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2007年6月 2日 (土)

アラン『裁かれた戦争』(2)

 生まれつき気がやさしく、正義を心がける国王がいたとします。大臣は国王に、「陛下、陛下の兵士たちは徴兵官が強引に引っ張ってきた不幸な者たちです。御命令に従い、勝利と死の行進を続けながら、陛下を呪っております」とは報告しないでしょう。逆にこの大臣は「陛下、兵隊皆は陛下の大御心が人類と正義に貢献すると信じ、先を争って皇軍に馳せ参じ、陛下の御為に命を捧げる所存でございます」と言うに違いありません。耳に心地よく響くこの言葉はむろんフリードリッヒ大王も聞かされたことでしょう。彼がどう思ったかはわかりません。現実を知りたいと思わなければ知らないですまされるのですから。だが、いずれにせよ、最後の決を下す人間が、その決断から生まれる現実について正しい情報を得られなければ、それは正しいこととはいえません。この種の無恥からこの世のあらゆる不正が生まれるのかも知れません。なぜなら現実に通じている取次ぎ連中は命令を下さないし、決定を下す人間は自分が何をしているか全く分かっていないのですから。ありのままの現実を知らせ、なおかつ彼が断固として命令を下すと考えるのは辛いことです。しかし、何を命令するか自覚せずに命令を下すとすれば、これはひどすぎます。
 実は、この国王は私たち自身のことなのです。「諸君たちも世論を形成し、投票をする際には国王なのだ。平和も戦争も何らかの形で君らの双肩にかかっているのだ」とアランは書いています。「君が権力のたわむれを楽しむにせよ、政治家連の遊戯を是認するにせよ、宿命を甘んじて受け入れるにせよ、まず最初に、君が何をし、何を是認しているのかはっきり自覚するのが筋というものである」「お人好しの国王よ。私には明確に見てとれるのだが、大臣連は大物小物を問わずそろって君を欺いているのだ。そして戦争を決定し、準備し、是認することは、極めて醜悪な恐るべき事柄を決定し、準備し、是認することだと、君が感づかないような手をうっているのだ」

 ここでアランの筆致は一気に加速します。「だが、考えてみて欲しい。戦争は人為的事象であり、世論に依存するものなのだ。戦争は正邪はともかくとして、いずれにせよ怒りのこもった世論から生まれる」怖いのは集団的狂信です。「私は世論の力を知っているし、私自身もその影響を受けている。集会で皆が興奮し、演説、喝采、あるいは合唱によって同一の意見が表明されると、誰も証拠を求めようとはしない。感動は模倣され、こだましあい、増殖し、千の頭を持つリヴァイアサンへの野蛮な信仰を各人の心の中でかきたてる。こうして我々全員殺される覚悟ができるのだ」
 しなければならないことは実は簡単なことなのです。「私もまた当事者の一人であり、世論を作り出す一人だということを忘れないようにしよう。私自身が戦争を望んでいるか否かを、他人の群れに向かって訊ねることは余りにも愚かなことだ。ところが現代では、ほとんどの人が、自分自身どう考えるべきか知ろうとして、新聞や隣人に伺いを立てる始末ではないか」「私自身の思想と感情以外に、私を左右する人為的事象は存在しない。私は主権者なのだ」そして、自分で考えるということは誰にでも可能であるはずです。「誰でも考える能力を授かっており、この能力は問いかけられると直ちに力や数や刑罰や牢獄に反撥をして、自己を主張する。この能力は火山を前にしても、群集の真只中においてさえ、孤独と自由を求める。、、、そしてこの孤独の中での精神の気高さこそが、正気な人間が敬意を払いうる唯一の人間らしさなのである」

 ここに教育者アランの骨太い姿があります。ガブリエッラ・フィオーリの『シモーヌ・ヴェイユ』(平凡社・福井美津子訳)によれば、ヴェイユは1925年から三年間アンリ四世校でアランの指導を受けました。アランはどの生徒も優秀な成績を収める知的能力が備わっていると信じていたので、意志さえ強固であれば国民全体が教養ゆたかになれると考えました。「もっとも重大な教育上の誤りとは、ある生徒たちを他の生徒たちより頭が悪いと判断することである。なぜならこの態度は彼らを一つの運命の中に閉じ込めるからだ。できが悪い生徒に欠けているのは知力ではなく、ひたすら素直に謙虚に勉強する力、勇気である。たちまちのうちに挫折する臆病さには多大の傲慢がふくまれている」「ひとは自分が欲したのと同程度の知性を得る」「すべては意志の問題である。《怠惰》こそ真の障害である。怠け者の子供に向かって彼自身を責めてはならない、勉強を責めるのだ。努力を要する、胸躍る任務を与え、彼が障害を超えるよう自信を持たせねばならない」アランは生徒の答案をていねいに採点し、「あなたはまだスタートしていませんね」とよく書き加えました。アランが生徒に対しておこなった唯一の非難は「あなたには勇気が欠けています」という評価でした。というのも学習とは自分自身とのたたかいであるからです。
 シモーヌ・ヴェイユは小さい頃から拒食症、過食症などの精神的不安定さにつきまとわれていました。アランは週三度の哲学の授業の時にいつも生徒に自由作文を提出させていたのですが、ヴェイユの作文の余りの字の汚なさに受け取りを拒否しました。ヴェイユは手の甲にマッチで火傷を作るほどの自己抑制の努力で不器用を克服し、はっきりした字体を書けるようになりました。最初、彼女の文章は「ほとんど理解できない言葉で表現され、あまりに濃密な瞑想にふける」と評価されましたが、次第に明晰さを獲得し、やがてアランに「優秀な学生。輝かしい成果を期待する」と言わせました。残っている彼女の作文の一つは、アレクサンダー大王について書かれたものです。砂漠を行進するアレクサンダーの軍は渇きと疲労の極限にありました。部下の一人が遠くから兜に入れて運んできた水をアレキサンダーのところに持ってくるとアレキサンダーは自分だけ優遇されることを嫌い、直ちにそれを砂の上に流してしまいました。「誰に対しても無益である彼の行為は、それゆえに万人にとって有益である。、、世界を救済するには、純粋で正しくあれば十分なのだ」とヴェイユは書きました。アランはその文章に t.b(tres bien)と記しています。

 『裁かれた戦争』は戦争への憎しみと平和への願いで満ちています。「徹底した議論によって相手を説得すること」がむろん大事ですが、その根底には他者の幸福を願う「慈愛」がなければなりません。ここでまたアランの哲学の根本精神が浮かび上がります。それは多様性を愛する心です。「教養のない人間の欠点は物事を信じすぎる点にある」と彼は書いています。教養ある精神の中には多くの思想が一致しないまま一時的に妥協し、あたかも共存しているかのようです。「そして、モンテーニュの場合のように、イエスとノーが仲良く同居していることは、あらゆる意味で公正な精神の特徴である。、、他方、賢者が何ひとつ疑わないのも事実であり、モンテーニュもそうであった。、、彼らは多くを疑うというより、物事の多様性を信じるといった方がよかろう」

 折しも戦後初めて憲法改正が具体的政治プランの上に載りつつあります。人々が決断を下すとき、その時はアランの言うように、生者と死者に対しての責任を決して忘れてはならないでしょう。「最悪のことを信じ、そして希望を持て」これがアランの私たちへのメッセージです。

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