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2007年4月26日 (木)

ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』(その2)

 再び『啓蒙の弁証法』(2007岩波文庫・徳永洵訳)について、今回はアドルノが主に執筆した「文化産業ー大衆欺瞞としての啓蒙」について紹介しましょう。
 1938年以来のアメリカでの社会学的調査・研究の仕事を通じて、アドルノは急激に発達しつつあるアメリカの大衆文化に強い印象を受けました。彼の結論は大衆文化の全否定であり、旧いヨーロッパのブルジョア文化の擁護です。実は『啓蒙の弁証法』でもっとも違和感を抱くのがこの章なのですが、とくにアメリカ文化の魅力に浸って成長した戦後世代の人間には納得できないものがあるでしょう。
 まず、アドルノは巨大な企業が文化の全般を牛耳ることで成立する「文化産業」について説明します。啓蒙のいや果てにある合理化はここでも猛威をふるって、ハリウッドの映画産業や全国的なラジオ・ネットワークは人々を画一的、類似的に処理しようとします。アメリカ文化にはヨーロッパが培った確固とした様式がないという批判に対してアドルノは、いやアメリカ文化ほど牢固とした様式を確立した文化はない、と断言します。すなわち、徹底した同一化、規格化、全体化です。中世の建築主が、教会の窓や彫像の題材についていちいち注文をつけたその執拗さも、文化産業が、売れるという認可が下りるまでスタジオが何段階もの検閲を経て映像を商品化する徹底さに比べればものの数ではありません。どんな細部に至るまで、何が禁止され、何がカットされるかあますところなく統轄されているので、内容的には代わり映えのしないものが、形だけ新しい衣装をまとって現れてくるのです。目新しいものを求める努力も、かえってその陳腐さを増幅するだけに終わります。
 同じことの繰り返し、新しいことの排除は、ひたすら娯楽を通じて行われるのですが、その娯楽そのものは労働の延長でもあるのです。「娯楽とは機械化された労働過程を回避しようとするものが、その労働過程に新たに耐えるために、欲しがるものなのだ」よって、楽しみが楽しみであるためには再び労苦を支払ってはならないわけで、それは厳格に定められた連想のレールの中で動かなければなりません。つまり、観客が自分でものを考えることを必要としてはならないのです。
 ここに文化産業が蔵する巨大な秘密があるのです。文化産業が人々に要求するものはその生をあますところなく捧げつくすことです。そのために文化産業は人々にひたすら無力感を吹き込み、個人的抵抗の摩滅と挫折こそ生の条件であることを教えます。そんなことができるのでしょうか。実は同一化、画一化のからくりはここにこそ潜んでいるのです。大衆文化は手の届く所にスターを押し下げ、そうすることで誰にもスターになれるチャンスがあるという幻想を抱かせます。誰にも平等に機会が与えられているという「合理的」な社会であるからこそ、社会がその幸運を誰に授けるかは全く不合理な偶然ということになってしまうのです。天国に招じ入れられるのは一人で、残りは外に放り出されます。いわば、素朴な同一性への誘惑で人々をおびき寄せておきながら、突然、それを否認し、人々を我に帰らせ、自分と同じではない他人の幸福を楽しむことを教えるのです。
 これは日常生活でも同じことでしょう。都会の周辺に生まれる住宅地には一種異様な世界が出現します。北欧と南欧の混ぜ合わされた安普請の家に住み、同じような未来型のワゴン車に乗り、同じような犬を飼い、休みの日には同じような家族が集まる大型のショッピングセンターに出かけます。こういう類似性の社会ではごくわずかな差異が絶対的なものと映ります。「そういう一律性のうちに人間的諸要素間のどうしようもない差異が生じてくる。完成された類似性とは絶対的差異である。類の同一性は個々のものの同一性を禁止する」自ら同一性の世界に入り込みながら、非同一性の現実に直面するとき、人は(抵抗することの無力を叩き込まれているので)全面的に社会の価値の中に没入しようとします。「誰だって身ぐるみ残さず引き渡し、幸福への要求を譲り渡してしまいさえすれば、全能の社会同然になり、幸福になれるのだ」つまり、個性化への努力を免除され、模倣への努力ー息つく暇もない努力によって与えられる満足への道です。これは隷属への道に外なりません。
 ショッピングセンターに併設されたシネマ・コンプレックスで映画を観る人は、むろんチケット代を払うのですが、さらにその映画について吹聴する義務を負っています。文化産業に自分たちの欲望を一括して処理してもらい、その代償として自らを捧げる図式は本質的に社会のマゾヒズム的構造に拠っています。あらゆる抵抗の無力さ、改新の、革新の希望の無さが人々を作り出された欲望の消費の中に駆り立てます。自立性を失うことがどれほど心地よいか疑う人間はアルフレッド・ド・ヴィニーの『軍隊の服従と偉大』(岩波文庫・三木治訳)を読んでください。自分を超えた絶対的なものに自らを捧げる人間は自由や個性などが与り知らぬもの、高貴なモラルの快感に酔いしれるのです。あるいは、生涯を鎖に繋がれている飼い犬を思い出しましょう。そんな不自由な身ながら彼らはそれを喜び、飼い主の意に添うことを最上の満足とします。あるいは水族館で芸をするイルカを。私は係員が投げるフリスビーを6度も取り逃したイルカを見たことがあります。そのイルカは焦り、緊張しているように見えました。7回目にやっと成功したとき、彼が欲したのは褒美の魚ではなく、義務を尽くした安堵と主人を喜ばせた快感に違いありません。広々した大洋で生きる希望を諦めた途端、奴隷として生きることが快感になるのです。

