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2007年1月31日 (水)

ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』

 子供のいない30歳のマルガリータ・ニコラーエヴナはアルバータ通りに近い瀟洒な邸宅で何不自由ない生活をしていました。夫は科学界の若き権威で、美男で誠実な好人物、しかも妻を熱愛していました。マルガリータは19歳で結婚してから、気に入ったものなら何でも買うことができ、日常生活の煩わしさはすべて召使いに任せて、自由で気ままな生活を送ることができたのです。1930年代のモスクワで、石油コンロに一度も触れたことがなく、共同住宅の辛酸をなめることもない生活とはどれほど恵まれたものだったでしょうか! ところが、マルガリータは幸せではなかった、、、結婚して以来一度も幸せを感じたことはなかったのです。なぜか?その理由は誰にも、彼女自身にもわかりませんでした。ただ、何か名状しがたい炎が彼女の中でたえず燃えていたのです。
 ある日、マルガリータはトヴェルスカヤ通りで、後に彼女が「巨匠」と呼ぶ男と出会いました。彼は独身で、地下室に閉じこもって小説を書いているのですが、たまたま安レストランで食事しようと外出して彼女を見かけたのです。黒いドレスに黄色い花を持ち、異様な孤独の影を抱いたマルガリータに彼は魅了されました。二人はたちまち恋の虜になりました。毎日、巨匠の地下室を訪れるようになったマルガリータは、部屋に入るとまずエプロンをつけ、石油コンロに火をつけて食事の支度を始めます。小説の執筆に疲れた巨匠と二人で焦げたジャガイモの皮をむきながら食べるのです。二人にとって何と幸せな時だったでしょう! マルガリータは書きかけの巨匠の小説を熱心に読み、必ず評判になると太鼓判を押し、作品の完成へと巨匠をせきたてました。彼女はその小説を歌うように大きな声で読み、繰り返し暗記するほど熟読して、この小説こそ私の生きがいだと言うのでした。
 小説はついに脱稿し、巨匠はそれを抱えて文壇にデビューすることになりました。しかし、教条主義的で官僚的なモスクワ文芸協会はその小説を受け入れず、何人もの批評家が雑誌で酷評しました。マルガリータは涙をぼろぼろ流して、酷評したその雑誌を引き裂きました。巨匠は文壇の冷たい仕打ちに絶望して、塞ぎ込むようになり、果ては幻覚やいわれない恐怖に襲われるようになりました。自分は気が狂っていくのだという自覚がさらに彼を絶望させ、マルガリータをこの暗い生活に巻き込まぬようにとの思いから、彼女のいないときに、原稿を燃やし、一人で精神病院に入院してしまうのです。
 巨匠が姿を消したのを知ったときのマルガリータの失意の気持ちはどんなだったかでしょうか。彼女は、燃え残された原稿を大事に抱えて、もとの自分の家に戻り、自分を責め、世間を呪いながら、巨匠の行方を心配して毎日やせ細る思いでした。ある日、きっと何かが起こるに違いないと思って外出すると、クレムリンの城壁の下のベンチで赤毛の男が彼女に話しかけてきたのです。
 「マルガリータ・ニコラーエヴナ」とその男は彼女の名前を知っていました。アゼロラと名乗ったその男は、実は、悪魔の首領ヴォランドの手下で、今、首領と四人の手下でモスクワに滞在しているのだが、年一回催される悪魔の大舞踏会のために女主人役を探しており、マルガリータという名前で当地の女性という条件を満たす百人余りの女性から彼女が選ばれた、と言うのです。彼女は、むろん驚くのですが、同時に巨匠を見つけ出す助けになってもらえるのなら何でもしようと、その申し出を承諾します。
 大舞踏会が始まりました。薄いドレスに包まれてマルガリータは舞踏会の入り口で招待客を笑顔で迎えなければなりません。客は、王妃を毒殺した男、絞首刑になった魔術師など冥界からよみがえった歴史上名だたる極悪な犯罪者たちです。次から次へとやってくる招待客の手を握り、接吻を受け、マルガリータは立っているのさえ辛くなってきました。大勢の招待客の中で覚えているのはフリーダという若い女性のみ、彼女はカフェで働いているときに店の主人に乱暴され妊娠してしまうのですが、生まれたばかりの子を森の中で、その口にハンカチを詰めて殺してしまったのです。冥界で彼女の受けた罰は、目覚めたときに永遠にハンカチが枕元においてあるという残酷なものでした。「私はフリーダと申します、女王様!」と彼女はマルガリータを哀願に満ちた顔で見つめました。
