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2007年7月20日 (金)

萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』

 明治26年以来蕪村を称揚してきた正岡子規は32年の『俳人蕪村』(岩波文庫『誹諧大要』所収)においてその総括を試みました。「俳諧史上における蕪村の位置はこの書によって定まった」(柴田宵曲)と言われるその蕪村論は芭蕉には見られない客観的・理想的美を追求する詩人を詳細に語っています。しかし、俳人が語る蕪村は、とりわけ技術的側面が強調されることにより、客観・写生の詩人蕪村というイメージがそれ以後ゆるぎなく定着する端緒ともなったのです。
 昭和11年に刊行された萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』(1988岩波文庫)は、子規とは全く違う視点から蕪村を論じ、蕪村研究史において画期的な著作となりました。細部の論点に見当違いが多く見られるものの、未だにこれを越える蕪村論は出現していません。単に近代日本最高の詩人の著であるからでなく、それが何より感動から出発していることが重要なのです。子規の蕪村称揚は明らかに芭蕉の権威を貶めるために書かれました。朔太郎のこの書は、自分自身のために、あるいは自分自身と同じ魂の救済のために書かれたのです。

 「僕は生来、俳句というものに深い興味を抱かなかった」と朔太郎は書いています。「枯淡」とか「さび」とか「風流」とかは自分の感性とは無縁のものだと思っていたのです。この気持ちは私にもよくわかります。いわゆる「俳味」こそ日本独特の感性の表れだと思う人は、なぜ明治以降に日本人がゴッホやベートーヴェンやユゴーをすすんで受容したかを考えてみて下さい。封建制の重苦しい雰囲気から脱した時、日本人が求めたものは「愛」の観念だったのです。朔太郎は俳句とそれが展開する世界を毛嫌いしながらも、なぜか蕪村だけは愛誦していました。というより、蕪村だけが彼の唯一理解しうる俳人だったのです。

  君あしたに去りぬ
  ゆうべの心千々に何ぞ遥かなる
  君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ
  岡の辺なんぞかく悲しき

 この詩『北寿老仙をいたむ』の冒頭部は明治の新体詩をはるかに越えて島崎藤村の叙情をさえ凌ぎます。しかも1745年「ゲーテもワーヅワースもまだ生まれていない」(芳賀徹)時代に書かれたのです。朔太郎は蕪村の詩境が「浪漫的の青春性に富んでいる」ことを指摘し、その若さ、その自由な情感に感動します。そして、次のような俳句は、洒脱とか枯淡とかという俳句の心境を理解できない、近代の叙情詩や美術しか知らない若い人にも容易に理解することができるだろうと書いています。

  愁ひつつ丘に登れば花いばら
  行く春やおもたき琵琶の抱きごころ
  歩行(ありき)歩行(ありき)もの思ふ春の行衛(ゆくえ)かな

 また、蕪村には「感傷多き青春の情緒」も豊かです。

  二人してむすべば濁る清水かな
  恋さまざま願いの糸も白きより
  春雨や同車の君がさざめ事
  
 「洋画風の明るい光と印象」は蕪村の句に「若々しいセンチメント」を与えています。

  磯千鳥脚をぬらして遊びけり
  夏河を越すうれしさよ手に草履
  夕立や草葉をつかむ群雀(むらすずめ)

 「僕の断じて立言し得ることは」と朔太郎は書いています。「蕪村が単なる写生主義者や、技巧的なスケッチ画家ではないということである」反対に蕪村こそ「一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を歌ったところの、真の叙情詩の叙情詩人、真の俳句の俳人であったのである」しかし、そもそも蕪村の有したその主観の実体とはどのようなものだったのでしょうか。朔太郎の解答はいささか唐突とも思えるものです。「一言にしていえば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する『郷愁』であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった」
 「魂の故郷」という言葉が決定的に重要です。それは「宇宙のどこかに実在しているかも知れないところの、自分の心の故郷であり、見たこともないところの、久遠の恋人への思慕である。そしてこの恋人は、過去にも実在した如く、現在にも実在し、時間と空間の彼岸において、永遠に悩ましく、恋しく、追懐深く慕われるのである」

  妹が垣根三味線草の花咲きぬ

 「妹(いも)」という古語を使ったことが、現在の恋人ではなく過去の幼友達であることを示し、三味線草という素朴で可憐な花が一気に追懐の世界を形作ります。

  遅き日のつもりて遠き昔かな

 「蕪村の代表作と見るべきである」と朔太郎が語るこの句は「時間の遠い彼岸における、心の故郷に対する追懐であり、春の長閑(のどか)な日和の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出である」ということです。しかし、これは難解な句で、その意味は論理的に説明不可能です。ただ、蕪村が時間にとらわれた人間で、常に過ぎ去った時の思い出の反省と懐旧に生きていることだけはわかります。「遅き日」はむろん春の季語で一日が最も長く感じられる春の日がつもっていくということが過去というもののさらなる遠さを強調しているのです。

  凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ

 昨日と同じ場所に今日も凧が上がっていたというのですが、朔太郎によればこの凧はすべての時間を貫いて上がる象徴の凧です。「常に変化する空間、変化する時間の中で、ただ一つの凧(追憶のイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである」凧は現実の空に上がりながら、なお有り得るはずの真実の世界、魂がそこに本籍をもつ真実の別世界に属しているというのです。

  月天心貧しき町を通りけり

 月が天空に輝いている夜の町を一人で歩いていくのです。あるいは、月の光が家並の低い貧しい家々の間を静かに通り抜けていくのです。ここにあるのは「人生への或る涙ぐましい思慕の情と、或るやるせない寂寥である」と朔太郎は書いています。いくぶんか童話的で、いくぶんか近代的な情緒はまさに蕪村独歩のものでしょう。

 最後に朔太郎の筆は『春風馬堤曲』の解説において極まります。俳句と漢詩と連歌の入り交じった、空前かつ絶後のこの十八首の詩は、大阪の花街で働く娘が薮入りに実家に帰るというそれだけの内容ですが、厳密に蕪村の人生とこの世の人々の生の象徴となっています。「春風や堤長うして家遠し」年老いた詩人は長柄川の土手で薮入りに里帰りする娘と出会います。世間話をしながら、娘は途中で川面に降りて芹を摘んだり、茶店で休んだりと道草を重ねますが、それでも故郷の家が近づくと、懐かしい母への思慕で満たされます。世間の荒波と歓楽で変わってしまった自分だが、故郷は昔のまま温かく自分を包んでくれた、、、しかし、蕪村にも朔太郎にも帰るべき故郷はありませんでした。長く続く土手の道を歩いて、彼らが辿り着く故郷は芸術の高みしかなかったのです。卑俗低調な天明俳壇の中で志高く持ち続けることは何と困難なことだったでしょうか。しかし、蕪村には芭蕉という仰ぎ見る存在がありました。「いかなれば故郷の人の我に辛く/かなしきすももの種を噛まむとするぞ」と歌った朔太郎にはポーやボードレールの精神が生きています。もっとも朔太郎には蕪村に恵まれた明るさと軽さにはついに無縁だったのですが、、、。

  春雨やもの書かぬ身のあはれなる

 私の愛する蕪村の一句ですが「夢中吟」と前書されています。『蕪村俳句集』(岩波文庫・尾形仂校注)の尾形仂の注には劉後村の「夢中猶ホ読ム少時ノ書」(『聯珠詩格』)が引用されています。夢の中で子供の時の本を読んでいるのです。そして、言葉を紡ぐ苦しみを知らなかった昔の自分は何とあはれであったことか、いとけなく、幸せであったことか、と思わずにいられないのです。朔太郎『純情小曲集』の次の詩を思い出さないでしょうか。

  少年の日は物に感ぜしや
  われは波宜亭の二階によりて
  かなしき情歓の思ひにしづめり。
  その亭の庭にも草木茂み
  風ふき渡りてばうばうたれども
  かのふるき待たれびとありやなしや。
  いにしえの日には鉛筆もて
  欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。
                     (『波宜亭』)
  

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2007年7月 6日 (金)

