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2006年11月28日 (火)

G・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

 開巻、チェスの名手ジェレミア・ド・サン・タムールの自殺から始まり、コレラ患者発生の黄色の旗を立てて船が大河マグダレーナをゆっくり上る最後のページまで、寸分の緩みもなく読む者の心をとらえる力はこれぞ文学の奥深さ、練り上げられた技にほかなりません。『コレラの時代の愛』(2006新潮社・木村榮一訳)は半世紀以上待ち続けて、ついに愛を勝ち得た男の物語です。透明なアーモンドの瞳をした牝鹿のように美しい13歳の少女は、皺だらけの骨張った73歳の老女になっていました。その女性フェルミーナ・ダーサを愛するフロレンティーノ・アリーサも77歳、すでに肉体はかなり老衰しています。フェルミーナ・ダーサは相手の軟らかな一物を握り、フロレンティーノ・アリーサも彼女の垂れ下がった乳房、青白く冷たい大腿を愛撫します。長い人生の厳しい試練を経て、二人は生涯の残りをいとおしむ優しい心遣いを身につけていました。
 この息が詰まるような長い恋は、郵便局で働く青年フロレンティーノ・アリーサが、電報を届けに行った時に、その家の娘フェルミーナ・ダーサを見初めるところから始まります。裕福な娘の入るカトリックの学校へ付添いとともに通うフェルミーナ・ダーサを毎朝毎夕、通学路の公園のアーモンドの樹の下で詩集を読みながら待ち続けるフロレンティーノ・アリーサ。つのる思いを毎日の叙情的な長い手紙に託しますが、娘を名家に嫁がせたいフェルミーナ・ダーサの頑固な父親の反対や、フロレンティーノ自身の「亡霊のような」存在感の無さに嫌気がさしてフェルミーナ・ダーサはフロレンティーノをきっぱり遠ざけることを決意します。その頃、有数の名家の出であり、フランス留学から帰って来たばかりの若き医師フベナル・ウルビーノ博士が彼女の前に現れました。コレラの疑いで彼女を往診した博士はその魅力に打たれて、幾度にもわたる求愛を捧げます。21歳になろうとしているフェルミーナ・ダーサは、彼を愛していないもののついに結婚を承諾します。
 二人の結婚の話を知って、フロレンティーノ・アリーサは衝撃を受け、食欲もなく、生きる気力を失います。母親は心配して彼を長旅に出しますが、その途上で彼は霊感を受け、再び故郷の町に戻ってきます。彼は途方もない決意をするのですが、それはフェルミーナ・ダーサの夫が死ぬまで待ち、彼女が寡婦になって自分を受け入れてくれるよう、それまでに名を上げ、財産を蓄えておく、ということでした。彼は縁故をつたってカリブ河船会社に就職し、そこで苦しい仕事に辛抱強く耐え、徐々に地位と信用を得て、老齢になってついに取締役社長に就任します。フベナル・ウルビーノ博士は81歳で亡くなりましたが、フロレンティーノ・アリーサは彼の決意が実を結ぶまで「51年9ヶ月と4日」待ったことになるのです。
 ガルシア=マルケスについて語る者は常にその途方もない幻想に言及します。しかし、ジークフリート・クラカウワーも書いているとおり、現実がその上を行かない幻想などありません。街角の高校生のほとんどが携帯電話で連絡を取り合っているなどと20年前誰が小説に書けたでしょうか。一人の女を半世紀待つことは、それが過ぎ去ってしまえば平凡なことに思えますし、こと恋に関しては全てのことが起こりうるようにも思えます。ガルシア=マルケスの途方もなさは、だが、それが現実的であろうとなかろうと、幻想的な世界を肌で触れるように、匂いと、音と、神経の震えとを、感じさせてくれるところにあるのです。
 ひとつだけ、その場面を思い出しましょう。中年になっていたフロレンティーノ・アリーサは、ある夜、市内の高級レストランの片隅で一人で食事をしていました。すると奥にある大きな鏡に、あのフェルミーナ・ダーサが夫と友人夫婦と会食する姿が映っていました。天井のシャンデリアに照らされたフェルミーナ・ダーサはこれまでになく美しく輝いていました。フロレンティーノ・アリーサは、息をひそめて彼女を、まるで鏡を通り抜けてもどってきたような美しい彼女を観察します。コーヒーを四杯おかわりする間、ぽつんと離れた一人の席から、彼は鏡を通して、つかの間彼女とともに生き、彼女を見つめ、彼女とともに笑い、その禁じられた領域を心行くまで堪能します。会食が終り、友人たちと彼女が出ていくときに、多くの香水の香りに混じって、かつてのあの少女の匂いを嗅いだのです。それから一年余りの間、フロレンティーノ・アリーサは店の主人と交渉して、その大きな鏡を譲ってもらうよう粘りました。マリー・アントワネットゆかりという高価で華麗な枠に飾られたその鏡をようやく手にいれると、彼はさっそく家の部屋の壁にそれを飾りました。その枠組みの美しさに惚れ込んだからではなく、そこに愛する人の姿が二時間ほど映し出されたという理由で、そうしたのです。
 恋とは何かを手に入れる手段でなく、それ自身が恩寵であり目的である、とフロレンティーノ・アリーサは恋人への手紙に書いています。彼は一人暮らしの無聊を慰めるために多くの女性とも関係を持ちました。フェルミーナ・ダーサも幸福そうな結婚生活の裏で、自分が計算づくの結婚しかできなかったことの後悔に苛まれていました。だから彼ら二人が、遠い遥かな日の恋心を成就させたとき、するべきことは何も残っていなかったのです。いつまで航海するのか、という船長の質問に、フロレンティーノ・アリーサは「命の続く限り」と答えてこの長い小説は終わります、まるで物語の終わった後で二人の恋人が書物の向こう側でなお永遠に生き続けるように、、、。

