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2007年6月23日 (土)

エルンスト・ブシォール『或るアッティカの少女の墓』

 2500年前に思いを馳せましょう。遠いアッティカの地に一人の少女が葬られました。おそらく予告なく死んだと思われる少女、遺骸には香油が塗られ、婚礼の衣装を身に纏い(嫁がずに死んだ少女はその生を究うしなかったと考えられていました)、低く響き渡る挽歌、絶えることのない哀哭の雨の中を、若い亡骸は土の下に横たえられます。塚には簡素な墓碑が立てられますが、古代アッティカの墓碑以上に心打たれる墓碑はありません。パロス島で発見され、今はメトロポリタン美術館に所蔵されている《鳩を抱く少女の墓碑》を思い出しましょう。右足にやや体重をかけ、右腕で抱いた鳩の口にキスしている少女。そのぷっくりした短い腕が少女の幼さを際立たせています。家族は、少女が生前と同じ姿で生き続けることを願いました。短い生涯で愛したものをいつまでも愛し、夢見たことをいつまでも夢見るように。それは死という永遠の深淵からたいせつなものを救い出そうとする試みかも知れません。

Fillette

(鳩を抱く少女の墓碑)
 この墓碑と同時代(前440年頃)の破損した白地レキュトス(葬祭用香油入)に描かれた渡し守カロンと少女の図は、もっと冷静に最盛期のギリシア人が死をどう感じていたかを示しています。冥府への見張り番であり渡し守であるカロンは、驚き怖れ抵抗する死者を頑丈な小舟で死者の国に送り届けます。しかし、このレキュトスに描かれたカロンは、舟縁に支えた脚にものうげに腕をもたせかけ、岸辺で佇む少女を憐れみと愛情のこもった無言の眼差しで見つめます。離れて立つ少女はおびえながらもカロンの眼差しから決して目をそらしません。「時を超えた眼差しで結ばれている死と少女との両人物の静かな向かい合いの裡に、死という事実が描きつくされている」とブシォールは書いています。

Attika

(渡し守カロンと少女)

 エルンスト・ブシォール(1886~1961)は(澤柳大五郎の解説によると)バイエルン=シュヴァーベンの農家に生まれ、中世の香りが残るニュルンベルクのギムナジウムで学び、大学はギリシア彫刻研究の本山たるミュンヘンを選びました。33歳でエルランゲン大学教授、36歳でドイツ考古学研究所所長としてアテネに赴任し、そこで厖大なギリシア美術と邂逅します。ブシォールは十年の歳月をかけてわずか25ページの論文『パルテノン時代のアッティカのレキュトス』を発表しました。これは古典ギリシアのレキュトスについての決定的な論考です。その14年後に著された本書『或るアッティカの少女の墓』(1978 岩波書店・澤柳大五郎編訳)はその研究の延長線上にあります。

 「この墓がどこにあり、どんな様子であったかわからない」とブシォールは書きはじめます。しかし、その墓からはギリシア芸術最盛期のパルテノン時代に死んだある少女の副葬品13点がほぼ完全な形で出てきたのです。そのうち5点は少女が日頃愛用していたもの、フェニキア硝子の香水入れ一つ、陶製の丸い装身具入れ二つ、そして二つの陶製の小さな供物入れです。供物入れは祭礼の日に選ばれた少女が頭に載せて行列の先頭を歩く時に使われ、その中には旬の果物や大麦などが入れられます。おそらく少女は家でこのミニチュアの供物入れを頭に載せて遊んでいたのでしょう。
 次の3点は人形です。一つは両手両足が可動する着せ替え人形で、少女が常に手放すことなく遊んでいたと思われるものです。もう二つは、供物入れを頭に載せている人形と竪琴を弾く人形ですが、これらは生前の少女の敬虔さと音楽への嗜好を考慮して遺族が買求めたものと考えられます。最後の五点は葬祭用白地レキュトスです。そのうち4点はありきたりの絵の描かれた出来合いの品で、おそらく親類や知人が葬儀のために買求めてきたと思われるものです。残りの一点、他よりもやや背が高く(36.7cm)すらりとした白地レキュトスはその美しさの点で他を圧しているもので、その画像から少女の遺族が心をこめて選択し、死出の旅に遺骸のかたわらに供えたと思われます。

