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2007年7月 6日 (金)

メーリケ『旅の日のモーツァルト』

 「1787年の秋、モーツァルトは『ドン・ジュアン』を上演するために、夫人を同伴してプラークへの旅を企てた」という書き出しで始まるメーリケ(1804~1875)の『旅の日のモーツァルト』(岩波文庫・石川錬次訳)は間然する所のない小説です。音楽史上最大の天才へのこれ以上の賛辞はありません。
 31歳のモーツァルトはその創作活動の絶頂期を迎えていました。『ドン・ジュアン』には前作『フィガロの結婚』では描くことのできなかった人間の運命への直感を剰すところなくつぎ込むことができたのです。彼は、自分を冷遇したウィーンを離れ、新作の公演を心待ちするプラークへ向かいました。旅路の三日目、美しいメーレンの連峰の外れにあるシュレムスの村でモーツァルトと妻コンスタンツェは昼食をとるために馬車を降りました。モーツァルトはいつものように昼食の注文を妻に任せて、近くの伯爵領の散歩に出かけました。イタリー式の城を横目に見ながら彼は菩提樹の道を抜け、蜜柑樹の植えられた横の涼亭にたどり着きました。涼亭に腰かけて、たわわに実った蜜柑を眺めていると、彼には少年の日に訪れた南国の思い出が沸々と湧き出てくるのでした。思わず手を伸ばしてその果実を掌につつむと知らずに果実は枝から離れたのです。彼はそれを見、その香りを嗅ぐと、久しく消え去っていた音楽の追憶が思い出の情景の周りにまとわりついてくるのを感じました。彼はそのさだかならぬ跡形の上をしばし夢見るごとくさまよったのです。彼はポケットのケースから小刀を取り出して蜜柑を二つに切り、数分の間それを見、それから再び静かに、極めて静かにそれを合わせ、また離し、そして再び合わせました。
 その時、見回りにきた園丁がモーツァルトに気付き、その蜜柑樹は伯爵が今日の婚約の祝宴のために用意されたもので、九つの果実の一つでも欠けてはいけないものだ、と言います。モーツァルトは、それでは伯爵に直々にお詫びをすると言って、その旨の伝言を園丁に手渡すと、沸き上がった興のままに涼亭に腰かけて作曲の筆を走らせます。

 伝言を受け取った伯爵は、大事な蜜柑がもがれたことに激怒します。城の中では、伯爵の姪と親類の男爵の婚約を祝う宴の準備が進められていて、蜜柑の樹は、わが子のように愛した姪への伯爵の贈り物だったのです。しかし、「あなた、たいへん、ウィーンのモーツァルトですよ」と署名に気付いた伯爵夫人が叫びました。一転、今日の宴にモーツァルトを招待することになり、涼亭で休む彼の下に伯爵が迎えに出向きました。友情と歓楽をこよなく愛するモーツァルトは躊躇せずに申し出を受け、旅館で待つ妻コンスタンツェの下にも伯爵の息子が迎えに現れました。若い伯爵の突然の来訪とその用向きにも彼女は全く驚かず、手早く勘定と支度を済まして迎えの馬車に乗りました。夫の気紛れと突飛な行動には慣れっこになっていたのです。事実、モーツァルトの社交的快楽に対する嗜好は並外れたものがありました。有名人である彼は祝典や集会や遊山への招待を断ったことがなく、毎夜のようにホテルの舞踏会、カフェーの撞球場に姿を現し、のみならず友人、知人を自宅に招待し、珍味佳肴で食卓を囲みます。街路で出会った友人とそのまま飲み明かすことも、困窮した友人に即座に金を用立てることも彼には普通のことで、どんな祭りにも出向き、常にそこで座を盛り立てる中心人物となるのでした。異常な精力の消耗によって幸福な瞬間を最後の一雫まで味わい尽くした後には、その興奮の覚めやらぬままに深夜から作曲にとりかかり、時には寝床でもペンを走らせました。昼間は音楽の個人授業、夕からは演奏会や試演会、それでも常に経済状態は逼迫し、神経の乱用で肉体は蝕まれ、死の予感、快楽の苦み、間断なく訪れる憂鬱、後悔と悲哀のあらゆる彩りが彼のまだ若い生涯を覆っていました。

