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2007年3月29日 (木)

L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』

 Kさん、昨夜来の雨がやみませんが、春の深みを思わせる静かな朝を迎えています。先日のお約束を果たそうと、つい今しがた『赤毛のアン』の文庫本(村岡花子訳・新潮社)を読み終えました。以前、お話ししたように、私はこの本を中学生のときに一度読んだことがあります。夢中で読んだという記憶だけで、それ以後読み返したことはありません。それから、喜びや悲しみに満ちたおそらくは矮小な人生を私は送ってきました。そして、恥ずかしいかな多くの本を読み散らかしてきました。そんな私の心の中にこの「少女小説」は軋みなく入ってくることができたでしょうか。有り体に言えば、ブライト・リバーの停車場の砂利の山の上にすわってアンが迎えを待っている最初の登場の場面でもう目頭が熱くなってきたのです。どうか笑わないで下さい、マシュウの死で迎える最後のページまでこの感動は収まることはありませんでした。読みながら私の胸裡には、幼い日の同級生の姿が、黄泉の地の親族たちの顔が、もっと優しくしてやれたかもしれない子供たちの思い出が次々とよみがえってきたのです。この小説は偉大な文学の花冠を受けるには相応しくないかも知れません。存在の基盤を揺るがすがゆえに私たちを不快にさせる真実はそこになく、日常の思考をかく乱するがゆえに私たちを退屈させる記述もそこにはありません。物語に深みを与える人間と人生への重層的複合的な視点も爽快なほど抜け落ちています。しかししかし、この小説には何か言葉で表しがたいもの、とても不思議なものが、神仙これを助け給うようなものがあるのです。

 この小説の魅力は、むろん、主人公アンの造形にあります。マシュウとマリラの兄妹は畑仕事の手伝いのために孤児院から男の子を引き取って育てようと決めますが、連絡の手違いで女の子が送られてきてしまいます。駅に迎えに行ったマシュウは、そのみすぼらしい交ぜ織りの服を身につけた赤毛の子をひとまず家に連れて帰りますが、その途中、アンは馬車の上で、リンゴの白い大きな花がアーチのようにいつまでも続く並木道の荘厳な美しさに感嘆の声を上げます。「ああ、すばらしかったわーすばらしかったわ。想像をつけたすことのできないものなんて、これがはじめてよ」と叫ぶアンは、人並み強い感受性を持ち、それをありったけの言葉で人に伝えずにはすまない少女です。人間は社会の中で生きるうちに細やかな思いや繊細な心を隠し通す術を身につけるのですが、いつのまにか自分の内にそのような感受性を持っていることさえ忘れられてきます。詩や音楽はその隠れた思いを気付かせてはくれるが、それは自分の中で咀嚼されるうちに消えてしまいます。実は、心のもっとも奥に潜むその感情は共感の心であり、kindred spirits を求める魂の渇きなのです。アンのおしゃべりはリトマス紙のように人の心に浸透して、「腹心の友」を探り当てます。あの無口で女ぎらいのマシュウも、家へ向かう短い馬車の旅の間にアンの言葉にいつの間にかひきつけられてしまいます。
 この小説のもっとも優れた箇所は最初の80ページほどまで、つまりアンがマシュウとマリラの家の養女として決まるまでの少女の緊迫した精神が展開されるところです。マシュウはアンをグリーン・ゲイブルスの家に連れて行き、そこでマリラに会わせますが、マリラは男の子ではなく女の子が来たことに驚き、孤児院に返そうと思います。その場の絶望的な雰囲気を知って、アンは全財産を入れた手提げ鞄をとり落として、「あたしをほしくないんだ。男の子じゃないもんで、あたしをほしくないんだわ。やっぱりそうだったんだわ。いままでだれもわたしをほしがった人はなかったんだもの」と叫んで、テーブルにうっ伏して泣きじゃくります。なだめるマリラに、アンは自分の名前の綴りの最後の e を落とさないよう頼みます。どんな悲惨な状況にあっても他人ではない自分の存在を信じる強さは作者がこの少女に与えた性質のなかでもっとも際立つものでしょう。
 動揺するアンをなんとか二階の部屋に寝かしつけて、マシュウとマリラは少女の処置について相談を始めます。マシュウがアンを置きたがっていることを知ったマリラは「あの子がわたしらに、何の役にたつというんです」と反論しますが、マシュウは「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」と言ってマリラを驚かせます。マシュウのアンへの気持ちは最後まで変わらず、死の直前にマシュウは「12人の男の子よりお前一人の方がいい」とアンに云うのでした。
 グリーン・ゲイブルスではじめての一夜を過ごしたアンは「朝があるって、ほんとにすばらしいことじゃない?」と明るさを失いません。「小母さん、こんな朝には、ただただ世界が好きでたまらない、という気がしない?」グリーン・ゲイブルスに来る前あまりに殺風景な風景に慣れてしまっていたので、アンにはすべてが美しく見えるのです。ここで、読者はアンの身の上を聞かされるのですが、世紀の変わり目の劣悪な孤児の境遇の中でもさらに悲惨な身の上と云ってよいでしょう。幼時に両親に死なれた後、2つの家族の世話になるのですが、ともに子だくさんの貧乏で、年下の子たちの保育に酷使された後、用済みになると孤児院に放り込まれます。「なんと飢えた、愛情にかつえた生活をおくってきたのだろう。ー苦しい、貧しい、人に顧みられない生活。マリラにはアンの身の上から事実を察するだけの洞察力があった。たしかに、この子はほんとうの家ができるのだと思って大よろこびしていたにちがいない、、、」マリラは、ついにアンを引き取ることに決心します。ここに至って読者はほっとすると同時に自由奔放に飛び回るアンの想像力が、それ自身としては耐えられないみじめな現実を一時でも忘れるための方便だったことに気付くのです。ここに作者モンゴメリの生涯が交錯します。きわめて繊細で感受性の強すぎる女性にとって、ただ生きることは苦痛以外の何ものでもありません。そして、現実に出会う人々は友人のダイアナやミス・バーリーのように心の通いあう人ばかりではないのです。彼女は文通相手のジョージ・マクミランに宛てて次のように書いています。