 長い長い舞踏会が終わって、やっとマルガリータは解放され、5人の悪魔とともに打ち上げの食事をしていました。彼女はくたくたに疲れていたが、笑顔を絶やさず、気のいい悪魔たちと楽しく話します。でも、いつまでたってもお礼の話は出ないので、諦めて帰ろうとします。
 「そろそろおいとましなければ、もう遅いですから、、、」
 「もっと、ゆっくりされてもよろしいのでは?」と慇懃に素っ気なくヴォランドが聞きました。他の悪魔たちも知らんふりをしています。
 「いえ、そろそろ。ありがとうございます、閣下」とマルガリータは言いました。舞踏会であれほど尽力したのに、褒美は誰もくれそうもなく、誰も彼女を引き留める者はいないので、彼女はやるせなく寂しい気持ちになりました。「ご機嫌よう、閣下」と口では言ったものの、心の中では《ここを抜け出したら河まで歩いて身投げしよう》と思っていました。
 「もしかしたら、お別れに何か言い残しておきたいことでも?」とヴォランドが聞くと、「いいえ、何もございません」とマルガリータは誇り高く答えました。「ただ、一言、言わせて頂くなら、私がまだお役にたてるようでしたら、なんなりと喜んでいたします。私はちっとも疲れていませんし、舞踏会はとても楽しいものでした」そう云ったマルガリータの目に涙があふれそうになりました。
 「よくぞ、言ってくれた!」とヴォランドが叫びました。「我々はあなたを試してみたのですよ。決して何も他人(ひと)に頼んだりしてはいけません。決して何も、とりわけ自分よりも強い相手には。そうなれば、おのずと相手のほうから手を差し伸べ、相手からすべてを与えてくれることになるのです! 坐りなさい、誇り高い女よ!」そう云うとヴォランドは彼女を坐らせました。「今日、女主人役を務めたお礼として何を所望したい? 舞踏会の間ずっと裸で絞刑者たちに挨拶していた褒美に何をお望みかな? 今はもう遠慮せずに言いなさい、こちらから申し出ているのだから」
 「それでは、ひとつだけ願い事ができるのですね?」
 「ひとつだけ。さあ、願い事を言ってみなさい!」
 「願い事というのは」とマルガリータは再び溜め息をついて答えました。「フリーダの枕元に、彼女が自分の赤ん坊を窒息させたあのハンカチを置かないようにして頂くことです」
 「それは、無理だ」とヴォランドは言いました。「私にはできない。あなたが、やりなさい。ほら、フリーダですよ」そう言うと、ドアが開いて髪を振り乱したフリーダが部屋に入ってきました。「フリーダ!」とマルガリータは叫びました。フリーダはマルガリータに両手を差し伸べたが、マルガリータは厳かに彼女に言いました。
 「お前は許される。もう枕元にハンカチが置かれることはない」。それを聞くとフリーダはわっと泣き出して床に倒れふしました。ヴォランドが片手を振ると、彼女は視界から消えていきました。
 「ありがとうございます、それでは」とマルガリータが立ち去ろうとすると、ヴォランドは彼女を止めて、「今の願い事はなかったことにする、私は何もしなかったのだし。、、、それでは自分のために何を所望します?」
 「今すぐ、私の恋人の巨匠を返して頂きたいのです」とマルガリータは引きつった声で叫びました。その時、一陣の風が吹きこみ、月の明かりが部屋を照らすと、そこに病院服とスリッパをはいた巨匠が現れました。「あなた、、、あなた、、」とマルガリータは抑えていた涙をどっと流して巨匠を抱きしめました。
 やつれ果てていた巨匠は悪魔の葡萄酒のおかげで何とか健康を回復しました。
 「ところで、あなたはどんな小説を書いたのですか?」と、落ち着いたあとでヴォランドは訊ねました。
 「ポンティオ・ピラトについての小説です」巨匠がそう云うと、ヴォランドは笑い出しました。「その小説を見せて頂けませんか?」「もう、ありません。暖炉で焼いてしまったものですから、、」「失礼ですが、信じられませんね」とヴォランドは言いました。「原稿は決して燃えません」そして、すぐ横から原稿の厚い束を取り出しました。

