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2007年3月29日 (木)

L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』

 Kさん、昨夜来の雨がやみませんが、春の深みを思わせる静かな朝を迎えています。先日のお約束を果たそうと、つい今しがた『赤毛のアン』の文庫本(村岡花子訳・新潮社)を読み終えました。以前、お話ししたように、私はこの本を中学生のときに一度読んだことがあります。夢中で読んだという記憶だけで、それ以後読み返したことはありません。それから、喜びや悲しみに満ちたおそらくは矮小な人生を私は送ってきました。そして、恥ずかしいかな多くの本を読み散らかしてきました。そんな私の心の中にこの「少女小説」は軋みなく入ってくることができたでしょうか。有り体に言えば、ブライト・リバーの停車場の砂利の山の上にすわってアンが迎えを待っている最初の登場の場面でもう目頭が熱くなってきたのです。どうか笑わないで下さい、マシュウの死で迎える最後のページまでこの感動は収まることはありませんでした。読みながら私の胸裡には、幼い日の同級生の姿が、黄泉の地の親族たちの顔が、もっと優しくしてやれたかもしれない子供たちの思い出が次々とよみがえってきたのです。この小説は偉大な文学の花冠を受けるには相応しくないかも知れません。存在の基盤を揺るがすがゆえに私たちを不快にさせる真実はそこになく、日常の思考をかく乱するがゆえに私たちを退屈させる記述もそこにはありません。物語に深みを与える人間と人生への重層的複合的な視点も爽快なほど抜け落ちています。しかししかし、この小説には何か言葉で表しがたいもの、とても不思議なものが、神仙これを助け給うようなものがあるのです。

 この小説の魅力は、むろん、主人公アンの造形にあります。マシュウとマリラの兄妹は畑仕事の手伝いのために孤児院から男の子を引き取って育てようと決めますが、連絡の手違いで女の子が送られてきてしまいます。駅に迎えに行ったマシュウは、そのみすぼらしい交ぜ織りの服を身につけた赤毛の子をひとまず家に連れて帰りますが、その途中、アンは馬車の上で、リンゴの白い大きな花がアーチのようにいつまでも続く並木道の荘厳な美しさに感嘆の声を上げます。「ああ、すばらしかったわーすばらしかったわ。想像をつけたすことのできないものなんて、これがはじめてよ」と叫ぶアンは、人並み強い感受性を持ち、それをありったけの言葉で人に伝えずにはすまない少女です。人間は社会の中で生きるうちに細やかな思いや繊細な心を隠し通す術を身につけるのですが、いつのまにか自分の内にそのような感受性を持っていることさえ忘れられてきます。詩や音楽はその隠れた思いを気付かせてはくれるが、それは自分の中で咀嚼されるうちに消えてしまいます。実は、心のもっとも奥に潜むその感情は共感の心であり、kindred spirits を求める魂の渇きなのです。アンのおしゃべりはリトマス紙のように人の心に浸透して、「腹心の友」を探り当てます。あの無口で女ぎらいのマシュウも、家へ向かう短い馬車の旅の間にアンの言葉にいつの間にかひきつけられてしまいます。
 この小説のもっとも優れた箇所は最初の80ページほどまで、つまりアンがマシュウとマリラの家の養女として決まるまでの少女の緊迫した精神が展開されるところです。マシュウはアンをグリーン・ゲイブルスの家に連れて行き、そこでマリラに会わせますが、マリラは男の子ではなく女の子が来たことに驚き、孤児院に返そうと思います。その場の絶望的な雰囲気を知って、アンは全財産を入れた手提げ鞄をとり落として、「あたしをほしくないんだ。男の子じゃないもんで、あたしをほしくないんだわ。やっぱりそうだったんだわ。いままでだれもわたしをほしがった人はなかったんだもの」と叫んで、テーブルにうっ伏して泣きじゃくります。なだめるマリラに、アンは自分の名前の綴りの最後の e を落とさないよう頼みます。どんな悲惨な状況にあっても他人ではない自分の存在を信じる強さは作者がこの少女に与えた性質のなかでもっとも際立つものでしょう。
 動揺するアンをなんとか二階の部屋に寝かしつけて、マシュウとマリラは少女の処置について相談を始めます。マシュウがアンを置きたがっていることを知ったマリラは「あの子がわたしらに、何の役にたつというんです」と反論しますが、マシュウは「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」と言ってマリラを驚かせます。マシュウのアンへの気持ちは最後まで変わらず、死の直前にマシュウは「12人の男の子よりお前一人の方がいい」とアンに云うのでした。
 グリーン・ゲイブルスではじめての一夜を過ごしたアンは「朝があるって、ほんとにすばらしいことじゃない?」と明るさを失いません。「小母さん、こんな朝には、ただただ世界が好きでたまらない、という気がしない?」グリーン・ゲイブルスに来る前あまりに殺風景な風景に慣れてしまっていたので、アンにはすべてが美しく見えるのです。ここで、読者はアンの身の上を聞かされるのですが、世紀の変わり目の劣悪な孤児の境遇の中でもさらに悲惨な身の上と云ってよいでしょう。幼時に両親に死なれた後、2つの家族の世話になるのですが、ともに子だくさんの貧乏で、年下の子たちの保育に酷使された後、用済みになると孤児院に放り込まれます。「なんと飢えた、愛情にかつえた生活をおくってきたのだろう。ー苦しい、貧しい、人に顧みられない生活。マリラにはアンの身の上から事実を察するだけの洞察力があった。たしかに、この子はほんとうの家ができるのだと思って大よろこびしていたにちがいない、、、」マリラは、ついにアンを引き取ることに決心します。ここに至って読者はほっとすると同時に自由奔放に飛び回るアンの想像力が、それ自身としては耐えられないみじめな現実を一時でも忘れるための方便だったことに気付くのです。ここに作者モンゴメリの生涯が交錯します。きわめて繊細で感受性の強すぎる女性にとって、ただ生きることは苦痛以外の何ものでもありません。そして、現実に出会う人々は友人のダイアナやミス・バーリーのように心の通いあう人ばかりではないのです。彼女は文通相手のジョージ・マクミランに宛てて次のように書いています。

