中を徹底的に調べさせ、さらにガウンを脱いで医師に彼自身の身体検査をさせます。そして、医師、社長、立会人と握手をして、フーディーニは金庫の中に入り、その後立会人が慎重に金庫の鍵を締めると、大きな衝立が金庫の前に置かれます。満員の観客の前で時間が刻々と経って行きますが、フーディーニは出てきません。30分が過ぎると女性の観客から悲鳴が聞かれました。45分後、やっとフーディーニが現れました。衝立が外されますが、金庫は元のとおり鍵がかかったままです。
 ロンドン中の度肝を抜いたこの脱出劇は実に巧妙に行われました。まず、前日に金庫を劇場に入れるという条件はそれほど無邪気な要求ではなかったのです。フーディーニと彼のスタッフ(優秀な機械工たち)は24時間かけて金庫の鍵をすっかり作り替えていました。そして、立会人として舞台に上がった観客は親友のゴルドスタインで、最後にフーディーニが彼と握手したとき、合鍵が隠された指輪を彼の指から抜き取ったのです。衝立が立てられると、ただちにフーディーニは合鍵で金庫から抜け出し、時間が経つまで衝立の後ろで小説を読んでいました。金庫はむろん全く痕跡を残さず金庫会社に返されました。

 アメリカでのパフォーマンスは、まずボイラー脱出が有名でしょう。フーディーニは全米各地を回り、その土地のボイラー会社に挑戦状をたたきつけます。頑丈に作られたボイラーは公演の数時間前にフーディニーのところに届けられます。フーディーニはボイラーの構造の最も肝要な部分、蓋に通す金属棒などを鋼鉄から軟鉄に置き換えておきます。見かけ上はわかりませんが軟鉄は小さなノコギリで時間をかけて切断することができます。もちろん、公演を終えた後はすっかり元通りにしてボイラー会社に返却されます。「彼の人生は、まっとうな職人技の弱点を見出すことに注がれたし、それが見つからなければ自分で作り出したのである」
 紙袋からの脱出はさらにスマートに行われました。フーディーニは舞台上で、人の入れるほどの大きな封筒の形の紙袋を観客にしめします。彼はその中に入ると、その市の名士や公平な立会人が封筒の上部を折り返し、糊付した上にサインをします。そして例によって衝立によって紙袋は隠されるのですが、袋の中のフーディーニはただちに隠してあった安全剃刀を出して封筒の上部の折り返しの部分を切り取って外に出ます。そして、再び折り返して糊付してサインをそっくりに真似して書いておきます。封筒は数インチ短くなりましたが、それに気付く者はむろん誰もいません。

 しかし、フーディーニの脱出技の中で最も特筆すべきは郵便袋脱出です。アメリカの郵便袋は帆布で作られていて、上部を革紐で絞り上げ、さらにそれを南京錠で施錠してあります。ある大学教授は、この脱出技に興味を持ち、自らその袋を購入して脱出を試みましたが、人がぎりぎり入るだけの狭い袋にいられるのは数秒間がやっとでした。彼は同僚の教授たちと研究し合い、また学生にも考えさせましたが、むろん誰も正解を見つけられません。フーディーニの方法は実に見事なものでした。まず彼はあらかじめ合鍵を作っておいて、それを紐に通して腰に隠しておきます。袋に閉じ込められると、鍵を上部のほんのわずかな隙間から外に押し出します。鍵が落ちないよう紐をつかみながら、もう片方の手は帆布の内側から器用に外の鍵をつかみ、南京錠を開けてしまうのです。これを窒息する前のわずか数十秒で行うには熟練した技と柔軟で強靭な肉体が必要です。