 「原稿は決して燃えない」というのが、この物語の中の最も有名な言葉です。ミハイル・ブルガーコフ(1891~1940)はスターリン治下の最悪の時代に、腎硬化症の苦しみに耐えながら、晩年の10年間をこの小説に捧げました。発表はむろん望むべくもなく、しかし、いつかは小説が日の目を見ることを信じて48歳で亡くなりました。残された妻(マルガリータは彼女がモデルになっています)はその原稿を秘匿し、ついに26年後の1966年に刊行されるや、直ちに20世紀を代表する傑作の一つと呼ばれることになったのです。
 『巨匠とマルガリータ』(2006郁朋社・中田恭訳)は、権力と個人、愛と永遠、神と世界の壮大な構図を描きながら、その破天荒なファンタジーの姿を借りて、しかし、圧倒的な透明さが全編を覆います。エルサレムを舞台にした巨匠の小説はモスクワを舞台にした本編の間に挟まり、最後にイエス・キリストによって読まれ、巨匠とマルガリータには永遠の幸福が約束されます。現実のみじめさに比べ、ヴォランドたち悪魔の仲間のなんと楽しいことでしょう。マルガリータの愛の何と強烈なことでしょう。人生のトランプは何とよく切られていることでしょう!
 

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2007年1月24日 (水)

S.H. ブチャー『ギリシア精神の様相』

 S.H. ブチャー(1850~1910)の『ギリシア精神の様相』(田中秀央・和辻哲郎・寿岳文章訳、岩波文庫1940)は『オデュッセイア』の英訳者である著者がギリシア精神の諸様相について簡潔に叙述した好著です。その中で、とりわけ印象鮮烈な、そして私自身の好みでもある「ギリシア人の憂鬱」の章を紹介しましょう。
 「ひとつの特異な、生まれつきの憂愁の素質が、ギリシア人の気質のうちにある」とブチャーは書いています。まずアキレウス、彼の早逝こそ『イーリアス』の主題なのですが、彼は母親テティスから二つの運命のいずれかを選べることを知らされます。トロイアの地にとどまって名誉のうちに死ぬか、それとも故郷で安穏と長生きするか、、、アキレウスのような人間が後者を選ぶわけがなく、物語の始まる前にすでになされていた選択は、彼の言行のすべてに忘れがたい哀感を添えるのです。しかも不平を洩らす嘆きのどんな言葉も彼の口から出ることはありません。一行の言葉がこの男の魂を総括します。「死んだとき俺は低く横たわるだろう、が今は高い名を得たい」。言葉の話せる馬クサントゥスが彼に予告された日の近いことを告げると、「クサントゥス、なぜおまえは俺の死を予言するのだ、そんなことはおまえの役ではない。自分で俺はよく知っているのだ、懐かしい父と母から遠く離れてここで死ぬことを」と語ります。そして『イーリアス』第24巻、老王プリアモスが息子へクトールの遺骸を乞いにアキレウスの幕舎を訪れる最後の場面で、アキレウスは息子を失った老王の悲しみと、彼が仕えることのできない遠い地にいる老父ペーレウスのことを思って涙を流します。この瞬間、アキレウスは彼個人の悲しみを超えて、人の世の哀しみの高みに昇ります。彼はプリアモスの手をやさしく握り、「心を凍らす悲しみに暮れたとてどうなりましょう。神々は哀れな人間どもに苦しみつつ生きるよう運命の糸を紡がれたのです」と慰めるのです。

 ホメーロスが英雄時代の最後の詩人なら、ヘーシオドスは鉄の時代の最初の詩人です。人生の全光景は云うすべもなく悲惨であり、詩人はその最悪の時代に生まれ合わせました。人間はみじめだが、しかし宇宙はなお彼にとっては道徳的に統治されているのです。神々への不満の言葉は露ほどもありません。人間は神々の前に頭をたれ日々の仕事にいそしむべきであり、それが彼に相応の尊厳を与えるのです。遺産を不当な仕方で強奪した実の弟ペルセースに向って彼は語ります、「愚か者よ、おまえは知らないのだ、半分が全部よりどれほど多いかということを」。この有名な言葉はヘラクレイトスの「人間にとっては、その欲するすべての事を獲るのはよろしくない」という教えと一致します。

 前七世紀中頃の詩人ミムレルモスの歌には、ホメーロスやヘーシオドスの高邁な調子はなく、すでに近代の憂鬱を思わせるものがある、とブチャーは書いています。その憂鬱は快楽主義者の抱く悲しみです。ミムレルモスは、夢のように過ぎ去る青春のはかない楽しみを歌い、愛なく悦びなく「子供らには忌まわしく、女たちには嘲られる」老年を嘆きます。その語調は反省的な諦めのそれであり、その寂しい結論は、人間の智慧は現前の快楽を素早く捉えることにある、という言葉につきています。「黒い宿命が側に立っている、一つは悲しい齢の定め、他は死の定めを以て、そしてただ僅かの間青春の果実が続く、、、しかし、ひとたび青春の定められた時が過ぎれば、むしろ直ちに死ぬことが生きるよりも優っている」。
 ほぼ一世紀後に生きたテオグニスにとって人生はミムネルモスのようには滑らかに行きませんでした。彼はメガラの政治的争闘に加わり、追放され、身代を失い、友人に捨てられ、悲しみの淵に沈みました。精神は発言の自由を奪われ、うちのめされて貧窮の奴隷になるのがどんなことであるかを彼は知っています。正しい者がなぜ苦しむのか。「悪人は栄えて苦しみは受けぬのに、卑しい行いに魂を汚さぬ人々は、たとえ正義を愛しても、彼らの分け前として貧窮を受ける。途方に暮れる気持ちを産み出す貧窮、それは人の心を罪過に誘い、残酷な余儀なさによって胸中の理性を害う」。ここにはヘーシオドスの敬虔さは微塵もありません。正しい者の苦しみと不正な者の栄えとを見る人がどうして神々を尊敬できるでしょうか。テオグニスの絶望はギリシア文学に長く残る有名な次の詩句、ソポクレースやエウリピデースによって反芻された詩句でその頂上に達します。「人の子にとっては生まれないこと、烈しい日の光を見ないことが万事にまさってよいことである。しかし、もし生まれればできるだけ早くハディスの門を過ぎ、厚い大地の衣の下に横たわるに若くはない」
 テオグニスはギリシア人が厭世主義者であるその限界まで行きました。それを押しとどめたのはギリシア人中のギリシア人、自身高貴な生まれであり、オリンピアの祝勝歌の詩人、ピンダロスです。「人間は影の夢」である、とピンダロスは言いました。人間、無用の一物、は倦怠も病気も老年もない神々の血筋ではありません。しかし、人間は脆くともまた弱くとも、彼から出て闇に輝く光を持っています。「むろん人間は輝ける天へは登るまい」だが、彼は神々に似たものをもっており、それは青春、美、歌によって不滅にされた美しい行いに他なりません。「希望は醒めた人の夢である」と、ピンダロスは書きました。ギリシア世界で最も人気のあった詩人シモーニデスは、もっとわかりやすく、「達し難いものを得ようとする空しい努力に於いて人間を支持するものは希望であるが、その間に老年や病気や死が彼に追いつく」と言っています。