メーリケ『旅の日のモーツァルト』

 「1787年の秋、モーツァルトは『ドン・ジュアン』を上演するために、夫人を同伴してプラークへの旅を企てた」という書き出しで始まるメーリケ(1804~1875)の『旅の日のモーツァルト』(岩波文庫・石川錬次訳)は間然する所のない小説です。音楽史上最大の天才へのこれ以上の賛辞はありません。
 31歳のモーツァルトはその創作活動の絶頂期を迎えていました。『ドン・ジュアン』には前作『フィガロの結婚』では描くことのできなかった人間の運命への直感を剰すところなくつぎ込むことができたのです。彼は、自分を冷遇したウィーンを離れ、新作の公演を心待ちするプラークへ向かいました。旅路の三日目、美しいメーレンの連峰の外れにあるシュレムスの村でモーツァルトと妻コンスタンツェは昼食をとるために馬車を降りました。モーツァルトはいつものように昼食の注文を妻に任せて、近くの伯爵領の散歩に出かけました。イタリー式の城を横目に見ながら彼は菩提樹の道を抜け、蜜柑樹の植えられた横の涼亭にたどり着きました。涼亭に腰かけて、たわわに実った蜜柑を眺めていると、彼には少年の日に訪れた南国の思い出が沸々と湧き出てくるのでした。思わず手を伸ばしてその果実を掌につつむと知らずに果実は枝から離れたのです。彼はそれを見、その香りを嗅ぐと、久しく消え去っていた音楽の追憶が思い出の情景の周りにまとわりついてくるのを感じました。彼はそのさだかならぬ跡形の上をしばし夢見るごとくさまよったのです。彼はポケットのケースから小刀を取り出して蜜柑を二つに切り、数分の間それを見、それから再び静かに、極めて静かにそれを合わせ、また離し、そして再び合わせました。
 その時、見回りにきた園丁がモーツァルトに気付き、その蜜柑樹は伯爵が今日の婚約の祝宴のために用意されたもので、九つの果実の一つでも欠けてはいけないものだ、と言います。モーツァルトは、それでは伯爵に直々にお詫びをすると言って、その旨の伝言を園丁に手渡すと、沸き上がった興のままに涼亭に腰かけて作曲の筆を走らせます。

 伝言を受け取った伯爵は、大事な蜜柑がもがれたことに激怒します。城の中では、伯爵の姪と親類の男爵の婚約を祝う宴の準備が進められていて、蜜柑の樹は、わが子のように愛した姪への伯爵の贈り物だったのです。しかし、「あなた、たいへん、ウィーンのモーツァルトですよ」と署名に気付いた伯爵夫人が叫びました。一転、今日の宴にモーツァルトを招待することになり、涼亭で休む彼の下に伯爵が迎えに出向きました。友情と歓楽をこよなく愛するモーツァルトは躊躇せずに申し出を受け、旅館で待つ妻コンスタンツェの下にも伯爵の息子が迎えに現れました。若い伯爵の突然の来訪とその用向きにも彼女は全く驚かず、手早く勘定と支度を済まして迎えの馬車に乗りました。夫の気紛れと突飛な行動には慣れっこになっていたのです。事実、モーツァルトの社交的快楽に対する嗜好は並外れたものがありました。有名人である彼は祝典や集会や遊山への招待を断ったことがなく、毎夜のようにホテルの舞踏会、カフェーの撞球場に姿を現し、のみならず友人、知人を自宅に招待し、珍味佳肴で食卓を囲みます。街路で出会った友人とそのまま飲み明かすことも、困窮した友人に即座に金を用立てることも彼には普通のことで、どんな祭りにも出向き、常にそこで座を盛り立てる中心人物となるのでした。異常な精力の消耗によって幸福な瞬間を最後の一雫まで味わい尽くした後には、その興奮の覚めやらぬままに深夜から作曲にとりかかり、時には寝床でもペンを走らせました。昼間は音楽の個人授業、夕からは演奏会や試演会、それでも常に経済状態は逼迫し、神経の乱用で肉体は蝕まれ、死の予感、快楽の苦み、間断なく訪れる憂鬱、後悔と悲哀のあらゆる彩りが彼のまだ若い生涯を覆っていました。

 さて、伯爵の館でモーツァルトは婚約の式を挙げたばかりの伯爵の姪、オイゲニイに紹介されます。広間に置かれたグランドピアノを開けると、そこには『フィガロの結婚』の譜面がおかれていました。金髪のすらりとしたオイゲニイは許婚の男爵の伴奏でスザンナのアリアを歌います。紅い頬は緊張のため蒼白になりますが、最初の響き豊かな音が彼女の唇を越えると一切の不安から解消され、恐らく彼女の生涯のいかなる日にも再び巡り来ぬであろう感激が彼女を襲います。モーツァルトは意外な風でしたが、彼女の歌声が終わると、進み寄って、偽らない心からの言葉をもって彼女を賞賛しました。「お嬢さん、この場合何をいうことがありましょうか、、、こんなに完全に自分をきくことができるのはそう度々ではありません」そう云ってオイゲニイの手をとって心からそれに接吻しました。オイゲニイは軽いめまいに似た感動に囚われ、眼には忽ち涙が溢れ出そうになりました。
 それからモーツアルトはグランドピアノに座り、オイゲニイが今練習中でもある彼自身のコンチェルトの一部を弾きました。人々は耳で聴きながら、目は巨匠(マイステル)の動きに釘付けになります。モーツァルトは衒わない堅すぎる程の姿勢で、その善良そうな小さい両手を円やかに動かせます。優美、気品、荘厳な音調が、戯れながら目も綾な光彩を放つかのように広間に響き渡ります。

