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2007年2月15日 (木)

ケネス・クラーク『風景画論』(3)

 高貴なのは神の似姿である人間の魂であって、自然=物質の世界はとるに足らないものである、という思想はいうまでもなく中世的なものです。しかし、ルネサンス、宗教改革そして反宗教改革を通じてとぎすまされた人々の宗教感情は、神秘的なもの、制御しえぬものの世界に向いました。ここに、グリューネヴァルト(1475?~1528)やアルトドルファー(1480?~1538)やヒエロニムス・ボス(1450?~1516)が活躍する舞台が出現します。彼らは、近代の画家たちと違って、日常の脅威にさらされて生きていました。彼らは、傭兵たちが通過する村々を焼き払い、人々がかまどに残された一片のパンのために虐殺される場面を目撃してきました。人間の心が暗黒に満ち、ねじれ、激しやすいことを知っていた彼らの描く自然の姿は人間精神の凶悪な痙攣の表現でした。このために彼らが用いた手段は自然の象徴化された表現、つまりグリューネヴァルトやアルトドルファーにとってはたとえば鬱蒼たる森であり、ボスにとってはすべてを焼き尽くす火でした。ドイツ絵画に必ずといってよいほど出現する樅の木や深い薮は人間の心が落ちて行く恐怖のシンボルなのです。その家庭化され飼い馴らされたシンボルがクリスマス・ツリーで、電飾され星を飾られたツリーの中に隠れているものはグリューネヴァルト描くところの恐ろしい洗礼者ヨハネの姿かも知れません。

 現実の生活が苦難に満ちていればこそ理想的自然も思い浮かべることができるというものです。そこで、オウィディウスやウェルギリウス描く神話上の人物や風景が画家の恰好の題材となりました。ジョルジョーネ(1477~1510)の絵は、生命力にあふれ肉体を信頼する古代世界を喚起しながら、そこに欠けていた薄明と懐古的趣味とをまぜあわせて見るものの心を奪います。彼は『アルカディア』の詩人ピエトロ・ベンボとの交際によって、人間の失われた黄金時代への郷愁を強くかき立てられました。若者と若い母親が離れて相対しその中空を雷が光る《ラ・テンペスタ(嵐)》はその前で批評家が沈黙する以上のことはできない作品ですが、世紀の傑作がそうであるように無限の解釈が可能です。ペイターは『ルネサンス』でジョルジョーネをイタリア音楽の勃興と結びつけ、「生きることは耳傾けて聴き入ることだ」と書きました。
 ジョルジョーネを継いだ者は二人のフランスの画家、クロード・ロラン(1600~1683)とニコラ・プッサン(1594~1665)です。二人はともに神話や聖書を題材にしながら、その作風はあまりに違います。ケネス・クラークはつぎのように書いています。クロード・ロランの作品にはやさしい詩情と去りゆく文明へ投げかける悲しいまなざしがあり、たとえてみれば英国の細やかに造り出された庭園のように自然のすべては人間のよろこびに合わせて設計できるという思想が隠されている、一方、プッサンは自然の鑑賞は必然的に知的な秩序を求める心に結びつくと考え、無秩序な自然の景観に論理的秩序を与えようと志した、と。合理的なフランス人がプッサンを好み、ロマン的なイギリス人がクロード・ロランを好むのも故なしとしません。
 黄金時代に理想の風景を求める努力はマルサスとダーウインの登場とともに急速に衰えていきました。神がこの場に臨み給い、自然にその完全性を与えている、という考えは黄金時代同様、二度と人類に戻ってくることはなかったのです。

