« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

2007年2月24日 (土)

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

 『意志と表象としての世界』(中央公論社「世界の名著」西尾幹二訳)第一巻の最後に忘れがたい一節があります。ショーペンハウアーは、ストア派の理論を解説して、それは理性の力を通じて人間に幸福を与えようとする哲学である、と書いています。理性は単なる認識によって、人生を満たしているあらゆる苦悩から人間を解放してくれる、とストア派は云っています。欠乏や苦痛はものを持たないことから生ずるのでなく、ものを持ちたいという気持ちがありながら、しかも持っていないという状態からはじめて生じるので、したがってこの持ちたいという気持ちこそ苦悩を生み出させる唯一の必然的な条件なのです。「貧乏が苦痛をもたらすのでなく、欲望がもたらすのである」(エピクテトス、断片25)。つまり、われわれの幸不幸は、われわれの意志いかんによって生ずるのです。だから、幸福はわれわれの精神を平静にすることで得られ、正しい理性の使用は人生のあらゆる苦悩や重荷を取り除いてくれる、というのです。「いかにしたら君は安らかに人生をすごすことができようか/永遠に満たされない欲望に苦しめられることもなく/たいして益もないものごとへの怖れや希望にも苦しめられずにすむように」(ホラティウス『書簡集』)
 これがストアの倫理学です。しかし、とショーペンハウアーは書いています。「そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ」と。ストアの賢者が、木でできた一個の模型人形のように見えるのも、また彼らの文章がわれわれに生気を感じさせず、内的な詩的真実を訴えかけてこないのも、実はといえば彼らの説く平静、満足、幸福が人間の本性とは正反対のものだからに他なりません。インドの智者やキリスト教の救世主など、最高の苦悩の状態のままにわれわれの目の前に立つあの卓越した姿の人間と比べると、ストアの賢者は何と見劣りするでしょうか。
 実は、苦しむことこそ幸福への要諦なのです。『意志と表象としての世界』第四巻はそのことについての心ゆさぶらるる叙述に満ちています。人間の意志は(意志とは物欲や性欲や嫉妬や名誉欲のように人間を突き動かすものです)圧倒的な力で人間を襲うので、これに抗うことは不可能のように見えます。実際、これに打ち勝ち、なだめ、否定することのできた聖者は極めてまれです。しかし、意志の否定には第二の道があって、これは誰にも起こりうることですが、大きな苦悩によって回心する場合です。苦悩の各段階を通過して、ついに絶望の瀬戸際まで追いつめられたその挙句に、彼は突如として自分自身の内面に還帰し、自分と世界とを認識し、自分の全存在を変革することになります。情熱の衝動にかられて波瀾万丈の生涯を送った人々、国王、英雄、冒険家などが突如として心変わりをして、諦念と贖罪とを選びとり、隠者や出家になってしまう例は数多くあります。スペインの哲人であるライムンド・ルルス(1235~1316)の例を思い出しましょう。ルルスは長い間恋い慕っていたある美人からとうとうその部屋へ呼び込まれて、望みが存分にかなえられると期待したまさにそのとき、彼女は胸衣を開けて、癌腫のために無惨に浸蝕された胸を彼に見せたのです。「こんな私でも、あなたは愛せますか?」その瞬間、ルルスは地獄をのぞき込んだようにその場に立ちつくしました。彼は沈黙のままマジョリカの宮廷を去り、砂漠に行って、懺悔の行についたのです。その後、中近東での宣教の途次に回教徒に殺されるまで彼の生は生あってなきがごとし、すでに生が死を克服していたかのようだった、ということです。
 快楽から人生の残酷への移り行きが回心のきっかけになる例は多いので、ヨーロッパでもっとも快活な、明朗な、官能的な、軽佻な国民であるフランス人が、あらゆる僧団の中でもずば抜けて厳格なトラピスト修道院を興したのもその例である、とショーペンハウアーは書いています。
 「すべての苦悩には禁欲ならびに諦念への要請があるので人を神聖にする力が可能性としてそなわっている、、、しかし、苦悩がその人を高めるのは、自分の人生だけが苦しいのでなく、すべての人の人生が苦悩に満ちているだという意識が認識の中から生じてくるときである」ショーペンハウアーは、その例えにゲーテの『タッソー』の中の公女レオノーレを挙げています。公女は自分の生涯も、また身内の者の生涯も、いつも悲しいことばかりだったし、喜びもないものであったと率直に語っているのですが、そう語りながら彼女がいつも一般的な物の見方をしているのが、その性格に哀調を帯びた高尚さを与えているというのです。文学に対して深い感性を持っていたショーペンハウアーの記述の中でもきわだって繊細な指摘ではないでしょうか。