 「人格の深みとか、独創性を発揮しても無駄だと思われるような場合には、わたしはつとめて浅薄に、慣習的にふるまいます。どうにもやりきれないような気持ちになったときには、空想の世界に退きます、、、その世界と現実の世界がどうしようもなく食いちがっていることを知って、わたしは二つを切り離すことを学んだのです。空想の世界がそこなわれない形で存在して、わたしの憩いの場となるように。ある人たちとはその人たちの領域内において会うこともわたしは学びました。わたしの領域には、彼らとの出会いの場所はまったくないように思われるからです。」(『赤毛のアンの世界』M . ギレン、中村妙子訳・新潮文庫)

 さて、空想好きのアンにも打ち負かせない現実というものがありました。それは赤毛であることで、そばかすや痩せっぽちや緑の目は想像で消せても赤毛の髪だけからは逃れられないのです。近所に住むレイチェル・リンド夫人が、グリーン・ゲイブルスの貰い子を見に来て、「この子はおそろしくやせっぽちだし、きりょうがわるいね、、、まあまあ、こんなそばかすってあるだろうか。おまけに髪の赤いこと、まるでにんじんだ」それを聞いてアンはほっそりした体を全身怒りでふるわして、床を踏みならしながら、「あんたなんか、大きらいだ、、、よくもわたしのことをそんな風にいったわね。あんたみたいに下品で、失礼で、心なしの人を見たことがないわ」と叫びます。マリラは客人にたいしてのアンの失礼な態度を諌めはするものの、アンへの共感を隠すことはできませんでした。というのも、マリラも幼いときに親類同士がマリラのことを「かわいそうに、なんて色が黒くてみっともない女の子だろう」と話しているのを聞いた時の胸がえぐられるような気持ちを50を過ぎてもなお忘れなかったからでした。ここには、人のもっとも感じやすいところに土足で入ってくる人間に対しての作者のためいきが聞こえてくるようです。

