« 井上究一郎『忘れられたページ』 | トップページ | ゲーテ『タッソー』 »

2006年12月24日 (日)

エルンスト・ブロッホ『異化』

 「クレペリンはその手がたい『病理学教程』のなかでつぎのような幻想的自己体験を報告している」とブロッホは書いています。奥地ペルーの未踏の地方を探検していたときのこと、クレペリンは歩きながら、この道と場所とこの状況全体が前にそっくり体験したことがあるような気がしました。そればかりか、クレペリンには、その感覚に引き込まれると同時に、見通しの悪い道の曲がり角の向う側にいまに橋が見えてくるだろう、という確信さえも感じられたのです。すると、橋は既視感に先取りされていた通りに、そのすぐあと、曲がり角を通り過ぎた向う側に、こつ然と立ち現れたのです。
 既視感(deja-vu)の特徴は、非常に短い瞬間に細部まで精密な状況が突然一気に眼前にあらわれる、ということです。いかなる統覚論的、大脳生理学的説明も十分にまだこの感覚を説明することはできないでしょう。それは、私たちの存在の奥に隠れる未来の縁(ふち)と過去の深淵もまた垣間見せてくれるのです。

 ドイツ・ロマン派珠玉の傑作、ルードヴィッヒ・ティークの『金髪のエックベルト』を記憶の中に呼び覚ましましょう。ベルタは夫エックベルトの友人である騎士ワルターに、自らの子ども時代の思い出を語ります。彼女は貧しく過酷な生家を抜け出して放浪し、とある寂しい場所に住んでいる老婆のもとに身を寄せます。少女の仕事は老婆の飼っている小犬と小鳥の世話をすることで、その小鳥は毎日真珠の入っている卵を産むのです。単調な仕事に飽きてきた少女は世俗の華やかな生活にあこがれ、家出を決意します。小犬を愛撫し、別れを告げて部屋の中に犬をつなぎとめますが、小犬はキャンキャン泣いて必死に少女にしがみつこうとします。籠に入れた小鳥と袋一杯の真珠を持って、少女は都会に行き、はなやかな暮らしをはじめます。彼女は歌をうたっては悔恨をめざめさせるその小鳥を絞め殺します。やがて現在の夫である騎士エックベルトと出会い、城で幸福な生活を送りますが、ともすれば荒れ果てた小屋に置き去りにした老婆の運命に胸ふたがります。このようなことを騎士ワルターに話したベルタは、ワルターのつぎのような答えに耳を疑います。「奥様、感謝にたえません。あなたのお話がまるで目に浮かぶようです。あの珍しい小鳥も、あなたがあの小さなシュトローミアンに食べ物をやる様子も」。しかしベルタは、話の中でその犬の名前を一度も口にしたことがなかったのです。しかも、そのシュトローミアンという名はベルタが長い年月どうしても思い出せない名前でした。それなのにワルターは、その犬を目のあたりに見ているように、何げなく、思わずつりこまれるような調子でその名を口にしたのです。「はげしい驚愕が」とベルタは夜になってから夫にむかって言いました。「はげしい驚愕が私を襲いました。そんな風に赤の他人が私に昔を思い出させてくれたのですから。あの犬はなんとかしてあとについてこようとしました。でも置いてこないわけにはいかなかったのです、、、」
 「一緒に連れてこなかったのはあのつなぎとめられた小犬だけではない」と、エルンスト・ブロッホ(1885~1977)は『異化』(1971現代思潮社、種村季広・片岡啓治・船戸満之訳)の中で語っています。それは、とうの昔に結着をつけた仕事、不本意ながら結着をつけた仕事の、不幸な、命細る思いの書き直しや、書きかえや、書き重ねの亡霊にほかなりません。
 居酒屋のテーブルで、ブロッホがここまで書いたとき、二人の人間が談話の形でこの問題に加わりました。場所はカプリ島マリナのとある居酒屋、二人の人間とは、ブロッホの友人ヴァルター・ベンヤミンと居酒屋の主人(かつてハイデルベルクで給仕をしたことのある)でした。三人はジンを飲みながら漁師たちの帆船が帰ってくる明け方まで話し合います。以下はそのレジュメらしきもの。シュトローミアンに関するワルターの言葉の意味するところは「他者の既視感」です。彼は犬の声を聞き、ベルタが立ち去りもしていないあの昔の場所に凝然と釘付けになっているのを見るのです。ベルタが小屋をあとにしてきたのはみせかけにすぎなかったので、彼女の意識された忘却、彼女の亡霊は、犬といっしょにそこにまだ残留しています。ベルタの罪は、犬をあの小屋の中に置き去りにしたことであり、(なおざりにしたあらゆることの象徴として)それが犬の名を忘れることへと余韻を引いているのです。ワルターの声は、ベルタに、いま彼女は彼女が話しているその物語の場所にいることを教えています。いわば、ワルターは未踏の地を行くクレペリンであり、その地はベルタ自身であり、シュトローミアンは予知された橋そのものなのです。(物語の最後にワルターの正体が明かされます)

 細かい事物からおよそ玄妙な哲学的議論にまで飛躍するブロッホのエッセイ集の特徴と魅力は「探偵小説の哲学的考察」の章によく表れています。探偵小説は、啓蒙期にいたって初めて読者の前に表れるのですが、その役目は、物語が始まる前に犯されていた罪を暴露することにあります。探偵小説は、普通、何げない日常の描写から始まりますが、すでに邪悪な犯人は殺人を犯しているか、あるいは殺人の巧妙なシナリオの予備段階を演じています。探偵は、その慧眼により、巧みに隠されていた物語以前のおぞましい秘密を暴露し、平和な日常の裏で進行していた邪悪な犯人のたくらみを白日のもとにさらします。ここに至って探偵小説は「世界そのもののはじまり以前におこなわれた隠された凶行」を暴露することと極めて似通ってくるのです。深遠なまでに神秘的なカトリック哲学者フランツ・フォン・バーダー(1765~1841)は、この原初におこった悪しき出来事、世界がこの世界になる前に行われた犯罪について言及します。世界はその始まりから原罪と関連づけられており、しかも今もなお、それは悪運を私たちに送り届けているのです。「自然のあらゆる美しさを通じて」と、バーダーは語っています。「人間は、あるときは声低くあるときはまた声高に響いている自然の愁訴の声を聞き分ける、自然が人間の過失ゆえに身につけることを余儀なくされた寡婦のヴェールを嘆く自然の愁訴を」「転落というよりはむしろ恐ろしい犯罪のみが、この物質的開示(すなわち世界を)誘発せしめることが可能だった」。
 すでに犯されている犯罪のみが世界を作り出した、という考えは突飛なものではありません。同じことはサン・マルタンにも、また「原初の闇」を語るヤーコブ・ベーメにも見られますし、さらにベーメが影響を受けた16世紀のカバラ哲学者イザーク・ルリヤにも見られる、とブロッホは書いています。「ルリヤのいうところにしたがえば、bereschith ,すなわちはじまり(聖書はこの言葉ではじまる)は天地創成のはじまりを意味しているのでなくて、神自身が監禁されたこと( tsimsum = 収縮)を告示している」。このような考えは無意味でも無益でもありません。なぜなら、「そもそも、なにゆえに世界が表れたかという事実の未知性、この比類ない価値をはらむスフィンクスの謎を」誰一人として解き明かしたことはないからです。ベルタが、風変わりなシュトローミアンという犬の名を忘れたように、何か決定的に忘れ去っているものが人間の記憶の中に潜んでいるかもしれないのです。

|

« 井上究一郎『忘れられたページ』 | トップページ | ゲーテ『タッソー』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 井上究一郎『忘れられたページ』 | トップページ | ゲーテ『タッソー』 »