 さて、意志の教説も意志の放棄の唱導も濁世の中を生きる私たちには縁遠いようにも思えます。ショーペンハウアー自身はどのような生き方を信条にしたのでしょうか。実はストア派の開祖ゼノンは、理性による諦念を信条とするストアの後継者たちとは異なった生き方をしたというのです。「ゼノンの生き方の出発点は、最高の善、すなわち精神の平静による至福状態に達するためには、自分自身と一致した生活をしなければならないということであった」徳とは全生涯にわたって魂が自分自身と一致することに他ならないというのです。「しかし、はやくもゼノンに続く弟子たちにとっては、師の道徳原理ー一致して生きるーは、あまりにも形式的で無内容に思われたのだった」
 ショーペンハウアーがゼノンの教えをその人生の出発点に服膺(ふくよう)したことはありそうなことで、グヴィナーの『身近に接したショーペンハウアー』(白水社ショーペンハウアー全集別巻・斎藤忍随、兵頭高夫訳)によれば彼はすでに少年時代に自分の生活態度をシャンホールの次の言葉によって表現したということです。「人が通常、幸福と呼ぶところのものよりもさらに高級な幸福がある。それは毅然として自分の性格に従い、その結果として生ずる不利、障害を勇敢に甘受する点に成り立つ。」グヴィナーによれば、これこそ彼のアルキメデスの支点であったというのです。そしてまた、ショーペンハウアーが生涯、護符のように肌身離さず守り、何度も噛みしめた言葉、それゆえに自らの倫理的尊厳について一片の不安も感じなかった言葉は『ハムレット』のよく知られた場面、ポロニウスが旅に出るラエルテスに送った言葉です。ポロニウスは、処世の戒め、衣服に金を惜しむな貸金は金をも友をも失う、などと諭した後で、最後にもっともたいせつな訓を語ります。

 何はともあれまずもって汝自らに忠実なるべし
 さらに夜の昼に従い伴うがごとく この第一の心得に必ず伴うべきは
 汝、如何なる人をも偽るなかれの心得なり

 かつてショーペンハウアーの母親ヨハンナは息子のことではなはだしい苦情を友人に対して申し立てたことがあったのですが、それでも同時に息子の美徳は認めざるをえませんでした。「真理への愛、それが、あの子の最高の、おそらくただ一つの徳です。あの子の口から出る嘘の言葉をついぞ私は聞いたことがありません」
 すでに少年の頃、ショーペンハウアーは、自分と他人の世界に気付いていました。他人は誰も彼も財産を得ようと努めているが、彼はその方向へ向かう努力を必要としなかった、つまり彼自身の中に財宝があったので、ただそれを掘り出せばよいと思っていたのです。そのために基礎訓練と自由独立が必須と思えたので、彼は父から遺された遺産をたいせつに蓄え、独身を守り、きわめて質素な生活の中で「王者の孤独」(バイロン)に従容として耐えていました。30歳で『意志と表象としての世界』第一部を出版してから30年、世界は全く彼を無視していました。やっと、60歳を過ぎて名声は彼の下に怒濤のように押し寄せてきました。さびしく笑いながら彼はドイツの古い民謡の中の飢えた子供の運命に自分を重ねあわせたのでしょうか。

  そしてパンが焼けたそのときは
  その子は棺のなかだった
  

 
 

| | コメント (2)

2007年2月15日 (木)

ケネス・クラーク『風景画論』(3)