 「人格の深みとか、独創性を発揮しても無駄だと思われるような場合には、わたしはつとめて浅薄に、慣習的にふるまいます。どうにもやりきれないような気持ちになったときには、空想の世界に退きます、、、その世界と現実の世界がどうしようもなく食いちがっていることを知って、わたしは二つを切り離すことを学んだのです。空想の世界がそこなわれない形で存在して、わたしの憩いの場となるように。ある人たちとはその人たちの領域内において会うこともわたしは学びました。わたしの領域には、彼らとの出会いの場所はまったくないように思われるからです。」(『赤毛のアンの世界』M . ギレン、中村妙子訳・新潮文庫)

 さて、空想好きのアンにも打ち負かせない現実というものがありました。それは赤毛であることで、そばかすや痩せっぽちや緑の目は想像で消せても赤毛の髪だけからは逃れられないのです。近所に住むレイチェル・リンド夫人が、グリーン・ゲイブルスの貰い子を見に来て、「この子はおそろしくやせっぽちだし、きりょうがわるいね、、、まあまあ、こんなそばかすってあるだろうか。おまけに髪の赤いこと、まるでにんじんだ」それを聞いてアンはほっそりした体を全身怒りでふるわして、床を踏みならしながら、「あんたなんか、大きらいだ、、、よくもわたしのことをそんな風にいったわね。あんたみたいに下品で、失礼で、心なしの人を見たことがないわ」と叫びます。マリラは客人にたいしてのアンの失礼な態度を諌めはするものの、アンへの共感を隠すことはできませんでした。というのも、マリラも幼いときに親類同士がマリラのことを「かわいそうに、なんて色が黒くてみっともない女の子だろう」と話しているのを聞いた時の胸がえぐられるような気持ちを50を過ぎてもなお忘れなかったからでした。ここには、人のもっとも感じやすいところに土足で入ってくる人間に対しての作者のためいきが聞こえてくるようです。