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2006年11月17日 (金)

エドガー・ウィント『芸術と狂気』

 「ルネッサンス期の偉大な芸術保護者たちは、みな共通して不愉快な性質を持っていた」と、ウィントは書いています。「彼らは自分は保護者なのだということをはっきりと意識し、平気でそれを口にして語った。例えばメディチ家の礼拝堂の計画案・修正案をいくつも作った時、どれほど多くの口論が繰り返されたか、当時の資料を読まないかぎり想像することもできないだろう」廟墓についてのミケランジェロのデザインは、その注文主であるジュリアーノ・ディ・メディチ枢機卿によって何度も修正されました。果てしない口論の後に、やっと意見がまとまって、ミケランジェロが石を刻みかけた時、枢機卿は教皇に選ばれてクレメンス七世になりました。彼はこの機会に、またまたそれまでの計画をひっくり返して新しい案を持ち出しました。そしてそこから、今日のあの崇高な彫像が生まれでてきたのです。
 人嫌いで偏屈なことで知られるミケランジェロは、この横暴な保護者に対してはさだめし嫌な思いを味わったことだろうと誰しも考えるのですが、事実は全く違って、彼は自分の弟子に、深い敬意をこめて、クレメンス七世は芸術創造の過程について人並み優れた理解力を持っていると語っているのです。また、イザベル・デステはペルジーノの一つの作品について54通もの厳しい注文の手紙を書いています。マンテーニャの芸術も、もし彼女の執拗な注文がなかったら、あれほど豊かな開花を見せることはなかったかも知れません。イザベラの弟アルフォンソ・デステは、ティツィアーノを丁重にもてなしながらも激しい脅迫をも行って、有名な『バッカレーナ』の名作を生み出させました。
 ルネッサンス期の芸術保護者たちは細かい注文をし続けるほど暇だったのでしょうか。ところが、彼らの伝記を調べると、現代の実業家よりはるかに少ない余暇しか彼らは持っていなかったことがわかるのです。「彼らは毎日、現在のわれわれが想像することもできないくらいの身の危険と緊急の仕事に追いまくられていた。そのような恐るべき厄介な生活の最中で、なおかつ彼らが芸術家たちと論争し、相手を自分の意志に従わせようと努力する時間を見出し得たのは、芸術が彼らにとって毎日の食糧のように必要不可欠のものであって、それなしには生きて行くことのできないものだったからである。そして、思うにまさにこの点にこそ問題の根本が存する」とエドガー・ウィントは『芸術と狂気』(岩波書店・高階秀爾訳)で書いています。