 高貴なのは神の似姿である人間の魂であって、自然=物質の世界はとるに足らないものである、という思想はいうまでもなく中世的なものです。しかし、ルネサンス、宗教改革そして反宗教改革を通じてとぎすまされた人々の宗教感情は、神秘的なもの、制御しえぬものの世界に向いました。ここに、グリューネヴァルト(1475?~1528)やアルトドルファー(1480?~1538)やヒエロニムス・ボス(1450?~1516)が活躍する舞台が出現します。彼らは、近代の画家たちと違って、日常の脅威にさらされて生きていました。彼らは、傭兵たちが通過する村々を焼き払い、人々がかまどに残された一片のパンのために虐殺される場面を目撃してきました。人間の心が暗黒に満ち、ねじれ、激しやすいことを知っていた彼らの描く自然の姿は人間精神の凶悪な痙攣の表現でした。このために彼らが用いた手段は自然の象徴化された表現、つまりグリューネヴァルトやアルトドルファーにとってはたとえば鬱蒼たる森であり、ボスにとってはすべてを焼き尽くす火でした。ドイツ絵画に必ずといってよいほど出現する樅の木や深い薮は人間の心が落ちて行く恐怖のシンボルなのです。その家庭化され飼い馴らされたシンボルがクリスマス・ツリーで、電飾され星を飾られたツリーの中に隠れているものはグリューネヴァルト描くところの恐ろしい洗礼者ヨハネの姿かも知れません。

 現実の生活が苦難に満ちていればこそ理想的自然も思い浮かべることができるというものです。そこで、オウィディウスやウェルギリウス描く神話上の人物や風景が画家の恰好の題材となりました。ジョルジョーネ(1477~1510)の絵は、生命力にあふれ肉体を信頼する古代世界を喚起しながら、そこに欠けていた薄明と懐古的趣味とをまぜあわせて見るものの心を奪います。彼は『アルカディア』の詩人ピエトロ・ベンボとの交際によって、人間の失われた黄金時代への郷愁を強くかき立てられました。若者と若い母親が離れて相対しその中空を雷が光る《ラ・テンペスタ(嵐)》はその前で批評家が沈黙する以上のことはできない作品ですが、世紀の傑作がそうであるように無限の解釈が可能です。ペイターは『ルネサンス』でジョルジョーネをイタリア音楽の勃興と結びつけ、「生きることは耳傾けて聴き入ることだ」と書きました。
 ジョルジョーネを継いだ者は二人のフランスの画家、クロード・ロラン(1600~1683)とニコラ・プッサン(1594~1665)です。二人はともに神話や聖書を題材にしながら、その作風はあまりに違います。ケネス・クラークはつぎのように書いています。クロード・ロランの作品にはやさしい詩情と去りゆく文明へ投げかける悲しいまなざしがあり、たとえてみれば英国の細やかに造り出された庭園のように自然のすべては人間のよろこびに合わせて設計できるという思想が隠されている、一方、プッサンは自然の鑑賞は必然的に知的な秩序を求める心に結びつくと考え、無秩序な自然の景観に論理的秩序を与えようと志した、と。合理的なフランス人がプッサンを好み、ロマン的なイギリス人がクロード・ロランを好むのも故なしとしません。
 黄金時代に理想の風景を求める努力はマルサスとダーウインの登場とともに急速に衰えていきました。神がこの場に臨み給い、自然にその完全性を与えている、という考えは黄金時代同様、二度と人類に戻ってくることはなかったのです。