 19世紀はまさに風景画の時代でした。コンスタブルおよびフランス印象派については先に紹介しましたが、印象主義の遺産から何が生まれてきたでしょうか。まず、スーラ(1859~1891)です。彼はアングルの新古典主義を模倣することから始め、そのデッサンの完璧さ、明暗によって事物の美しいコントラストを得ようとする考え方に惹かれました。スーラの画歴は兵役の間だけ中断します。駐屯地であるブレストで長い歩哨の時間を海を眺めて過ごし、海の光と色彩について深く会得するところがありました。水や空の果てしない広さ、海浜の建物の明確さ、空と突堤また海と彼方の帆船が相互につくり出す間合いの比例感に深く心を動かされたのです。空間は平穏静謐でありながら動きに満ちていなければならない、構築的でありながら光にふるえていなければならない、これがスーラには絵画の緊急課題に思われました。印象派の主題を借りながら、その驚くべき勤勉さと研究によって、それを反印象主義の達成のために使ったのです。彼は絵画に永続性を持たせるために、ヨーロッパ芸術の中央山脈たる15世紀イタリアのフレスコ画にその範を求め、さらに光の科学的解明のためマクスウェルの光電磁波理論までわがものとしました。何年もかけて、ついに大作《グランド・ジャット島の日曜の午後》が1886年の最後の印象派展に出品された時、誰にもそれが印象主義の終焉を告げているように思われたのです。それは感覚的というより構築的な作品です。《アニエールの水浴》と同様、スーラが写生による感動からこれを描き出したのは疑うことはできません。グランド・ジャットの草が伸びると、比例関係をそこなわないように友人たちが交代で草を刈りました。しかし、完成されたものは自然主義的でも表現主義的でもなく、見る人を当惑させる作品となっています。人物は、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画《聖十字架伝説》を思わせるように堂々と永遠の静止の中にいるようですが、同時にボール紙の張り合わせのようにも見えます。点描で表された光と色の斑点はやや離れて見るとすべてが中性的な色合いにぼやけて見えてしまいます。要するに、《グラント・ジャット》は人を感動させる作品ではなく、歴史を画した作品なのです。色が光の戯れに過ぎない(ゲーテは色は光の苦悩であると云いました)ことをこれほど実証した絵はありません。この絵には、ヴァレリーが数学と物理学に捧げた15年の年月と等しい価値の研鑽がこめられています(スーラはわずか31歳で死んだのですが)。芸術のあらゆる問題を知性のみで解決しようとするフランス人の強い欲求、「フランスの偉大な伝統を成す le sec (乾燥性)」をイギリス人は理解できない、とケネス・クラークは書いています。
 
 セザンヌ(1839~1906)は印象派の中では大分優美さに欠けていました。彼の初期の「野蛮さ」を理解したのはピサロだけでした。セザンヌは、やがて、故郷のプロヴァンスにこもり、そこで山や家や丘や湾を描くことにより、ついに自らの様式を見出しました。事物を深さと同時にパターンとして見ることで、彼は事物にこれまでにない堅固なリアリティを付与しました。自然と拮抗する、いや自然よりも現実性にあふれた事物の奥深さ! セザンヌが描くまで、プロヴァンスの風景がトスカナやギリシアの古典的風景と同様に永続的で普遍的な風景になるなどと誰も思った人はいませんでした。ところが、セザンヌ以降プロヴァンスの風景のみがまじめな風景画家が描くに値する風景だと思われたのです。しかし、プロヴァンスの秘密はセザンヌの思い出の中にありました。彼は子供の頃、親友エミール・ゾラと一緒に、このプロヴァンスの赤土の上を毎日毎夜どしどし歩き回り、その上に眠ったり、松の木々の彼方をいつまでも見つめたりしていたのです。丘の風景、家々の重なり、道の果てのサン・ヴィクトワール山、そのどれひとつとして彼が見知らぬ思いをするものはありませんでした。《ガルダンヌ近郊》の絵の中の左端のみずぼらしい二軒の家を凡庸な風景画家なら決して描くことはなかっただろう、とクラークは書いています。ここにセザンヌの真実があります。ピサロは画商のヴォラールにプロヴァンスの初老の男を訪ねるよう説得しました。セザンヌの展覧会が開かれると、画家たちは自分たちの昔の「野蛮な」仲間が実は自分たちの師であったことに気付いたのです。

 忍耐と自己犠牲によってセザンヌが達成した風景画は同時に風景画の放棄に導きます。風景はそれだけで存在するのでなく、おのれ自身の真実を通じてその秘密を開示するのです。風景画の最後を飾る人間は、孤高の人、ヴァン・ゴッホ (1853~1890)です。彼はエル・グレコやターナーのように、描くことで自分自身の尽きせぬ感情を表出しようとしました。ゴッホは、自然を愛すれば愛するほどそれをねじ曲げ、歪め、自己自身の絶望の表現に変えてゆかざるを得ませんでした。何の導きか、何に誘われたか、彼はターナーのように次第に明るい色彩を使うようになり、ついには黄一色の世界にたどり着きました。しかし、それはターナーのような真珠の輝きとは異質です。それは、われわれの頭脳に打撃を与える光、熱狂にかられてチューブから絞り出された最高度に明るくどぎつい色彩でしか祓いきよめることのできない光です。それは狂人の絵に他なりません。コンスタブルの晩年の絵、セザンヌの最晩年の絵、そしてドガの晩年のデッサンにも見られる、この表現主義的な様式は、存在することの無用と悲惨の感情である、とケネス・クラークは書いています。「自然の秩序をすべて失ってしまった時代においてこの様式は、個々の人間の魂が自らの良心を主張する際にとる、唯一の可能な手段かもしれないのである」と。

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