 ここに歴史が登場してきます。前620年から520年のただ一世紀の間に五つの大帝国ーアッシリア、メディア、バビロニア、リュディア、エジプトーが劇的に印象深く過ぎ去っていきました。ギリシアでも僣主政治の興亡があり、今日の専制君主は明日は亡命者になる時代でした。「人間が安全だと空想したものは彼の破滅への序曲である」。ヘロドトスは事件の自然的原因の背後を眺め、そこに神の手、ネメシス(復讐の女神)の法則を見出します。人生には必ず番狂わせがある、というのが彼の信念です。『歴史』に記されたソロンの挿話を思い出しましょう。七賢人の一人ソロンはアテナイでの法律制定を終えた後、諸国歴訪の旅の途中で王国リュディアを訪れます。壮大な権勢を誇るリュディア王クロイソスは賢者ソロンに、最も幸福な人間は誰かと尋ねます。自分の名が出ると思いきや、ソロンが挙げたのはアテナイの普通の庶民、多くの子を育て、国のために戦死したテロスという男でした。それでは、二番目は、と問うと、名前の出たのはアルゴス生まれの双子の兄弟、病気の母を車にのせて参詣に連れていき、その宮で死んだクレオビスとビトンでした。不服を感じたクロイソスにソロンはつぎのように語ります。

 「クロイソス王よ、あなたは私に人間の運命についてお訊ねでございますが、私は神と申すものが妬み深く、人間を困らすことのお好きなのをよく承知いたしております。人間は長い期間の間には、いろいろと見たくないものも見ねばならず、あいたくないものにもあわねばなりません。人間の一生をかりに70年といたしますと、、、70年間の合計26250日のうち、一日のうちまったく同じことが起こるということはございません。さればクロイソス王よ、人間の生涯はすべてこれ偶然なのでございます。、、、どれほど富裕な者でも結構ずくめで一生を終える運に恵まれぬ限り、その日暮らしの者より幸福な者であるとは決して申せません。、、、こと欠くものが少なく、そして結構な死に方をした者が、王よ、さような人こそ幸福の名をもってよばれてしかるべきと思われます。神様に幸福を垣間みさせてもらった末、一転して奈落に突き落とされた人間はいくらでもいるのでございますから」巻一(松平千秋訳)

 栄華を誇ったクロイソスはその後、ペルシアのキュロス王の軍に捕えられ、巨大な薪の山の上に縛り付けられます。彼は、今まさに火あぶりになろうとするそのときにソロンの言葉「人間は生きているかぎり、なんびとも幸福ではない」という言葉を思い出すのです。この挿話の要点は、幸福な人間とは誰か、ではなく、人は最後のページで人生の真理に目覚めるということなのです。人間は彼自身の真の幸福を知らない。彼の破滅と見えるものが彼の救いであるかも知れぬ。廃王クロイソスは栄華の時には彼に隠されていた智慧を薪の上ではじめて学び、オディプスはスフィンクスの謎を解いた時ではなく、盲目のさすらい人になったときにはじめて人の世の真理を知るのです。

 最後に来るのはエウリーピデスです。生来の女嫌い、陰鬱で気難しく、しかしやさしい心を持った悲劇作家、彼エウリーピデスもまた世界の不都合、人間の無量の苦しみについて考えました。しかし、彼には彼以前の悲劇作者のような宗教的慰めはありません。彼はこう結論します。あわれな人間の生活は、全然運がよくもなければ、全然運がないわけでもない。幸福であり、またやがて不幸である。それは光と闇の交錯であり、季節の如き移り変わり、そして過去の幸福には未来の保証はない。しかも人間は苦しみながら、なお人生を愛する。明日の一日を渇望する。知らざる死に面するよりも、むしろ彼らの知る苦しみを忍ぶことを喜ぶ、と。

 「おお、生を愛する人間よ、無量の苦しみの重荷を担いつつも来るべき日を見んと渇望する人間よ。かくも生の愛は人間の内に横たわる。何となれば我々は生くることは知れども、死ぬることの無経験のために、すべての人はこの日光を去ることを恐るる故に」