 19世紀はまさに風景画の時代でした。コンスタブルおよびフランス印象派については先に紹介しましたが、印象主義の遺産から何が生まれてきたでしょうか。まず、スーラ(1859~1891)です。彼はアングルの新古典主義を模倣することから始め、そのデッサンの完璧さ、明暗によって事物の美しいコントラストを得ようとする考え方に惹かれました。スーラの画歴は兵役の間だけ中断します。駐屯地であるブレストで長い歩哨の時間を海を眺めて過ごし、海の光と色彩について深く会得するところがありました。水や空の果てしない広さ、海浜の建物の明確さ、空と突堤また海と彼方の帆船が相互につくり出す間合いの比例感に深く心を動かされたのです。空間は平穏静謐でありながら動きに満ちていなければならない、構築的でありながら光にふるえていなければならない、これがスーラには絵画の緊急課題に思われました。印象派の主題を借りながら、その驚くべき勤勉さと研究によって、それを反印象主義の達成のために使ったのです。彼は絵画に永続性を持たせるために、ヨーロッパ芸術の中央山脈たる15世紀イタリアのフレスコ画にその範を求め、さらに光の科学的解明のためマクスウェルの光電磁波理論までわがものとしました。何年もかけて、ついに大作《グランド・ジャット島の日曜の午後》が1886年の最後の印象派展に出品された時、誰にもそれが印象主義の終焉を告げているように思われたのです。それは感覚的というより構築的な作品です。《アニエールの水浴》と同様、スーラが写生による感動からこれを描き出したのは疑うことはできません。グランド・ジャットの草が伸びると、比例関係をそこなわないように友人たちが交代で草を刈りました。しかし、完成されたものは自然主義的でも表現主義的でもなく、見る人を当惑させる作品となっています。人物は、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画《聖十字架伝説》を思わせるように堂々と永遠の静止の中にいるようですが、同時にボール紙の張り合わせのようにも見えます。点描で表された光と色の斑点はやや離れて見るとすべてが中性的な色合いにぼやけて見えてしまいます。要するに、《グラント・ジャット》は人を感動させる作品ではなく、歴史を画した作品なのです。色が光の戯れに過ぎない(ゲーテは色は光の苦悩であると云いました)ことをこれほど実証した絵はありません。この絵には、ヴァレリーが数学と物理学に捧げた15年の年月と等しい価値の研鑽がこめられています(スーラはわずか31歳で死んだのですが)。芸術のあらゆる問題を知性のみで解決しようとするフランス人の強い欲求、「フランスの偉大な伝統を成す le sec (乾燥性)」をイギリス人は理解できない、とケネス・クラークは書いています。
 
 セザンヌ(1839~1906)は印象派の中では大分優美さに欠けていました。彼の初期の「野蛮さ」を理解したのはピサロだけでした。セザンヌは、やがて、故郷のプロヴァンスにこもり、そこで山や家や丘や湾を描くことにより、ついに自らの様式を見出しました。事物を深さと同時にパターンとして見ることで、彼は事物にこれまでにない堅固なリアリティを付与しました。自然と拮抗する、いや自然よりも現実性にあふれた事物の奥深さ! セザンヌが描くまで、プロヴァンスの風景がトスカナやギリシアの古典的風景と同様に永続的で普遍的な風景になるなどと誰も思った人はいませんでした。ところが、セザンヌ以降プロヴァンスの風景のみがまじめな風景画家が描くに値する風景だと思われたのです。しかし、プロヴァンスの秘密はセザンヌの思い出の中にありました。彼は子供の頃、親友エミール・ゾラと一緒に、このプロヴァンスの赤土の上を毎日毎夜どしどし歩き回り、その上に眠ったり、松の木々の彼方をいつまでも見つめたりしていたのです。丘の風景、家々の重なり、道の果てのサン・ヴィクトワール山、そのどれひとつとして彼が見知らぬ思いをするものはありませんでした。《ガルダンヌ近郊》の絵の中の左端のみずぼらしい二軒の家を凡庸な風景画家なら決して描くことはなかっただろう、とクラークは書いています。ここにセザンヌの真実があります。ピサロは画商のヴォラールにプロヴァンスの初老の男を訪ねるよう説得しました。セザンヌの展覧会が開かれると、画家たちは自分たちの昔の「野蛮な」仲間が実は自分たちの師であったことに気付いたのです。