 Kさん、あなたには先刻ご承知のことをだらだらと書いてしまいました。この上、紫水晶のブローチや、ミニー・メイの命を助けたことや、髪を染めて失敗したエピソードなど書き出したらあなたはあきれてしまうでしょう。ところで、私の興味は『赤毛のアン』の(私自身にとっての)魅力の秘密にあるのです。アンの魅力は、ミス・バーリーがそう感じたように、その風変わりなもののいい方よりも「そのいきいきとした熱中ぶり、あけっぱなしの気性、かわいらしい態度、やさしい目つきや口もと」にあるのでしょう。それが、きっと、マシュウやマリラやダイアナたちのように、私たちがアンを応援したくなる理由なのです。それがどんなに得難く、どんなに壊れやすいものであるかは読み進むにつれてわかるのですが、この小説の終りは、アンが16歳になり、大人になって、口数が少なくなり、想像の翼を前ほど展げなくなった時に訪れます。クイーンズ学院を優秀な成績で卒業し、立派になったアンを前にして、マシュウとマリラは期せずして二人ともグリーン・ゲイブルスにはじめて姿を現したときのアンを思い出します。小さなトランクを持って、みすぼらしい服から細い足がにょきっと出ている女の子を。そして、二人は自分たちがいかにこの少女を愛していたかを思い知るのです。人が誰かを愛していたと感ずるのはその全生涯を愛していたと感ずるときです。この高潮した物語の最後に、アンがきれいになり、魅力的な女性になったときに、実は私たちの興味も静かに引いていくのです。それが、失われやすい、一度しか訪れない人生の瞬間だからこそ、あれほど活き活きと魅力的に輝いていたのです。

 Kさん、結論めいたものを書きましょう。『赤毛のアン』はL.M. モンゴメリが32歳のときの数ヶ月に、熱い思いと冷静な筆致で、霊感を受けたごとく書き上げた奇蹟の小説です。これに並ぶものをもはや彼女は書けなかったし、それに等しい霊感に満ちた瞬間も二度と彼女に訪れることはありませんでした。さらに彼女の生涯は「たくさんの美しいものを持っていたにもかかわらず、子供時代のあの黄金の日々にあれほど夢中になって期待したものを生涯見いだすことができなかったという気持ちを人々に抱かせる」(M. ギレン『運命の紡ぎ車』宮武順三・宮武順子訳・篠崎書林)ものでした。モンゴメリの晩年がどれほど悲惨であり、想像力の王国がどれほど脆いものであったにしても、夢見る日々というものはそれだけで恩寵となるのではないでしょうか。「あのね、マリラ、何かを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたるのよ」と、待ちこがれたピクニックの前の日にアンは云います。「そのことはほんとうにならないかもしれないけれど、でも、それを待つときの楽しさだけはまちがいなく自分のものですもの」
 、、、Kさん、この想像力こそ手放すことのできない私たちの宝物なのです。

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コメント

「たくさんの美しいものを持っていたにもかかわらず、子供時代のあの黄金の日々にあれほど夢中になって期待したものを生涯見いだすことができなかったという気持ちを人々に抱かせる」
と書かれたのは、モンゴメリの伝記作家ギレン女史でしょうか。
モンゴメリ本人の気持ちはいざ知らず、少なくともワタシはそうは思いません♪

アン・シリーズをもっと書きたかったモンゴメリについてのHPを作りました。
よろしかったら、お立ち寄り下さい♪

投稿: 風信子(ヒヤシンス) | 2007年4月23日 (月) 16時07分

風信子さん、コメントありがとうございます。
引用の言葉はギレン女史のものです。
すてきなHPを拝見させていただきました。
たいへん勉強になります。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
それでは。     

投稿: saiki | 2007年4月23日 (月) 23時47分

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