 Kさん、あなたには先刻ご承知のことをだらだらと書いてしまいました。この上、紫水晶のブローチや、ミニー・メイの命を助けたことや、髪を染めて失敗したエピソードなど書き出したらあなたはあきれてしまうでしょう。ところで、私の興味は『赤毛のアン』の(私自身にとっての)魅力の秘密にあるのです。アンの魅力は、ミス・バーリーがそう感じたように、その風変わりなもののいい方よりも「そのいきいきとした熱中ぶり、あけっぱなしの気性、かわいらしい態度、やさしい目つきや口もと」にあるのでしょう。それが、きっと、マシュウやマリラやダイアナたちのように、私たちがアンを応援したくなる理由なのです。それがどんなに得難く、どんなに壊れやすいものであるかは読み進むにつれてわかるのですが、この小説の終りは、アンが16歳になり、大人になって、口数が少なくなり、想像の翼を前ほど展げなくなった時に訪れます。クイーンズ学院を優秀な成績で卒業し、立派になったアンを前にして、マシュウとマリラは期せずして二人ともグリーン・ゲイブルスにはじめて姿を現したときのアンを思い出します。小さなトランクを持って、みすぼらしい服から細い足がにょきっと出ている女の子を。そして、二人は自分たちがいかにこの少女を愛していたかを思い知るのです。人が誰かを愛していたと感ずるのはその全生涯を愛していたと感ずるときです。この高潮した物語の最後に、アンがきれいになり、魅力的な女性になったときに、実は私たちの興味も静かに引いていくのです。それが、失われやすい、一度しか訪れない人生の瞬間だからこそ、あれほど活き活きと魅力的に輝いていたのです。

 Kさん、結論めいたものを書きましょう。『赤毛のアン』はL.M. モンゴメリが32歳のときの数ヶ月に、熱い思いと冷静な筆致で、霊感を受けたごとく書き上げた奇蹟の小説です。これに並ぶものをもはや彼女は書けなかったし、それに等しい霊感に満ちた瞬間も二度と彼女に訪れることはありませんでした。さらに彼女の生涯は「たくさんの美しいものを持っていたにもかかわらず、子供時代のあの黄金の日々にあれほど夢中になって期待したものを生涯見いだすことができなかったという気持ちを人々に抱かせる」(M. ギレン『運命の紡ぎ車』宮武順三・宮武順子訳・篠崎書林)ものでした。モンゴメリの晩年がどれほど悲惨であり、想像力の王国がどれほど脆いものであったにしても、夢見る日々というものはそれだけで恩寵となるのではないでしょうか。「あのね、マリラ、何かを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたるのよ」と、待ちこがれたピクニックの前の日にアンは云います。「そのことはほんとうにならないかもしれないけれど、でも、それを待つときの楽しさだけはまちがいなく自分のものですもの」
 、、、Kさん、この想像力こそ手放すことのできない私たちの宝物なのです。

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2007年3月17日 (土)

トーマス・マン『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』

 「音楽がなかったら人生は私には誤謬でした」というニーチェの言葉にトーマス・マンもやはり同意したでしょう。彼も魂を引き浚っていくような音楽体験を持っていました。すなわちリヒァルト・ヴァーグナーの音楽です。「劇場の聴衆の只中で味わった深い孤独な幸福のあの幾時間、神経と知性とのおののきと喜びとに満ちみちたあの幾時間、この芸術のみが与え得る感動的で偉大な意義を窺い知ったあの幾時間かを、私は決して忘れることができません」と彼は書いています。なぜ、これほどの感動がもたらされたのか、自分にとってヴァーグナーとはいかなるものだったのか、トーマス・マンは自ら問い、それに答えようとします。