 さて、伯爵の館でモーツァルトは婚約の式を挙げたばかりの伯爵の姪、オイゲニイに紹介されます。広間に置かれたグランドピアノを開けると、そこには『フィガロの結婚』の譜面がおかれていました。金髪のすらりとしたオイゲニイは許婚の男爵の伴奏でスザンナのアリアを歌います。紅い頬は緊張のため蒼白になりますが、最初の響き豊かな音が彼女の唇を越えると一切の不安から解消され、恐らく彼女の生涯のいかなる日にも再び巡り来ぬであろう感激が彼女を襲います。モーツァルトは意外な風でしたが、彼女の歌声が終わると、進み寄って、偽らない心からの言葉をもって彼女を賞賛しました。「お嬢さん、この場合何をいうことがありましょうか、、、こんなに完全に自分をきくことができるのはそう度々ではありません」そう云ってオイゲニイの手をとって心からそれに接吻しました。オイゲニイは軽いめまいに似た感動に囚われ、眼には忽ち涙が溢れ出そうになりました。
 それからモーツアルトはグランドピアノに座り、オイゲニイが今練習中でもある彼自身のコンチェルトの一部を弾きました。人々は耳で聴きながら、目は巨匠(マイステル)の動きに釘付けになります。モーツァルトは衒わない堅すぎる程の姿勢で、その善良そうな小さい両手を円やかに動かせます。優美、気品、荘厳な音調が、戯れながら目も綾な光彩を放つかのように広間に響き渡ります。

 演奏が終わると人々は円形の食堂に案内されました。モーツァルトは主賓格として婚約した二人の向かいに座を占めますが、やがて、この日の彼の参列のいきさつについての噂が人々の口に上りはじめました。「みなさんに白状してしまいましょう」と彼は昼の果樹園での出来事をかいつまんで述べました。「私がなぜ我を忘れるまでになったか、それは子供の時の思い出に関係しているのです。1770年の春、私が13の少年であったとき、父と一緒にイタリーへ旅をしました」とモーツァルトは話し始めました。「私たちはローマからナポリへ行き、そこで幾度か演奏しました。旅立つ前日に私たちは海の汀にある王の美しい離宮に招待されました。そこでシシリーの喜劇役者の一座が演技をして見せたのです。高貴な見物の方々の中には若くお優しいカロリーヌ皇后とその二人の姫君もおられました」
「演技はこのようにして始まりました。まず、右手からきれいに彩色した一艘の船が近づいてきます。紅の布を纏ったほとんど裸の若い男女が五人ずつ乗っていますが、そのうちの一人の女性は飛び抜けて美しく、船の一段高い所にすまし顔で座っています。次に左手から緑の腰布をつけた五人の若い男を乗せた船が近づいてきます。その男たちは赤組の少女たちに吃驚し、挨拶をおくって近づきになりたいという希望を表現します。少女たちの一人が胸の薔薇を外して高く掲げ、飢えている緑組の男たちに欲しければあげるわよ、というポーズをとります。赤組の男たちはその態度に当惑し、緑の組の男たちはさらに興奮して喝采します。すると赤組の少女たちは何を思ったか舟底から蜜柑のたくさん入った籠を取り出しました。よく見ると、それは蜜柑に似せた黄色い玉だったのですが、少女たちはそれを二個、三個と軽く向うへ投げました。緑の組の男たちはそれを受け取ってまた少女たちに投げ返します。こういう工合に行ったり来たりしているうち蜜柑の数は一ダースにもなり、さらに急テンポで投げ交わされます。二艘の船はゆっくりと円を描きながら進み、浜辺の楽団の音楽に合わせて海上を鮮やかな色の蜜柑が無数に飛び交います。シシリーの民謡、ナポリの舞曲、ダンスの音楽などが花輪のように綴りあわされ、私の横にいた妹の姫君は音楽に合わせて可憐にうなづかれるのですが、その微笑や長い睫毛は今もまざまざと眼前に思い浮かばれます」
「競り合いがだんだん下火になって来た頃、小さな男の子が緑色の網を海の中から引き上げると、そこに青や緑や金色に光る魚が出て来たのです。魚は生きているもののように水の中で動きました。赤組の若者はそれを目がけて海に飛び込みますが、鮮やかな魚の玩具はなかなかつかまりません。実はこれが緑組の男たちの策略で、その隙に彼らは赤組の舟に乗り移り手前の小島まで少女たちを連れていきます。気付いた赤組の若者も小島に泳ぎ渡り、少女たちも最後は元の恋人の下に戻ることになったのです」
「私にはこれはある交響楽をはじめから終りまで絵に描いたように思われますの」とオイゲニイは隣の新郎にささやきました。「そのうえに尚、朗らかなモーツァルトの精神そのものが、そっくり譬えられているような気が致しますわ。『フィガロ』そのままの美しさではございませんか?」
 「私がイタリーを見てから17年になります」とモーツァルトは続けました。「ひとたびイタリーを見、ことにナポリを見た人で、誰が一生涯それを思い出さないでしょうか? しかし、今日、伯爵の果樹園で輝くような蜜柑を手にしていた時ほどありありと、あの入江の最後の夕陽が思い浮かべられたことはありませんでした。眼を閉じると、一点の曇りもなくあの楽園のような風光が、あの乱れ飛ぶ蜜柑の玉の戯れが、数珠のように連なる愉快な旋律が私の耳の傍らを通っていくのです。そこへひょっこり八分の六拍子の舞踏曲が飛び出してきました。それはまさに『ドン・ジュアン』第一幕の出来上がっていない最後の一曲、二ヶ月前からどうしても思いつかなかった田舎の舞踏曲なのですが、単純で無邪気で楽しさの弾けた、少女の胸にさされたリボンのついた花束のようなそんな曲でなければならなかったのです。、、、私は涼亭で待たされている間、一気呵成に曲を書き上げました」

