« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月30日 (月)

アナトール・フランス『昔がたり』

 パリ、セーヌ河の河岸に古本屋の露店が並ぶようになったのは十七世紀の初めころからだそうです。幾たびかの排除と追放の歴史を経て400年もの間、パリの貧しく趣味良き人々の楽しみと慰めになってきました。ある時、自身も本好きであり、何冊かの書物の著者でもあるナポレオン三世が副官を伴ってポン・ヌフ近くの河岸を散策していました。冬の寒い曇った日で、一人の老人の店主が冷たい手を暖めるために鍋に本を燃やして暖をとっていました。古本屋が燃やす本とはどんな本だろうと興味をもったナポレオン三世は副官に行って訊いてこいと命じました。「『勝利と征服』であります、閣下」
 この話はアナトール・フランス(1844~1924)の『昔がたり Pierre Nogiere』(岩波文庫・杉捷夫訳)に紹介されています。マラケ河岸とヴォルテール河岸で育ったアナトール・フランスは、幼児のときから子守りに手を引かれてセーヌ河の岸を散歩していました。対岸に宝石のように彫刻を施されたルーブル宮があり、ノートル・ダムの数々の塔、怪人面に飾られたポン・ヌフなど、プラタナスとマロニエの樹と、本が並び、女性が通るこの河岸は「世界で最も美しいところ」だとフランスは書いています。「お互いに次の事実は認めることにしよう。セーヌ河こそ最も光輝ある河なのだから、疑いもなく、その河岸に並べられた本の箱はセーヌ河を飾るに相応しい冠だったのである」
 アナトール・フランスは(父親も河岸に大革命関連の古本を並べていた露天商だった)幼児から、貧しく幸福で静かに落ち着いているこれら古本屋の店主たちを見てきました。その中には、売れなくて鉉が錆びている眼鏡を並べた眼鏡屋、鎧や鉄の武具を扱う骨董商などもいたのですが、幼いフランスは彼らにも温かい心のうちを感じ取ります。枯葉が舞い落ち、本や絵葉書の間にはさまります。北風が屋根の帆布をゆらし本の頁をぱたぱたとはためかせます。客の来る日も来ない日も石像のように手摺にもたれてじっとしている店主もいます。アナトール・フランスはずっと後になってアカデミー会員になり裕福になってからもこの河岸をたびたび訪れ、貧しい老人から何冊も本を買うと別の老人に与えてしまうのでした。「私は喜びをもって思い起こすであろう」とフランスは語っています。「やわらかな美しい空、、あの胸の底まで感動がしみ渡ってくるやわらかい灰色の空のもとで、彼らの箱の前をぶらぶら歩いた長い時間のことを。私は二スウ均一の箱の埃と一緒に、数知れぬ恐ろしいあるいは愛すべき亡霊たちをひっくりかえすのである。このささやかな露店の箱の中に魔術を使って過去の姿が思い起こされるのである、、、」
 『エピクロスの園』(岩波文庫・大塚幸男訳)の印象深い箇所を最後に記しておきましょう。フランスは17歳のある日、パリのラルカド街の貸し出し図書館で、『サン・マール』の作者、ロマン派の詩人、後に彼が評伝を書くことになるアルフレッド・ド・ヴィニを見かけました。ド・ヴィニはカメオで首にとめた黒繻子の厚いネクタイをして、顔は穏やかでやさしく、絹のような柔らかな髪は、丸い頬の上に巻き毛をなして垂れていました。彼は真っ直ぐな姿勢で、小股に歩き、低い声で話しているのです。彼が立ち去った後で、フランスは彼が返却していた本のページを、感激に胸をとどろかしながら恭々しくめくってみると、(その本は『ラ・ヌーの回想録』でした)、その本の中に置き忘れられている栞を見つけました。その幅の狭い紙の栞の上に、大きく長く伸ばした筆跡でただ一つの言葉が書き付けられていました。Bellerophon と。ベレロフォンはギリシア神話の英雄で、天馬ペガソスの助力で女怪キマイラを倒した男、またこの言葉はワーテルローで敗れたナポレオンがセント・ヘレナに流される時乗せられた船の名でもあります。ヴィニはこの名を書きながら、現身(うつせみ)の栄華のむなしさを知ったナポレオンのことを思っていたのか、それとも(とフランスは推測します)こう一人つぶやいていたのだろうか、「天馬ペガソスに乗った憂愁の騎士は、ギリシア人が何といおうと、あの恐ろしくも魅力ある女性を殺したのではない。額に汗し、咽喉をからからにし、足を血まみれにしながら、われわれが狂気のごとく追いかけるあの女性ーキマイラを殺したのではない、と」
 キマイラとは人間の空想や妄想、つまり人生そのもののことなのです。

| | コメント (0)

