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2006年12月 9日 (土)

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

 1950年、パール・バックは長い間巧みに隠し続けていた自分のただ一人の実子キャロルについての告白を Ladies' Home Journal に掲載しました。The Child Who Never Grew (『母よ嘆くなかれ』1993法政大学出版局・伊藤隆二訳) と題されたその文章は、30年間愛と絶望の淵源であったものについての何飾ることのない記録だったのです。
 パール・バックは28歳の「人生でもっとも健康で輝いていた時」にキャロルを出産しました。キャロルは桃色の李(すもも)のような美しい赤ん坊でした。中国人の若い看護婦はキャロルを抱きながら「この赤ちゃんには、きっと何か特別の目的がありますよ」と言いました。人々は皆この美しい赤ん坊をほめたたえ、母親のパールは自分の夢がどんどんふくらんでいくことを感じました。彼女の夢は、家が子どもたちでいっぱいになること、そしてその子たちを立派に育て上げることだったからです。
 ところが、出産時に発見された子宮の腫瘍の切除の結果、もはや子どもを産めないと宣告されたパールは、その愛情と献身のすべてを娘キャロルに注ぐことになりました。キャロルはすばらしく健康ですくすく育ちましたが、パールは一抹の不安を感じていました。キャロルは三歳になっても話ができなかったのです。そして、青く澄み切った瞳は、しかしうつろで、落ち着かず、反応も変化もしません。友人たちに相談すると、心配しながらも皆なぐさめに満ちた答えを返してくれるのでした。真実がうすうす分かっていながら、この「うわべだけの善意の保証」に彼女はそれ以後どれだけ出会うことになるでしょうか! 
 当時、中国で暮らしていたパールは故郷のアメリカに渡り、キャロルをつれて可能な限りの小児病院、専門家、心理学者を訪ねます。その長い悲しい旅は、ミネソタ州ロチェスターのメイヨー病院で一区切りがつきました。そこでキャロルはたくさんの精密検査を受け、その後で病院の小児部長はパールに、彼女がこれまで何度も聞いてきたあいまいな答「希望を持ちなさい」を返してきたのです。母と娘は部屋を出て、再びがらんとしたホールのほうへ歩いていきました。その時、薄暗い廊下の隅の部屋から小柄な医師が静かにパールを手招きしているのです。そのドイツ人の医師は、母娘を狭い部屋に入れると、早口で不正確な英語で「わたしの話をお聞きください」と言いました。「奥さん、このお嬢さんは決して治りません。わたしは、このような子どもをこれまでに何人も何人も見てきました。あなたは望みを捨て、真実を受け入れるのが最善なのです。でなければ、あなたは生命をすりへらし、家族のお金を使い果たしてしまうでしょう。ーおわかりですか、この子どもさんは、あなたの全生涯を通し、あなたの重荷になるはずです。決してちゃんと話すことも、読み書きすることもできないし、四歳児以上の知能を持つことはないでしょう。、、、お嬢さんが幸福に暮らせるところを探して下さい。そして、そこに子どもさんを託して、あなたはあなたの生活をなさって下さい。わたしは、あなたのために本当のことを申し上げているのです」
 暗く長いホールを歩いて外に出ると、キャロルは外に出たのが嬉しいのか、跳んだり、踊ったりしています。そして涙にゆがんだ母親の顔を見て、大きな声を立てて笑うのでした。「取り除くことのできない悲しみを抱きながら生活するには、いったいどうしたらよいかを悟る過程の第一段階は惨めで支離滅裂なものでした。、、、いっさいのものに喜びが感じられなくなりました。風景とか、花とか、音楽といった、以前にはわたしが喜びを見出していたものも、すべて空しいものになってしまいます。、、、とうとうわたしは、顔を見たり声を聞くだけで、その人が、終りのない悲しみを抱きながら生きるということが、どういう意味かを知っているか否かが、わかるようになりました。そして、わたしは、その人たちが悲しみを抱きながらの生き方を悟ることができるのなら、わたしにもできるはずだと思いました」
 こうして、悲しみとの融和の道程が始まりました。その第一段階は、あるがままを素直に受け入れることでした。しかし、そこに至るまでが苦痛だったのです。「わたしは、何度も何度も泥沼にすべり落ちたのです。自然にすくすくと育ってゆく近所の子どもたちが、わたしの娘には決して話せないことを話したり、娘には決してできないことをしているのを見るだけで、わたしは打ちのめされたようになったものでした」
 パール・バックは、その絶望のどん底から這い上がってきました。彼女は「これがわたしの人生だ。わたしはそれを生き抜かなくてはならないのだ」と思うようになったのです。そして、キャロルが安全に幸福に暮らせる場所を探し始めました。というのも、母親が死んだ後で、この子どもは誰が面倒みてくれるだろうか不安でたまらなかったし、また、キャロルには同世代の、同じような障害をもって、こだわりなく交際できる仲間が必要だったのです。
 パールは、キャロルを施設に預けるための準備として、まず子どもの能力の限界を徹底して探ってみることにしました。やさしく、しかし厳しい稽古の日々が始まりました。その結果、キャロルにはかんたんな文章なら読めるし、非常に努力すれば自分の名前も書けることがわかりました。でも、ある日のこと、キャロルに文字を書かせていたとき、熱心のあまりパールは娘の手をとって書かせようとその右手を握ると、なんとその手は汗でびっしょり、ぬれていたのです。その両手をとって開いてみると、両手ともびっしょりとぬれているではありませんか。「そのとき、わたしは、娘がわたしを喜ばせようとする天使のような気持ちから、ただわたしのために、非常に緊張しながら、自分では何もわからないことに一所懸命になっていたことを知ったのです。娘は本当は何一つ学んでいなかったのです。わたしは自分の胸が押しつぶされるように感じました。やっと、われに帰って冷静になったとき、わたしはそこらにあった本という本を、二度と目にふれないように遠ざけてしまいました。この可憐な魂に無理をさせて、できないことをさせて、いったい何の役に立つというのでしょうか」「そのとき以来、わたしは幸福こそが、彼女の世界である、とひとりで心に固く決めました。わたしは娘に対するすべての野心も、またすべてのプライドも捨て切り、そして彼女のあるがままをそのままに受け入れ、それ以上は一切期待しまいと心に誓ったのです」
 パール・バックは、キャロルが九歳になるまで一緒に暮らし、それからアメリカ全土の施設を回って、ついに彼女に相応しい学校を見つけ、そこに彼女を預けました。最初の日、彼女は首にすがりつくキャロルを引き離して一人家に帰ったきました。そして、ときおり家に帰ってくるキャロルが施設に置いてある自分のレコードや施設の仲間を恋しく思い始めたとき、ついに長い旅が終りに近づいたことをパールは知ったのです。1938年にノーベル賞を受賞して、彼女は莫大な基金を施設に寄付し、その敷地内に、キャロルとその友人たちのコテージを建てました。パールは1973年に81歳で死亡し、その19年後キャロルは73歳でそのコテージで亡くなりました。パール・バックは、自分の傲慢な性格、感受性の鈍い人間や能力の低い人間に対しての自分の傲慢さは、キャロルによって一掃された、と感じました。そして、人間の精神はすべて尊厳に値するものであり、すべての人間は平等の権利を持つという信念もキャロルから学んだのです。中国の若い看護婦が言ってくれたように、キャロルは、きっと何か特別の目的をもって生まれてきた子どもだったにちがいありません。
(ピーター・コン『パール・バック伝』2001舞字社・丸田浩ほか訳 によれば、キャロルは、フェニルケトン尿症(PKU)の犠牲者でした。PKUは、フェニール・アラニンの代謝異常に因づく病気で、フェニール・ピルビン酸を尿中に排泄し、治療せずに放っておけば、知能の遅れを伴う先天性白痴をもたらす遺伝疾患だそうです。しかしながら、キャロルの生まれた1920年当時にはその病名も治療法も知られていませんでした。)

