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2007年1月16日 (火)

ジョルジュ・ロシャク『ルイ・ド・ブロイ』

 「20世紀物理学の貴公子」と副題されたジョルジュ・ロシャク『ルイ・ド・ブロイ』(宇田川博訳・国文社1995)はフランス本国でもめずらしいド・ブロイの評伝です。「ルイ・ド・ブロイは存命当時、大多数の物理学者に愛されなかった。しかも彼は相変わらず愛されていない」。それは幾分かは彼の性格にあります。いかなる科学者共同体にも加わらず、超然として、尊大にさえ思われていた彼の物腰、しかも彼は自らその評価に甘んじ、高慢に見えることに怖れを感じることもありませんでした。内気で、物思いに耽りがちだった彼は、他の人といると退屈し、あまり話もせず、ぼんやりとすること多く、大学やアカデミーの同僚とのつきあいも、礼儀正しくはあったが、よそよそしく、また彼をつつむオーラも彼とつきあう妨げとなっていました。しかし、幸運にも彼と近づきを持てた人間は、彼の思いやりの深さ、その愉快で人当たりのよい話しぶりに感嘆したのです。フランス有数の公爵家に生まれた彼は、しかしそんなことを無論鼻にかけたりせず、自分名義の専用便箋も作らず、公式の手紙には科学アカデミーのレター・ヘッドが入った便箋を、私的にはただ白い紙を使っていました。(炭坑労働者の息子だが貴族の娘と結婚するや紋章入りの便箋を使いはじめたD.H. ロレンスを思い出しましょう)
 ルイ・ド・ブロイは17世紀以来軍人や政治家を多く輩出したド・ブロイ家の末っ子として1892年に生まれました。ド・ブロイ家のパリの住居(パリ8区にありました)は常時14人の召使いが働いていて、18世紀の伝統と格式をそのまま保存していました。食事のときは祖母を筆頭に順番に整然と皆が食堂に入ってきます。子供は6歳になると家庭教師同伴で食事に参加することができました。料理は肉料理が中心の伝統的にぜいたくで重いもので、肉は主に領地の狩猟場から獲られた野禽が使われたそうです。毎年の避暑には何両も続く特別列車を仕立て、パリ暮らしの快適さをそのまま田舎に持ち込みました。
 日常生活のほとんどすべてのこと、服を着けたり、髪をとかしたりさえも召使いまかせだったので、ド・ブロイ家の人々には召使いに依存しているという意識が生まれ、とくにルイ・ド・ブロイは生涯その意識から抜け出られませんでした。彼ひとりでは湯を流すことも、身づくろいすることも、机の上の灯を消すことさえできませんでした。奇妙なことに、ずっと後になって彼がアンリ・ポアンカレ研究所にいたとき、他の教師たちは誰もしないのに彼だけは授業の後黒板をていねいに拭いて帰りました。終わった後の黒板は拭かれなければならず、誰もそれをしてくれないのなら自分がするしかないのでした。
 14歳の時、リセ・ジャンソン=ド・サーイに入学し、はじめて銀行家や実業家の子供たちと知り合いになりました。物理と文学が得意で、数学と化学は普通でしたが、読書はとくに歴史関係を好みました。17歳になって希望通りソルボンヌの歴史学科中世史専攻に入学します。しかし、兄のモーリスの影響もあり(モーリス・ド・ブロイはルイより17歳年長のすでに著名な実験物理学者でした)二年次に理科に移りました。彼はとりわけ力学をアッペルとポアンカレのもとで、光学をドルーデの著作で学びました。彼らの著作について熟孝しているとき、突然光学と力学の総合(相対論と量子論による)という考えがド・ブロイの頭に浮かびました。この考えは10年余り後に実を結ぶことになります。
 1900年、マックス・プランクによる E= hv (h はプランクの有名な普遍常数、 v は振動数)という公式の発表以来、古典物理学は量子という「不連続なまとまり」をその難題の中心に抱えていました。この物理学界の混乱を整理すべく、炭酸ナトリウムの工業的製法であるソルヴェー法で財を成したエルネスト・ソルヴェーによる財政援助で第一回ソルヴェー会議がブリュッセルで開かれました。そして、この会議が19歳のド・ブロイの運命を決定したのです。この会議の参加者は議長のローレンツを始め、マリー・キュリー、ラザフォード、アインシュタイン、ポアンカレ、ゾンマーフェルト等々という錚々たる顔ぶれで、主役はもちろんマックス・プランクでした。そして、この会議の討議録を編集した一人が兄のモーリス・ド・ブロイだったのです。ルイ・ド・ブロイは出版前にこの400頁をこえる討議録に目をとおし、深い感動に襲われました。血気にはやる青年がこの物理学という闘いの場に自分も参加したいと思って何が不思議だったでしょうか!
 ド・ブロイは自分の人生を全く変えました。友人とのおしゃべりに時間を費やすことをやめ、得意だったチェスやブリッジも一切あきらめ、人が信仰の道に入るように科学に身を捧げることを誓いました。結婚や社交は精神集中の妨げになるからと名門の娘と取り決められた婚約も破棄しました。後に、親友のアンドレ・ジョルジュが、彼を「裏切って」結婚したとき、ド・ブロイはその祝いの手紙に「もうゼミナールで会えなくなるのは残念だ」と書き送りました。結婚すればもう自由はないものと思っていたのです。
 ソルボンヌを出ると、兄モーリスの研究所にこもり、孤独な研究を続けますが、1914年に第一次大戦が勃発し、彼も工兵として出征します。その科学知識をかわれ、無線連絡の中枢を担うエッフェル塔の電信係に配属されますが、このことは彼にはじめて「人生」を教えたようです。ド・ブロイは、エッフェル塔の持ち場でさまざまな人間に出会い、社会的視野を広げ、軍隊の醜い部分も知り、また生涯にわたる友情も培いました。彼はこのときの同僚とずっと後まで文通を続けましたが、1929年末にその一人からきた便りを彼は生涯たいせつに持っていました。