 忍耐と自己犠牲によってセザンヌが達成した風景画は同時に風景画の放棄に導きます。風景はそれだけで存在するのでなく、おのれ自身の真実を通じてその秘密を開示するのです。風景画の最後を飾る人間は、孤高の人、ヴァン・ゴッホ (1853~1890)です。彼はエル・グレコやターナーのように、描くことで自分自身の尽きせぬ感情を表出しようとしました。ゴッホは、自然を愛すれば愛するほどそれをねじ曲げ、歪め、自己自身の絶望の表現に変えてゆかざるを得ませんでした。何の導きか、何に誘われたか、彼はターナーのように次第に明るい色彩を使うようになり、ついには黄一色の世界にたどり着きました。しかし、それはターナーのような真珠の輝きとは異質です。それは、われわれの頭脳に打撃を与える光、熱狂にかられてチューブから絞り出された最高度に明るくどぎつい色彩でしか祓いきよめることのできない光です。それは狂人の絵に他なりません。コンスタブルの晩年の絵、セザンヌの最晩年の絵、そしてドガの晩年のデッサンにも見られる、この表現主義的な様式は、存在することの無用と悲惨の感情である、とケネス・クラークは書いています。「自然の秩序をすべて失ってしまった時代においてこの様式は、個々の人間の魂が自らの良心を主張する際にとる、唯一の可能な手段かもしれないのである」と。

| | コメント (0)

2007年2月12日 (月)

ケネス・クラーク『風景画論』(2)

 「印象主義は幸福の絵画である」とケネス・クラークは書いています。それは現実的で価値高き倫理的立場の表現であった、と。「ごく最近まで誰の手にも届くと思われていた良き生活の完全な表現。ルノワールの《ボートを漕ぐ人びとの昼食》の顔や姿ほど単純で永遠な歓びを表したものが他にあろうか。モネの描く河口の白い帆船やルノワールの庭の薔薇ほど説得力をもった地上楽園のイメージが他にあろうか。これらの絵は、芸術にとって何より大事なものは個々の作者の生きる環境ではなくて、ひとつの普遍的信念であることを証明している。これを描いた人びとは痛ましいほど貧しく、その手紙によれば明日の食事のためどうしたらよいか途方に暮れていた。しかし、作品そのものは自然と人間性へのまったき信頼感に溢れている。彼らが目にしたものはすべて、洪水でも濃霧でも、歓喜のために存在している」
 印象主義は1869年のモネ(1840~1926)とルノワール(1841~1919)の交友によって始まった、と云われています。二人は川岸のカフェ・ラ・グルヌイエール(蛙沼亭)で、水の上の光のきらめきについて飽くことなく話し合いました。モネには自分の目に映じた自然に対する全幅の信頼が、ルノワールには鮮やかな筆致(彼は陶器の絵付け師でした)と虹のようなパレットがありました。1871年から74年にかけて、モネとルノワールがアルジャントゥーユで制作した絵において、感覚の絵画はそのもっとも完璧な成果を生み出しました。目の前のこの世界に生きる無条件の喜び、そして新しい技法のみがこの喜びを伝え得るという信念、一世代前のバルビゾン派の画家たち(ルソーやコローやミレー)の暗さと比べ何と明るく輝いていることでしょう。何と幸福の予感と期待に満ちていることでしょう。その主題、ヴィジョン、技法に魅せられて、シスレーやピサロのような人たち、そしてマネさえもアルジャントゥーユの絵を描こうとしました。ゴッホやゴーギャンもこの様式によって彼らのもっとも美しい作品のいくつかを残しています。