2006年10月20日 (金)

ファン・フーリック『古代中国の性生活』(2)

 中国では、しばしば、家長が家の経営について子孫に書き残す秘密の家訓というものが存在しました。偶然その断片が残されたある家訓には次のようなことが記されています。
「街の東に若くて元気な、恰幅のいい男あり、その妻たちは朝から晩までいがみあい、彼のことばに耳をかさない。街の西に腰を曲げて歩く半白の髭の老人あり、妻たちは最善を尽くしてすなおに彼に仕える。これはどう説明したらよいか? その答えは、後者は房内術の微妙な極意を得ており、前者にはそれがないということである」
 古代中国の中上流家庭では夫は複数の夫人あるいは複数の妾を持つのが普通でした。文化的な古代中国では、妻や妾は法や慣習によって一定の地位と個別の権利を有していたので、家長たる男性はそれらの権利を尊重し、経済的扶養だけでなく、それぞれの好みや弱点についての配慮、婦人同士の関係への気配りなど、より微妙な分野にわたる配慮を求められます。もし彼がこの配慮を怠れば、家庭は混乱し、男としての信望を失い、役人ならば地位をなくし、商人ならば信用を失うでしょう。自分の家庭すら整然と保てない人間が責任ある地位を全うできる筈がないからです。フーリックの有名な推理小説のシリーズの主人公ディー判事(七世紀の実在の人物をモデルにしています)は殺人事件で出張のときも、家に残した三人の夫人への土産物に心を悩ませます。各々の好みを配慮し、しかも平等に贈らねばならないからです。
 ここに性の手引書が長い間あらゆる階層の人々に読まれてきた理由があるのです。これなくしては男性が家を保つのは不可能だった、とフーリックは書いています。それら手引書は、性愛の諸位相はむろんのこと、婦人への思いやり、生活の中で彼女たちが抱える問題に精通することを男たちに教えたのです。そのような手引書は一般に、黄帝が天老あるいは素女に教えてもらうという対話形式で書かれています。素女とはもと音楽に巧みな伝説の女性で、あるとき彼女が五十弦の琴を弾いた時、その音にあまりに心を動かされた黄帝はこの楽器が人類に危険すぎると判断し、二十五弦の小ぶりの琴に分割したということです。『素女経』から引用してみましょう。インポテンツに陥った黄帝が素女に相談します。
 「黄帝いわく、今強いて交接せんとするに玉茎不起、面慙(は)じ意羞じ汗珠子(たま)の如し、心情貪欲、強いて手を以て助く、そんな時どうしたらよいか教えられたい。素女いわく、陛下のお尋ねは誰しもの悩みです。人が交わろうとするときは踏むべき手順があります。何よりまず男は自分の気持ちを女の気分と調和させること、そうすれば玉茎は起ちます」
 他の大文明は滅びたのになぜ中国文明だけが生き残ったのか、この謎にフーリックは男性原理と女性原理の均衡と調和にあると断言します。男性の陽と女性の陰が同じ力で溶け合ったとき、神秘的で永続的な力が発揮されます。儒教徒にとっては子孫を生み、そうすることで自らが祭られ永遠の生命を得ること、道教徒にとっては限りない女性のエキスを男性が受けることによって此の世の長生を得ることが約束されるのです。手引書は常に調和について言及します。男性の快楽と健康(性は健康の源であるといわれています)は女性の快楽と健康に依存し、また索引もするのです。よって、性行為の際は男女ともに相手の気分の変化を読み取ることができねばならず、まず「和志」(気分を調和させる)に始まって、「臨御」(予備のたわむれ)「五微」(女性の五つの徴候)、「四至」(男根の四つの状態)「九気」(女性の九つの気分)などと進んでいきます。秘技として紹介されるのは「九浅一深の法」などですが、なにより基本の複数の形を飽きずに組み合わせて用いることが肝要とされます。古代中国において何より特異なのは留保性交の奨励でしょう。男性は射精せずに精力を蓄えるのをよしとします。これはまず一夫多妻制により一晩に複数の女性を相手にしなければならないという必要もあるのですが、なにより女性の陰は無尽蔵にあるが、男性の陽は限られているという考えに拠っているのです。
 最後に同性愛について書きましょう。女性の精は限りないと思われていたので女性同士の愛情は肯定され、むしろ気分転換の意味合いで奨励されもします。しかし、男性の精力の無駄遣いである男性同性愛は禁じられないまでも反社会的なものとみなされたようです。しかし、この分野でも古代中国文化はいくつかの美しい実例を挙げています。
 「前漢王朝最後の皇帝哀帝(前6ー1在位)には多くの寵童がいたが、その中で最も知られているのがあの董賢(とうけん)である。かつて帝が董賢と寝台を共にしていた折、董賢は帝の袖のたもとを下に眠り込んでしまった。謁見のため呼ばれた時、帝は董賢の眠りを妨げるにしのびず、剣をとって袖を断った。そのゆえに断袖(だんしゅう)という語は男の同性愛を指す文学的表現となったのである」
 袖を断つほどの深い情愛をそそぐ相手が、美女でもなく、幼児でも子猫でもなく、男性でなければならなかったというのは、深く感動させるものがあるのです。
 