 もし、現代の人間にとっても、彼らのように芸術が不可欠のものであるとしたら、やはり過剰な注文をし、芸術家を急き立て、財産と時間の多くをそれに捧げるでしょう。しかし、現実は芸術愛好家といえども、できあがって私たちの前を通り過ぎていく完成した作品を選ぶことしかできません。これは、むろん、芸術の大衆化と複製技術の進歩によるものですが、根本的には社会が芸術を飼いならしてしまっていることにあるのです。
 『国家』や『法律』で理想社会の様々な規則を並べたてたプラトンは、人々に狂気を起こさせる芸術家をその共和国から追放しました。「彼らが、われわれにその神聖な芸術を見せることがあれば」とプラトンは言っています。彼らに敬意を表し、その頭に香油を塗り、飾り立てて、町から出ていくように促すだろう、と。プラトンを怖れさせた芸術の魔力は今ではその影すらも見えません。マンテーニャの『死せるキリストを嘆く天使たち』は、その前に人々を跪かせるために描かれました。しかし、マネの『死せるキリストを嘆く天使たち』は同じ題材、同じ構図を用いながら、それは展覧会のために、そこで高い評価を得るために描かれたのです。享受する方も変わりました。私たちは展覧会の洪水、画集の氾濫に飽満させられています。「神聖なる恐怖はもはやわれわれの世界にはない」ロンドンでピカソの回顧展を見た人が、翌日はパリでプーサンの回顧展を見ることができます。「そして、何より驚くべきことは、そのどちらにも興奮を覚えることができるのである。、、、とすればこの両方の展覧会に訪れた人々は、それらに対して強い免疫性を持っていたことはあきらかである。芸術は、その刺を失ったればこそ、これほどまでに広く
受け入れられるようになったのである」

 ウィントは、現代人がこれほど安易に芸術を受け入れるようになった一つの原因を、彼がその専門でもある美術史学にもとめています。19世紀末から20世紀初頭にかけての最大の美術史家ハインリッヒ・ヴェルフリンは、おそらく言語の音韻法則からヒントを得て、人間の視覚形式もまた時代によって変化すると考えました。ゴシックのとがった尖塔のモチーフは、爪先のとがった靴にも同様に表れるし、いやむしろ靴の先端にこそそれはより純粋な形で表れるのです。この考えは新鮮で幅広いものの見方をもたらし、とらわれない態度で、見慣れぬもの、嫌悪をおこさせるものさえ喜んで考察の対象にする態度を生み出しました。ローマ末期やバロックなど頽廃期の芸術として軽蔑されたものも、それ固有の特質のために評価されるようになったのです。しかし、実はヴェルフリンの考察の根底には、また、人間感情への崇高な無関心がありました。彼は、芸術家の想像力に触れず、様式のみを、その上澄みだけを取り出します。そのために、彼ら(ヴェルフリン、ベレンソン、リーグルなど)に影響されて、人は芸術作品を前にして、人を感動もさせ不安にもさせ得る想像力の魔力から逃れながら、作品から作品へと逍遥することができたのです。
 しかし、「芸術とは心安らかならざる仕事である」とウィントは書いています。一つの芸術作品が私たちの心を捉えます。私たちは、その作品の中に引きずり込まれながら、なおその感動を現実の中にも探ります、すると作品は私たちを突き放し、私たちを不安定なある境界に置き去りにするのです。また、私たちは、普通は小さな紙の上にいたずら書きをします。それもまた芸術の端くれなのですが、もしその紙を次第に大きくしていって、想像力がそれほどまで拡大された場でなお自己を保ち続けることができるかどうかを考えると不安にもなるでしょう。「われわれは、芸術的想像力がわれわれの上に働きかけるや否や、自分たちが安全な岸を離れて広々とした海に泳ぎ出たことを知るのである、、、芸術とは、まさにこの不安定さと曖昧さの領域に住んでいるものであり、しかもその曖昧さが保たれるかぎり、芸術以外の何ものでもない」
 ここで、ウィントは結論を出します。多くの芸術作品が流れ去るように私たちの前を通り過ぎる現代、「彼らは芸術家を町から追放したりせず、自分たちに都合のよいように受け入れる。この心地よげな入れ物、この親しげな底なし沼の中では、創造の狂気のエネルギーは、いつのまにか吸い取られてなくなってしまうであろう」なぜなら、「偉大な芸術作品は堅固であると同時に脆い」ものだからです。

 エドガー・ウィント(1900~1971)はロシア系ユダヤ人の父とルーマニア系の母の間にドイツで生まれ、非常に裕福で知的な環境の下で育ちました。ベルリン大学に学び、八歳年上のパノフスキー、「神は細部に宿る」のアビ・ヴァールブルグに強い影響を受けました。30年代にドイツを出てアメリカで教鞭をとった後、オックスフォードの教授になりました。48歳で結婚し、その結婚生活は幸福であったということです。65歳で白血病にかかり71歳で亡くなりました。(『ルネサンスの異教秘儀』の訳者、田中英道の解説による)『芸術と狂気』は1960年BBCで放送された連続講演で、一般の人々のためにわかりやすく書かれています。

 最後に『芸術と狂気』の第三章「目ききへの批判」が捧げられているジョヴァンニ・モレルリ(1816~91)について書かねばなりません。モレルリはイタリアの解放と統一のために闘い、イタリア元老院議員になってから、変名を使い、ドイツ語で奇妙で革命的な書物を著しました。その本の中で、レフモレルリという名の青年が反教権主義者のイタリアの老人とドレスデンで出会い、美術品鑑定の基本原理を教わります。彼はそれによって、ドレスデン美術館の所蔵絵画のうち46点が偽物であることを証明するのですが、他の美術館の絵画に適用しても結果は似たようなものになりました。ジョルジォーネ、ティツィアーノなど多くの絵画が贋作と判定されたのです。モレルリの方法は次のようなものです。それまで、作者の判定の決めては全体の印象、構図、比例、色彩、表情、身振りなど美学的に重要な個々の特徴に拠っていました。ところが、これら芸術的に意味深い特徴はまさに贋作者によってもっとも真似されやすいところだったのです。モレルリはこれに反して、ただ一つの可能な判定方法は、およそ本質的とは思われない小さな特色、まったく無関係に見えるため模作者も修復者も贋作者も注意を払わないような二義的な特徴、例えば爪の形とか、耳たぶの形に準拠しなければならない、と断定しました。これらの部分は、作者自身も、贋作者も、最も気を緩める部分であるがゆえに自らの筆のままに任せてしまい、結果、誤りなく作者を指示するものになるというのです。「個性的な努力の最も少ない部分にこそ個性は見出される」のです。
 モレルリの方法は、彼自身が浸っていたロマン派の気分を強く表しています。中心よりも周辺を、完成よりも断片を、大作よりも素描を、という傾向は現代の芸術にも多かれ少なかれ影響しているとウィントは書いています。どんなことをしても真作をあぶりだすという風潮は、現在のレオナルド『最後の晩餐』の化学溶媒を使った「洗浄」にもみられるでしょう。ウィントはそのようなことを危惧していながらモレルリの業績には最大の賛辞を送っています。それは、「文法的に整えられた文章よりも、霊感に満ちた口ごもりに熱心に耳を傾ける」そのロマン主義への共鳴にほかなりません。 

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2006年11月 8日 (水)