 しかし、印象主義はその発生と同時にその終りも予告していたのです。自然世界への信頼は絵画を視覚の力だけに限定する方向をもたらします。ところで、芸術というものは私たちの記憶や知識や連想と深く関わっているもので、視覚だけを重視することは人間の表皮をなぞることに過ぎません。「詮ずるところ、観念を重視する考え方が正しいであろう。子供の描画が示すように、人間は感覚よりも意味に強く印象づけられる。芸術創造の最高の目的は人を説得せずにはおかないイメージをつくり出すことにある」と、ケネス・クラークは書いています。
 印象派は虹のパレットを使って光の表現を達成しました。「芸術において新しい技能(マスタリー)を獲得した喜びほど爽快なものはない。しかしながらあまりに発見のよろこびによりかかった芸術は、自在な技巧を身につけると、必然的に頽廃の道を歩み出す」。かくて、偉大な印象主義の時代も1880年代半ばまでに終りを告げていました。ルノワールは、かつてルーヴルで古典主義の絵画、ワトーやフラゴナールを熱心に研究していた自分を思い出し、さらにナポリの古代絵画、ヴァチカンのラファエロ壁画などに触発されて、印象主義が捨て去っていた堅固な輪郭線をふたたびわがものにしました。印象主義の頭領たるモネだけは、その教理をとことん押し進める勇気を持っていて、感受性をさらに高揚させようと、南仏のリヴィエラ海岸に移住して、その融熱し白熱した、ぎらつく太陽の下に自らをさらしました。そして、彼は教理の限界まで進んで、結局描かれる対象など何の重要性もないのだということを証明するために、積み藁や大聖堂にまといつき反射する光を描き出そうとしました。これは、自然に忠実な物の見方を信条とする印象派の否定であり、手段を目的化した芸術の頽廃ともいえます。しかし、モネは奇蹟的に立ち直りました。庭の睡蓮が彼の心を揺さぶって、ふたたび新鮮かつ熱情的に自然に反応する心を取りもどしたのです。その感動を彼は、さっと四散し、流れ、まだらに広がる睡蓮と波の上に表出することができたのです。
 「印象主義は幸福の絵画である、と私は前に語った。このことは印象派の魅力のひとつにちがいない。だが、同時にその限界を語るものであろう。幸福の絵画なるがゆえに、彼ら印象派は人間精神の最奥に潜む直感、とりわけ大芸術家たちが晩年に達したあの深い直感に通ずる道から閉ざされている」と、ケネス・クラークは書いています。確かに人の世も、人間が塵でしかないこの宇宙の深奥も、明るい光と色彩のタッチで表現するにはあまりに謎めいていることでしょう。しかし(と、私は思います)、印象派をスーラ以外一括して否定したアンドレ・ブルトンに逆らって、私はもし一枚の絵画を自分の部屋に飾るのが許されるとしたら、モローやルドンなどより、ましてやミレーやクールベなどよりも、1870年代に描かれた印象派の絵画を、できればピサロかシスレーを飾りたいと思います。なぜなら幸福は一瞬の光であり、色彩であり、そよ風であるのだから、いつまでもそこにとどめておきたいのです。彼ら印象派の画家たちが、なけなしの金をはたいてお互いの絵を買って、涙を喜びに変えるために精進したことを思い出しながら、その絵の中の陽光の一瞬をいつまでも眺めていたいのです。