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コメント

小林さん:

「パール・バック伝」の訳者の一人です。伝記をていねいに読んで下さって、大変ありがとう! 女史のキャロルに関する本の紹介もありがとうございました。

私はこの本自身を読んでなかったので、ドイツ人の医師が、女史に事実を明かしたことを知りませんでした。勇気と共に思いやりのある人物ですね。

この要約をある私の知人に紹介しました。その方にも(原因は全く違いますが)知能の発達程度が不確かな子供さんがいます。その子供さんがその夫婦にとって、本当の意味(高次元)で「天使」になることを心から願っています。

投稿: Heidi | 2007年3月 8日 (木) 02時09分

Heidi様
コメントありがとうございます。
『パール・バック伝』は興味深く読ませていただきました。大変助かりました。ありがとうございました。彼女の小説も、もっと読まれるに値するものだと思っています。
拙いブログに目をかけてくださって本当にありがとうございます。Heidi様とお知りあいの方のご多幸をお祈りいたします。

投稿: saiki | 2007年3月 8日 (木) 23時41分

小林さん:

パール・バック著「Command the Morning」(原書は、1959年出版) をただいま、小林(政子)さんと邦訳中です。6月頃、こみち書房から出版予定です。これは小説ですが、9割以上、事実に基づいた作品です。

「原爆を生み出した人々」という邦訳タイトル(仮称)で、かの「マッハッタン計画」を小説化した(かつての)ベストセラーです。欧州諸国では、原書が出てすぐ翻訳本が出版されましたが、なぜか、「肝心」の日本では邦訳が今まで出版されたことがありません。原爆投下から60年以上を経て、やっと日本人(大衆)もこの問題を客観的に見つめることができる「心の準備」ができていると期待しています。

実際の原爆開発計画には、女性研究者は一人も関与していませんでしたが、著者は、ジェーンという架空の女性(著者と原子物理学者リーゼ・マイトナーのハイブリッド)をこの計画に参加させ、女性の存在が原爆投下を停止させることができたかどうか、を世に問うた作品です。1960年代の欧米の反核運動の原動力の1つになった問題作です。お楽しみに。

投稿: Heidi | 2007年3月 9日 (金) 14時49分

Heidiさま、コメントの返事が遅れてしまいました。パール・バックのよさは引き込まれてしまう物語の面白さですね。新刊も楽しみにしております。それでは。

投稿: saiki | 2007年3月30日 (金) 13時44分

もうずいぶんと前の文章なのに、お邪魔します。

パールバックの「母よ・・・」を繰り返し味読しながら、悲苦の日々を過ぎ越してきた者です。

私自身は、愛する大切な家族を自死で喪い、それなりの昇華ができているつもりでおりますのに、折々にくずおれそうな心を保つことに 苦労するときがあります。

投稿: moon | 2011年10月24日 (月) 10時36分

moonさん、コメントの返事が半端なく遅れてしまいました。
身内を自死で失うことは私にも無縁というわけではありません。
こうすれば良かった、という後悔を拭い去ることはできないでしょうが、多くの日々がそれを薄めてくれるのも事実だとおもいます。
こんな返事しかできないことをお詫び申し上げます。

投稿: saiki | 2012年7月 8日 (日) 07時35分

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