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2006年12月31日 (日)

ゲーテ『タッソー』

 ゲーテはロマンティックな文学青年でした。身のまわりのあらゆるものは彼の夢想のきっかけにすぎません。芝居、音楽、絵画、自然、とりわけ美しい(と彼が思っていた)女性たち、それらに出会うと、精神は高揚し、胸は高鳴り、涙があふれ、心は詩で満たされます。法学を修め、弁護士を開業するも、魂の本当の部分はあらぬ世界をさまよい、願いは常に現実社会ではかなわず、彼はそれを『ヴェルテル』で昇華せざるをえませんでした。文名は上がりましたが、文学の浮名だけでは年齢相応の地位と金は得られません。ところで、ゲーテには並の文学青年では持てないもの、頭の良さと愛想のよさがありました。ヴァイマル公国のカール・アウグスト大公は彼を公国に招待し、その政事の一部を任せます。ゲーテは持ち前の芸術家気質で女性たちの心をつかみ、徐々に重要な役職に就いていきますが、むろん、それを苦々しい思いで見ている重鎮たちもいました。彼らは、ゲーテをそれとなく揶揄し、あるいは面と向って皮肉な言葉を投げつけます。しかし向上心強く、自己に峻厳な39歳のゲーテは、宮中の軋轢やシュタイン夫人への思いで袋小路に陥った心を一つの文学作品に結実させました。モデルは、モーリス・バレスが南欧最大の詩人と讃えた男、『解放されたエルサレム』の詩人、トルクアート・タッソー(1544~1595)です。
 五幕の戯曲『タッソー』(1877作・実吉捷郎訳・岩波文庫)はフェラアラの公爵アルフォンス二世の離宮ベルリガルドでおきたわずか一日の出来事を物語ります。タッソーは、ここでアルフォンス二世の庇護の下にあり、今、完成されたばかりの詩を緑なす庭で休む公に捧げに来ます。そこには、公の妹のレオノーレと彼女の親類の伯爵夫人も同席していました。タッソーはその公女レオノーレに熱い思いを抱き、病弱で繊細な公女レオノーレも若き詩人に寛大で公平な愛情を注いでいます。三人は、タッソーとその新しい詩を讃え、彼に公女手作りの冠を被せます。折しも、そこに、公国の大臣であるアントーニオがローマでの重要な仕事を終えてベルリガルドに戻ってきました。
 世の中に、理由もなく憎み憎まれてしまう関係というものが存在するとしたら、タッソーとアントーニオがそうでした。アントーニオは、主君に忠実で、実務に明るく、人間関係の細部も熟知して信頼できる男、常に立派な振る舞いをするよう自らを義務づけている人格者です。そんな彼の目には、タッソーは度し難い自己陶酔者、ちっぽけな詩の才能だけで大公に取り入っている自分勝手でわがままな青年にしか見えません。彼はタッソーに向って、自分のことにだけ没頭する無益さを説き、「人間は人間と交わってのみ自己を会得する。実生活だけが各人にその本来の面目を教える」と諭します。そして、タッソーの詩の才能も神からお情けで得た贈り物にすぎない、ふと授かった品を勲功と勘違いするな、と戒めます。それまで自重してきたタッソーも、そこまで言われてついに堪忍ができなくなりました。
  それ以上はっきりおっしゃる必要はありません。もうたくさんです。
  私にはあなたの心が奥底まで見えますし、
  あなたという人間が全生涯にわたってあきらかになりました。
 タッソーはそう言って剣を抜き、アントーニオに決闘を申し込みます。アントーニオは挑発に乗らず、穏やかな態度で青年を諌めようとします。驚いた大公アルフォンスは、タッソーに自室謹慎を申し付け、伯爵夫人に頼んでタッソーの怒りを鎮めるよう頼みます。伯爵夫人は自室で坐っているタッソーに向い、アントーニオの寛い心を教え、本当はアントーニオはタッソーの人物と天分を尊敬しているのだ、と諭します。それを聞いて、タッソーは再び怒り狂います。
  いや、はっきり申し上げますが、利己心のつよい者は
  窮屈な嫉妬の苦しみからのがれられないものです。
  そういう男はなるほど他人が財産だの地位だの
  名誉だのを持っていても許しておくでしょう。
  なぜなら、おれだってそれは持っている、持とうと思えば、がんばれば、
  運がよければ、それくらいのものは持てる、と考えるからです。
  しかし、自然だけが授けるもの、
  どんなに骨を折ってもどんなに苦心しても、
  金輪際手のとどかないもの、金銭によっても、
  武力によっても智力によっても忍耐によっても、
  どうしても獲られないもの、それは決して許しておかないでしょう。
 そう言ってアントーニオと和解することを拒否するのです。この辺りではすでに錯乱していたタッソーは、温厚な伯爵夫人さえも自分を貶めしようとしているに違いないと推断してしまいます。彼はベルリガルドを立ち去ることを決意し、最後の望み、公女レオノーレに自分の気持ちを告白します。公女は彼をなだめようとしますが、タッソーはそれを自分への愛と勘違いし、公女を強引に抱こうとして捕縛され牢屋につながれてしまい、そこで劇の幕は降ります。