 演奏が終わると人々は円形の食堂に案内されました。モーツァルトは主賓格として婚約した二人の向かいに座を占めますが、やがて、この日の彼の参列のいきさつについての噂が人々の口に上りはじめました。「みなさんに白状してしまいましょう」と彼は昼の果樹園での出来事をかいつまんで述べました。「私がなぜ我を忘れるまでになったか、それは子供の時の思い出に関係しているのです。1770年の春、私が13の少年であったとき、父と一緒にイタリーへ旅をしました」とモーツァルトは話し始めました。「私たちはローマからナポリへ行き、そこで幾度か演奏しました。旅立つ前日に私たちは海の汀にある王の美しい離宮に招待されました。そこでシシリーの喜劇役者の一座が演技をして見せたのです。高貴な見物の方々の中には若くお優しいカロリーヌ皇后とその二人の姫君もおられました」
「演技はこのようにして始まりました。まず、右手からきれいに彩色した一艘の船が近づいてきます。紅の布を纏ったほとんど裸の若い男女が五人ずつ乗っていますが、そのうちの一人の女性は飛び抜けて美しく、船の一段高い所にすまし顔で座っています。次に左手から緑の腰布をつけた五人の若い男を乗せた船が近づいてきます。その男たちは赤組の少女たちに吃驚し、挨拶をおくって近づきになりたいという希望を表現します。少女たちの一人が胸の薔薇を外して高く掲げ、飢えている緑組の男たちに欲しければあげるわよ、というポーズをとります。赤組の男たちはその態度に当惑し、緑の組の男たちはさらに興奮して喝采します。すると赤組の少女たちは何を思ったか舟底から蜜柑のたくさん入った籠を取り出しました。よく見ると、それは蜜柑に似せた黄色い玉だったのですが、少女たちはそれを二個、三個と軽く向うへ投げました。緑の組の男たちはそれを受け取ってまた少女たちに投げ返します。こういう工合に行ったり来たりしているうち蜜柑の数は一ダースにもなり、さらに急テンポで投げ交わされます。二艘の船はゆっくりと円を描きながら進み、浜辺の楽団の音楽に合わせて海上を鮮やかな色の蜜柑が無数に飛び交います。シシリーの民謡、ナポリの舞曲、ダンスの音楽などが花輪のように綴りあわされ、私の横にいた妹の姫君は音楽に合わせて可憐にうなづかれるのですが、その微笑や長い睫毛は今もまざまざと眼前に思い浮かばれます」
「競り合いがだんだん下火になって来た頃、小さな男の子が緑色の網を海の中から引き上げると、そこに青や緑や金色に光る魚が出て来たのです。魚は生きているもののように水の中で動きました。赤組の若者はそれを目がけて海に飛び込みますが、鮮やかな魚の玩具はなかなかつかまりません。実はこれが緑組の男たちの策略で、その隙に彼らは赤組の舟に乗り移り手前の小島まで少女たちを連れていきます。気付いた赤組の若者も小島に泳ぎ渡り、少女たちも最後は元の恋人の下に戻ることになったのです」
「私にはこれはある交響楽をはじめから終りまで絵に描いたように思われますの」とオイゲニイは隣の新郎にささやきました。「そのうえに尚、朗らかなモーツァルトの精神そのものが、そっくり譬えられているような気が致しますわ。『フィガロ』そのままの美しさではございませんか?」
 「私がイタリーを見てから17年になります」とモーツァルトは続けました。「ひとたびイタリーを見、ことにナポリを見た人で、誰が一生涯それを思い出さないでしょうか? しかし、今日、伯爵の果樹園で輝くような蜜柑を手にしていた時ほどありありと、あの入江の最後の夕陽が思い浮かべられたことはありませんでした。眼を閉じると、一点の曇りもなくあの楽園のような風光が、あの乱れ飛ぶ蜜柑の玉の戯れが、数珠のように連なる愉快な旋律が私の耳の傍らを通っていくのです。そこへひょっこり八分の六拍子の舞踏曲が飛び出してきました。それはまさに『ドン・ジュアン』第一幕の出来上がっていない最後の一曲、二ヶ月前からどうしても思いつかなかった田舎の舞踏曲なのですが、単純で無邪気で楽しさの弾けた、少女の胸にさされたリボンのついた花束のようなそんな曲でなければならなかったのです。、、、私は涼亭で待たされている間、一気呵成に曲を書き上げました」

