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2006年11月 8日 (水)

斎藤緑雨『おぼえ帳』

 維新直後に東京の人口は減少し、その後増加を始め、明治20年には最盛期の江戸の人口を凌ぎ、以降増加の一途をたどります。地方からの人口の大量の流入は、東京に住む人にとって、かつてない経験をもたらしました。食堂や工場で出会う人々は見知らぬ人々であり、見知らぬ文化的背景を背負っています。近代化され平準化された都会で無用のあつれきを避けて生きるためには一種のペルソナをまとうことが必要です。それが、都会の人々に、見知らぬがゆえの自由と同時にある神経症的感性を持たせることになりました。このような新しい世界に肯定的な意味を見出し、そこに青年の大きな可能性を見たのは『新日本の青年』の著者徳富蘇峰でした。個人と国家の自立を最優先に考える彼の思想の裏には、失敗者即無価値という開化期の精神が流れています。それに対して、時代の波に翻弄され、浮き上がれず埋もれていく庶民の生活を共感の心で見つめたのは樋口一葉であり、斉藤緑雨でした。
「威権堂々などいう声を本郷にて聞くときは、浦里が忍び泣きすりや、を本所にて聞くときなり」と緑雨は『おぼえ帳』(明治30年)に書いています。浦里は新内節で歌われる吉原の遊女です。江戸文化の骨格を成してきた庶民層は経済的圧迫から隅田川を越えて深川・本所辺に移動してきました。「目先の一寸に明るく、足下の三寸に暗き江戸っ子」は生存競争に勝てず、東へ東へ追いやられて来たのです。その結果、江戸文化の底流をなす、新内節・常磐津・清元・富本などの俗曲は多く本所・深川辺で聞かれたのでした。
 正直正太夫緑雨醒客斎藤賢(1867~1904)は伊勢に生まれ、九歳のとき家族共々上京し本所千歳町に住むことになりました。彼が江戸文化に惹かれ、俗曲の蒐集を始めたのは早くも十五六の尋常中学校時代でした。緑雨は小学校、中学校、法律学校すべて中退して十七歳で仮名垣魯文の弟子になり、魯文が主筆をしていた『今日新聞』の手伝いを始め、以降彼の長い記者生活が始まります。報知新聞社主であり実業界の大物であった小西義敬は緑雨の才幹を愛し、しばしば柳橋や新橋に彼を伴って出かけました。ここで深く知った狭斜の世界が江戸趣味と重なって彼の人生の色合を決定しました。柳橋と深川の遊里を舞台に若旦那と女達の泥沼のような世界を描いた名作『かくれんぼ』(明治24年)はこの経験から生まれたのです。しかし、地口や穿ちに満ち、色町の通によって観察されたこの物語は相応の評価を得られませんでした。明治18年に出た坪内逍遥の『当世書生気質』や19年に出た饗庭篁村の『当世商人気質』はまだ洒落のわかる江戸通の読者をあてにすることができたのですが、時代の推移は速く、雅俗折衷の緑雨の凝った文章や遊里の中のみの愛憎劇はすでに古くさくなっていたのです。
 ところが、その同じ頃の樋口一葉の出現は緑雨に衝撃と覚醒を与えたようです。緑雨は一葉の作品を激賞し、たびたび一葉の家を訪れ、死後は葬式の諸雑事を引き受け、遺稿を整理して一葉全集の発刊につくしました。一葉の何が緑雨をひきつけたのでしょうか。それは底辺の人々に寄せる彼女の共感に他なりません。一葉は荒物や駄菓子を商っていた下谷竜泉寺時代に近所の子どもや遊郭に通う人間たちを観察し『たけくらべ』を書き、丸山福山町に住んでいたときには銘酒屋の女の手紙の代筆をしたりした経験を『にごりえ』に結実させました。一方、緑雨は新聞記者になったはじめから、新聞の片隅に載るような小記事、社会の小さな出来事、また芸妓の手紙の反故などの蒐集をしていました。いつか、それらを使って、明治社会の縮図を描こうとしていたに違いありません。明治という激動の時代はこのような微細なことの中に最もよく表現されると思っていたからです。このことは明治30年『太陽』に連載されはじめた『おぼえ帳』からの一連の短文形式のエッセイで実現します。観察の細かさ鋭さ、文章の簡潔さ巧みさ、江戸文学と俗曲の造詣の深さ、すべて生あるものへの憐れみの真摯さ、これらの特質によって近代文学でこれに似せ、これを越えるものは一つとしてありません。ひとつだけ引用しましょう。

 「町すこし隔てて辻占売の声、何とは知らずあはれの誘わるるものなり、それなる小僧の江戸に出でて、ひとたびその声を聞きてより帰りて後も耳につきて忘られず、遂に主家を出奔し、人の命は五十年夢よりも淡路島、大路小路を通ふ千鳥の波のまにまに、浮世の海に何騒ぐらん恋の辻占売となりて、春はおぼろ秋はさやかの月にひとしほ声張上げ、うれしきたよりの提灯かたげて、生涯を屹度(きっと)だよのおたのしみに送りけるとかや。」

 明治東京の人々の心持ちは緑雨の手でこのように写しとられました。彼は持病の結核がついに高じて37歳で貧しく死にました。「江戸式文人の最後の一人」という逍遥の評は緑雨への最高の頌辞でしょう。田山花袋の『東京の三十年』によると、彼が出会った頃の緑雨は哲学的宗教的議論はいっさいせず、男女の苦しみ、または愛著に深く浸った人のようであった、ということです。また、一葉の日記によると、ある日、緑雨は一葉に、自分は吉原の消炭(下働きの男)になりたい、と言ったそうです。
 人の命は五十年夢よりも淡路島、、、

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