Tubo4
(陶製の匣と供養籠と香水瓶)

Dools
(可動する人形と陶製の人形)

 エルンスト・ブシォールの筆はこの最後のレキュトスについて書き進められます。というより、このレキュトスが彼に『或るアッティカの少女の墓』を書かしめるだけの霊感と感動を与えたのです。レキュトスは香油入れですが、特に30cm以上の細長い白地のレキュトスは専ら葬祭用にのみ作られ、それはただ一回使用され、その場で打ち割られるか遺骸とともに墓に納められたものです。遺族はこのレキュトスに失った家族への悲痛な思いを託します。一方、レキュトスの作者はその絵付けに死について共有される人々の感情を鋭く表現しようとしました。それではこの白地レキュトスを見てみましょう。

Futari

Hidari

Migi

Tubo
(白地レキュトス)

 右には竪琴(キタラ)を弾きながら岩に腰かけている女性、左には暗い紅の衣服をつけて立っている女性が対峙して描かれています。下に「ヘリコン」と記されていることから、竪琴を弾く女性がヘリコン山に住む詩神、ムゥサであることがわかります。この絵柄は葬祭用レキュトスにとって唯一無二のもので、全くこの作者の独創にかかるものです。
 〈アキレウスの画家〉として知られている作者は生涯に数多くの葬祭用レキュトスを描いています。むろん葬祭用レキュトスの画題は死と葬祭であり、多くは墓前に死者と生者が向かい合う構図がとられますが、〈アキレウスの画家〉はとくに室内で二人の女性が向かい合う絵を得意としました。死んだ女主人に召使いの女が死出の用具を手渡しているのです。なぜか、この作家の作品は次第に純化され、やがてレキュトスの絵からは死を思わせる小道具は消え、ただ二人の女性が日常の姿で相対する図に変わっていきました。しかし、依然として片方は死者であり、もう一人はそれを見送る生者であるのです。「死」を思わせるいかなるものも排除されることによって、ついにレキュトスの上に絵付けられた世界は死そのものに到達したかのようです。

 ヘリコン山のレキュトスは恐らく40歳に達した頃のこの作家の頂点をなす作品といわれ、岩に腰かけて竪琴を弾く少女が死者にほかなりません。少女の瞳はキタラを爪弾く手を見ているというよりも深く内面に沈潜していく力に支配されています。そしてあたかも周りのざわめきや友の語りかけにも無感動な浄化された姿が、この世ならぬ霊界の雰囲気を漂わせます。しかし、なぜ少女はムゥサの名を冠しているのでしょうか。我々がその死を嘆き悲しむその少女は、実は人間ではなくムゥサだったのではないか、とブシォールは書いています。「この美しい女人はいつもムゥサだったのではないか、彼女はその竪琴から美しい調べを誘い出すとき明るいヘリコン山に天(あま)さかっていたのではないか、そしてそのひとが我々から逝ってしまった今こそ、アポロンの無垢で敬虔な侍女になっているのではないか、そして彼女を奪われてしまった我々は、我々の薄暗い空しくなった家と明るい山の頂にいる美しいひととを隔てている峡谷の彼方を悲しい暗い眼差しで見てはいけないのではないか、とこの絵は言おうとしているのではないか」
 左側に立つ女性に目を転じましょう。彼女は悲しみの眼で死者を見つめる遺族です。もはや前六世紀の壷絵のように遺族は泣きながら遺骸を抱くことはありません。死のダイモンにも冥府の観念にも犯されずに、ここには自らの運命を自覚する目覚めた本性があります。もはや生命の熱に燃えておらず、冷静に重々しく、時に憂愁を纏いさえします。「この冷たさ、夢の重さはどこから来るのか」とブシォールは自問します。〈アキレウスの画家〉をとらえていたイデーを省察してみなければなりません。彼はパルテノン時代、つまりギリシア芸術古典期のそのさらに盛期に活動した人間です。彼の傑作たるヘリコン山のレキュトスは前440年頃作られています。それはあのフェィディアスの時代、クラシックのまさにクラシックなるものが作られた当の時代です。人間の世界から一歩離れて、ここではオリンポスの神々の視点から人間が見つめられています。「生の中に子供のように入り込み、死の外側に立つこと、それは終わった」今や生と死は融合し、真実の生(イデー)は死の中でなお生き続けます。「すべての肉体は滅びるが、生命の分身(写し絵)はなお生き続ける。然り、これのみひとり神々に由来する」(ピンダロス・澤柳大五郎訳)