 「ヴァーグナーの芸術は、最高度の意志の力と知性とをもって、不滅の金字塔として打ち建てられ、天才的なものにまで高められたディレッタンティズムであった」これがその一つの答えです。早熟に才能が開花するのが当然な音楽家の中で、ヴァーグナーは遅咲きの薔薇でした。「28歳にしてなおあれほどあわれな状態であった音楽家がかつてあっただろうか」とニーチェは書いています。ヴァーグナーは30歳になっても自分の才能に懐疑的で、果たして自分は芸術家としての素質を持っているのだろうかと自問します。彼はリストに宛てた手紙で「自分は本来、音楽家としてはクズ同然です」と書いていますが、その時彼は46歳でした。「遺伝的にも家庭環境にも、厳しい芸術的訓練を課するものは何もなかった。学者として教育を受け、学者としての将来が予想されたが、絵画、詩作、演劇、音楽のいずれにも彼は親しんでいた。表面的にみれば、彼はディレッタントに生まれついた、と思わざるをえない」とニーチェは云っていますが、マンはそれに対して、ヴァーグナーは表面的ではなく正真正銘のディレッタントだった、と断言します。「個々の芸術のすべてに対するヴァーグナーの関係には何か疑わしいところがあります」とマンは書いています。「この関係には何かミューズの神とは縁のないものが付着しているのです」その音楽は何か非本来的なもの、素人音楽めいたものがあり、音楽を本当にわかる人から敬遠されるような非秘教的なものがあると。そもそも、神話的音楽演劇などという「総合芸術」を標榜することがディレッタント的素質を持った人間でないとできないことなのではないか、と。
 しかし、このディレッタンティズムこそ、ヴァーグナーの秘密、その天性の武器であったのです。この俗っぽさが、ボードレールを感激させ、バーナード・ショーを熱狂させ、ニーチェを憎むほど愛させた魅力だったのです。この音楽には、貴族趣味の秘教徒たちには受け入れがたいもの、そして素人には心をわしづかみにする天才的で絶妙なものがあったのです。
 ところで、ディレッタンティズムとはブルジョワの世紀、つまり市民的生活感情が支配的になる時代にはじめて登場するものです。教養が有閑階級の身だしなみのように必要不可欠な時代から、市民階級の背伸びした、やや気取ったスノッブの匂いを纏うようになったときにはじめて負の価値をもって現れてくるのです。それゆえ、ディレッタントは市民の中に生まれ、市民的生活感情から決して抜け出すことはできません。ヴァーグナーはその過激さ、金力や権力への反抗の力強さから非市民的な外貌を持っていました(彼は1848年の革命に参加しています)。事実、彼の生涯は破綻の連続であり、追放、迫害に彩られたものであったのです。しかし、とトーマス・マンは書いています。「私が申し上げたいのは、ヴァーグナーの周囲には市民的なものの雰囲気がある、ということ、それも単にこうした一般的な意味においてのみならず、さらにもっとはるかに個人的な意味においてもそうなのだ、ということです」ヴァーグナーの生活は19世紀のブルジョワの憧れの残照ともいってよいでしょう。彼は贅沢を好みました。羽毛入りの絹のガウン、薔薇の刺繍のあるサテンの掛布団、黒ビロードの上掛けなど、そのような生活のために彼は借財までしたのです。「存在しない世界を造り出すという血のにじむような仕事のためには」とヴァーグナーは云っています。「安酒をあおって、藁の上に寝るというわけにはいかないのだ」と。ところが、このような彼の身振りはただのアイロニーでなく、彼の作品中にも何らかの形で含まれていたのです。私生活の一特徴は深く精神的芸術的な面にまで関わりを持っていたのです。「歓喜あふれるもの、官能的で心に傷を負わせるもの、重い陶酔に誘うもの、愛撫して眠りを催させるもの、分厚くたっぷりとキルティングをほどこしたようなもの、つまり一言で言えば、彼の音楽のこの上なく贅沢なところこそが、市民大衆を、その手中に引き込んだのだ」
 ヴァーグナーの市民的傾向は、さらに彼の創作態度にも現れています。彼は後年、工匠(マイスター)を気取ったデューラー帽を常に冠っていました。「誠実と実直さ」このドイツ職人に見られる忍耐と勤勉と几帳面さを彼は愛しました。ヴァーグナーの作品の中で最も陶酔的で官能的な『トリスタン』の楽譜は、なぐり書きなどでなく整然と明瞭に注意深く書かれています。この市民的綿密さが、また彼の作品の(駄作は皆無です)素人受けする「仕上げの良さ」につながっているのです。

 ヴァーグナーの特質のもう一つはそのロマン主義にあります。ロマン主義とは形式を超えた個の惑溺、ともいえましょうか、それは極端から極端へ、知的なものを感覚で捉え、感覚的なものを知性で把握します。最高度に精神的なものを官能の陶酔によって実現し「大衆化」してしまう能力、グロテスクなものを聖餐式の厳粛さで、子供らしい素朴なものを高邁な精神で、童話(メルヒェン)を現実の酷薄さで、無垢なものを老獪さで描ききる能力、古典的人文的な芸術ではとうてい考えられないこの能力こそヴァーグナーのものでした。『ローエングリーン』がボードレールのような高邁な詩人を感激させると同時に庶民の素朴な心にも訴えかけた、という事実を思い出しましょう。「ロマン主義的なものは何の排他性も知らないのです。、、、それは何人に対しても、それはおまえに向かない、と言うことはありません。ロマン主義はその本質の一面において、どんな最底辺の人々にも向いているのです」とマンは書いています。「ロマン主義的なるものにおいてのみ、大衆性があって、しかも同時に究極的な洗練を、兼ね備えることができるのです」
 ロマン主義の最たるものは愛と死です。「完全な現実性を持った愛というものは」とヴァーグナーは述べています。「ただ性の領域においてのみ可能である」と。性の極限は死です。ヴァーグナーのすべての作品には、もっともわかりやすい形で死に至る愛が描かれています。『オランダ人』はいわずもがな、『タンホイザー』で強烈なのは神の救いというよりもヴェヌス山での歓楽とそれに打ち勝つ一人の女の愛でした。『トリスタン』でその頂点を極めた愛は『ジークフリート』で炎の壁である処女性を打ち破る性愛の炸裂に転化します。
 
 トーマス・マンが1933年ミュンヘン大学講堂で行った講演『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』(岩波文庫・青木順三訳)は、ファシズムの暗雲が覆いはじめた世界情勢を背景に、芸術家でありドイツ国民である自らの存立を賭けた熱気に満ちたものでした。この講演の翌日、マンはドイツを発って、その後17年間故国の地を踏むことはありませんでした。ここには、ヴァーグナーに姿を借りたマン自身の苦悩、(カール・シュミットが嫌ったような)謙遜とははるかに遠い自己肯定の明るさ、愛したものについて語る親しみと懐かしさが詰まっています。トーマス・マンは、この講演でドイツ民族精神賛美の司祭として祭り上げられたヴァーグナーを救い出そうとしたのです。

 ヴァーグナーの精神は19世紀の精神でした。ヴァーグナーが愛した市民的優雅さの趣味は頽廃への趣向を示しています。それは19世紀が持ったブルジョアの傾向にほかなりません。理性と進歩を信じた時代、それはまた相対主義とペシミスムを生んだのですが、それは根源的に男性的なものが支配した時代、モラリスト的偉大さの世紀でした。ディケンズ、サッカレー、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック、ゾラの社会的長編小説を思い出してください、まさに19世紀は文学的、社会批判的、そして社会的世紀だったのです。それに反してドイツは(と、マンは書いています)徹底して内面に向いました。ドイツは政治や社会に関わることを汚れることと同様に思い、思弁的要素の社会的要素への優位を決して疑いませんでした。「最奥の根底において、社会や政治の領域はドイツ精神にとって無縁なのです」彼らのもっとも優れた才能が音楽に向ったのも故なしとしません。音楽こそ非歴史的、非社会的である根源の芸術だからです。ヴァーグナーの全作品は次のようなことを、すなわち、すべて歴史的形式的なもの、人間関係の綾のようなものはー根源的に純粋で永遠に人間的なるものとは異なってーいかに役に立たないか、ということを繰り返し語っている、とマンは述べています。ヴァーグナーの生み出す革命家は、どんな歴史からも解放されていなければなりません。『ニーベルングの指輪』が結末から書き始められ、次第に始源に、太初に遡っていったのは偶然ではありません。伝説だけでは彼には十分ではないのです。原初の神話が必要でした。ドイツなどよりはるか以前に、スカンディナビアの初期ゲルマンの神話にまで遡らねばなりませんでした。そしてヴァーグナーの究極の目標は、自己の死によって世界を認識と倫理性との新たな段階へ高める無垢の行為者にして運命の実現者を創造することでした。何という構想、何という壮大な意図を抱いていたことでしょう! しかし、現実の革命に挫折した時(1848年の。しかしドイツはすべての革命に敗北しています)彼を突き動かす動機はそれしかなかったのです。晩年、彼は社会変革への自らのオプティミズムを恥じ、ビスマルクの帝国という所与の事実に自分の夢の背丈を合わせようとしました。ここに彼の悲劇があります。芸術家になりきれない悲劇、ディレッタントの悲劇です。「彼はドイツ市民階級の道を歩んだのです。革命から現実への、ペシミズムへの、諦めきった、権力に保護された内面性への道を」マンのこの言葉には無量の思いがこめられています。

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2007年3月 6日 (火)

ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』

 『啓蒙の弁証法』(2007岩波文庫・徳永恂訳)は、ドイツでの反ユダヤ主義とアメリカでの大衆娯楽と高度産業社会での経験を踏まえ、1941年~44年にかけてカリフォルニアで執筆され1947年にアムステルダムで刊行されました。著者の二人は「フランクフルト学派」として知られる「社会研究所」の最も主要なメンバーであるマックス・ホルクハイマーとテオドール・W・アドルノです。共著ではあるが、その関心の度合いによって各章をそれぞれ分担して書き、後に討議を通じて加筆訂正し、共通の合意のもとに仕上げられたといわれています。ここでは、あまりに内容豊かなこの哲学書を便宜的に二つに分け、まずホルクハイマーと彼が第一稿を書いたと思われる「啓蒙の概念」「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」「反ユダヤ主義の諸要素ー啓蒙の限界」の章について紹介しましょう。

 歴史家であり、外交官でもあったハーバート・ノーマンは、かつて次のようなことを書いたことがあります。われわれは過去の時代が簡素であり、現代はより複雑な社会になったと考えやすいが、実はその逆で、シンプルさというものは文明が進展してはじめて得られるものなのだ、と。昔は(ばくぜんと前近代まで)さまざまな価値感が、ほぼ同じような力で人間の行動を規制し、推進していたと考えられます。儒教的な、また仏教的な、そしてアニミズムもあり、その時代特有の微妙な雰囲気もあります。人間そのものも、身分制という縦糸の中に、経験、教養、伎倆、容貌などが渾然とその価値を作っていたでしょう。
 ところで、「金がすべてだ」「金儲けをして何が悪い」という論理は啓蒙主義が浸透してはじめてまかり通る思想です。啓蒙の思想は、非合理的な思想の足かせ(宗教や道徳など)から人間の思考を自由にし、人間にとってもっとも大切な自己保存の力を目いっぱい引き出すことを許しました。人間は自己の利益のために精一杯のことをしてもよいし、またすべきである、というのが啓蒙の思想です。また、啓蒙は科学を信奉し、合理的思考を貫こうとします。「金がすべて」という発想がたぶん錯誤であろうとは思うものの、それに反論するためには愛や信頼などの計量不能な観念を持ち出してこなければなりません。啓蒙は、すべてを計量化し、体系化し、規格外のものを嫌います。「人を殺してはいけない」ということを理性は決して証明できない、と天下に唱導したことで、マルキ・ド・サドとニーチェは今も進歩主義者から迫害されている、とホルクハイマーは書いています。彼によれば、サドとニーチェこそ啓蒙の冷徹な貫徹者なのです。

 サドの図式的な物語で二人姉妹のうちジュスティーヌは道徳法則の殉教者なのですが、ジュリエットは悪徳の申し子でした。彼女は体系と一貫性を愛します。彼女のセックス・チームはいかなる瞬間も無駄にせず、いかなる体孔もほうっておかれず、どんな機能も働かないことはない、ということで現代スポーツの規則立てられた団体競技を予告しています。ジュリエットは、また、科学の信奉者でした。彼女にとっては神への信仰、十戒の遵守、悪に対する善の優位、罪に対する救済などその合理性を証明できないものを崇拝することは虫酸の走る思いがするのです。彼女は幻想なしに犯罪を犯します。この世には支配する者と屈従する者があります。「ひとつ伺いたいのですが」とジュリエットの友人は云います。「どう見てもそうではないのに、人間が権利の上でも事実の上からも平等に生まれついているのだ、と請け合うほどの愚か者がどこにいるでしょうか?」ここに啓蒙の政治哲学の要諦が隠されています。啓蒙主義は民主主義に固執するのですが、それは人間をまやかしの権利や義務で束縛せず、裸のまま計量可能な集団として認知できるからなのです。そうしてこそ、人間本来の肉体的、知的、美的能力での差別が可能というものです。強者として生まれた者が弱者を支配することに何の誤りがあるでしょうか。「自己保存を旨として成長をとげた悟性が生の法則を認めることがあるとすれば、それは強者の法則である」とホルクハイマーは云います。「それは理性の形式主義のために、人間に対して必要な模範は提示できないにしても、なおかつ嘘つきのイデオロギーに対して事実としての優位を誇示している。ニーチェの教説によれば、罪があるのはむしろ弱者であり、彼らは自然の法則を回避しようとしているのである」
 ニーチェの女性蔑視もその観点から納得できるでしょう。ジュリエットの友人も恋愛における女性崇拝を笑います。「われわれの欲求のために造られたにすぎないものに信従をちかう騎士道精神、、、われわれ男性にたいして女性が劣っていることには明々白々の根拠があるのだから、女性に対する畏敬の念などは偏見にすぎません」