 夜の八時に宴会が終り、人々はグランドピアノのある広間で、まだ誰にも公開していない『ドン・ジュアン』の演奏を聴きたいと願いました。モーツァルトは時おり独り言のように言葉をはさみながら『ドン・ジュアン』全曲から自由に抜粋して弾き始めました。「三週間前、夜の10時頃帰宅したのですが」とモーツァルトはクライマックスの「地獄の炎」の場面を作曲した時のことを語りました。「翌朝早く起きねばならないのですぐに寝ようと思っていたのですが、机の上にダ・ポンテ(歌劇『ドン・ジュアン』の脚本家)からの封筒が届けられており、開けてみると『ドン・ジュアン』の書き直し原稿です。私は座り込んで貪るように読みました。全体が簡潔に引き締まっており、私の注文をよく解ってくれていたので有頂天になりました。総督の墓からわき起こってくる威嚇の声がすぐに私の頭の中に浮かびました。或る諧音を叩いてみると、無数の恐怖がうようよと沸き上がってきます。まず最初にアダージョができ、次に五小節の第二楽句がつづきました」こういうと彼は無造作に両側の燭台の蝋燭を消しました。そして、あの悽愴な讃美歌『汝が笑は朝焼の前に終らん』が死のごとき静寂を貫いて響きました。「ここなるは誰(た)ぞ? 返答いたせ」ドン・ジュアンが尋ねます。すると、前と同様に荘重な声が、死者を騒がすなと命じます。「こうなったら最後、もう止められるものではありません。まあ、お聴きください」とモーツァルトは凄絶極まる長い対話を弾きました。それは如何に無感激な者でも人間想像の限界まで拉し去っていくかのようです。凄まじい最初の挨拶の後まもなく、半ば浄化された亡者が差し出された浮世の食物を拒み、その声が虚空に響くその不気味さはどうでしょう。今やドン・ジュアンは異常な我意を揮って永遠の理法に逆らいつつ、絶体絶命の抗争を敢えてして、狂い悶えた末についに破滅に至ります。

 モーツアルトが弾き終わると、しばしの間、誰一人この満座の沈黙を破ろうとするものはいませんでした。しかし、厳密に言うならば、才能や理解や趣味の上からも、この一座の中でモーツァルトの望みに適い得る聴き手はオイゲニイ以外はいませんでした。彼女は彫像のように身動き一つ動かず恍惚として聴き入っていました。オイゲニイの胸の中には、彼に対する微やかな憂いが忍び入ってきたのです。この感覚はモーツァルトの演奏の終始を通じ、音楽のあらゆる魅惑の背後に、あらゆる神秘な戦慄を貫いて、彼女の意識の底に働き続けたのです。オイゲニイはついに悟りました、モーツァルトは速やかに、しかもとどむる術もなく、自らの情熱に身を焦がしていく、彼はこの現世(うつしよ)における一つの儚なき現象でしかありえない、なぜならこの世は、彼より迸り出るその充溢に到底堪えることができないであろうから、、、かく彼女は思い込んだのです。かたくかたく思い込んだのです。

 翌朝、モーツァルト夫妻は伯爵の家族の見送りの中、プラークへ向けて馬車を早足で駆っていきました。卓越した人間の溌剌とした生気が去っていった後、人々は一種の虚脱状態に陥りました。オイゲニイ(彼女はまだ館に留まっていたのですが)は、広間のピアノの前に佇み、かの人が触れたばかりの鍵盤を見つめていました。そして、しばしの間、何人の手にも開かせまいとする妬ましい心から、その蓋を静かに閉じました。広間を去りがけに彼女は幾冊かの歌謡集をもとの場所に戻しました。すると一葉の古びた紙が落ち、それを見ると、以前彼女が歌ったこともあるボヘミアの古い民謡の写しでした。その民謡を読むにつれ彼女は愕然とし、運命の告知ともいうべき偶然に熱き涙が溢れてきたのです。

 誰か知る森のいづくに
 緑なす樅の生へりと
 誰か言ふ、いずれの園に
 一叢の薔薇の咲けりと
 思へかし、ああ我が魂よ
 かの樅も薔薇もすでに
 汝が墓(おくつき)に、根ざし生ふべき
 運命のもとにあるを!
 若駒の黒き二頭の
 草食みて、牧場にあり
 今し巷に帰りゆく
 かろがろと足躍らせて
 この駒ぞ、汝が棺を曵きて
 しづしづと歩み運ばん
 誰か知る、その来る日を
 おそらくは今し我眼に
 光る見ゆ蹄の鉄の
 離れ落つ時をば待たじ。

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