  親愛なるルイ
 きみはきっと相変わらずいたずら好きなんだろうね。
 でも、今度のいたずらは最高だ、ノーベル賞だなんて、、、

 戦争が終わると、6年間のブランクを取り戻すべく、ド・ブロイは研究に埋没しました。彼の狙いはプランクの法則とアインシュタインの法則を関連づけることで、その思索の過程で、光が粒子でありまた波動であるように、物質もまた粒子であるとともに波動でもあるという名高いアイデアが生まれてきたのです。彼は1923年、つぎのように書きました。

 「しかも、どのようなひとつの運動体でも、ある場合には回折を起こすことがありうるだろう。かなり小さな開口部を通る大量の電子が、回折現象を呈することもあるだろう。おそらくこの方面でこそ、われわれの着想を確証しようと努めるべきだろう」

 この予言が実験的に検証されたとき、以上の数行のために彼にノーベル賞が与えられました。回折とは、障害物をよけて通ることで、壁を隔てて二人の人間が会話できるのは音の回折であり、太陽光にシャープペンシルの芯をあてると、周縁のぼやけた影ができるのは光の回折です。ド・ブロイの物質波は、微小な電子ばかりでなく、小石やオレンジやネズミにも適用可能であるがゆえに人間の世界観の根底を揺るがすものだったのです。アインシュタインの友人である著名な物理学者エーレンフェストはアインシュタインに「もし、ド・ブロイの言っていることが本当なら、私は物理学を何も理解していないわけだ」と言った時、アインシュタインは「とんでもない、きみは物理学をよく理解しているよ。きみが理解していないのは天才なのだ」と答えました。
 しかし、この理論の実験による確証は難しく、それが次々と物理学者たちによって実現していったのはアインシュタインによる推奨があったからでした。ド・ブロイは終生その恩を忘れませんでしたが、アインシュタイン自身も、かつて、まったく誰も耳を貸そうとしない浮浪者同然の境遇にあったとき、マックス・プランクがその相対論の出版をすすめてくれたおかげで名声を得ることができたのでした。

