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2006年12月31日 (日)

ゲーテ『タッソー』

 ゲーテはロマンティックな文学青年でした。身のまわりのあらゆるものは彼の夢想のきっかけにすぎません。芝居、音楽、絵画、自然、とりわけ美しい(と彼が思っていた)女性たち、それらに出会うと、精神は高揚し、胸は高鳴り、涙があふれ、心は詩で満たされます。法学を修め、弁護士を開業するも、魂の本当の部分はあらぬ世界をさまよい、願いは常に現実社会ではかなわず、彼はそれを『ヴェルテル』で昇華せざるをえませんでした。文名は上がりましたが、文学の浮名だけでは年齢相応の地位と金は得られません。ところで、ゲーテには並の文学青年では持てないもの、頭の良さと愛想のよさがありました。ヴァイマル公国のカール・アウグスト大公は彼を公国に招待し、その政事の一部を任せます。ゲーテは持ち前の芸術家気質で女性たちの心をつかみ、徐々に重要な役職に就いていきますが、むろん、それを苦々しい思いで見ている重鎮たちもいました。彼らは、ゲーテをそれとなく揶揄し、あるいは面と向って皮肉な言葉を投げつけます。しかし向上心強く、自己に峻厳な39歳のゲーテは、宮中の軋轢やシュタイン夫人への思いで袋小路に陥った心を一つの文学作品に結実させました。モデルは、モーリス・バレスが南欧最大の詩人と讃えた男、『解放されたエルサレム』の詩人、トルクアート・タッソー(1544~1595)です。
 五幕の戯曲『タッソー』(1877作・実吉捷郎訳・岩波文庫)はフェラアラの公爵アルフォンス二世の離宮ベルリガルドでおきたわずか一日の出来事を物語ります。タッソーは、ここでアルフォンス二世の庇護の下にあり、今、完成されたばかりの詩を緑なす庭で休む公に捧げに来ます。そこには、公の妹のレオノーレと彼女の親類の伯爵夫人も同席していました。タッソーはその公女レオノーレに熱い思いを抱き、病弱で繊細な公女レオノーレも若き詩人に寛大で公平な愛情を注いでいます。三人は、タッソーとその新しい詩を讃え、彼に公女手作りの冠を被せます。折しも、そこに、公国の大臣であるアントーニオがローマでの重要な仕事を終えてベルリガルドに戻ってきました。
 世の中に、理由もなく憎み憎まれてしまう関係というものが存在するとしたら、タッソーとアントーニオがそうでした。アントーニオは、主君に忠実で、実務に明るく、人間関係の細部も熟知して信頼できる男、常に立派な振る舞いをするよう自らを義務づけている人格者です。そんな彼の目には、タッソーは度し難い自己陶酔者、ちっぽけな詩の才能だけで大公に取り入っている自分勝手でわがままな青年にしか見えません。彼はタッソーに向って、自分のことにだけ没頭する無益さを説き、「人間は人間と交わってのみ自己を会得する。実生活だけが各人にその本来の面目を教える」と諭します。そして、タッソーの詩の才能も神からお情けで得た贈り物にすぎない、ふと授かった品を勲功と勘違いするな、と戒めます。それまで自重してきたタッソーも、そこまで言われてついに堪忍ができなくなりました。
  それ以上はっきりおっしゃる必要はありません。もうたくさんです。
  私にはあなたの心が奥底まで見えますし、
  あなたという人間が全生涯にわたってあきらかになりました。
 タッソーはそう言って剣を抜き、アントーニオに決闘を申し込みます。アントーニオは挑発に乗らず、穏やかな態度で青年を諌めようとします。驚いた大公アルフォンスは、タッソーに自室謹慎を申し付け、伯爵夫人に頼んでタッソーの怒りを鎮めるよう頼みます。伯爵夫人は自室で坐っているタッソーに向い、アントーニオの寛い心を教え、本当はアントーニオはタッソーの人物と天分を尊敬しているのだ、と諭します。それを聞いて、タッソーは再び怒り狂います。
  いや、はっきり申し上げますが、利己心のつよい者は
  窮屈な嫉妬の苦しみからのがれられないものです。
  そういう男はなるほど他人が財産だの地位だの
  名誉だのを持っていても許しておくでしょう。
  なぜなら、おれだってそれは持っている、持とうと思えば、がんばれば、
  運がよければ、それくらいのものは持てる、と考えるからです。
  しかし、自然だけが授けるもの、
  どんなに骨を折ってもどんなに苦心しても、
  金輪際手のとどかないもの、金銭によっても、
  武力によっても智力によっても忍耐によっても、
  どうしても獲られないもの、それは決して許しておかないでしょう。
 そう言ってアントーニオと和解することを拒否するのです。この辺りではすでに錯乱していたタッソーは、温厚な伯爵夫人さえも自分を貶めしようとしているに違いないと推断してしまいます。彼はベルリガルドを立ち去ることを決意し、最後の望み、公女レオノーレに自分の気持ちを告白します。公女は彼をなだめようとしますが、タッソーはそれを自分への愛と勘違いし、公女を強引に抱こうとして捕縛され牢屋につながれてしまい、そこで劇の幕は降ります。