 ギリシア人の憂鬱についてのブチャーの結論を紹介しましょう。「天才は憂鬱な気質の人である、というアリストテレスの言葉が本当なら」とブチャーは書いています。「最も高い天分にめぐまれたこの古代の民族が、そうした感情の一脈をそなえていたことは極めて自然である」。しかし、彼らの憂鬱は近代人のそれとは違っています。ギリシア人は憂鬱を見せびらかしたりはしません。その憂鬱は荘重な内気な哀感、心に沁みわたってくる悲哀であり、そこには弱さや女々しい自己陶酔の痕はありません。現世の慰安も未来への希望もないのに、彼はその苛酷な宿命に面し、偉大な思想と行為とによって運命を征服しようとさえします。「近代の世界では、限りなきあこがれと限られた力との間の相克が高い努力を麻痺させがちである。古典的なギリシアの古代に於ては、人間のか弱さの感じが彼の意志の力を高める。哀感と荘厳とはしばしば相隣するのだ」
 『イーリアス』に戻りましょう。ギリシア側の防壁を崩そうとするトロイアの将軍サルペドーンは僚友グラウコスに励ましの言葉をかけます。

 「ああ、友よ、ひとたびこの戦いより遁れたとき、我々が永久に老いず死なずに生き得るなら、おれは陣の先頭で戦いもしなければ、また人を高名にする戦いにお身を送り出しもしないだろう。しかし今はー何故なら確かに千もの死の運命が周囲より我々を囲み、そして誰も遁れさけることはできぬのだからー今はさあ進もう、他の人々に我々が光栄を与えるか、我々に他の人が与えるか」

 千の死の運命に囲まれ(les demons du trepas nous guettent par milliiers,,,)ながらも、人間の暗い運命はここではまさに英雄的行為へと人を振るい立たせる動機そのものとなっているのです。
 

  
 
 

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2007年1月16日 (火)

ジョルジュ・ロシャク『ルイ・ド・ブロイ』

 「20世紀物理学の貴公子」と副題されたジョルジュ・ロシャク『ルイ・ド・ブロイ』(宇田川博訳・国文社1995)はフランス本国でもめずらしいド・ブロイの評伝です。「ルイ・ド・ブロイは存命当時、大多数の物理学者に愛されなかった。しかも彼は相変わらず愛されていない」。それは幾分かは彼の性格にあります。いかなる科学者共同体にも加わらず、超然として、尊大にさえ思われていた彼の物腰、しかも彼は自らその評価に甘んじ、高慢に見えることに怖れを感じることもありませんでした。内気で、物思いに耽りがちだった彼は、他の人といると退屈し、あまり話もせず、ぼんやりとすること多く、大学やアカデミーの同僚とのつきあいも、礼儀正しくはあったが、よそよそしく、また彼をつつむオーラも彼とつきあう妨げとなっていました。しかし、幸運にも彼と近づきを持てた人間は、彼の思いやりの深さ、その愉快で人当たりのよい話しぶりに感嘆したのです。フランス有数の公爵家に生まれた彼は、しかしそんなことを無論鼻にかけたりせず、自分名義の専用便箋も作らず、公式の手紙には科学アカデミーのレター・ヘッドが入った便箋を、私的にはただ白い紙を使っていました。(炭坑労働者の息子だが貴族の娘と結婚するや紋章入りの便箋を使いはじめたD.H. ロレンスを思い出しましょう)
 ルイ・ド・ブロイは17世紀以来軍人や政治家を多く輩出したド・ブロイ家の末っ子として1892年に生まれました。ド・ブロイ家のパリの住居(パリ8区にありました)は常時14人の召使いが働いていて、18世紀の伝統と格式をそのまま保存していました。食事のときは祖母を筆頭に順番に整然と皆が食堂に入ってきます。子供は6歳になると家庭教師同伴で食事に参加することができました。料理は肉料理が中心の伝統的にぜいたくで重いもので、肉は主に領地の狩猟場から獲られた野禽が使われたそうです。毎年の避暑には何両も続く特別列車を仕立て、パリ暮らしの快適さをそのまま田舎に持ち込みました。
 日常生活のほとんどすべてのこと、服を着けたり、髪をとかしたりさえも召使いまかせだったので、ド・ブロイ家の人々には召使いに依存しているという意識が生まれ、とくにルイ・ド・ブロイは生涯その意識から抜け出られませんでした。彼ひとりでは湯を流すことも、身づくろいすることも、机の上の灯を消すことさえできませんでした。奇妙なことに、ずっと後になって彼がアンリ・ポアンカレ研究所にいたとき、他の教師たちは誰もしないのに彼だけは授業の後黒板をていねいに拭いて帰りました。終わった後の黒板は拭かれなければならず、誰もそれをしてくれないのなら自分がするしかないのでした。
 14歳の時、リセ・ジャンソン=ド・サーイに入学し、はじめて銀行家や実業家の子供たちと知り合いになりました。物理と文学が得意で、数学と化学は普通でしたが、読書はとくに歴史関係を好みました。17歳になって希望通りソルボンヌの歴史学科中世史専攻に入学します。しかし、兄のモーリスの影響もあり(モーリス・ド・ブロイはルイより17歳年長のすでに著名な実験物理学者でした)二年次に理科に移りました。彼はとりわけ力学をアッペルとポアンカレのもとで、光学をドルーデの著作で学びました。彼らの著作について熟孝しているとき、突然光学と力学の総合(相対論と量子論による)という考えがド・ブロイの頭に浮かびました。この考えは10年余り後に実を結ぶことになります。
 1900年、マックス・プランクによる E= hv (h はプランクの有名な普遍常数、 v は振動数)という公式の発表以来、古典物理学は量子という「不連続なまとまり」をその難題の中心に抱えていました。この物理学界の混乱を整理すべく、炭酸ナトリウムの工業的製法であるソルヴェー法で財を成したエルネスト・ソルヴェーによる財政援助で第一回ソルヴェー会議がブリュッセルで開かれました。そして、この会議が19歳のド・ブロイの運命を決定したのです。この会議の参加者は議長のローレンツを始め、マリー・キュリー、ラザフォード、アインシュタイン、ポアンカレ、ゾンマーフェルト等々という錚々たる顔ぶれで、主役はもちろんマックス・プランクでした。そして、この会議の討議録を編集した一人が兄のモーリス・ド・ブロイだったのです。ルイ・ド・ブロイは出版前にこの400頁をこえる討議録に目をとおし、深い感動に襲われました。血気にはやる青年がこの物理学という闘いの場に自分も参加したいと思って何が不思議だったでしょうか!
 ド・ブロイは自分の人生を全く変えました。友人とのおしゃべりに時間を費やすことをやめ、得意だったチェスやブリッジも一切あきらめ、人が信仰の道に入るように科学に身を捧げることを誓いました。結婚や社交は精神集中の妨げになるからと名門の娘と取り決められた婚約も破棄しました。後に、親友のアンドレ・ジョルジュが、彼を「裏切って」結婚したとき、ド・ブロイはその祝いの手紙に「もうゼミナールで会えなくなるのは残念だ」と書き送りました。結婚すればもう自由はないものと思っていたのです。
 ソルボンヌを出ると、兄モーリスの研究所にこもり、孤独な研究を続けますが、1914年に第一次大戦が勃発し、彼も工兵として出征します。その科学知識をかわれ、無線連絡の中枢を担うエッフェル塔の電信係に配属されますが、このことは彼にはじめて「人生」を教えたようです。ド・ブロイは、エッフェル塔の持ち場でさまざまな人間に出会い、社会的視野を広げ、軍隊の醜い部分も知り、また生涯にわたる友情も培いました。彼はこのときの同僚とずっと後まで文通を続けましたが、1929年末にその一人からきた便りを彼は生涯たいせつに持っていました。

  親愛なるルイ
 きみはきっと相変わらずいたずら好きなんだろうね。
 でも、今度のいたずらは最高だ、ノーベル賞だなんて、、、

 戦争が終わると、6年間のブランクを取り戻すべく、ド・ブロイは研究に埋没しました。彼の狙いはプランクの法則とアインシュタインの法則を関連づけることで、その思索の過程で、光が粒子でありまた波動であるように、物質もまた粒子であるとともに波動でもあるという名高いアイデアが生まれてきたのです。彼は1923年、つぎのように書きました。

 「しかも、どのようなひとつの運動体でも、ある場合には回折を起こすことがありうるだろう。かなり小さな開口部を通る大量の電子が、回折現象を呈することもあるだろう。おそらくこの方面でこそ、われわれの着想を確証しようと努めるべきだろう」

 この予言が実験的に検証されたとき、以上の数行のために彼にノーベル賞が与えられました。回折とは、障害物をよけて通ることで、壁を隔てて二人の人間が会話できるのは音の回折であり、太陽光にシャープペンシルの芯をあてると、周縁のぼやけた影ができるのは光の回折です。ド・ブロイの物質波は、微小な電子ばかりでなく、小石やオレンジやネズミにも適用可能であるがゆえに人間の世界観の根底を揺るがすものだったのです。アインシュタインの友人である著名な物理学者エーレンフェストはアインシュタインに「もし、ド・ブロイの言っていることが本当なら、私は物理学を何も理解していないわけだ」と言った時、アインシュタインは「とんでもない、きみは物理学をよく理解しているよ。きみが理解していないのは天才なのだ」と答えました。
 しかし、この理論の実験による確証は難しく、それが次々と物理学者たちによって実現していったのはアインシュタインによる推奨があったからでした。ド・ブロイは終生その恩を忘れませんでしたが、アインシュタイン自身も、かつて、まったく誰も耳を貸そうとしない浮浪者同然の境遇にあったとき、マックス・プランクがその相対論の出版をすすめてくれたおかげで名声を得ることができたのでした。

 ルイ・ド・ブロイは、1928年に最愛の母を失いました。母親は期待をよせていた息子に裏切られたと思い、彼の科学界での栄光を見ずに死んでいったのです。ド・ブロイは、母の死を契機に、一族の生活ときっぱり訣別し、パリの外れのヌーイに普通の家を買い、気に入りの召使いだけを伴った簡素な生活を始めました。数十平方メートルしかないその庭にはギリシアの神像やルネサンス様式の階段などなく、貴族の館を連想させるものは何もありません。彼はそこから地下鉄に乗って勤めている大学に通っていたのです。彼がソルボンヌの教授になったとき、親族の一人は「ついに役人に成り下がったか」と軽蔑的な口調で言ったそうです。
 1929年度のノーベル物理学賞は、プランク、アインシュタイン、ボーアという偉大な先達に続き、ド・ブロイに与えられました。しかし、この頃から、彼は長い沈滞の時期に入るのです。時代は、ハイゼンベルクの不確定性原理が支配しており、ド・ブロイは本国フランスでも量子論の傍流として見られていたのです。アインシュタインやド・ブロイの明晰な自然の描像を得ようとする意志(自然現象の奥に何か法則を求めていく)とは反対に、ハイゼンベルクは自然を概念の体系として、冷たい代数計算に従う非決定論の世界と捉えました。ここには当時ドイツを覆っていたニヒリズムと独裁主義の影響があるのでしょう。
 1960年、兄モーリスが85歳で亡くなり、ルイは公爵の称号を引き継ぎました(爵位は長男のみ引き継ぎます)。68歳で彼は prince (王子)から Duke (公爵)になったのです。70歳のときに科学アカデミーの中にゼミナールを開講しました。95歳で死ぬ定めの人間にとって70歳は若年です。彼は毎朝、パレ・ロワイヤル広場で地下鉄を降りると、ルーブル宮を抜け、ポン・デ・ザールを渡ってセーヌ川を越えます。フランス学士院に続くそのあたりは、57階のモンパルナス・タワーが建てられる前は世界で最も美しい都市風景のひとつでした。ド・ブロイはゼミナールで指導しながら、微視物理学・波動力学に関する30を越える学術論文を書き上げました。彼は13年それを続けたとき、ある日アカデミーの中庭で転び、しばらく起き上がれませんでした。誰も見ていなかったのに彼はそれを恥じ、その日からアカデミーの終身書記を含む一切の公的な職務から離れ、自宅に隠棲することを決意しました。しかし、ド・ブロイにはまだ12年の歳月が残されていたのです。彼は若い日の趣味に、あの安楽な世界へ立ちもどったのでしょうか。いや、彼のような人間が一秒であれ無駄な生活をすることなどありえません。偉大な人間の生涯はおしなべてシンプルです。「誘惑することのできなかった者の足許に世界はひれ伏す」とアミエルは『日記』に書いています。ド・ブロイはもっぱら自宅の質素な机の上で物理学の研究に打ち込んでいました。しかし、ついに計算力が衰え、昨日のことよりも遠い昔のことが鮮明に思い出されるようになって彼は人生のボートを降りる覚悟をしたのです。90歳で入院し腸閉塞と腎臓病の手術をしたとき、3人の看護婦が昼夜交代で彼の世話をしました。彼は病床でも、いつものように丁寧な態度と格調ある話し方を維持していました。ヴァカンスに出る看護婦が代わりの看護士に彼を紹介しながら「ご存知でしょ、ド・ブロイさんは大学者なのよ」と言うと彼は手を上げて遮り、「むしろ大学者だった、と言ってください。もう私はありきたりの老人でしかありません」と言うのでした。最期はパリのルヴシンヌの個人病院で1987年3月19日の朝95歳で死を迎えました。葬儀は遺言通り「紋章も演説もなく」つまり貴族の儀式もアカデミーの演説もなく簡略に執り行われました。
 

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2007年1月 6日 (土)

ジェイムズ・サーバー『マクベス殺人事件の謎』

 『マクベス殺人事件の謎』(角川文庫・鈴木武樹訳)に収められたアメリカのユーモア作家ジェイムズ・サーバーの作品の中から、自動車と動物について書かれたものを紹介しましょう。 
「私は自動車とこれまで一度もウマがあったことがない」とサーバーは書いています。まだ若かったとき、父方の叔母がオハイオ州コロンバスのサーバーの家に遊びに来ました。彼女は自分は自動車の運転ができるという幻想を抱いていたのですが、サーバーはその叔母の自動車に乗せられてドライブに出かけているうちにゾッとしてきました。叔母は、赤や青の信号は市がつけたクリスマスの電飾だと思っていたのです。何とか無事に家に帰ってからも、このことがトラウマになり、長く自動車に乗れませんでした。自分で車を持つようになってからも、ガソリンエンジンの仕組みが全く理解しがたく、修理工の人からはいつも呆れたような馬鹿にしたような顔をされるのでした。ある時、計器盤の中のエンジンゲージが危険を示す赤の域まで上がっていることに驚いて、近くの修理店に車を停めると、さらに一つのゲージが1560を示すところまで上りきっているのに気付いて血が引いてきます。震える手で修理工にそれを指し示すと、修理工は呆れた顔で言いました、「そりゃあラジオのダイヤルですよ、 WQXR に合わせてあるんでしょう」。
 次は、サーバーの話の中でもよく知られたものです。彼がスコットランドの人里離れたさびしい土地をドライブしていたときのこと、ガソリンが切れて、突然咳をしたように車が止まってしまいました。どの村からも数キロ離れたところで途方に暮れていると、左手のこんもりとした林から男がひとり突然あらわれました。「どうしたのか」と聞くので「ガソリンが切れた」と云うと「たまたま」と男は答えました、「ひと缶持っているよ」。そう云って林の中から五ガロン入りの缶を持ってきたので、サーバーは金を払ってそのガソリンを入れてもらいました。後にニューヨークのパーティの折、この信じられない実話について話をしていると、ある婦人が「だけど、その男の人が林から現れた時、そんなどの村から数キロも離れたさびしいところで五ガロンのガソリンを提げて、あなたは尋ねなかったの、どうしてそんなものを持ってそんな場所にいるのかって」「奥さん」と彼は答えました、「そんなことをしたら、その男が消えてしまうんじゃないかと思ったんですよ」。