| | コメント (0)

2006年10月14日 (土)

ファン・フーリック『古代中国の性生活』(1)

  後漢の天文学者であり、剛直な行政官、そして詩人であった張衡(76~139)は祝婚歌として、花嫁がその夫にあてた詩を書いています。
  あなたに運よくめぐり会うことを得て
  私はここにあなたの閨房に入りました
  あなたは初めての交わりをしたがるけれど
  私はまるで探湯(くがたち)をするようでこわいのです
  不才ながらできるだけやってみましょう
  妃の務めを果たすようにー
  食事のお世話に心を配りましょう
  うやうやしく先祖の供養のお手伝いをいたしましょう
  あなたのお床の敷物になりたいのです
  堅いベッドをおおうために
  絹の衾(ふすま)と天蓋になりたいのです
  乾燥と寒気からお守りするために
  枕と敷物を掃き清め
  爐には珍しい香をたきました
  さあ二重の扉に金のかけがねをおろしましょう
  灯をともして私たちのへやを光で満たしましょう
  私はきものを脱ぎ紅白粉をおとし
  枕辺に絵巻物をのべます
  素女(そじょ)を私の導き手とするならば
  私たちはありとあらゆる形をおこなうことができましょう
  そこらの夫はめったに見たこともない
  天老が黄帝にお教えなすったようなー
  この初夜の喜びにならぶものがありましょうか
  これは忘れられますまい どんなに年をとったとて
               (『玉臺新詠』巻一)
 この詩には中国人の性への関わりについて実に多くのことが語られています。
 古代中国では西洋ほど支配階級と非支配階級の差はなかったようです。どちらの結婚も族外結婚が厳密に守られ、特に上流階級では同姓との結婚は禁じられていました。下層階級の結婚は「奔」といわれ、遭遇を意味するこの言葉は村の祭りでの偶然の出会いから結婚に発展することが多いことを教えています。上流階級の結婚は「婚」と呼ばれ、黄昏(たそがれ)を意味するこの謎めいた言葉は、儀式や床入りが夕方すぎに行われることを示唆しているのかも知れません。張衡の詩はむろん裕福な家庭について詠んだもので、このクラスの結婚はほとんど仲人が取り持ちます。仲人は親族関係、財産、花嫁の身持ちなどを慎重に調べて婚約を組み立てます。どちらかに不満があると流血の事態に発展しかねません。花婿はあひるを持って花嫁の家を訪れ(なぜあひるなのかは解明されていません)、花嫁を連れて今度は自分の両親に紹介します。花嫁は三日後に一度実家に戻り、それ以後は決して実家に帰ることはできません。基本的に大人数で構成される中国の家庭に、全くひとりぼっちの花嫁が放り込まれるのですが、夫は両親および祖父母への服従が当然とされて、決して花嫁の肩を持つことはありません。しかし、二度と実家に戻れない、ということはそれゆえに周囲のやさしい心づかいを誘うようです。悲劇に陥ることもまれにあるが、大体は順調に新しい世界に馴染んでいき、もし男子を出産すれば、妻の座は揺るがぬものとなります。
 さて、閨房に入ってみましょう。中国の寝台はゆうに小部屋ほどの広さがあり、その上に鏡台、化粧道具入れ、着物掛けなどが置かれ、四方から帳をおろすことができます。閨房の外では夫と妻の肉体的接触は禁じられており、また妻は完全に夫に従属すべきものとされていますが、閨房に入ると立場は逆転します。妻は夫を導き、夫は妻を性的に満足させる義務を負います。(五日に一度の交わりが義務づけられ、七十歳になるとはじめてその義務から解放され、夫婦は同じ箪笥に衣類をしまうことができます)夫婦の性生活は祖先を敬うと同様神聖な儀式であり、それゆえ秘め事とされます。全般的に考えて、中国では病的な異常性や倒錯が少なく、西欧に比べて健全であり得たのは、性行為の神聖さの認識によるものであろうとフーリックは書いています。性は罪であり、女性もまた罪人である、という思想ほど中国に無縁のものはありません。男が女より上なのは、天が地より上と同じことで、質的に優っているからではありません。古代中国が性的抑圧を可能な限り抑えられたとしたら、この男と女の調和の微妙なバランスが作用したに違いありません。
 むろん、夫婦仲が良くない場合、正当な理由があれば夫が一方的に離縁することも生じました。しかし、中国のような高度に文明化された社会では、さまざまな慣習法や実定法により女性の権利はある程度守られていたし、また複雑に洗練化された人間関係は男女相互の思いやりを当然のこととしていたようです。張衡の詩のように、中国では男性の詩人が女性の気持ちを代わって詠むという形式が非常に多く、これもその表れであろうと云われています。(女性に文盲が多かった、という事実もむろんあります)。ファン・フーリック『古代中国の性生活』(1988せりか書房・松平いを子訳ー名訳です)はさまざまな夫婦の形を挙げて興味がつきません。『春秋』昭公28年の項に記されている例は美しい女性と結婚したある容貌醜い高官の場合です。三年間というもの、妻は夫と話をすることを拒みました。やがてある日、彼が妻を馬車に乗せて湖に行き、そこで彼が雉子を射当てた時、彼の妻ははじめて笑って彼に話しかけた、ということです。
 「素女」や天老・黄帝の記した性の手引書とその内容については(2)で紹介します。