 さて、ゲーテはこの劇で何を最も語りたかったのでしょうか。詩人に対する「人格者」の嫉妬でしょうか。プロイセンの権威主義を嫌ったゲーテならありそうなことでしょう。彼はヴァイマルの宮廷でも、勲位や家柄にものをいわせて世俗的事柄では絶対に負けまいとする俗物をたくさん見てきたはずです。彼らは、自分たちに決して真似できない天分を持つ人間を俗世の智慧で彼ら自身の水準まで引きずりおろそうとするのです。自分より弱い人間への彼らの寛容さは、理解しがたい天才への敵意の裏返しなのです。
 しかし、それより強く描かれているものはタッソー自身の傲岸な態度です。アントーニオの云うとおり、タッソーは大人になりきれない人間で、自分は絶対に正しく、大いなる才能を持っているのだが、正当に評価されないのは周囲にわざと迫害する人間がいるのだと常に信じています。『タッソー』の中では、この二つの精神の相克、俗物の人格主義と天才の超人主義は決して相容れないものとして並置されています。実際、アントーニオもタッソーも、自らを謝罪することなく、ともに悲しみを抱いたまま劇は終わります。
 ところが、ゲーテという天才の真の面目は公女レオノーレの言葉にこの劇の命ともいうべき思想を預けていることにあるのです。自意識で凝り固まったタッソーに公女は話します。
  タッソーどの、そんな行き方ではいつまでたっても
  お友だちはできませんよ。その道をゆけば、
  寂しいくさむらや静かな谷間を
  さまよい続けるようになってしまいます。
  次第に気持ちがぜいたくになり、
  外部に欠けている黄金時代を
  自分の心中にうち建てようと努めることになります。
  そんな企てが成功するわけはないのですけれどね。
 するとタッソーは、
  おお、公女さま、すばらしい言葉をお使いになります。
  黄金時代ーそれはどこへ行ってしまったのでしょう。
  心という心がみんな空しくあこがれをよせているあの時代。
  そこではひろびろとした地上に人間が
  元気な家畜の群のように楽しみながらひろがってゆきました。
 公女は答えます、
  タッソーどの、黄金時代はすぎ去ったにちがいありませんが、
  それでも善き人々はそれを取り戻すのです。
  、、、そしてあの美しい時代は私の見るところでは
  現在ないのと同様、昔もなかったのです。
  そして、かつてあったとすれば、それは確かに
  将来、何度でも現れるような形のものだったに相違ありません。
  今でも相似た心と心は互いに出会って、
  美しい此の世の楽しみを頒ち合っています、、、
  私たちがあなたに求めているものは、ほんとうに小さなことですが、
  しかもそのくせ大きすぎるように見えることなのです。
  あなたは御自分をすすんで委せて下さればよいのです。
 この公女の願いは詩人に届かず、反響なきまま、誰一人とも和解されることもなく物語は終わります。尊大な自己自身への仮借ない批判、びくともしない俗物への強烈な反撃、そして、公女の言葉に託したシュタイン夫人への尊敬と愛、大人になるのが遅すぎた人間はそれだけ感じやすい心を世間の風の中へ運んでいかねばならないのです。
 (まもなく2006年も暮れようとしています。来る年のみなさまのご多幸をお祈りいたします)

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