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2007年2月10日 (土)

ケネス・クラーク『風景画論』(1)

 「人間精神が最も輝かしく燃えていた時代には、それ自身が目的である風景画は独立して存在せず、そんなものは考えられもしなかった」とケネス・クラークは『風景画論』(2007ちくま学芸文庫・佐々木英也訳)で書いています。風景画が支配的になるのは19世紀になってからで、自然の忠実な模写たらんとした絵画は愛好家のみならず普通の人々が競って求めるところとなりました。前景に小川が流れ、その水が輝かな空を映し、それを暗い木立が引き立てる、といった情景は、かつて裸体の競技者や両掌を合わせた聖女が美しいとされたように、今や誰からも美しいと認められるようになりました。
 19世紀の初頭に数多く出た二流の風景画家たちから屹立して現在もなお愛されているのはジョン・コンスタブル(1776~1837)です。彼の成功の理由は、まず彼がクロード・ロラン、ヤーコプ・フォン・ライスダール、トマス・ゲインズボロなどヨーロッパ風景画の伝統を(独学で)身につけていたこと、そして彼が「自然のキアロスクーロ(明暗)」と呼んでいたものを非常に重要視していたことです。これは光のきらめきを意味します。「露、そよ風、咲き始めた花、そのひとつとしてどんな画家もこれまで完全にカンヴァスに移し得たものはいない」と彼は書きました。このために彼が工夫した技法である筆触分割法(スーラの点描法の原型となった)とかパレットナイフで純白を軽く画面に打つ方法は、フランスの絵画に決定的な影響を及ぼしました。
 しかし、コンスタブルの最大の特長は、光と影のドラマによる自然の統一的感覚を維持し続けたことです。イタリアにしか描くべき風景はない、と言ったゲインズボロと反対に、コンスタブルは、自分はどんな生垣の下からも芸術を生み出せる、と語っています。彼は、故郷のサフォーク州イースト・バーゴルトの自然を愛し、そこを流れるストゥーア川、父の製粉所のあったデダムの谷を繰り返し描き続けました。魂はそこでしか情熱を見出せず、人の心を揺り動かすドラマはそこでしか描かれないと確信していたのです。「水車の堰から流れる水の音、柳の木々、錆びた古い板、ぬらぬらした杭、レンガ造りの壁、こうしたものを私は愛する」と彼は書いています。
 彼はあるがままの故郷を見、それをそのままの姿で愛しました。「生まれてこのかた私は醜いものを見なかった」という彼の言葉はあまりに有名です。彼は樹々をいつまでも見つめて飽きませんでした。他の画家にとっては樹木は樹木であり、彼らはしばしば同じ樹を複数の作品に描きます。ところがコンスタブルは樹の名をすべて知り、その一本一本が成長し、枯れるのを見、それを愛情をもって描写しました。『デダムの谷』の前景の大きく波打つトネリコの樹を思い出しましょう。トネリコは彼が最も愛した樹にほかなりません。ずっと後になって駅馬車で故郷の村を通り過ぎる時、「美しい眺めですね」と彼がつぶやくと、乗り合わせた紳士の一人が「デダムの谷、あのコンスタブルの田舎ですよ」と云いました。「私は、その場の雰囲気をこわさないように、そっと私がコンスタブルだと名乗ったのです」。
 自然は神の最も明白な啓示であり、敬虔な目でこれを見るならば、ある道徳的観念を人々に訴えうる、とコンスタブルは思っていました。自然主義が一つの信念によって、より高次の領域にまで高められるのです。しかし、とケネス・クラークは書いています。つねに新鮮さを失わず、自然な姿の客観的で明晰な把握を続けていくためには素朴で落ち着いた心が必要だ。だが、コンスタブルの心の落ち着きと平安は結婚から妻の死へのわずか10年しか続かなかった、と。 
 コンスタブルは24歳の時、13歳であったマリア・ビックネルと知り合いました。マリアの家は弁護士や牧師を出している地方の名家で、家柄を理由に彼との交際を厳しく禁じられてきました。製粉所の息子で全く売れない絵ばかり描いている青年に娘はやれなかったのです。二人は熱烈な文通を続け、ついにマリアが29歳になった時、彼女の父と祖父は観念して結婚を許したのです。その時、コンスタブルは40歳になっていましたが、未だ無名の地方画家にすぎませんでした。この幸福な結婚生活は10年間続き、その間に彼は『干草車』がフランスで激賞されるなど次々に傑作を生み出しました。だが、妻が結核で死に、幸福な時代が終わると、もはや自然への活き活きした感受性は永久に彼から失われました。「一時間ごとに私は死んでしまった私の天使のことを思い出す、、、私にとって世界は一変してしまったのだ」。辛い経験によって痛めつけられた心から生まれた彼の絵は、もはや自然の鏡であるよりはるかに苦悩の表現となり、ついにはゴッホの絵のようにのたうつ苦悶になり変わりました、、、。
 風景画はもっとも安易な絵画形式と考えられているが、とケネス・クラークは云っています。「実際にはもっとも険しいものであり、ごく稀にしか成功せず、またもっとも成功のおぼつかないものである」と。画面全体に光の被膜をみなぎらせ、統一感を失わず、感動をもって自らの真実の視覚的印象の表現に達することは極めて困難です。コンスタブルはリュウマチに苦しみながら、妻の死後なお10年生きましたが、1837年60歳で死に、再び開けられた妻の棺の中に共に寝かされました。イギリスはその後100年の間、コンスタブルの目で彼らの田舎を見てきました。「われわれがこの世界を見て歓びを覚えるのも、その多くはわれわれより前に歓びをもって世界を見た偉大な芸術家たちのおかげである」とクラークは書いています。


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