斎藤緑雨『おぼえ帳』

 維新直後に東京の人口は減少し、その後増加を始め、明治20年には最盛期の江戸の人口を凌ぎ、以降増加の一途をたどります。地方からの人口の大量の流入は、東京に住む人にとって、かつてない経験をもたらしました。食堂や工場で出会う人々は見知らぬ人々であり、見知らぬ文化的背景を背負っています。近代化され平準化された都会で無用のあつれきを避けて生きるためには一種のペルソナをまとうことが必要です。それが、都会の人々に、見知らぬがゆえの自由と同時にある神経症的感性を持たせることになりました。このような新しい世界に肯定的な意味を見出し、そこに青年の大きな可能性を見たのは『新日本の青年』の著者徳富蘇峰でした。個人と国家の自立を最優先に考える彼の思想の裏には、失敗者即無価値という開化期の精神が流れています。それに対して、時代の波に翻弄され、浮き上がれず埋もれていく庶民の生活を共感の心で見つめたのは樋口一葉であり、斉藤緑雨でした。
「威権堂々などいう声を本郷にて聞くときは、浦里が忍び泣きすりや、を本所にて聞くときなり」と緑雨は『おぼえ帳』(明治30年)に書いています。浦里は新内節で歌われる吉原の遊女です。江戸文化の骨格を成してきた庶民層は経済的圧迫から隅田川を越えて深川・本所辺に移動してきました。「目先の一寸に明るく、足下の三寸に暗き江戸っ子」は生存競争に勝てず、東へ東へ追いやられて来たのです。その結果、江戸文化の底流をなす、新内節・常磐津・清元・富本などの俗曲は多く本所・深川辺で聞かれたのでした。
 正直正太夫緑雨醒客斎藤賢(1867~1904)は伊勢に生まれ、九歳のとき家族共々上京し本所千歳町に住むことになりました。彼が江戸文化に惹かれ、俗曲の蒐集を始めたのは早くも十五六の尋常中学校時代でした。緑雨は小学校、中学校、法律学校すべて中退して十七歳で仮名垣魯文の弟子になり、魯文が主筆をしていた『今日新聞』の手伝いを始め、以降彼の長い記者生活が始まります。報知新聞社主であり実業界の大物であった小西義敬は緑雨の才幹を愛し、しばしば柳橋や新橋に彼を伴って出かけました。ここで深く知った狭斜の世界が江戸趣味と重なって彼の人生の色合を決定しました。柳橋と深川の遊里を舞台に若旦那と女達の泥沼のような世界を描いた名作『かくれんぼ』(明治24年)はこの経験から生まれたのです。しかし、地口や穿ちに満ち、色町の通によって観察されたこの物語は相応の評価を得られませんでした。明治18年に出た坪内逍遥の『当世書生気質』や19年に出た饗庭篁村の『当世商人気質』はまだ洒落のわかる江戸通の読者をあてにすることができたのですが、時代の推移は速く、雅俗折衷の緑雨の凝った文章や遊里の中のみの愛憎劇はすでに古くさくなっていたのです。
 ところが、その同じ頃の樋口一葉の出現は緑雨に衝撃と覚醒を与えたようです。緑雨は一葉の作品を激賞し、たびたび一葉の家を訪れ、死後は葬式の諸雑事を引き受け、遺稿を整理して一葉全集の発刊につくしました。一葉の何が緑雨をひきつけたのでしょうか。それは底辺の人々に寄せる彼女の共感に他なりません。一葉は荒物や駄菓子を商っていた下谷竜泉寺時代に近所の子どもや遊郭に通う人間たちを観察し『たけくらべ』を書き、丸山福山町に住んでいたときには銘酒屋の女の手紙の代筆をしたりした経験を『にごりえ』に結実させました。一方、緑雨は新聞記者になったはじめから、新聞の片隅に載るような小記事、社会の小さな出来事、また芸妓の手紙の反故などの蒐集をしていました。いつか、それらを使って、明治社会の縮図を描こうとしていたに違いありません。明治という激動の時代はこのような微細なことの中に最もよく表現されると思っていたからです。このことは明治30年『太陽』に連載されはじめた『おぼえ帳』からの一連の短文形式のエッセイで実現します。観察の細かさ鋭さ、文章の簡潔さ巧みさ、江戸文学と俗曲の造詣の深さ、すべて生あるものへの憐れみの真摯さ、これらの特質によって近代文学でこれに似せ、これを越えるものは一つとしてありません。ひとつだけ引用しましょう。

 「町すこし隔てて辻占売の声、何とは知らずあはれの誘わるるものなり、それなる小僧の江戸に出でて、ひとたびその声を聞きてより帰りて後も耳につきて忘られず、遂に主家を出奔し、人の命は五十年夢よりも淡路島、大路小路を通ふ千鳥の波のまにまに、浮世の海に何騒ぐらん恋の辻占売となりて、春はおぼろ秋はさやかの月にひとしほ声張上げ、うれしきたよりの提灯かたげて、生涯を屹度(きっと)だよのおたのしみに送りけるとかや。」

 明治東京の人々の心持ちは緑雨の手でこのように写しとられました。彼は持病の結核がついに高じて37歳で貧しく死にました。「江戸式文人の最後の一人」という逍遥の評は緑雨への最高の頌辞でしょう。田山花袋の『東京の三十年』によると、彼が出会った頃の緑雨は哲学的宗教的議論はいっさいせず、男女の苦しみ、または愛著に深く浸った人のようであった、ということです。また、一葉の日記によると、ある日、緑雨は一葉に、自分は吉原の消炭(下働きの男)になりたい、と言ったそうです。
 人の命は五十年夢よりも淡路島、、、

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