 また、啓蒙は暴力を肯定します。いかに合法的体裁を装っていようと社会的階層秩序が最後に頼るのは暴力で、それは征服された原住民、アーリア人に対するユダヤ人、男性に対する女性に向けられます。彼らは無防備であるがゆえに弱いのです。特に女性は、キリスト教倫理では抑圧の対象にされた性を女性への畏敬で埋め合わせようとしたために、その代償として男性の中に怨恨に似た感情を生み出させました。「キリスト教の世紀においては、空しい努力を絶えず記憶のうちに蘇らせる対象、つまり女性というものに対する禁断の憎悪が、つねに隣人愛のかげから、顔をのぞかせていたのである」サドの小説の中で法院長ブラモンは女性についてこう語っています。「たわけた生きものたちよ。彼女たちが私の腕の中でもがくさまを見るのは何ともいい気持ちだ」ホルクハイマーは、これについて、男性は女性を個人として扱うことを避け、常に女性という類として扱い、そうすることで自然を痛めつけている、という鋭い指摘をしています。これはまた、同時にユダヤ人の排斥の理由を説明することになります。「女性やユダヤ人を見れば、数千年来彼らが支配者の地位についたことがないのがわかる。彼らは片付けられる筈だったのにまだ生きており、不安と弱さに満ち、多年の圧迫を通じて、より自然に近い存在になっている。しかし、自然から厳しく遠ざかることによって強さを手に入れた強者から見れば彼らはいらだちの対象となるのだ」

 啓蒙(enlightenment) とは文字通り、闇に光を入れてやること、人々の蒙をひらいてやることです。啓蒙の登場のためには経済的および学問的下地が必要でした。現世的権威を持たない商人階級(ブルジョワといわれる人たち)が発言力を増し、さらにベーコンやデカルトらの科学的思考が一般に知識人の共通の教養となることが必要です。啓蒙はヒュームらイギリス経験論を通してカントに受け継がれました。「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」これが啓蒙の標語です。別のいい方では、「理性(正しく判断する能力)の指導によって悟性(感性によって与えられたものを概念化する能力、一般の知力)を使用する勇気をもて!」となります。カントが志向したものは、もちろん自由な思考によって宗教などが吹聴するぺてんに惑わされるな、ということでしょう。近代の啓蒙の哲学者たちは、人間を宇宙に飛び交うアトムのようなものだと考え、理性的な社会さえ作れば人は幸福になれると考えました。カントにあっては、人間の中にある自由・永遠・正義などの理念が理性の中にあるばかりでなく理性そのものを構成していることが、人間がいつかは無限の彼方において真理に到達するだろうという楽観の根拠になっていました。
 しかし、啓蒙の行くつく先は、ナチスの全体主義であり、ソ連の社会主義であり、金と計算が支配しエゴイズムな企業家が跋扈する産業社会、官僚主義が大手をふるう役人社会でした。ここで、『啓蒙の弁証法』の序文に記された有名な問い「なぜ人類は真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んで行くのか」という問いが生まれてくるのです。これこそホルクハイマーが「非力な自分たちの手にあまる」として苦慮し呻吟した課題でした。結論はきわめて哲学的で、当惑させるものです。啓蒙はそのラディカルな自己貫徹のうちに自ら崩壊の種を宿していたというのです。啓蒙は、情け容赦のない自然破壊、女性や弱きものへの暴力、感情を押し殺した理性への憧憬によって、最後にはその恐るべき自分自身の真理の前にたじろぎます。これが啓蒙された筈の人々を襲うさまざまな矛盾した感情の源泉になるのです。(ヒトラー時代の人々の屈折した生活感情はクラカウワーの『カリガリからヒトラーへ』に細かく分析されています)
 ホルクハイマーはカントの予定調和的楽観主義を斥け、その啓蒙の傷跡に、その猛威に、そのルサンチマンに雄々しく踏みとどまることを選択したようにも見えます。「そこにあると指させる楽園など楽園ではない、、、(ニーチェやサドの示すユートピアは)もはや自らに歪みを持たないが故に、何ものも歪める必要のないユートピアである。彼らの非情な教説は、仮借なく支配と理性との同一性を告知することによって、かえって市民層の道徳の教説者よりも情け深いものを持っている。彼らは自ら拒否することによって、あらゆる気休め的保証から日毎に裏切られている、ゆるがぬ人間への信頼を救ったのである」

 マックス・ホルクハイマー(1895~1973)はシュトゥットガルトの裕福な織物工場主の家に生まれました。いわゆる三代目のユダヤ人で、一代目は冨を、二代目は地位を、そしてすることのなくなった三代目はユダヤ人本来の仕事、つまり世界の秘密を解く人類の智慧を探し求めることになったのです。父親は、彼が実家の仕事を継がないことを怒りはしなかったのですが、彼が八歳年上の父親の秘書と結婚したことで一時この親子は不和となりました。ホルクハイマーが哲学の道に進んだきっかけはショーペンハウアーの読書だといわれています。彼はこの哲学者の中に自分の境遇と似たものを見出したに違いありません。二人ともヨーロッパ中を又に掛けた商人の息子で、父親はともに子供を早くから外国と外国語に慣れさせ、国際感覚を身につけさせようとしました。「父親譲りの商人の感覚、外国や外国語に慣れている才能から由来する偏見のなさ。また教養からくる節度、こういったものがショーペンハウアーにあっては哲学になっていた」とホルクハイマーは書いています。(「ショーペンハウアー論」『権威主義的国家』紀伊国屋書店・清水多吉訳、所収)これはまさにホルクハイマー自身のことで、彼が個性と才能のひしめく「社会研究所」の所長に選ばれて、その職責を全うしたことは故なしとしません。副研究所長の経済学者フリードリッヒ・ポロックは、またホルクハイマーの大の親友であり、研究所の経理・雑務など一手に引き受けて彼を支えました。この二人は大学を引退した後、チューリッヒの湖畔に隣り合わせの家を買ってそこで余生を過ごしています。
 ホルクハイマーはフランクフルト学派のメンバーの中で最もペシミストであった、と云ってよいでしょう。いかなる楽観も彼には無縁でした。百歩譲って、未来が明るいものであるにしても、すでに起こった苦難は決して償われはしない、と彼は語ります。ユルゲン・ハバーマスはその感動的な小論(「ホルクハイマー生誕百年によせて」徳永恂・細見和之訳、弘文堂『フランクフルト学派再考』所収)で、次のようなことを書いています。『啓蒙の弁証法』の中で、ホルクハイマーとアドルノを最も峻別しているものは、啓蒙のアポリアについてである。もし啓蒙が止まることなき自己破壊の過程という姿で把握されるとしたら、そのことを批判する主体(ホルクハイマーやアドルノ、つまり啓蒙の落とし子たち)はそう判断する資格をどこから引き出してくるのか。ラディカルな理性批判はラディカルであるがゆえに自分の批判の尺度を無傷のまま放置できない。ホルクハイマーはこのアポリアに動揺し、たじろいでいる。「もしも人間が完全に欺かれるべきでないならば、啓蒙は自分自らを省察しなければならない」この問いは、興味深くもホルクハイマーの担当した章にだけ現れている。全く反対にアドルノは哲学の力だけに頼ることなく、現代芸術の美的な経験から独自の源泉を得ており、それが彼を絶望に陥らせず、いつの日か否定的な全体像が稲妻に打たれたかのごとく炸裂するだろう、というアナーキーな楽観に彼を導いた、と。
 晩年のホルクハイマーは信仰の道に心ならずも近づいたようです。彼は虚偽と真、道徳と不道徳は信仰によって区別され得るだろうと考えた、とハバーマスは書いています。「、、、このことを認めながら、しかもなお真剣に神なき生を送ることができるだろうか。これが哲学の問いである」(ホルクハイマー晩年の『覚書』)

(アドルノとその文化批判についてはまたいつか後に書くつもりです)
 

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