« ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』 | トップページ | L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』 »

2007年3月17日 (土)

トーマス・マン『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』

 「音楽がなかったら人生は私には誤謬でした」というニーチェの言葉にトーマス・マンもやはり同意したでしょう。彼も魂を引き浚っていくような音楽体験を持っていました。すなわちリヒァルト・ヴァーグナーの音楽です。「劇場の聴衆の只中で味わった深い孤独な幸福のあの幾時間、神経と知性とのおののきと喜びとに満ちみちたあの幾時間、この芸術のみが与え得る感動的で偉大な意義を窺い知ったあの幾時間かを、私は決して忘れることができません」と彼は書いています。なぜ、これほどの感動がもたらされたのか、自分にとってヴァーグナーとはいかなるものだったのか、トーマス・マンは自ら問い、それに答えようとします。

 「ヴァーグナーの芸術は、最高度の意志の力と知性とをもって、不滅の金字塔として打ち建てられ、天才的なものにまで高められたディレッタンティズムであった」これがその一つの答えです。早熟に才能が開花するのが当然な音楽家の中で、ヴァーグナーは遅咲きの薔薇でした。「28歳にしてなおあれほどあわれな状態であった音楽家がかつてあっただろうか」とニーチェは書いています。ヴァーグナーは30歳になっても自分の才能に懐疑的で、果たして自分は芸術家としての素質を持っているのだろうかと自問します。彼はリストに宛てた手紙で「自分は本来、音楽家としてはクズ同然です」と書いていますが、その時彼は46歳でした。「遺伝的にも家庭環境にも、厳しい芸術的訓練を課するものは何もなかった。学者として教育を受け、学者としての将来が予想されたが、絵画、詩作、演劇、音楽のいずれにも彼は親しんでいた。表面的にみれば、彼はディレッタントに生まれついた、と思わざるをえない」とニーチェは云っていますが、マンはそれに対して、ヴァーグナーは表面的ではなく正真正銘のディレッタントだった、と断言します。「個々の芸術のすべてに対するヴァーグナーの関係には何か疑わしいところがあります」とマンは書いています。「この関係には何かミューズの神とは縁のないものが付着しているのです」その音楽は何か非本来的なもの、素人音楽めいたものがあり、音楽を本当にわかる人から敬遠されるような非秘教的なものがあると。そもそも、神話的音楽演劇などという「総合芸術」を標榜することがディレッタント的素質を持った人間でないとできないことなのではないか、と。
 しかし、このディレッタンティズムこそ、ヴァーグナーの秘密、その天性の武器であったのです。この俗っぽさが、ボードレールを感激させ、バーナード・ショーを熱狂させ、ニーチェを憎むほど愛させた魅力だったのです。この音楽には、貴族趣味の秘教徒たちには受け入れがたいもの、そして素人には心をわしづかみにする天才的で絶妙なものがあったのです。
 ところで、ディレッタンティズムとはブルジョワの世紀、つまり市民的生活感情が支配的になる時代にはじめて登場するものです。教養が有閑階級の身だしなみのように必要不可欠な時代から、市民階級の背伸びした、やや気取ったスノッブの匂いを纏うようになったときにはじめて負の価値をもって現れてくるのです。それゆえ、ディレッタントは市民の中に生まれ、市民的生活感情から決して抜け出すことはできません。ヴァーグナーはその過激さ、金力や権力への反抗の力強さから非市民的な外貌を持っていました(彼は1848年の革命に参加しています)。事実、彼の生涯は破綻の連続であり、追放、迫害に彩られたものであったのです。しかし、とトーマス・マンは書いています。「私が申し上げたいのは、ヴァーグナーの周囲には市民的なものの雰囲気がある、ということ、それも単にこうした一般的な意味においてのみならず、さらにもっとはるかに個人的な意味においてもそうなのだ、ということです」ヴァーグナーの生活は19世紀のブルジョワの憧れの残照ともいってよいでしょう。彼は贅沢を好みました。羽毛入りの絹のガウン、薔薇の刺繍のあるサテンの掛布団、黒ビロードの上掛けなど、そのような生活のために彼は借財までしたのです。「存在しない世界を造り出すという血のにじむような仕事のためには」とヴァーグナーは云っています。「安酒をあおって、藁の上に寝るというわけにはいかないのだ」と。ところが、このような彼の身振りはただのアイロニーでなく、彼の作品中にも何らかの形で含まれていたのです。私生活の一特徴は深く精神的芸術的な面にまで関わりを持っていたのです。「歓喜あふれるもの、官能的で心に傷を負わせるもの、重い陶酔に誘うもの、愛撫して眠りを催させるもの、分厚くたっぷりとキルティングをほどこしたようなもの、つまり一言で言えば、彼の音楽のこの上なく贅沢なところこそが、市民大衆を、その手中に引き込んだのだ」
 ヴァーグナーの市民的傾向は、さらに彼の創作態度にも現れています。彼は後年、工匠(マイスター)を気取ったデューラー帽を常に冠っていました。「誠実と実直さ」このドイツ職人に見られる忍耐と勤勉と几帳面さを彼は愛しました。ヴァーグナーの作品の中で最も陶酔的で官能的な『トリスタン』の楽譜は、なぐり書きなどでなく整然と明瞭に注意深く書かれています。この市民的綿密さが、また彼の作品の(駄作は皆無です)素人受けする「仕上げの良さ」につながっているのです。

 ヴァーグナーの特質のもう一つはそのロマン主義にあります。ロマン主義とは形式を超えた個の惑溺、ともいえましょうか、それは極端から極端へ、知的なものを感覚で捉え、感覚的なものを知性で把握します。最高度に精神的なものを官能の陶酔によって実現し「大衆化」してしまう能力、グロテスクなものを聖餐式の厳粛さで、子供らしい素朴なものを高邁な精神で、童話(メルヒェン)を現実の酷薄さで、無垢なものを老獪さで描ききる能力、古典的人文的な芸術ではとうてい考えられないこの能力こそヴァーグナーのものでした。『ローエングリーン』がボードレールのような高邁な詩人を感激させると同時に庶民の素朴な心にも訴えかけた、という事実を思い出しましょう。「ロマン主義的なものは何の排他性も知らないのです。、、、それは何人に対しても、それはおまえに向かない、と言うことはありません。ロマン主義はその本質の一面において、どんな最底辺の人々にも向いているのです」とマンは書いています。「ロマン主義的なるものにおいてのみ、大衆性があって、しかも同時に究極的な洗練を、兼ね備えることができるのです」
 ロマン主義の最たるものは愛と死です。「完全な現実性を持った愛というものは」とヴァーグナーは述べています。「ただ性の領域においてのみ可能である」と。性の極限は死です。ヴァーグナーのすべての作品には、もっともわかりやすい形で死に至る愛が描かれています。『オランダ人』はいわずもがな、『タンホイザー』で強烈なのは神の救いというよりもヴェヌス山での歓楽とそれに打ち勝つ一人の女の愛でした。『トリスタン』でその頂点を極めた愛は『ジークフリート』で炎の壁である処女性を打ち破る性愛の炸裂に転化します。
 
 トーマス・マンが1933年ミュンヘン大学講堂で行った講演『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』(岩波文庫・青木順三訳)は、ファシズムの暗雲が覆いはじめた世界情勢を背景に、芸術家でありドイツ国民である自らの存立を賭けた熱気に満ちたものでした。この講演の翌日、マンはドイツを発って、その後17年間故国の地を踏むことはありませんでした。ここには、ヴァーグナーに姿を借りたマン自身の苦悩、(カール・シュミットが嫌ったような)謙遜とははるかに遠い自己肯定の明るさ、愛したものについて語る親しみと懐かしさが詰まっています。トーマス・マンは、この講演でドイツ民族精神賛美の司祭として祭り上げられたヴァーグナーを救い出そうとしたのです。

 ヴァーグナーの精神は19世紀の精神でした。ヴァーグナーが愛した市民的優雅さの趣味は頽廃への趣向を示しています。それは19世紀が持ったブルジョアの傾向にほかなりません。理性と進歩を信じた時代、それはまた相対主義とペシミスムを生んだのですが、それは根源的に男性的なものが支配した時代、モラリスト的偉大さの世紀でした。ディケンズ、サッカレー、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック、ゾラの社会的長編小説を思い出してください、まさに19世紀は文学的、社会批判的、そして社会的世紀だったのです。それに反してドイツは(と、マンは書いています)徹底して内面に向いました。ドイツは政治や社会に関わることを汚れることと同様に思い、思弁的要素の社会的要素への優位を決して疑いませんでした。「最奥の根底において、社会や政治の領域はドイツ精神にとって無縁なのです」彼らのもっとも優れた才能が音楽に向ったのも故なしとしません。音楽こそ非歴史的、非社会的である根源の芸術だからです。ヴァーグナーの全作品は次のようなことを、すなわち、すべて歴史的形式的なもの、人間関係の綾のようなものはー根源的に純粋で永遠に人間的なるものとは異なってーいかに役に立たないか、ということを繰り返し語っている、とマンは述べています。ヴァーグナーの生み出す革命家は、どんな歴史からも解放されていなければなりません。『ニーベルングの指輪』が結末から書き始められ、次第に始源に、太初に遡っていったのは偶然ではありません。伝説だけでは彼には十分ではないのです。原初の神話が必要でした。ドイツなどよりはるか以前に、スカンディナビアの初期ゲルマンの神話にまで遡らねばなりませんでした。そしてヴァーグナーの究極の目標は、自己の死によって世界を認識と倫理性との新たな段階へ高める無垢の行為者にして運命の実現者を創造することでした。何という構想、何という壮大な意図を抱いていたことでしょう! しかし、現実の革命に挫折した時(1848年の。しかしドイツはすべての革命に敗北しています)彼を突き動かす動機はそれしかなかったのです。晩年、彼は社会変革への自らのオプティミズムを恥じ、ビスマルクの帝国という所与の事実に自分の夢の背丈を合わせようとしました。ここに彼の悲劇があります。芸術家になりきれない悲劇、ディレッタントの悲劇です。「彼はドイツ市民階級の道を歩んだのです。革命から現実への、ペシミズムへの、諦めきった、権力に保護された内面性への道を」マンのこの言葉には無量の思いがこめられています。

|

« ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』 | トップページ | L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』 »

コメント

こんにちは。ニーチェ検索でたどりつきました。素晴らしいブログですね。また読みにきます。

投稿: JN | 2007年3月22日 (木) 20時19分

JNさま、コメントありがとうございます。長い記事を読んでくださって嬉しいです。また、ぜひお立ち寄りください。それでは失礼します。

投稿: saiki | 2007年3月23日 (金) 23時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』 | トップページ | L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』 »