 動物についての話を取り去ったら、サーバーの作品はその魅力をほとんど失うでしょう。動物好きな人間がそうであるように、彼は人間よりも動物を愛し、物言わぬ彼らと共にいるときに本当に心の安らぎを感じるのです。「動物園での死」では、まずサンフランシスコのフライシュハッカー動物園で起きた雄の北極グマのビッグ・ビルが雌のミンを殺した悲惨な事件を取り上げています。なぜビッグ・ビルは唐突にミンを殺害したのか。動物園の関係者たちはいまだに首をひねっているが、サーバーは、その理由は飼育係が北極グマの雌は雄から見てみな同じに見えるだろうという誤った認識にもとづいているからだと云っています。「この結論は、雌グマというのは動物園の係員にはみな同じに見えるという前提からきたもので、ほとんど致命的ともいえる不幸な結論である。雄の北極グマにとっては、雌の北極グマというのは、 G メンにとっての親指の指紋と同じぐらい異なっているのだ。雄の北極グマは、一日中求愛の遊泳をしてだいたい五十頭の雌に出会うとようやく一頭が好きになるぐらいのものなのである。中にはクマの跋扈(ばっこ)する海沿いに120キロも泳いで、やっとかまいたくなるほどかわいい雌に出会うといったクマもいる」。そのことを知らない動物園の係員は、ある日、せまい檻の中に、ビッグ・ビルにはどうしてもがまんできない雌グマを入れてしまったのです、、、。
 クマの話の他にも、モリガモの話、タビネズミの話などがあるのですが、サーバーといえば犬、希代の犬好きが語る犬の話とはどんなものでしょうか。「記念」という短編を見てみましょう。題名どおり、死んだ犬の思い出を記念して書いたものですが、予想に反して、犬が飼い主に示す感動的な愛着や、飼い主が犬に示す温かな愛情などは描かれず、名前さえも明かされない一匹の雌のむく犬の思い出の断片にすぎません。「彼女は13年前に大きな木の枠組みの中に入れられて、イリノイ州からはるばるとやってきたのであったーおどおどした黒いむく犬で、そのころはまだ一歳にもなっていなかった」という文章でそれは始まります。「彼女はいつでも《人間》の生活様式を理解しようとして辛抱強く努力した」。しかし、子犬を産むときだけは、清潔な布を敷いた箱を慇懃(いんぎん)に拒否して、暗い隅の暖かな泥の上を選んだのです。そのむく犬には今思い出せるこれといった欠点はなかったのですが、「しいて言えば、庭に生えていたアスパラガスの柔らかな芽と黒い熟したキイチゴの実にはどうにもならないほど目がなかった」。しかし、ときおり神秘的な感覚から、人間の気持ちに参画するように、主人が頼りない気持ちになれば体を震え、毅然としていれば頭をもたげました。「むく犬というものは、あんなにらくらくとあと足で歩けるのだから、もしいつか言葉と理性というあのふたつのささやかな芸当を習い覚える日が来るとしたら、その時は人間より巧みに仕事をしてのけたとしてもわたしはぜんぜん驚きなどしないだろう」。そして、13年ともに暮らしたあと、そのむく犬は静かな威厳にみちた最期を迎えました。「そして《み手》が自分の上におりてきたのを知ると、厳粛な、なんの懸念もない諦めの心境でそれを受け入れたのだった。これは(と、彼女の黒い利発そうな目はわたしに語りかけようとしているみたいに見えた)、ただ、あるひとつの周期が完全に閉じるだけのことよ、これは《始まり》の中から芽生えてくる花なのよ。これはー友よ、あなたにとってつらすぎないような表現を使うならーキイチゴの実を食べたり、子犬を育てたり、車に乗って雨の中を行ったりするのと同じくらい自然なことなのよ」
 これは、自分の愛するものは他の人たちにとってはどうでもいいものだ、という事実を骨の髄までわかった人間の書く文章です。
 
 (『マクベス殺人事件の謎』につけられた武田勝彦編の年譜によれば、ジェイムズ・サーバー(1894~1961)はオハイオ州コロンバスの典型的なミッドウエストの家庭に生まれたということです。7歳のとき、兄たちとインディアンごっこの最中、誤って左目を弓矢で射られて失明しました。オハイオ州立大学時代から演劇活動を始め、大学中退後は政府の暗号解読係を経て、新聞社に就職し、コラムや絵をかくようになりました。30歳で、フリーランスのライターになり、新聞に寄稿のかたわら長編小説の執筆を始めました。しかし、小説は認められず、33歳のとき、創刊されて間もない雑誌「ニューヨーカー」のスタッフとして採用され、そこでユーモア作家 E.B. ホワイトと出会うのですが、サーバーは彼から、作家は蛇口ではなく頭をひねるものだと教えられた、と後に書いています。)

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