 最もスリリングな脱出は棺桶からの帰還です。舞台上での棺桶脱出は、棺とは蓋を開けて外にでるものだという先入観を利用した心憎いものです。フーディーニが棺に入ると、蓋は頑丈なネジで徹底的に締め付けられます。ところが、衝立で棺が隠されるやわずか数秒でフーディーニは外に出てしまいます。仕掛けは棺の底にあって、底のネジだけは短いものが使われているのです。フーディーニはそれを苦もなく外し、棺をそっくり持ち上げて外に出てしまいます。
 土の下に埋めた棺からの脱出は、これとは全く異なる困難さが伴います。棺の中に厳重に密閉されて、衆人環視の中、穴に埋められ土が重く重ねられます。40分、50分、辺りが騒ぎ始めた頃、一時間の約束の時間が過ぎて棺は土から引き出され、ネジが外されると、フーディーニはややこわばった表情で外に出てきます。パイプで空気を供給していたとか、実は彼は棺に入らなかったのでは、という推測は全く的外れで、この生き埋めのトリックと云えるものは、ただほんのわずか棺の容量を大きくしたぐらいでした。フーディーニは独特の浅い呼吸法で棺の空気だけで一時間耐えたのです。
 
 

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2007年8月 4日 (土)

永井荷風『江戸芸術論』

 麻布の家を戦災で失い、市川に寓居を得てからの最晩年(66歳から79歳まで)の荷風の生活は想像を絶するものだったようです。戦争で財産を離散し、安易な利子生活者の身分から一転して、孤独な老人として生きねばならなかった身の不安はいかばかりであったでしょう。戦後すぐから荷風の作品は一種のブームになって夥しい印税が彼の懐に転がり込んできたのですが、中村光夫の「狂気の文学者」(『評論永井荷風』所収)によれば、荷風の生活は自分らしい死をいかに死ぬかという懸念に満ちていた、ということです。荷風と同じように孤独な晩年を徳島で過ごしたポルトガルの作家モラエスは、手足の自由を失ってから、世話をしていた女が大小便の始末に一回いくらという報酬を要求したため、糞尿にまみれて死んだということです。荷風には金があり、困れば助けてくれる友人もいたでしょうが、それにしても人の世話になること、自分のだらしない姿を見られるのを極度に嫌った貴族主義者の荷風が寝たきりの死を怖れたことは容易に想像できます。幸運にも実際の荷風の死に方は、中村光夫によれば「望外のこと」であり「最上の死」であり「生涯の最上の仕上げ、完成」ともいえるものでした。荷風は昭和34年4月29日に外出先から帰るとそのまま吐血し倒れ、翌30日に家政婦に発見されました。病院での苦しい治療の経験もせず、誰にもほとんど迷惑をかけず、わずか数時間の苦痛の果てに、我が家の畳の上で死んだのです。「三千万円の金を持って、町医者ひとり呼ばず、野良犬のように死ぬのは、凡人にできることではありません」と中村光夫は書いています。死こそ彼の芸術の一帰結、生きるスタイルの傍証であったのです。鎌倉に家を持ち軽井沢に別荘を持つ俗臭芬々たる近代文学者たちのいる中で何と彼は文学の極みに生きたでしょうか。

 『江戸芸術論』(岩波文庫)は荷風の秀逸な日本文化論です。作家の書いた日本文化論というと谷崎の『陰鬱礼賛』が思い浮かびますが、心のこもっていない優等生の軽く仕上げた論文のようで、谷崎が本当に磁器の白さが溶け込む薄闇の家に住みたかったのか大いに疑問といえるでしょう。それに反して荷風の江戸文化への愛着は彼の人生観の根底に関わっています。彼は幼き日に、母親と一緒に江戸浮世絵の世界に親しみました。尾張藩の儒者、鷲津毅堂の二女として江戸三味線堀に生まれた母親は江戸文化に強い愛着を持ち、芝居を好み、浮世絵の収集もしていました。徒然の夜に、母は息子壮吉に錦絵の紙挟みを展げて春信や春章や豊国のことを教えていたのでしょう。『江戸芸術論』の中で荷風は最も愛した鈴木春信の板画のことを語っています。前髪の少年が菱形の井筒に頬杖をついて見えない井戸の底を指さしています。これと相対して振袖姿の少女が袂(たもと)重たげに井筒の上に片手をつき、前身をかがめて井戸の底を窺っています。二人の上からはしだれ柳が糸のような細い枝を垂らしています。この板画を見ると何の理由もなく直ちにメーテルリンクの『ペレアスとメザリンド』を連想する、と荷風は書いています。さらに現代の読者はフォーレの同名の曲の美しい第四曲を思い出すでしょう。「古今の浮世絵にして男女相愛の様を描きしもの枚挙に遑(いとま)あらず。然れども春信の板画の如く美妙に看者(かんしゃ)の空想を動かすものは稀なり」と荷風は言います。春信の板画は単純を極めています。人物は常に同じ容貌で、しばしば男女の判別さえ困難です。男は必ず前髪の美少年、女子は必ず大きな櫛をさした妙齢の女性で、写実に遠いことこれほど甚だしきは稀でしょう。荷風によれば、春信の男女は当時の衣服を着しているのみでその感情においては永遠の女性と男性を象徴し、その思想は永久なる恋愛の詩美を表しているとのことです。有名な《雪中相合傘》や《座舗八景》を思い出しましょう。「不自然な姿勢は幽婉の境を越えてしばしば神秘となり、単純なる後景はあたかもパストラル曲中の風景に等しく」なるのです。
 元禄期の華やかな都会より興った芸術的感情は菱川師宣の浮世絵を生み出しました。その浮世絵は明和期の春信に至って錦絵の技法を創出し、天明の鳥居清長で一つの頂点を迎えると、寛政の歌麿に及ぶや正確なる写実によって浮世絵は完全なる絵画となりました。しかし、極端な写実は爛熟した江戸文明の廃頽期の産物で、そこには春信の描き出した柔和で古雅な音楽的情緒は希薄です。春信の板画にはオランダ幾何学の遠近法も清長の均整ある女性や精密な背景もありません。春信はすべてを平坦に単純に描きます。この稚気と未完成は彼の欠点ではなく、むしろ長所なのです。昼の夢から覚めたばかりのようにうつろな眼差しで斜めにふる雨を見つめる女性、土塀に隠れて恋人を窺う少年、艶書を読む少女、柳したたる井のほとりに黙然として水底を観る年少の男女、これら小説的意匠を纏った浮世絵の登場人物たちは互いの心と心に何を語り、何を夢見ているのでしょうか。単純なる美に対する煙の如き哀愁、造花の如く動かざる装飾画的配合、これは他国の美術のついに持てなかった日本的美である、と荷風は書いています。それが何かを論理的に精密に述べることはできません。それは何らの神秘も哲理も示すものではありません。ただ、人が秋雨に聴く虫の音、木枯らしの夕べに聞く落葉の声、または女の裾の衣擦れの響きなどを聞くとき、人の心に立ち上がる一つの思いなのです。

 浮世絵は自分にとって単に美的価値のみに留まらず「精神的慰藉」を与える、と荷風は書いています。ここに荷風の人生のスタイルの要諦があります。彼は明治期の多くの知識人のように明治政府の安直な欧化政策に失望していました。見附と呼び慣れた旧江戸の古城門を何の哀惜もなく取り払い、周囲に繁茂する古松を濫伐して省みない無神経さ。欧州では一樹の古木、一宇の堂舎も民族の過去を表すものとして敬愛されているのに。文化的に低劣な武断政府に荷風はアジア的専制政治の狭量さを感じます。軽蔑を感じつつも「日本人古来の諦めの無差別観」が彼を襲います。粗野で愚かで威張りくさった指導者に文句を言って何になろう、思えば江戸三百年の間、民衆はこの鬱屈した感情をいわば発酵させ、いかなる外来文化の影響も受けずに独自の文化様式を発展させてきたのではないでしょうか。特に浮世絵において、その技巧と表現の独自性は同時代のヨーロッパの絵画に深甚な影響を与えました。これら美しい板画は幕府の庇護を受けた公認の絵師達が作り出したものではありません。18世紀のアカデミー学派たる狩野派の画家たちの作品はいまやその美術的光栄を後世に保つことはありません。渋い色調で哀訴の旋律を奏で、片隅で朽ちていく江戸庶民の心を描き続けたのは、遠島に流され手錠の刑を受けた卑しむべき町絵師たちでした。可憐なる錦絵、美しも哀切な美人画は、虫けら同然に扱われた町人の手によって日当たり悪い横丁の借家で制作されたのです。「ああ、余は浮世絵を愛す。苦界十年親のために身を売りたる遊女が絵姿はわれは泣かしむ。竹格子の窓によりて唯だ茫然と流るる水を眺むる芸者の姿はわれを喜ばしむ、、、およそ果敢(はか)なく頼りなく望みなく、この世は唯だ夢とのみ訳もなく嗟嘆せしむるもの悉くわれには親し、われには懐かし」

 『江戸芸術論』はさらに江戸演劇について言及しています。森鴎外は「旧劇の未来」という小論で、旧劇は最早や観るに堪へざれば、全くこれを廃棄するか然らざれば改作するにありと書いています。荷風はそれに反対して、江戸演劇はそのまま変更せずに保存するか、もしくは全く新しく一から作り出すべきだ、と云っています。というのも、荷風は江戸演劇を骨董的価値を有するにすぎないと見ているからです。江戸演劇は江戸の窒息せる都会においてのみ発達した芸術でした。それは民衆の社会と等身大の総合芸術だったのです。戯曲の内容はほとんど問題になりません。それが作り出す世界がすべてなのです。拍子木の音、幕明きの唄、引幕の波打ちつつ開きいくその瞬間の感覚、役者の花道に出づる時、囃子の鳴りものに合わせて回る舞台、出入りの唄合い、床の浄瑠璃、すべてが渾然一体なる一芸術の要素なのです。さらに江戸演劇は江戸文化のすべてに浸透し、また影響されます。文学としては役者評判記また劇場案内記、絵画としては浮世絵、流行としては紋所縞柄染模様、その他羽子板、押絵、飴細工、菊人形にいたるまで、その世界は江戸文化全般に及びます。それら全体の基盤は江戸市民の圧迫された閉塞した心持ち、権力への無力と諦念にあるのです。ですから、時代が変わって異国の文化が自由に多量に流入する時代になると、江戸演劇はその存在の根底から崩れていきます。一部の改作による手直しなど問題になりません。少しの変更もその精神を全体的に揺るがせるでしょう。それでも骨董としての価値はある、と荷風は言っています。「旧劇は元より卑俗の見世物たりといへども、昔のまま保存せしむれば、江戸時代の飾り人形、羽子板、根付、浮世絵なぞと同じく、休みなき吾人日常の近世的煩悶に対し一時の慰安となすに足るべし」と。

 骨董的価値、という概念こそ荷風の心底を窺わせるものはありません。彼は自分を旧文明の最後の生き残りと見なしていました。頽廃した文明が極度に洗練された芸術を生み出すように、自分はともかく江戸芸術の血脈を受け継ぎ、その精神を体現していると。しかし、荷風はまた明治の子であり、平民の出でありながら明治の高官、日本郵船の支店長まで務めた現世の成功者である父久一郎に深い劣等感を抱いていました。この劣等感からついに抜け出せなかったことが荷風の文学に不透明な屈折を与えています。彼は父親の財産のおかげで生涯に貧乏に陥ったことは一度もありません。晩年の極端な吝嗇も、死んだことのない人間が死を怖れるように、無一文を体験したことのない人間が無一文になることの恐怖に外なりません。けちん坊の裏には身を屈して借金することの貴族的怖れがあります。飛び込み台の上で逡巡するようなこのくぐもった精神が、荷風にボードレールやヴェルレーヌのような霊魂の深みに至る道を閉ざしています。荷風の敬愛し続けた文人が大田南畝と森鴎外であったことも理解できるでしょう。彼らは文筆を奮いながら官吏としても一流でした。「自分は父親に云われたように駄目な人間である」という意識、その意識が荷風に自分自身を何よりいとおしくさせているのです。井筒の底を見つめる少年少女、可憐で繊細でやや物憂げな少年と少女は、荷風が唯一愛した自分自身にほかなりません。

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