 「いずれにせよ」とブシォールは書き加えています。「この貴重なレキュトスを購い遺骸の床に供えた我々の墓の遺族が、このムゥサの山で竪琴を奏する無比の人物に音楽を愛した亡きひとの姿を認めていたことは疑いを挟む余地はない。我々もまたこの画像の裡に亡き少女の面影を偲びたい。花の盛りに近づく少女の用いた小さな匣や瓶、敬虔な乙女の小さな供養籠や供養の人形、竪琴を愛した少女の姿をした土偶、これらすべての副葬品は、謂わばもう一度このレキュトス上の忘れがたいムゥサの姿の中に凝集している」 

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2007年6月 9日 (土)

エリアス・カネッティ『酷薄な伴侶との対話』

 ブログが普及することで、誰もが簡単に自分の日記を公開することができるようになりました。かつては選ばれた人間にしか許されなかったことが万人のものとなったのです。とはいえ、毎日の生活は同じことの繰り返しが多いわけで、読者の興味をひくためにも必然的に趣味中心の記録になることは避けられないようです。ところが、その趣味にしても継続的に新しい話題を掘り出していくことは容易ではありません。疲労や倦怠などの理由でブログの更新は滞り、いつしか休載、あるいは閉鎖のやむなきに至りますが、不思議なことに充電の時期が終わると再びブログの再開に踏切る人が多いようです。自分の生活の一面を人に見せたいという感情には、何か根源的に人間特有の欲求のようなものがあるのかも知れません。
 エリアス・カネッティ(1905-1994)は1928年ベルリンに滞在していましたが、その時に知り合った友人は毎晩のようにカネッティに自分のその日の日記を読んで聞かせていました。この苦痛から逃れるべくカネッティはその友人に十分な聴衆を集めての週一回の朗読会を開くことを提案し、こうして、まんまと彼は静かな生活を取り戻し、友人はさらに張り切ってその尾羽を孔雀のようにひろげることができたのでした。
 カネッティの考える日記はむろんこの友人のように人に聞かせるためのものではありません。それは、一言でいえば、感じやすい人間の生きる手だてといってよいでしょう。「人間がもろもろの印象の激しさを知り、さながら毎日がおのれの唯一の日であるかのように日々のあらゆるディティールに感応するならば」そのような人間は日記によって心を静めないかぎり、自爆するしかないというのです。「書かれた文章がいかに人間を静めかつ制することができるかほとんど信じがたいほどである」「多くの日記のあじけなさは」とカネッティは書いています。「静められるべきものがまったく欠落していることによるのだ」

 『酷薄な伴侶との対話』(法政大学出版局・岩田行一・古沢健次訳)はドイツの8人の現代作家が日記について記述したものですが、表題にもなったカネッティのエッセイが、もっとも刺激的です。
 彼は、まず、日記を断想と備忘録から峻別します。断想とは瞬間の思いつきのメモともいうべきもので、人がある仕事に熱中しているとき、突然、予期せぬごとくある全く関係ない事柄についての思いつきが頭に浮かぶことがあります。それを深く掘り下げる余裕はないが、書き留めなければ永遠に忘れてしまうようなもの、つまりそれは人間の多面性と豊穣さを表すものなのですが、それでもそれは日記ではありません! 一方、備忘録は自分だけのカレンダーのごとく、日々おのれを他から区別するものです。それはたいてい記号のような言葉で書かれ、本人しかわからない符牒すら使われます。ある日付、あるいはあるホテルの部屋の番号、それは自分以外の人間には意味を持たないが、遠い時間の後でそのページのその数字を目にするとき青春時代の自分がいくぶん自信なさげに立っている思いがしないでしょうか。そのとき、自分は、あらゆる転変浮沈にもかかわらず、他人とは分かち合えないひとつの中心でもあると再認するのです。「誰もが、しかも絶対に誰もが世界の中心である。世界はそれがこのようなもろもろの中心点に満ちているがゆえにのみ貴重なのである。これが人間という言葉の意味にほかならない」しかし、それでもそれはやはり日記ではありません!

 「日記の中では、人はおのれ自身に語りかける。そうすることのできない者、目の前に聴衆を思い浮かべる者は捏造者である」と、カネッティは書きます。しかし、この話しかけるもう一人の自分とはどんな人間なのでしょうか。「人が話しかける虚構の自我の第一の長所は、それが実際に人に耳を貸すということである」それは、つねにその場にいて、つねにそっぽを向かず、人の話しをさえぎらないし、最後まで人にしゃべらせます。それは好奇心が強いだけではなく、忍耐強くもあるのです。しかしながら、この聴き手がおのれの負担を軽くしてくれるなどと夢にも想像してはなりません。彼が人の話を理解する以上、人は彼に対して何ひとつごまかすことはできないのです。彼は忍耐強いが意地悪でもあるのです。彼は人のいかなる点をも大目に見ないし、すべてを見抜きます。「私は自分の60年になんなんとする人生を通じてこれほど危険な対話者に出会ったことはない」彼は本人自身の利益を代表しようとしないし、いかなる理論も弁護せず、いかなる発見にも満悦しません。権力ないし虚栄の衝動に対する勘は無気味なほどです。不精確さ、認識不足、怠惰、これらを目にすると電光石火のごとく襲いかかります。まさに油断できない対話者であるのですが、この首尾一貫した酷薄な伴侶を有しない日記は「価値ないもののように私には思われる」とカネッティは断言します。

 なぜ日記には「酷薄な伴侶」が必要なのでしょうか。その理由は、人間が生涯の間、ある種の強迫観念や苦悩や個人的な問題と戦わねばならないからです。小説と違ってその戦いは終りがありません。たとえ、日記の作者が小説家で自らの苦悩を文学作品に結実し得ても、作中人物たちは作品を成り立たせるために作家とはほどよい距離を保つことによって存在します。日記の作者を苦しめるものは、想像上の苦悩ではなく、生身の、片時も脳裏を去らない、絶望的なまでに強固な、しかし、それが当の人間の独自性を形作ることもまた真実である長期的な苦悩なのです。肉体にへばりつくこの病根を、彼はなだめ、親しくつきあい、争い、突き放し、弔鐘が鳴らされるその時まで考察し続けるのです。カネッティにとってそれは、貪欲、羨望、嫉妬、妄想、信仰、そして何より「死」にほかなりませんでした。「私はそれ(死)を認めることはできないし、それの魅力とそれの偽りの栄光とを打ちこわすために、それをその最後の隠れ家のなかまで追いつめなければならないのだ」カネッティは1963年に最愛の妻ヴェツァを失い、弟ジョルジュも1971年パリで死去、「けれどもカネッティは頑として死というものを認めようとしなかった」(『エリアス・カネッティ』Y . イシャグプール・法政大出版局・川俣晃自訳)愛するものが死んだ後に生き残ることは不可能であり、だが現実には容易に可能であることです。しかし「生き残る」ということはいったい何を意味しているのでしょうか。生き残る、ということはあたかも永遠に生き続けること、自分だけは死の魔手から逃れているという錯覚を持たせるのです。この一点から『群集と権力』のエピローグ、権力とは生き残ることであり、その命令は死であるという考察が生まれてきたのでしょう。

 エリアス・カネッティは1905年ブルガリアにおいてスペイン系ユダヤ人の両親のもとに生まれました。幼少からローザンヌ、マンチェスター、ウィーン、フランクフルトと移り住み、少年時に母親から教わったドイツ語が彼の精神的母語となりました。ウィーンに住んでいた20歳のとき、知的で美しく、恐ろしいほど博学であったヴェツァ・カルデロンと出会い、29歳のとき彼女と結婚、8歳年上のヴェツァはそれ以後自らの創作活動を諦め、カネッティの著作を世に出すためにのみ献身的な努力を尽くしました。1939年から20余年にわたるロンドン生活で大作『群集と権力』を完成、76歳の1981年にノーベル文学賞を与えられたとき、彼は電話を切り、インタビューを断り、ストックホルムに行くことは行ったが、それは彼に「言葉」を与えてくれたカフカ、クラウス、ブロッホ、ムージルらを顕彰するためにすぎなかった、とイシャグプールは書いています。

 

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2007年6月 2日 (土)

アラン『裁かれた戦争』(2)

 生まれつき気がやさしく、正義を心がける国王がいたとします。大臣は国王に、「陛下、陛下の兵士たちは徴兵官が強引に引っ張ってきた不幸な者たちです。御命令に従い、勝利と死の行進を続けながら、陛下を呪っております」とは報告しないでしょう。逆にこの大臣は「陛下、兵隊皆は陛下の大御心が人類と正義に貢献すると信じ、先を争って皇軍に馳せ参じ、陛下の御為に命を捧げる所存でございます」と言うに違いありません。耳に心地よく響くこの言葉はむろんフリードリッヒ大王も聞かされたことでしょう。彼がどう思ったかはわかりません。現実を知りたいと思わなければ知らないですまされるのですから。だが、いずれにせよ、最後の決を下す人間が、その決断から生まれる現実について正しい情報を得られなければ、それは正しいこととはいえません。この種の無恥からこの世のあらゆる不正が生まれるのかも知れません。なぜなら現実に通じている取次ぎ連中は命令を下さないし、決定を下す人間は自分が何をしているか全く分かっていないのですから。ありのままの現実を知らせ、なおかつ彼が断固として命令を下すと考えるのは辛いことです。しかし、何を命令するか自覚せずに命令を下すとすれば、これはひどすぎます。
 実は、この国王は私たち自身のことなのです。「諸君たちも世論を形成し、投票をする際には国王なのだ。平和も戦争も何らかの形で君らの双肩にかかっているのだ」とアランは書いています。「君が権力のたわむれを楽しむにせよ、政治家連の遊戯を是認するにせよ、宿命を甘んじて受け入れるにせよ、まず最初に、君が何をし、何を是認しているのかはっきり自覚するのが筋というものである」「お人好しの国王よ。私には明確に見てとれるのだが、大臣連は大物小物を問わずそろって君を欺いているのだ。そして戦争を決定し、準備し、是認することは、極めて醜悪な恐るべき事柄を決定し、準備し、是認することだと、君が感づかないような手をうっているのだ」

 ここでアランの筆致は一気に加速します。「だが、考えてみて欲しい。戦争は人為的事象であり、世論に依存するものなのだ。戦争は正邪はともかくとして、いずれにせよ怒りのこもった世論から生まれる」怖いのは集団的狂信です。「私は世論の力を知っているし、私自身もその影響を受けている。集会で皆が興奮し、演説、喝采、あるいは合唱によって同一の意見が表明されると、誰も証拠を求めようとはしない。感動は模倣され、こだましあい、増殖し、千の頭を持つリヴァイアサンへの野蛮な信仰を各人の心の中でかきたてる。こうして我々全員殺される覚悟ができるのだ」
 しなければならないことは実は簡単なことなのです。「私もまた当事者の一人であり、世論を作り出す一人だということを忘れないようにしよう。私自身が戦争を望んでいるか否かを、他人の群れに向かって訊ねることは余りにも愚かなことだ。ところが現代では、ほとんどの人が、自分自身どう考えるべきか知ろうとして、新聞や隣人に伺いを立てる始末ではないか」「私自身の思想と感情以外に、私を左右する人為的事象は存在しない。私は主権者なのだ」そして、自分で考えるということは誰にでも可能であるはずです。「誰でも考える能力を授かっており、この能力は問いかけられると直ちに力や数や刑罰や牢獄に反撥をして、自己を主張する。この能力は火山を前にしても、群集の真只中においてさえ、孤独と自由を求める。、、、そしてこの孤独の中での精神の気高さこそが、正気な人間が敬意を払いうる唯一の人間らしさなのである」

 ここに教育者アランの骨太い姿があります。ガブリエッラ・フィオーリの『シモーヌ・ヴェイユ』(平凡社・福井美津子訳)によれば、ヴェイユは1925年から三年間アンリ四世校でアランの指導を受けました。アランはどの生徒も優秀な成績を収める知的能力が備わっていると信じていたので、意志さえ強固であれば国民全体が教養ゆたかになれると考えました。「もっとも重大な教育上の誤りとは、ある生徒たちを他の生徒たちより頭が悪いと判断することである。なぜならこの態度は彼らを一つの運命の中に閉じ込めるからだ。できが悪い生徒に欠けているのは知力ではなく、ひたすら素直に謙虚に勉強する力、勇気である。たちまちのうちに挫折する臆病さには多大の傲慢がふくまれている」「ひとは自分が欲したのと同程度の知性を得る」「すべては意志の問題である。《怠惰》こそ真の障害である。怠け者の子供に向かって彼自身を責めてはならない、勉強を責めるのだ。努力を要する、胸躍る任務を与え、彼が障害を超えるよう自信を持たせねばならない」アランは生徒の答案をていねいに採点し、「あなたはまだスタートしていませんね」とよく書き加えました。アランが生徒に対しておこなった唯一の非難は「あなたには勇気が欠けています」という評価でした。というのも学習とは自分自身とのたたかいであるからです。
 シモーヌ・ヴェイユは小さい頃から拒食症、過食症などの精神的不安定さにつきまとわれていました。アランは週三度の哲学の授業の時にいつも生徒に自由作文を提出させていたのですが、ヴェイユの作文の余りの字の汚なさに受け取りを拒否しました。ヴェイユは手の甲にマッチで火傷を作るほどの自己抑制の努力で不器用を克服し、はっきりした字体を書けるようになりました。最初、彼女の文章は「ほとんど理解できない言葉で表現され、あまりに濃密な瞑想にふける」と評価されましたが、次第に明晰さを獲得し、やがてアランに「優秀な学生。輝かしい成果を期待する」と言わせました。残っている彼女の作文の一つは、アレクサンダー大王について書かれたものです。砂漠を行進するアレクサンダーの軍は渇きと疲労の極限にありました。部下の一人が遠くから兜に入れて運んできた水をアレキサンダーのところに持ってくるとアレキサンダーは自分だけ優遇されることを嫌い、直ちにそれを砂の上に流してしまいました。「誰に対しても無益である彼の行為は、それゆえに万人にとって有益である。、、世界を救済するには、純粋で正しくあれば十分なのだ」とヴェイユは書きました。アランはその文章に t.b(tres bien)と記しています。

 『裁かれた戦争』は戦争への憎しみと平和への願いで満ちています。「徹底した議論によって相手を説得すること」がむろん大事ですが、その根底には他者の幸福を願う「慈愛」がなければなりません。ここでまたアランの哲学の根本精神が浮かび上がります。それは多様性を愛する心です。「教養のない人間の欠点は物事を信じすぎる点にある」と彼は書いています。教養ある精神の中には多くの思想が一致しないまま一時的に妥協し、あたかも共存しているかのようです。「そして、モンテーニュの場合のように、イエスとノーが仲良く同居していることは、あらゆる意味で公正な精神の特徴である。、、他方、賢者が何ひとつ疑わないのも事実であり、モンテーニュもそうであった。、、彼らは多くを疑うというより、物事の多様性を信じるといった方がよかろう」

 折しも戦後初めて憲法改正が具体的政治プランの上に載りつつあります。人々が決断を下すとき、その時はアランの言うように、生者と死者に対しての責任を決して忘れてはならないでしょう。「最悪のことを信じ、そして希望を持て」これがアランの私たちへのメッセージです。

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アラン『裁かれた戦争』(1)

 昔は平和を愛し、誰に対しても兄弟のように親切だった男が、占領下の町で、独軍の軍靴の下に三年間暮らしました。アランが再会したとき、彼は全く別人のように復讐心に燃え、狂暴な敵を辱め、苦しめ、よりよく罰するためには、さらに十万人の犠牲も辞さないとまで考える一人になっていました。彼がアランの面前で敵軍を罵倒するのを耳にしてアランは「あなたのお気持ちはわかります。だが、敵がそれほど威張りくさっていたのなら、どうして敵の一人や二人自分で殺してやろうと思わなかったのでしょう。というのも、あなたほど背が高く頑丈でなくても一人や二人確実に殺せるではありませんか」と問いただしました。「ねえ君、子供のようなことを言っては困りますよ」と彼は答えました。「そんなことをすれば僕が殺されたでしょう。そして多くの住民が処刑され、投獄されたことでしょう。そんなことをしても勝ち目はなかったでしょうよ」「それは解りませんよ」とアランは返答しました。「なにしろあの消耗戦では千の勇士を失っても勇猛な二千の敵兵を倒せば勝利を収めたと考えられるのですから。、、、つまり、敵の勇猛な職業軍人一人を倒すために、役に立たないフランス人が一人犠牲になればよいのです。たとえば、窓から弾薬が切れるまで撃ちまくったアルベリック・マニャール(1865-1914 フランスの作曲家)は軍事的には無価値な自分の命と引きかえに、恐らく三、四人の若い兵士を倒したのですから、身を捨てて戦いに勝ったわけです」「あなたは何をおっしゃりたいのですか」「つまり、こういうことです。貴方は隷属と屈辱から激しい怒りを感じていたにもかかわらず、身を捨てて戦おうとはしなかった。しかし、復讐の喜びのためなら、自分自身危険を犯し、自分自身で復讐することを私の道義心は求めるでしょう。過激な感情を許し得る唯一の口実はそれだけです。自分の血を流さない限り、自分の感じる憎悪の念をのさばらすべきではないのです」

 アラン(1868~1951)は46歳の時に第一次大戦に志願し、一砲兵として三年間ヴェルダンの激戦に加わり、足を負傷して入院、再び復帰して49歳のとき除隊、その体験をもとに53歳で『裁かれた戦争』(小沢書店・白井成雄訳)を発表しました。
 アランの志願の理由は彼の哲学の一帰結といってよいでしょう。彼が志願したのは祖国防衛のためではありません。それは若者たちと「共通の不幸をともにする」ためで、そこにはアランの高邁さgenerosite が隠されています。前途ある若者が死地に赴くとき、それをただ見送るのは正義に反すると思うのです。ただ正義に反すると思うのは簡単ですが、その情念の正当さは自ら死の恐怖に打ち勝ってこそ生まれます。「私は戦場で倒れる英雄と、それを拍手喝采する弱虫を区別するだけの判断力は守っていたい」と、アランは書いています。
 しかし、「勝利よりも危険を求めて」戦地に馳せ参じたアランは負傷しながらも無事に帰還できました。『裁かれた戦争』と同じ時期に書かれた『音楽家訪問』(1921)で、彼は死んだ兵士の墓を訪れ、「死者だけが戦争を知っている」と呟きます。「彼らだけが戦争をしたのだ。彼らだけが自分の内で戦争を終結させたのだから、、、。君や私のように戦地から生還した人間の戦争認識には、なにか未完成な焦立たしいところがある」と。
 『裁かれた戦争』の中で、戦死していった教え子の手紙に答える箇所では胸がつまります。「君たちは戦争の真っ只中から、また目前に戦闘を控え手紙をくれた。だが、私のみるところ、君たちはいさぎよく戦死することを願っているようだ。私はそんなことは望んではいない。それは余りに美しすぎる。、、私は君たちが苦い盃を唇から離さず、苦いままに飲み干してくれたらと思うのだ。それに実際君たちは苦い盃を飲んだではないか。私をだますことはできない。、、要するに君たちは強制されたのだ。三文の価値もない一兵卒として強制されたのだ。従わなければ死刑だったのだ。君たちは運命に先駆けて走り、力の限りを尽くし、従容として刑についたのだ。だが、なぜこの私を慰めようとするのか。なぜ、自分たちは人生を愛していた。命を投げ出すのは辛かったと、最後に私に言ってくれなかったのか。、、、この嘘が十年も経たぬうちに百万の青年を殺しかねないことになるのだ」
 
 『裁かれた戦争』はまず第一に戦争告発の書です。一家の父で、その勇猛さを讃えられた兵士が一時危険を避けるため待避壕に戻り、不運なことにそのまま眠ってしまいました。彼は敵前逃亡の罪に問われ、銃殺刑に処せられたのですが、アランはこれを当然のことと見なします。軍隊の厳格な組織の中では、特に戦闘中では、はっきりした不服従は稀で、普通見られるのは、負傷兵の付き添いをかこつけたり、道に迷ったふりをしたり、疲労困憊を装おって持ち場を離れる兵士です。臆病者にはすべてがもっともな言い訳になるからです。処罰されずにすむかもしれないという期待が戦闘の恐怖と結びつくと、兵士はその義務を少しずつ逸脱していきます。部隊がばらばらになれば危急の時に回復しがたい損害を受けるでしょう。だから規律を守るためには理由を問わず戦闘の恐怖よりもさらに情け容赦のない罰を与える必要があるのです。「言語道断な即決処刑も、戦争それ自体以上に私を驚かせたりはしない」とアランは書いています。「というのも、そうした処刑は戦争が必然的に生み出すものであり、残虐で正当化しえないのは戦争それ自体であるからだ」
 戦争を命令した者が自ら先頭に立って戦うことはまずありません。これが戦争の醜さです。平時では聡明な人間が軍隊では不当な扱いを受け、愚かで粗暴な男が非情な鞭をふるうのです。戦争が始まると同時に戦地でも銃後でも人は二つの種類に分かれてしまうのですが、その二つは命令を与える者とそれに従う者です。命令を与える者は可能な限り死地から遠ざかろうとし、真っ先に死んで行く者は勇敢な人間たちです。愛国心? そんなものは何の力にもなりません。アランは次の事実を挙げています。戦時中は質素な生活を余儀なくされるので、ある階級以上の軍人は数年戦争が続けば必然的に財を蓄えることになる、ところで彼ら将校の内一人でも「祖国が危機にある以上すすんで金持ちになろうとは思わない」と言って余分な金を国庫に返した例があっただろうか、と。徴集された国民は命さえさし出したのに。また、戦争に関連する仕事で財を成すことは悪いことではないが、その商人の内一人でも「高潔な人々が命を捧げたこの戦争で生き延びただけでも幸いだ、人々の不幸のおかげで成した財など何の価値もない」といって財産を国家に寄付した例が一つでもあったろうか、と。「戦場から回心して帰還した教養ある人々は、祖国を超える何かを見いだし得ない限り祖国を支持できなくなった」とアランは書いています。
 要するに「(戦争では)人間の弱さが解き放たれ、情念が勝ち誇り、徳が首を打ち落とされた姿しかみてとることができない」のです。そして、「この世のいかなる人間にとっても、他人の死を当然かつ不可避の手段と見なしうるような目的は絶対に存在しないのだ。それは犯罪的行為である」とアランは断言しています。
 ここからアランの筆は恐るべき戦争のその原因と、それを避けるための方法に及びます。そこには、「私は教育者として生まれてきた」と語るリセの教師としてのアランの真骨頂が示されているのです。(続きは2で)

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