 夜の八時に宴会が終り、人々はグランドピアノのある広間で、まだ誰にも公開していない『ドン・ジュアン』の演奏を聴きたいと願いました。モーツァルトは時おり独り言のように言葉をはさみながら『ドン・ジュアン』全曲から自由に抜粋して弾き始めました。「三週間前、夜の10時頃帰宅したのですが」とモーツァルトはクライマックスの「地獄の炎」の場面を作曲した時のことを語りました。「翌朝早く起きねばならないのですぐに寝ようと思っていたのですが、机の上にダ・ポンテ(歌劇『ドン・ジュアン』の脚本家)からの封筒が届けられており、開けてみると『ドン・ジュアン』の書き直し原稿です。私は座り込んで貪るように読みました。全体が簡潔に引き締まっており、私の注文をよく解ってくれていたので有頂天になりました。総督の墓からわき起こってくる威嚇の声がすぐに私の頭の中に浮かびました。或る諧音を叩いてみると、無数の恐怖がうようよと沸き上がってきます。まず最初にアダージョができ、次に五小節の第二楽句がつづきました」こういうと彼は無造作に両側の燭台の蝋燭を消しました。そして、あの悽愴な讃美歌『汝が笑は朝焼の前に終らん』が死のごとき静寂を貫いて響きました。「ここなるは誰(た)ぞ? 返答いたせ」ドン・ジュアンが尋ねます。すると、前と同様に荘重な声が、死者を騒がすなと命じます。「こうなったら最後、もう止められるものではありません。まあ、お聴きください」とモーツァルトは凄絶極まる長い対話を弾きました。それは如何に無感激な者でも人間想像の限界まで拉し去っていくかのようです。凄まじい最初の挨拶の後まもなく、半ば浄化された亡者が差し出された浮世の食物を拒み、その声が虚空に響くその不気味さはどうでしょう。今やドン・ジュアンは異常な我意を揮って永遠の理法に逆らいつつ、絶体絶命の抗争を敢えてして、狂い悶えた末についに破滅に至ります。

 モーツアルトが弾き終わると、しばしの間、誰一人この満座の沈黙を破ろうとするものはいませんでした。しかし、厳密に言うならば、才能や理解や趣味の上からも、この一座の中でモーツァルトの望みに適い得る聴き手はオイゲニイ以外はいませんでした。彼女は彫像のように身動き一つ動かず恍惚として聴き入っていました。オイゲニイの胸の中には、彼に対する微やかな憂いが忍び入ってきたのです。この感覚はモーツァルトの演奏の終始を通じ、音楽のあらゆる魅惑の背後に、あらゆる神秘な戦慄を貫いて、彼女の意識の底に働き続けたのです。オイゲニイはついに悟りました、モーツァルトは速やかに、しかもとどむる術もなく、自らの情熱に身を焦がしていく、彼はこの現世(うつしよ)における一つの儚なき現象でしかありえない、なぜならこの世は、彼より迸り出るその充溢に到底堪えることができないであろうから、、、かく彼女は思い込んだのです。かたくかたく思い込んだのです。

 翌朝、モーツァルト夫妻は伯爵の家族の見送りの中、プラークへ向けて馬車を早足で駆っていきました。卓越した人間の溌剌とした生気が去っていった後、人々は一種の虚脱状態に陥りました。オイゲニイ(彼女はまだ館に留まっていたのですが)は、広間のピアノの前に佇み、かの人が触れたばかりの鍵盤を見つめていました。そして、しばしの間、何人の手にも開かせまいとする妬ましい心から、その蓋を静かに閉じました。広間を去りがけに彼女は幾冊かの歌謡集をもとの場所に戻しました。すると一葉の古びた紙が落ち、それを見ると、以前彼女が歌ったこともあるボヘミアの古い民謡の写しでした。その民謡を読むにつれ彼女は愕然とし、運命の告知ともいうべき偶然に熱き涙が溢れてきたのです。

 誰か知る森のいづくに
 緑なす樅の生へりと
 誰か言ふ、いずれの園に
 一叢の薔薇の咲けりと
 思へかし、ああ我が魂よ
 かの樅も薔薇もすでに
 汝が墓(おくつき)に、根ざし生ふべき
 運命のもとにあるを!
 若駒の黒き二頭の
 草食みて、牧場にあり
 今し巷に帰りゆく
 かろがろと足躍らせて
 この駒ぞ、汝が棺を曵きて
 しづしづと歩み運ばん
 誰か知る、その来る日を
 おそらくは今し我眼に
 光る見ゆ蹄の鉄の
 離れ落つ時をば待たじ。

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