 ルイ・ド・ブロイは、1928年に最愛の母を失いました。母親は期待をよせていた息子に裏切られたと思い、彼の科学界での栄光を見ずに死んでいったのです。ド・ブロイは、母の死を契機に、一族の生活ときっぱり訣別し、パリの外れのヌーイに普通の家を買い、気に入りの召使いだけを伴った簡素な生活を始めました。数十平方メートルしかないその庭にはギリシアの神像やルネサンス様式の階段などなく、貴族の館を連想させるものは何もありません。彼はそこから地下鉄に乗って勤めている大学に通っていたのです。彼がソルボンヌの教授になったとき、親族の一人は「ついに役人に成り下がったか」と軽蔑的な口調で言ったそうです。
 1929年度のノーベル物理学賞は、プランク、アインシュタイン、ボーアという偉大な先達に続き、ド・ブロイに与えられました。しかし、この頃から、彼は長い沈滞の時期に入るのです。時代は、ハイゼンベルクの不確定性原理が支配しており、ド・ブロイは本国フランスでも量子論の傍流として見られていたのです。アインシュタインやド・ブロイの明晰な自然の描像を得ようとする意志(自然現象の奥に何か法則を求めていく)とは反対に、ハイゼンベルクは自然を概念の体系として、冷たい代数計算に従う非決定論の世界と捉えました。ここには当時ドイツを覆っていたニヒリズムと独裁主義の影響があるのでしょう。
 1960年、兄モーリスが85歳で亡くなり、ルイは公爵の称号を引き継ぎました(爵位は長男のみ引き継ぎます)。68歳で彼は prince (王子)から Duke (公爵)になったのです。70歳のときに科学アカデミーの中にゼミナールを開講しました。95歳で死ぬ定めの人間にとって70歳は若年です。彼は毎朝、パレ・ロワイヤル広場で地下鉄を降りると、ルーブル宮を抜け、ポン・デ・ザールを渡ってセーヌ川を越えます。フランス学士院に続くそのあたりは、57階のモンパルナス・タワーが建てられる前は世界で最も美しい都市風景のひとつでした。ド・ブロイはゼミナールで指導しながら、微視物理学・波動力学に関する30を越える学術論文を書き上げました。彼は13年それを続けたとき、ある日アカデミーの中庭で転び、しばらく起き上がれませんでした。誰も見ていなかったのに彼はそれを恥じ、その日からアカデミーの終身書記を含む一切の公的な職務から離れ、自宅に隠棲することを決意しました。しかし、ド・ブロイにはまだ12年の歳月が残されていたのです。彼は若い日の趣味に、あの安楽な世界へ立ちもどったのでしょうか。いや、彼のような人間が一秒であれ無駄な生活をすることなどありえません。偉大な人間の生涯はおしなべてシンプルです。「誘惑することのできなかった者の足許に世界はひれ伏す」とアミエルは『日記』に書いています。ド・ブロイはもっぱら自宅の質素な机の上で物理学の研究に打ち込んでいました。しかし、ついに計算力が衰え、昨日のことよりも遠い昔のことが鮮明に思い出されるようになって彼は人生のボートを降りる覚悟をしたのです。90歳で入院し腸閉塞と腎臓病の手術をしたとき、3人の看護婦が昼夜交代で彼の世話をしました。彼は病床でも、いつものように丁寧な態度と格調ある話し方を維持していました。ヴァカンスに出る看護婦が代わりの看護士に彼を紹介しながら「ご存知でしょ、ド・ブロイさんは大学者なのよ」と言うと彼は手を上げて遮り、「むしろ大学者だった、と言ってください。もう私はありきたりの老人でしかありません」と言うのでした。最期はパリのルヴシンヌの個人病院で1987年3月19日の朝95歳で死を迎えました。葬儀は遺言通り「紋章も演説もなく」つまり貴族の儀式もアカデミーの演説もなく簡略に執り行われました。
 

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コメント

科学者というのは、どこまでストイックなのでしょう。
アンシュタインの誕生日なので、色々読んでいてルイ・ド・ブロイにたどり着きました。
彼の追及していた物を、私には到底理解する事はできませんが。修行僧のような彼の生き方の中で、彼が満たされていたことを祈らずにはおれません。

投稿: 諸月 Toshi | 2015年3月14日 (土) 16時10分

諸月toshiさん、コメントありがとうございます。
天才の考えもその生き方も、私のような凡庸な人間には理解不能のところがあります。しかし、たぶん幸せだったろうとは思えます。知的興味というのは実に根強いことがあるからで、それが難解であればあるほど不思議な幸福を呼び覚ますのではないでしょうか。偉そうな言い方ですみません。それでは。

投稿: Saiki | 2015年3月15日 (日) 18時28分

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