| | コメント (0)

2007年2月10日 (土)

ケネス・クラーク『風景画論』(1)

 「人間精神が最も輝かしく燃えていた時代には、それ自身が目的である風景画は独立して存在せず、そんなものは考えられもしなかった」とケネス・クラークは『風景画論』(2007ちくま学芸文庫・佐々木英也訳)で書いています。風景画が支配的になるのは19世紀になってからで、自然の忠実な模写たらんとした絵画は愛好家のみならず普通の人々が競って求めるところとなりました。前景に小川が流れ、その水が輝かな空を映し、それを暗い木立が引き立てる、といった情景は、かつて裸体の競技者や両掌を合わせた聖女が美しいとされたように、今や誰からも美しいと認められるようになりました。
 19世紀の初頭に数多く出た二流の風景画家たちから屹立して現在もなお愛されているのはジョン・コンスタブル(1776~1837)です。彼の成功の理由は、まず彼がクロード・ロラン、ヤーコプ・フォン・ライスダール、トマス・ゲインズボロなどヨーロッパ風景画の伝統を(独学で)身につけていたこと、そして彼が「自然のキアロスクーロ(明暗)」と呼んでいたものを非常に重要視していたことです。これは光のきらめきを意味します。「露、そよ風、咲き始めた花、そのひとつとしてどんな画家もこれまで完全にカンヴァスに移し得たものはいない」と彼は書きました。このために彼が工夫した技法である筆触分割法(スーラの点描法の原型となった)とかパレットナイフで純白を軽く画面に打つ方法は、フランスの絵画に決定的な影響を及ぼしました。
 しかし、コンスタブルの最大の特長は、光と影のドラマによる自然の統一的感覚を維持し続けたことです。イタリアにしか描くべき風景はない、と言ったゲインズボロと反対に、コンスタブルは、自分はどんな生垣の下からも芸術を生み出せる、と語っています。彼は、故郷のサフォーク州イースト・バーゴルトの自然を愛し、そこを流れるストゥーア川、父の製粉所のあったデダムの谷を繰り返し描き続けました。魂はそこでしか情熱を見出せず、人の心を揺り動かすドラマはそこでしか描かれないと確信していたのです。「水車の堰から流れる水の音、柳の木々、錆びた古い板、ぬらぬらした杭、レンガ造りの壁、こうしたものを私は愛する」と彼は書いています。
 彼はあるがままの故郷を見、それをそのままの姿で愛しました。「生まれてこのかた私は醜いものを見なかった」という彼の言葉はあまりに有名です。彼は樹々をいつまでも見つめて飽きませんでした。他の画家にとっては樹木は樹木であり、彼らはしばしば同じ樹を複数の作品に描きます。ところがコンスタブルは樹の名をすべて知り、その一本一本が成長し、枯れるのを見、それを愛情をもって描写しました。『デダムの谷』の前景の大きく波打つトネリコの樹を思い出しましょう。トネリコは彼が最も愛した樹にほかなりません。ずっと後になって駅馬車で故郷の村を通り過ぎる時、「美しい眺めですね」と彼がつぶやくと、乗り合わせた紳士の一人が「デダムの谷、あのコンスタブルの田舎ですよ」と云いました。「私は、その場の雰囲気をこわさないように、そっと私がコンスタブルだと名乗ったのです」。
 自然は神の最も明白な啓示であり、敬虔な目でこれを見るならば、ある道徳的観念を人々に訴えうる、とコンスタブルは思っていました。自然主義が一つの信念によって、より高次の領域にまで高められるのです。しかし、とケネス・クラークは書いています。つねに新鮮さを失わず、自然な姿の客観的で明晰な把握を続けていくためには素朴で落ち着いた心が必要だ。だが、コンスタブルの心の落ち着きと平安は結婚から妻の死へのわずか10年しか続かなかった、と。 
 コンスタブルは24歳の時、13歳であったマリア・ビックネルと知り合いました。マリアの家は弁護士や牧師を出している地方の名家で、家柄を理由に彼との交際を厳しく禁じられてきました。製粉所の息子で全く売れない絵ばかり描いている青年に娘はやれなかったのです。二人は熱烈な文通を続け、ついにマリアが29歳になった時、彼女の父と祖父は観念して結婚を許したのです。その時、コンスタブルは40歳になっていましたが、未だ無名の地方画家にすぎませんでした。この幸福な結婚生活は10年間続き、その間に彼は『干草車』がフランスで激賞されるなど次々に傑作を生み出しました。だが、妻が結核で死に、幸福な時代が終わると、もはや自然への活き活きした感受性は永久に彼から失われました。「一時間ごとに私は死んでしまった私の天使のことを思い出す、、、私にとって世界は一変してしまったのだ」。辛い経験によって痛めつけられた心から生まれた彼の絵は、もはや自然の鏡であるよりはるかに苦悩の表現となり、ついにはゴッホの絵のようにのたうつ苦悶になり変わりました、、、。
 風景画はもっとも安易な絵画形式と考えられているが、とケネス・クラークは云っています。「実際にはもっとも険しいものであり、ごく稀にしか成功せず、またもっとも成功のおぼつかないものである」と。画面全体に光の被膜をみなぎらせ、統一感を失わず、感動をもって自らの真実の視覚的印象の表現に達することは極めて困難です。コンスタブルはリュウマチに苦しみながら、妻の死後なお10年生きましたが、1837年60歳で死に、再び開けられた妻の棺の中に共に寝かされました。イギリスはその後100年の間、コンスタブルの目で彼らの田舎を見てきました。「われわれがこの世界を見て歓びを覚えるのも、その多くはわれわれより前に歓びをもって世界を見た偉大な芸術家たちのおかげである」とクラークは書いています。


| | コメント (0)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »