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2007年6月 9日 (土)

エリアス・カネッティ『酷薄な伴侶との対話』

 ブログが普及することで、誰もが簡単に自分の日記を公開することができるようになりました。かつては選ばれた人間にしか許されなかったことが万人のものとなったのです。とはいえ、毎日の生活は同じことの繰り返しが多いわけで、読者の興味をひくためにも必然的に趣味中心の記録になることは避けられないようです。ところが、その趣味にしても継続的に新しい話題を掘り出していくことは容易ではありません。疲労や倦怠などの理由でブログの更新は滞り、いつしか休載、あるいは閉鎖のやむなきに至りますが、不思議なことに充電の時期が終わると再びブログの再開に踏切る人が多いようです。自分の生活の一面を人に見せたいという感情には、何か根源的に人間特有の欲求のようなものがあるのかも知れません。
 エリアス・カネッティ(1905-1994)は1928年ベルリンに滞在していましたが、その時に知り合った友人は毎晩のようにカネッティに自分のその日の日記を読んで聞かせていました。この苦痛から逃れるべくカネッティはその友人に十分な聴衆を集めての週一回の朗読会を開くことを提案し、こうして、まんまと彼は静かな生活を取り戻し、友人はさらに張り切ってその尾羽を孔雀のようにひろげることができたのでした。
 カネッティの考える日記はむろんこの友人のように人に聞かせるためのものではありません。それは、一言でいえば、感じやすい人間の生きる手だてといってよいでしょう。「人間がもろもろの印象の激しさを知り、さながら毎日がおのれの唯一の日であるかのように日々のあらゆるディティールに感応するならば」そのような人間は日記によって心を静めないかぎり、自爆するしかないというのです。「書かれた文章がいかに人間を静めかつ制することができるかほとんど信じがたいほどである」「多くの日記のあじけなさは」とカネッティは書いています。「静められるべきものがまったく欠落していることによるのだ」

 『酷薄な伴侶との対話』(法政大学出版局・岩田行一・古沢健次訳)はドイツの8人の現代作家が日記について記述したものですが、表題にもなったカネッティのエッセイが、もっとも刺激的です。
 彼は、まず、日記を断想と備忘録から峻別します。断想とは瞬間の思いつきのメモともいうべきもので、人がある仕事に熱中しているとき、突然、予期せぬごとくある全く関係ない事柄についての思いつきが頭に浮かぶことがあります。それを深く掘り下げる余裕はないが、書き留めなければ永遠に忘れてしまうようなもの、つまりそれは人間の多面性と豊穣さを表すものなのですが、それでもそれは日記ではありません! 一方、備忘録は自分だけのカレンダーのごとく、日々おのれを他から区別するものです。それはたいてい記号のような言葉で書かれ、本人しかわからない符牒すら使われます。ある日付、あるいはあるホテルの部屋の番号、それは自分以外の人間には意味を持たないが、遠い時間の後でそのページのその数字を目にするとき青春時代の自分がいくぶん自信なさげに立っている思いがしないでしょうか。そのとき、自分は、あらゆる転変浮沈にもかかわらず、他人とは分かち合えないひとつの中心でもあると再認するのです。「誰もが、しかも絶対に誰もが世界の中心である。世界はそれがこのようなもろもろの中心点に満ちているがゆえにのみ貴重なのである。これが人間という言葉の意味にほかならない」しかし、それでもそれはやはり日記ではありません!

 「日記の中では、人はおのれ自身に語りかける。そうすることのできない者、目の前に聴衆を思い浮かべる者は捏造者である」と、カネッティは書きます。しかし、この話しかけるもう一人の自分とはどんな人間なのでしょうか。「人が話しかける虚構の自我の第一の長所は、それが実際に人に耳を貸すということである」それは、つねにその場にいて、つねにそっぽを向かず、人の話しをさえぎらないし、最後まで人にしゃべらせます。それは好奇心が強いだけではなく、忍耐強くもあるのです。しかしながら、この聴き手がおのれの負担を軽くしてくれるなどと夢にも想像してはなりません。彼が人の話を理解する以上、人は彼に対して何ひとつごまかすことはできないのです。彼は忍耐強いが意地悪でもあるのです。彼は人のいかなる点をも大目に見ないし、すべてを見抜きます。「私は自分の60年になんなんとする人生を通じてこれほど危険な対話者に出会ったことはない」彼は本人自身の利益を代表しようとしないし、いかなる理論も弁護せず、いかなる発見にも満悦しません。権力ないし虚栄の衝動に対する勘は無気味なほどです。不精確さ、認識不足、怠惰、これらを目にすると電光石火のごとく襲いかかります。まさに油断できない対話者であるのですが、この首尾一貫した酷薄な伴侶を有しない日記は「価値ないもののように私には思われる」とカネッティは断言します。

 なぜ日記には「酷薄な伴侶」が必要なのでしょうか。その理由は、人間が生涯の間、ある種の強迫観念や苦悩や個人的な問題と戦わねばならないからです。小説と違ってその戦いは終りがありません。たとえ、日記の作者が小説家で自らの苦悩を文学作品に結実し得ても、作中人物たちは作品を成り立たせるために作家とはほどよい距離を保つことによって存在します。日記の作者を苦しめるものは、想像上の苦悩ではなく、生身の、片時も脳裏を去らない、絶望的なまでに強固な、しかし、それが当の人間の独自性を形作ることもまた真実である長期的な苦悩なのです。肉体にへばりつくこの病根を、彼はなだめ、親しくつきあい、争い、突き放し、弔鐘が鳴らされるその時まで考察し続けるのです。カネッティにとってそれは、貪欲、羨望、嫉妬、妄想、信仰、そして何より「死」にほかなりませんでした。「私はそれ(死)を認めることはできないし、それの魅力とそれの偽りの栄光とを打ちこわすために、それをその最後の隠れ家のなかまで追いつめなければならないのだ」カネッティは1963年に最愛の妻ヴェツァを失い、弟ジョルジュも1971年パリで死去、「けれどもカネッティは頑として死というものを認めようとしなかった」(『エリアス・カネッティ』Y . イシャグプール・法政大出版局・川俣晃自訳)愛するものが死んだ後に生き残ることは不可能であり、だが現実には容易に可能であることです。しかし「生き残る」ということはいったい何を意味しているのでしょうか。生き残る、ということはあたかも永遠に生き続けること、自分だけは死の魔手から逃れているという錯覚を持たせるのです。この一点から『群集と権力』のエピローグ、権力とは生き残ることであり、その命令は死であるという考察が生まれてきたのでしょう。

 エリアス・カネッティは1905年ブルガリアにおいてスペイン系ユダヤ人の両親のもとに生まれました。幼少からローザンヌ、マンチェスター、ウィーン、フランクフルトと移り住み、少年時に母親から教わったドイツ語が彼の精神的母語となりました。ウィーンに住んでいた20歳のとき、知的で美しく、恐ろしいほど博学であったヴェツァ・カルデロンと出会い、29歳のとき彼女と結婚、8歳年上のヴェツァはそれ以後自らの創作活動を諦め、カネッティの著作を世に出すためにのみ献身的な努力を尽くしました。1939年から20余年にわたるロンドン生活で大作『群集と権力』を完成、76歳の1981年にノーベル文学賞を与えられたとき、彼は電話を切り、インタビューを断り、ストックホルムに行くことは行ったが、それは彼に「言葉」を与えてくれたカフカ、クラウス、ブロッホ、ムージルらを顕彰するためにすぎなかった、とイシャグプールは書いています。

 

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