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2007年6月23日 (土)

エルンスト・ブシォール『或るアッティカの少女の墓』

 2500年前に思いを馳せましょう。遠いアッティカの地に一人の少女が葬られました。おそらく予告なく死んだと思われる少女、遺骸には香油が塗られ、婚礼の衣装を身に纏い(嫁がずに死んだ少女はその生を究うしなかったと考えられていました)、低く響き渡る挽歌、絶えることのない哀哭の雨の中を、若い亡骸は土の下に横たえられます。塚には簡素な墓碑が立てられますが、古代アッティカの墓碑以上に心打たれる墓碑はありません。パロス島で発見され、今はメトロポリタン美術館に所蔵されている《鳩を抱く少女の墓碑》を思い出しましょう。右足にやや体重をかけ、右腕で抱いた鳩の口にキスしている少女。そのぷっくりした短い腕が少女の幼さを際立たせています。家族は、少女が生前と同じ姿で生き続けることを願いました。短い生涯で愛したものをいつまでも愛し、夢見たことをいつまでも夢見るように。それは死という永遠の深淵からたいせつなものを救い出そうとする試みかも知れません。

Fillette

(鳩を抱く少女の墓碑)
 この墓碑と同時代(前440年頃)の破損した白地レキュトス(葬祭用香油入)に描かれた渡し守カロンと少女の図は、もっと冷静に最盛期のギリシア人が死をどう感じていたかを示しています。冥府への見張り番であり渡し守であるカロンは、驚き怖れ抵抗する死者を頑丈な小舟で死者の国に送り届けます。しかし、このレキュトスに描かれたカロンは、舟縁に支えた脚にものうげに腕をもたせかけ、岸辺で佇む少女を憐れみと愛情のこもった無言の眼差しで見つめます。離れて立つ少女はおびえながらもカロンの眼差しから決して目をそらしません。「時を超えた眼差しで結ばれている死と少女との両人物の静かな向かい合いの裡に、死という事実が描きつくされている」とブシォールは書いています。

Attika

(渡し守カロンと少女)

 エルンスト・ブシォール(1886~1961)は(澤柳大五郎の解説によると)バイエルン=シュヴァーベンの農家に生まれ、中世の香りが残るニュルンベルクのギムナジウムで学び、大学はギリシア彫刻研究の本山たるミュンヘンを選びました。33歳でエルランゲン大学教授、36歳でドイツ考古学研究所所長としてアテネに赴任し、そこで厖大なギリシア美術と邂逅します。ブシォールは十年の歳月をかけてわずか25ページの論文『パルテノン時代のアッティカのレキュトス』を発表しました。これは古典ギリシアのレキュトスについての決定的な論考です。その14年後に著された本書『或るアッティカの少女の墓』(1978 岩波書店・澤柳大五郎編訳)はその研究の延長線上にあります。

 「この墓がどこにあり、どんな様子であったかわからない」とブシォールは書きはじめます。しかし、その墓からはギリシア芸術最盛期のパルテノン時代に死んだある少女の副葬品13点がほぼ完全な形で出てきたのです。そのうち5点は少女が日頃愛用していたもの、フェニキア硝子の香水入れ一つ、陶製の丸い装身具入れ二つ、そして二つの陶製の小さな供物入れです。供物入れは祭礼の日に選ばれた少女が頭に載せて行列の先頭を歩く時に使われ、その中には旬の果物や大麦などが入れられます。おそらく少女は家でこのミニチュアの供物入れを頭に載せて遊んでいたのでしょう。
 次の3点は人形です。一つは両手両足が可動する着せ替え人形で、少女が常に手放すことなく遊んでいたと思われるものです。もう二つは、供物入れを頭に載せている人形と竪琴を弾く人形ですが、これらは生前の少女の敬虔さと音楽への嗜好を考慮して遺族が買求めたものと考えられます。最後の五点は葬祭用白地レキュトスです。そのうち4点はありきたりの絵の描かれた出来合いの品で、おそらく親類や知人が葬儀のために買求めてきたと思われるものです。残りの一点、他よりもやや背が高く(36.7cm)すらりとした白地レキュトスはその美しさの点で他を圧しているもので、その画像から少女の遺族が心をこめて選択し、死出の旅に遺骸のかたわらに供えたと思われます。

Tubo4
(陶製の匣と供養籠と香水瓶)

Dools
(可動する人形と陶製の人形)

 エルンスト・ブシォールの筆はこの最後のレキュトスについて書き進められます。というより、このレキュトスが彼に『或るアッティカの少女の墓』を書かしめるだけの霊感と感動を与えたのです。レキュトスは香油入れですが、特に30cm以上の細長い白地のレキュトスは専ら葬祭用にのみ作られ、それはただ一回使用され、その場で打ち割られるか遺骸とともに墓に納められたものです。遺族はこのレキュトスに失った家族への悲痛な思いを託します。一方、レキュトスの作者はその絵付けに死について共有される人々の感情を鋭く表現しようとしました。それではこの白地レキュトスを見てみましょう。

Futari

Hidari

Migi

Tubo
(白地レキュトス)

 右には竪琴(キタラ)を弾きながら岩に腰かけている女性、左には暗い紅の衣服をつけて立っている女性が対峙して描かれています。下に「ヘリコン」と記されていることから、竪琴を弾く女性がヘリコン山に住む詩神、ムゥサであることがわかります。この絵柄は葬祭用レキュトスにとって唯一無二のもので、全くこの作者の独創にかかるものです。
 〈アキレウスの画家〉として知られている作者は生涯に数多くの葬祭用レキュトスを描いています。むろん葬祭用レキュトスの画題は死と葬祭であり、多くは墓前に死者と生者が向かい合う構図がとられますが、〈アキレウスの画家〉はとくに室内で二人の女性が向かい合う絵を得意としました。死んだ女主人に召使いの女が死出の用具を手渡しているのです。なぜか、この作家の作品は次第に純化され、やがてレキュトスの絵からは死を思わせる小道具は消え、ただ二人の女性が日常の姿で相対する図に変わっていきました。しかし、依然として片方は死者であり、もう一人はそれを見送る生者であるのです。「死」を思わせるいかなるものも排除されることによって、ついにレキュトスの上に絵付けられた世界は死そのものに到達したかのようです。

 ヘリコン山のレキュトスは恐らく40歳に達した頃のこの作家の頂点をなす作品といわれ、岩に腰かけて竪琴を弾く少女が死者にほかなりません。少女の瞳はキタラを爪弾く手を見ているというよりも深く内面に沈潜していく力に支配されています。そしてあたかも周りのざわめきや友の語りかけにも無感動な浄化された姿が、この世ならぬ霊界の雰囲気を漂わせます。しかし、なぜ少女はムゥサの名を冠しているのでしょうか。我々がその死を嘆き悲しむその少女は、実は人間ではなくムゥサだったのではないか、とブシォールは書いています。「この美しい女人はいつもムゥサだったのではないか、彼女はその竪琴から美しい調べを誘い出すとき明るいヘリコン山に天(あま)さかっていたのではないか、そしてそのひとが我々から逝ってしまった今こそ、アポロンの無垢で敬虔な侍女になっているのではないか、そして彼女を奪われてしまった我々は、我々の薄暗い空しくなった家と明るい山の頂にいる美しいひととを隔てている峡谷の彼方を悲しい暗い眼差しで見てはいけないのではないか、とこの絵は言おうとしているのではないか」
 左側に立つ女性に目を転じましょう。彼女は悲しみの眼で死者を見つめる遺族です。もはや前六世紀の壷絵のように遺族は泣きながら遺骸を抱くことはありません。死のダイモンにも冥府の観念にも犯されずに、ここには自らの運命を自覚する目覚めた本性があります。もはや生命の熱に燃えておらず、冷静に重々しく、時に憂愁を纏いさえします。「この冷たさ、夢の重さはどこから来るのか」とブシォールは自問します。〈アキレウスの画家〉をとらえていたイデーを省察してみなければなりません。彼はパルテノン時代、つまりギリシア芸術古典期のそのさらに盛期に活動した人間です。彼の傑作たるヘリコン山のレキュトスは前440年頃作られています。それはあのフェィディアスの時代、クラシックのまさにクラシックなるものが作られた当の時代です。人間の世界から一歩離れて、ここではオリンポスの神々の視点から人間が見つめられています。「生の中に子供のように入り込み、死の外側に立つこと、それは終わった」今や生と死は融合し、真実の生(イデー)は死の中でなお生き続けます。「すべての肉体は滅びるが、生命の分身(写し絵)はなお生き続ける。然り、これのみひとり神々に由来する」(ピンダロス・澤柳大五郎訳)

 「いずれにせよ」とブシォールは書き加えています。「この貴重なレキュトスを購い遺骸の床に供えた我々の墓の遺族が、このムゥサの山で竪琴を奏する無比の人物に音楽を愛した亡きひとの姿を認めていたことは疑いを挟む余地はない。我々もまたこの画像の裡に亡き少女の面影を偲びたい。花の盛りに近づく少女の用いた小さな匣や瓶、敬虔な乙女の小さな供養籠や供養の人形、竪琴を愛した少女の姿をした土偶、これらすべての副葬品は、謂わばもう一度このレキュトス上の忘れがたいムゥサの姿の中に凝集している」 

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コメント

はじめまして、こんにちは!

フォンターネに関する詳細に渡る記事を掲載してくださいましてありがとうございます。なかなか日本の(そんなものがあるとして)文芸界では取り上げられない作家ですが、知る人ぞ知る偉大な作家です。

管理人さんのこれからの記事更新に期待しております。

投稿: 自由が丘 | 2007年7月 1日 (日) 11時32分

自由が丘様、コメントありがとうございます。セザンヌでしたか、すぐれた絵画は歳を重ねて経験を積まねば描けないと言っています。フォンターネの小説はまさにそのとおり経験と思索を積んだ人間の創り出したものに思われます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。それでは。

投稿: saiki | 2007年7月 1日 (日) 17時29分

長田弘さんの、「最後の詩集」の中で「あるアッテイカの少女の墓」という詩があります。p34.この本についてgoogleで調べていて、この評論と写真に出会うことが出来ました。
長田さんは、デジタル化された世界を必ずしも喜んでおられませんでしたが、ネット社会の御蔭でこうした文章に出会えた幸せを、彼はどう評価するのでしょうか。

投稿: 鈴木 隆 | 2015年7月 4日 (土) 17時44分

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