 以上がアドルノ描く大衆文化の現実です。画一化、同一化を非難しながら彼の意見は人間を余りに一括りしすぎています。「私は、前より馬鹿になったと思わずに映画館から出てくることはなかった」とアドルノは語っています。また、ジャズという言葉を聞いただけでゾッとする、とも言っています。アメリカ文化と大衆文化の全否定は小気味よくもあるが、彼の根深い偏見を改めて考えさせられもします。公平に見れば、大衆文化が産み出すさまざまな素敵な夢の世界も、恐ろしい現実のルポルタージュも、そこを深く見つめれば絶望に仮装した希望も湧いてくるでしょう。そこには限りない喜びも秘められています。事物はいつだって魅力的なのです。この「現にあるものへの偏愛」がアドルノに欠けているものであり、ベンヤミンに組する者たちが彼を非難する根拠なのですが、またアドルノの魅力もそこにあるのです。クラカウアーはベンヤミンの思想を要約して「それは小さなことは重要であり、重要なことは小さなことだ、という哲学である」と語っていますが、確かにベンヤミンなら、多様なアメリカ文化の中のどんな小さな様相からも人間の生にまつわる根源的な思索を引き出してきたでしょう。ニューヨークの裏町も、ハリウッドの撮影所も、ベンヤミンの思考地図の上で尽きせぬ哲学の集積所となるのです。
 ところで重要なことは変わらぬ理念、決してぶれぬ強靭さだとしたらどうでしょうか。ベンヤミンはプロレタリア芸術の中にも未来の希望を見いだしていますし、スターリン賛歌を書いたブレヒトの友人でもありましたが、アドルノはただの一度も労働者芸術、プロレタリア文化などというものに頷いたことはありません。すぐれた芸術はブルジョワの中からのみ産み出されるのです。実はアドルノとホルクハイマーを強く結びつけているものは共産主義と社会主義への、つまり絶対真理を標榜する全体主義社会への嫌悪なのです。ホルクハイマーはカントとショーペンハウアーから人間相互の自由な関係というものが社会の絶対条件であるという思想を学びました。アドルノはヘーゲルから否定的なものを含むものこそ真理であるという概念を会得したのではないでしょうか。「真理は決して完成したもので与えられ、仕舞い込まれる鋳貨ではない」という『精神現象学』の序文の言葉はアドルノの生涯のモットーでもあります。「あるがままで美しいものは、それと同じ理由で醜い」という『ミニマ・モラリア』の一節は弁証法の奥義というべきものですが、その信念は否定的なものを媒介にしなければそれ自身を実現しないということなのです。
 文化産業が作り出すさまざまに合成されたスターの顔を見ていると、とアドルノは書いています。「かつては人生という概念があったのだということさえ忘れられてしまう」と。かつては人生という概念があったのだ、とは驚きの言葉です。すみずみまで規格化された社会に生きることは生きるに値しない、というのです。和解することを拒否して、非同一性のただ中に生きることこそ意味ある生だというのです。

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