 さて、ゲーテはこの劇で何を最も語りたかったのでしょうか。詩人に対する「人格者」の嫉妬でしょうか。プロイセンの権威主義を嫌ったゲーテならありそうなことでしょう。彼はヴァイマルの宮廷でも、勲位や家柄にものをいわせて世俗的事柄では絶対に負けまいとする俗物をたくさん見てきたはずです。彼らは、自分たちに決して真似できない天分を持つ人間を俗世の智慧で彼ら自身の水準まで引きずりおろそうとするのです。自分より弱い人間への彼らの寛容さは、理解しがたい天才への敵意の裏返しなのです。
 しかし、それより強く描かれているものはタッソー自身の傲岸な態度です。アントーニオの云うとおり、タッソーは大人になりきれない人間で、自分は絶対に正しく、大いなる才能を持っているのだが、正当に評価されないのは周囲にわざと迫害する人間がいるのだと常に信じています。『タッソー』の中では、この二つの精神の相克、俗物の人格主義と天才の超人主義は決して相容れないものとして並置されています。実際、アントーニオもタッソーも、自らを謝罪することなく、ともに悲しみを抱いたまま劇は終わります。
 ところが、ゲーテという天才の真の面目は公女レオノーレの言葉にこの劇の命ともいうべき思想を預けていることにあるのです。自意識で凝り固まったタッソーに公女は話します。
  タッソーどの、そんな行き方ではいつまでたっても
  お友だちはできませんよ。その道をゆけば、
  寂しいくさむらや静かな谷間を
  さまよい続けるようになってしまいます。
  次第に気持ちがぜいたくになり、
  外部に欠けている黄金時代を
  自分の心中にうち建てようと努めることになります。
  そんな企てが成功するわけはないのですけれどね。
 するとタッソーは、
  おお、公女さま、すばらしい言葉をお使いになります。
  黄金時代ーそれはどこへ行ってしまったのでしょう。
  心という心がみんな空しくあこがれをよせているあの時代。
  そこではひろびろとした地上に人間が
  元気な家畜の群のように楽しみながらひろがってゆきました。
 公女は答えます、
  タッソーどの、黄金時代はすぎ去ったにちがいありませんが、
  それでも善き人々はそれを取り戻すのです。
  、、、そしてあの美しい時代は私の見るところでは
  現在ないのと同様、昔もなかったのです。
  そして、かつてあったとすれば、それは確かに
  将来、何度でも現れるような形のものだったに相違ありません。
  今でも相似た心と心は互いに出会って、
  美しい此の世の楽しみを頒ち合っています、、、
  私たちがあなたに求めているものは、ほんとうに小さなことですが、
  しかもそのくせ大きすぎるように見えることなのです。
  あなたは御自分をすすんで委せて下さればよいのです。
 この公女の願いは詩人に届かず、反響なきまま、誰一人とも和解されることもなく物語は終わります。尊大な自己自身への仮借ない批判、びくともしない俗物への強烈な反撃、そして、公女の言葉に託したシュタイン夫人への尊敬と愛、大人になるのが遅すぎた人間はそれだけ感じやすい心を世間の風の中へ運んでいかねばならないのです。
 (まもなく2006年も暮れようとしています。来る年のみなさまのご多幸をお祈りいたします)

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2006年12月24日 (日)

エルンスト・ブロッホ『異化』

 「クレペリンはその手がたい『病理学教程』のなかでつぎのような幻想的自己体験を報告している」とブロッホは書いています。奥地ペルーの未踏の地方を探検していたときのこと、クレペリンは歩きながら、この道と場所とこの状況全体が前にそっくり体験したことがあるような気がしました。そればかりか、クレペリンには、その感覚に引き込まれると同時に、見通しの悪い道の曲がり角の向う側にいまに橋が見えてくるだろう、という確信さえも感じられたのです。すると、橋は既視感に先取りされていた通りに、そのすぐあと、曲がり角を通り過ぎた向う側に、こつ然と立ち現れたのです。
 既視感(deja-vu)の特徴は、非常に短い瞬間に細部まで精密な状況が突然一気に眼前にあらわれる、ということです。いかなる統覚論的、大脳生理学的説明も十分にまだこの感覚を説明することはできないでしょう。それは、私たちの存在の奥に隠れる未来の縁(ふち)と過去の深淵もまた垣間見せてくれるのです。

 ドイツ・ロマン派珠玉の傑作、ルードヴィッヒ・ティークの『金髪のエックベルト』を記憶の中に呼び覚ましましょう。ベルタは夫エックベルトの友人である騎士ワルターに、自らの子ども時代の思い出を語ります。彼女は貧しく過酷な生家を抜け出して放浪し、とある寂しい場所に住んでいる老婆のもとに身を寄せます。少女の仕事は老婆の飼っている小犬と小鳥の世話をすることで、その小鳥は毎日真珠の入っている卵を産むのです。単調な仕事に飽きてきた少女は世俗の華やかな生活にあこがれ、家出を決意します。小犬を愛撫し、別れを告げて部屋の中に犬をつなぎとめますが、小犬はキャンキャン泣いて必死に少女にしがみつこうとします。籠に入れた小鳥と袋一杯の真珠を持って、少女は都会に行き、はなやかな暮らしをはじめます。彼女は歌をうたっては悔恨をめざめさせるその小鳥を絞め殺します。やがて現在の夫である騎士エックベルトと出会い、城で幸福な生活を送りますが、ともすれば荒れ果てた小屋に置き去りにした老婆の運命に胸ふたがります。このようなことを騎士ワルターに話したベルタは、ワルターのつぎのような答えに耳を疑います。「奥様、感謝にたえません。あなたのお話がまるで目に浮かぶようです。あの珍しい小鳥も、あなたがあの小さなシュトローミアンに食べ物をやる様子も」。しかしベルタは、話の中でその犬の名前を一度も口にしたことがなかったのです。しかも、そのシュトローミアンという名はベルタが長い年月どうしても思い出せない名前でした。それなのにワルターは、その犬を目のあたりに見ているように、何げなく、思わずつりこまれるような調子でその名を口にしたのです。「はげしい驚愕が」とベルタは夜になってから夫にむかって言いました。「はげしい驚愕が私を襲いました。そんな風に赤の他人が私に昔を思い出させてくれたのですから。あの犬はなんとかしてあとについてこようとしました。でも置いてこないわけにはいかなかったのです、、、」
 「一緒に連れてこなかったのはあのつなぎとめられた小犬だけではない」と、エルンスト・ブロッホ(1885~1977)は『異化』(1971現代思潮社、種村季広・片岡啓治・船戸満之訳)の中で語っています。それは、とうの昔に結着をつけた仕事、不本意ながら結着をつけた仕事の、不幸な、命細る思いの書き直しや、書きかえや、書き重ねの亡霊にほかなりません。
 居酒屋のテーブルで、ブロッホがここまで書いたとき、二人の人間が談話の形でこの問題に加わりました。場所はカプリ島マリナのとある居酒屋、二人の人間とは、ブロッホの友人ヴァルター・ベンヤミンと居酒屋の主人(かつてハイデルベルクで給仕をしたことのある)でした。三人はジンを飲みながら漁師たちの帆船が帰ってくる明け方まで話し合います。以下はそのレジュメらしきもの。シュトローミアンに関するワルターの言葉の意味するところは「他者の既視感」です。彼は犬の声を聞き、ベルタが立ち去りもしていないあの昔の場所に凝然と釘付けになっているのを見るのです。ベルタが小屋をあとにしてきたのはみせかけにすぎなかったので、彼女の意識された忘却、彼女の亡霊は、犬といっしょにそこにまだ残留しています。ベルタの罪は、犬をあの小屋の中に置き去りにしたことであり、(なおざりにしたあらゆることの象徴として)それが犬の名を忘れることへと余韻を引いているのです。ワルターの声は、ベルタに、いま彼女は彼女が話しているその物語の場所にいることを教えています。いわば、ワルターは未踏の地を行くクレペリンであり、その地はベルタ自身であり、シュトローミアンは予知された橋そのものなのです。(物語の最後にワルターの正体が明かされます)

 細かい事物からおよそ玄妙な哲学的議論にまで飛躍するブロッホのエッセイ集の特徴と魅力は「探偵小説の哲学的考察」の章によく表れています。探偵小説は、啓蒙期にいたって初めて読者の前に表れるのですが、その役目は、物語が始まる前に犯されていた罪を暴露することにあります。探偵小説は、普通、何げない日常の描写から始まりますが、すでに邪悪な犯人は殺人を犯しているか、あるいは殺人の巧妙なシナリオの予備段階を演じています。探偵は、その慧眼により、巧みに隠されていた物語以前のおぞましい秘密を暴露し、平和な日常の裏で進行していた邪悪な犯人のたくらみを白日のもとにさらします。ここに至って探偵小説は「世界そのもののはじまり以前におこなわれた隠された凶行」を暴露することと極めて似通ってくるのです。深遠なまでに神秘的なカトリック哲学者フランツ・フォン・バーダー(1765~1841)は、この原初におこった悪しき出来事、世界がこの世界になる前に行われた犯罪について言及します。世界はその始まりから原罪と関連づけられており、しかも今もなお、それは悪運を私たちに送り届けているのです。「自然のあらゆる美しさを通じて」と、バーダーは語っています。「人間は、あるときは声低くあるときはまた声高に響いている自然の愁訴の声を聞き分ける、自然が人間の過失ゆえに身につけることを余儀なくされた寡婦のヴェールを嘆く自然の愁訴を」「転落というよりはむしろ恐ろしい犯罪のみが、この物質的開示(すなわち世界を)誘発せしめることが可能だった」。
 すでに犯されている犯罪のみが世界を作り出した、という考えは突飛なものではありません。同じことはサン・マルタンにも、また「原初の闇」を語るヤーコブ・ベーメにも見られますし、さらにベーメが影響を受けた16世紀のカバラ哲学者イザーク・ルリヤにも見られる、とブロッホは書いています。「ルリヤのいうところにしたがえば、bereschith ,すなわちはじまり(聖書はこの言葉ではじまる)は天地創成のはじまりを意味しているのでなくて、神自身が監禁されたこと( tsimsum = 収縮)を告示している」。このような考えは無意味でも無益でもありません。なぜなら、「そもそも、なにゆえに世界が表れたかという事実の未知性、この比類ない価値をはらむスフィンクスの謎を」誰一人として解き明かしたことはないからです。ベルタが、風変わりなシュトローミアンという犬の名を忘れたように、何か決定的に忘れ去っているものが人間の記憶の中に潜んでいるかもしれないのです。

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2006年12月14日 (木)

井上究一郎『忘れられたページ』

 来る2007年は、シャルル・ド・スポールベルク・ド・ロヴァンジュール子爵(1836~1907)の死後100年にあたります。私はこの名前を、井上究一郎の『忘れられたページ』(1971筑摩書房)ではじめて知りました。Spoelberch de Rovenjoul はベルギーの高名な貴族の家に生まれました。不品行で家庭をかえりみない父親にかわって、母はシャルルを溺愛し、シャルルは、サント・ブーヴのように、母なしでは生きられず、母の愛だけを唯一絶対のものとして育ちました。社交や狩猟などに興味を示さず、ゆえに貴族社会からつまはじきされ、誰からも理解されない神経質で虚弱な青年シャルルの趣味は、異教のロマン派の文人たち、バルザック、ゴーチェ、ネルヴァル、ジョルジョ・サンド、サント・ブーヴらにまつわるコレクションだったのです。彼はオペラ大通りに家を借り、厖大な資産にものを言わせて、名だたる古書籍商や蒐集家を相手取り、また友人や作家や学者と交わりを結び、徹底的な知的忍耐によってコレクションを充実させていきました。
 ロヴァンジュールは何を集めたのでしょうか。たとえばバルザック『人間喜劇』の殆どすべての肉筆原稿、作家たちの再校三校と回を重ねるごとにましてゆく校正刷り、未刊のまま終わった戯曲小説の腹案覚え書き、ばかりでなく、恋文の下書きや、レストラン、仕立て屋の請求書まで集めました。刊本では各版のすべて、小説や雑文の掲載されている雑誌・新聞のすべても蒐集しました。このような蒐集の重要性は計り知れません。作品の源泉、製作過程、隠された構造を解き明かすために、作家が闇に葬ってしまうつもりであった腹案のノート、草稿、書き消した文字や下書き、発表を予期しなかった書簡など、精密な実証的研究には不可欠のものであるでしょうし、それはまた実現しなかった巨大な可能性の揺籃でもあるのです。ロヴァンジュール子爵は晩年になって、その不朽の文学的コレクションをフランス学士院に寄贈し、学士院は彼の要望どおりそのコレクションを移送展示絶対禁止を守るシャンティイーの美術館に保管しました。そのコレクションに含まれる文書の宝庫に触れるためには、学士院会員二名の推薦状がなければならず、しかも展示は年三回の研究会のときのみ、という厳しさです。井上究一郎はこのコレクションを見るのが夢でした。「どんな機会にもめぐまれない無力な私だが、いつかフランスへ行くことができたら、ぜひそのコレクションを文字通り『眼のあたり』に見たいものだと考えた。不幸な状況を迎え、むなしい年月を送った。ところが、自力で『かの国』にたどりつくために要する代償がどんなに重いものであるか、頭が固くなり心が冷えてしまった年齢がどんなに腹立たしいものであるかを、いやというほど思い知らされてから、やっと昔の夢のロヴァンジュールに出会う機会が私に訪れた」
 井上究一郎は1957年、三代目館長ジャン・ポミエの特別の許可をもらい、参観という名目は許されないのでネルヴァル研究という理由をつけ、このロヴァンジュリアンたちの「至聖殿」を訪れます。彼はそこで、バルザックがハンスカ夫人のドレスの布で表装した『セラフィタ』の自筆原稿、「ロンサール以来、フランス詩がもった最大の叙情の発明者に」という献辞をつけてサント・ブーヴがユゴーに贈ったロンサール詩集のイン・フォリオ版などを手にしました。最後に彼に差し出されたのは、一枚の紙片、それは縊死したネルヴァルのポケットから発見されたパスポートの人相書で、46歳、身長168センチ、髪は栗色、、、とあり、下方にG・ラブリュニー・ド・ネルヴァルの署名がありました。

  すてきな夏がくると、
  私は行く、森へ、ひとりで、
  みどりの屍衣(しい)にうずもれて、
  丈(たけ)なす草に横たわる。
  その仰向きの頭の上の、
  そこを、それらが、すぎて行く、
  かわるがわるに、まるで詩か
  愛の思念のように!、、、
      ジェラール・ド・ネルヴァル『蝶』
 井上究一郎(1909~1999)はプルースト『失われた時をもとめて』の個人全訳で知られていますが、「フランス近代文学点描」と副題されたこの『忘れられたページ』には、彼のフランス文学への夢があふれるほど詰まっています。1957年、待望のフランス滞在の折、井上究一郎はパリ七区ユニヴェルシテ通り17番地のガリマール書店の建物に仮寓していました。同じフロアーにガストン・ガリマールの甥、ミッシェル・ガリマールも妻とアンナという養女三人で暮らしていました。ミッシェル・ガリマールは生涯の大部分を肺結核とのたたかいに費やし、死は彼の思想のすべてをしめていました。彼は長い間、死ぬことしか考えていなかったのです。それを救ったのは、同じ肺結核を病むアルベール・カミユとの友情と、ミッシェルが託されたプレヤード文庫への愛情でした。プレヤード文庫は1931年ジャーク・シッフランによってル・ダンテック原文校訂によるボードレール詩作全集によって始まり、その後ガリマール書店に移ってから、この小型で優美で完璧な叢書はミッシェル・ガリマールの刊行責任によって発刊されてきました。横11センチ、縦17,5センチ、厚さ2センチ、表紙はしなやかな革装、用紙はインディアンペーパー、この小型本に1500ページもの内容がつまり、何度ページを繰ってもその肌触りには飽きることがありません。「プレヤード文庫ほど、高雅で、個性的、一種のamitieを感じさせるものはない。この叢書ほど、発行する側、買い求める側の、ゆたかな文学的愛情の中で育ったものはない。プレヤード文庫は美しい紙のなかのパンテオンなのだ」
 ミッシェル・ガリマールは、またカミユの最大の親友でした。彼はこの人気作家を庇護し、たくみに創作の場や、休息の取れる安全な場を用意していました。二人とも同じく結核に青春を蝕まれていたのです。その1957年は、カミユのノーベル賞受賞の知らせでガリマール社は沸き立っていました。祝賀パーティ、届けられる山のような花束、テレビの撮影、ストックホルムへの一行の出発など、そのすべてを井上究一郎は目撃していました。そして、運命の1960年1月4日が訪れます。ミッシェルの運転するスポーツカーが激突、助手席に乗っていたカミユは即死、後の席のミッシェルの妻と養女は助かりましたがミッシェルは五日間苦しみぬいた後に死亡しました。その後、プレヤード文庫カミユ作品集が、その師ジャン・グルニエの序文とともに発刊されました。requiescat in pace み魂よ安かれ、と井上は結んでいます。

 ヴァレリーについて、マラルメについて、コクトー、ユゴー、ランボー、ルソー、スタンダール、そしてベルグソンの不幸な聾唖の娘について、等々ここに紹介したいものは数えきれません。しかし、最後はやはりプルーストについて書いておきましょう。
 プルーストは若いとき、デン・ハーグの美術館で、フェルメールの『デルフトの眺望』に出会いました。「私は世界でもっとも美しい絵画を見ました」と彼は友人への手紙で書いています。「われわれに背を向けているこの芸術家、後世にその顔を見られたがらない、そして後世が彼についてどう考えるかを知ろうともしない、この芸術家は」とプルーストは書いています。「私の思想に深く食い入るのです」1921年、ルーブル別館で開かれたオランダ絵画展に『デルフトの眺望』が出品されることを知ったプルーストは、20年前にオランダで見たこの大作の感動に、命をかけても再会したいと思いました。死を一年後にひかえていたプルーストは、ついに友人ヴォードワイエの腕にすがりながら、この「永遠の夏の午後」の前に立つのです。このときの実感は『失われた時をもとめて』の「囚われた女」の老小説家ベルゴットの死の場面に再現されました。ベルゴットは『デルフトの眺望』の中の「黄色い小さな壁」を見るために美術館を訪れ、そこで尿毒症の発作を起こして倒れます。「ぼくはこんなふうに書くべきだった。、、色の層をいくつもかさね、ぼくの文章をそれ自体の中でりっぱなものにすべきだった。この黄色い小さな壁のように」そうつぶやいて彼は息を引き取ります。
 その後の文章はこう続きます。「、、ただいえることは、この現世では、われわれが前世に負わされた義務の重荷をそのまま負って生まれてきたかのように一切が運ばれるということだ。この地上での生存の条件では、善をなせ、こまやかな心づかいをせよ、鄭重であれとさえいった義務を人に感じさせるような理由は何一つとしてなく、また神を信じない芸術家にとっては、永久に人に知られない一芸術家、わずかにフェルメールと推定されるにすぎない芸術家が、あのように技術をかたむけ洗練のかぎりをつくして描いたあの黄色い壁のように何度もおなじ一つの断片をくりかえして描く義務を感じる理由は何もない。たとえその断片が人の賞賛をえることになったところで、うじ虫に食われる自分の肉体にとってはどうでもいいことだ。現世でむくいられることのないこれらの義務はいずれもあるべつの世界に属しているもののように思われる。善意と細心と犠牲心の心の上に築かれる世界、この世とまったくちがった世界、われわれはその世界から出てこの世に生まれ、やがておそらくはその世界へ帰って、知られない掟の支配のもとにふたたび生きるのだろう。ただわれわれが、そこへ帰るまでに、この世でその掟に従うのは、われわれが心の中に、誰が書いたのかは知らずに、その掟の教訓をすでにもっているからなのだ、、、」
 

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2006年12月 9日 (土)

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

 1950年、パール・バックは長い間巧みに隠し続けていた自分のただ一人の実子キャロルについての告白を Ladies' Home Journal に掲載しました。The Child Who Never Grew (『母よ嘆くなかれ』1993法政大学出版局・伊藤隆二訳) と題されたその文章は、30年間愛と絶望の淵源であったものについての何飾ることのない記録だったのです。
 パール・バックは28歳の「人生でもっとも健康で輝いていた時」にキャロルを出産しました。キャロルは桃色の李(すもも)のような美しい赤ん坊でした。中国人の若い看護婦はキャロルを抱きながら「この赤ちゃんには、きっと何か特別の目的がありますよ」と言いました。人々は皆この美しい赤ん坊をほめたたえ、母親のパールは自分の夢がどんどんふくらんでいくことを感じました。彼女の夢は、家が子どもたちでいっぱいになること、そしてその子たちを立派に育て上げることだったからです。
 ところが、出産時に発見された子宮の腫瘍の切除の結果、もはや子どもを産めないと宣告されたパールは、その愛情と献身のすべてを娘キャロルに注ぐことになりました。キャロルはすばらしく健康ですくすく育ちましたが、パールは一抹の不安を感じていました。キャロルは三歳になっても話ができなかったのです。そして、青く澄み切った瞳は、しかしうつろで、落ち着かず、反応も変化もしません。友人たちに相談すると、心配しながらも皆なぐさめに満ちた答えを返してくれるのでした。真実がうすうす分かっていながら、この「うわべだけの善意の保証」に彼女はそれ以後どれだけ出会うことになるでしょうか! 
 当時、中国で暮らしていたパールは故郷のアメリカに渡り、キャロルをつれて可能な限りの小児病院、専門家、心理学者を訪ねます。その長い悲しい旅は、ミネソタ州ロチェスターのメイヨー病院で一区切りがつきました。そこでキャロルはたくさんの精密検査を受け、その後で病院の小児部長はパールに、彼女がこれまで何度も聞いてきたあいまいな答「希望を持ちなさい」を返してきたのです。母と娘は部屋を出て、再びがらんとしたホールのほうへ歩いていきました。その時、薄暗い廊下の隅の部屋から小柄な医師が静かにパールを手招きしているのです。そのドイツ人の医師は、母娘を狭い部屋に入れると、早口で不正確な英語で「わたしの話をお聞きください」と言いました。「奥さん、このお嬢さんは決して治りません。わたしは、このような子どもをこれまでに何人も何人も見てきました。あなたは望みを捨て、真実を受け入れるのが最善なのです。でなければ、あなたは生命をすりへらし、家族のお金を使い果たしてしまうでしょう。ーおわかりですか、この子どもさんは、あなたの全生涯を通し、あなたの重荷になるはずです。決してちゃんと話すことも、読み書きすることもできないし、四歳児以上の知能を持つことはないでしょう。、、、お嬢さんが幸福に暮らせるところを探して下さい。そして、そこに子どもさんを託して、あなたはあなたの生活をなさって下さい。わたしは、あなたのために本当のことを申し上げているのです」
 暗く長いホールを歩いて外に出ると、キャロルは外に出たのが嬉しいのか、跳んだり、踊ったりしています。そして涙にゆがんだ母親の顔を見て、大きな声を立てて笑うのでした。「取り除くことのできない悲しみを抱きながら生活するには、いったいどうしたらよいかを悟る過程の第一段階は惨めで支離滅裂なものでした。、、、いっさいのものに喜びが感じられなくなりました。風景とか、花とか、音楽といった、以前にはわたしが喜びを見出していたものも、すべて空しいものになってしまいます。、、、とうとうわたしは、顔を見たり声を聞くだけで、その人が、終りのない悲しみを抱きながら生きるということが、どういう意味かを知っているか否かが、わかるようになりました。そして、わたしは、その人たちが悲しみを抱きながらの生き方を悟ることができるのなら、わたしにもできるはずだと思いました」
 こうして、悲しみとの融和の道程が始まりました。その第一段階は、あるがままを素直に受け入れることでした。しかし、そこに至るまでが苦痛だったのです。「わたしは、何度も何度も泥沼にすべり落ちたのです。自然にすくすくと育ってゆく近所の子どもたちが、わたしの娘には決して話せないことを話したり、娘には決してできないことをしているのを見るだけで、わたしは打ちのめされたようになったものでした」
 パール・バックは、その絶望のどん底から這い上がってきました。彼女は「これがわたしの人生だ。わたしはそれを生き抜かなくてはならないのだ」と思うようになったのです。そして、キャロルが安全に幸福に暮らせる場所を探し始めました。というのも、母親が死んだ後で、この子どもは誰が面倒みてくれるだろうか不安でたまらなかったし、また、キャロルには同世代の、同じような障害をもって、こだわりなく交際できる仲間が必要だったのです。
 パールは、キャロルを施設に預けるための準備として、まず子どもの能力の限界を徹底して探ってみることにしました。やさしく、しかし厳しい稽古の日々が始まりました。その結果、キャロルにはかんたんな文章なら読めるし、非常に努力すれば自分の名前も書けることがわかりました。でも、ある日のこと、キャロルに文字を書かせていたとき、熱心のあまりパールは娘の手をとって書かせようとその右手を握ると、なんとその手は汗でびっしょり、ぬれていたのです。その両手をとって開いてみると、両手ともびっしょりとぬれているではありませんか。「そのとき、わたしは、娘がわたしを喜ばせようとする天使のような気持ちから、ただわたしのために、非常に緊張しながら、自分では何もわからないことに一所懸命になっていたことを知ったのです。娘は本当は何一つ学んでいなかったのです。わたしは自分の胸が押しつぶされるように感じました。やっと、われに帰って冷静になったとき、わたしはそこらにあった本という本を、二度と目にふれないように遠ざけてしまいました。この可憐な魂に無理をさせて、できないことをさせて、いったい何の役に立つというのでしょうか」「そのとき以来、わたしは幸福こそが、彼女の世界である、とひとりで心に固く決めました。わたしは娘に対するすべての野心も、またすべてのプライドも捨て切り、そして彼女のあるがままをそのままに受け入れ、それ以上は一切期待しまいと心に誓ったのです」
 パール・バックは、キャロルが九歳になるまで一緒に暮らし、それからアメリカ全土の施設を回って、ついに彼女に相応しい学校を見つけ、そこに彼女を預けました。最初の日、彼女は首にすがりつくキャロルを引き離して一人家に帰ったきました。そして、ときおり家に帰ってくるキャロルが施設に置いてある自分のレコードや施設の仲間を恋しく思い始めたとき、ついに長い旅が終りに近づいたことをパールは知ったのです。1938年にノーベル賞を受賞して、彼女は莫大な基金を施設に寄付し、その敷地内に、キャロルとその友人たちのコテージを建てました。パールは1973年に81歳で死亡し、その19年後キャロルは73歳でそのコテージで亡くなりました。パール・バックは、自分の傲慢な性格、感受性の鈍い人間や能力の低い人間に対しての自分の傲慢さは、キャロルによって一掃された、と感じました。そして、人間の精神はすべて尊厳に値するものであり、すべての人間は平等の権利を持つという信念もキャロルから学んだのです。中国の若い看護婦が言ってくれたように、キャロルは、きっと何か特別の目的をもって生まれてきた子どもだったにちがいありません。
(ピーター・コン『パール・バック伝』2001舞字社・丸田浩ほか訳 によれば、キャロルは、フェニルケトン尿症(PKU)の犠牲者でした。PKUは、フェニール・アラニンの代謝異常に因づく病気で、フェニール・ピルビン酸を尿中に排泄し、治療せずに放っておけば、知能の遅れを伴う先天性白痴をもたらす遺伝疾患だそうです。しかしながら、キャロルの生まれた1920年当時にはその病名も治療法も知られていませんでした。)

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