| | コメント (0)

2006年10月 4日 (水)

川口松太郎『鶴八鶴次郎』

 昭和10年第一回直木賞は『鶴八鶴次郎』『風流深川唄』の川口松太郎に贈られました。『鶴八鶴次郎』は成瀬巳喜男の映画でも知られていますが、今に至るまで舞台に載せられること多い名作です。この物語は誰しも、一読、忘れ得ぬ感慨を抱くに違いありません。鶴八と鶴次郎は今売り出しの新内語り、鶴次郎は先代の鶴八の弟子であり、師匠亡き後、娘の二代目鶴八とコンビを組んでいました。三味線を弾く鶴八は十人並みの器量だが愛嬌のある24歳の娘、太夫の鶴次郎は色の黒い無口な、色男でないがその分芸人特有の嫌味もない29歳の男、しかしこの二人の語り物は八町飢饉といわれ八町四方の寄席、芝居が不入りになるほどの人気を得ていたのです。今日は折しも新富座名人会の大舞台、であるにもかかわらず楽屋では毎度の二人の大喧嘩、芸に厳しい鶴次郎は鶴八の三味線に文句を付け、強情な鶴八も負けずにやり返します。ところが、楽屋では喧嘩しても舞台に立つと一転芸人の顔になり、我を忘れ、一対のように二人の息がぴったり合ってきます。その日の演目は膝栗毛の「赤坂」、弥次郎兵衛の鶴次郎と三味線を弾きながら喜多八を演ずる鶴八の絶妙な駆け引きが満席の客を魅了します。寸分の狂いがあっても失敗する厄介なこの演目が実は二人の売り物の芸で、大舞台の初日はこの赤坂でなくてはならないのです。
 「『これは関の東に住む弥次郎兵衛』
  と鶴次郎が直ぐにかかるのを
  『喜多八と申すものにて候、扨(さて)もこのたび、都がたを一見せばと思い立って候』
  と鶴八が、間髪を入れぬ素早さで引き取る。と、すぐにつづいて、
  『ことさら、今日も早や日暮れて、道を急ぎ候ほどに、宿を取らばやと存じ候』
  『よッ』
  『東路をー』
  『よおーい』
  ツン、ツン、ツンツン、二の糸の弾き出しに、鵜の毛で突いたほどの隙もなく、ピタリピタリと息の合って行く面白さ」
 広い新富座の寄席一杯、語り手も聴手もうっとりとなって、咳一つするものもいません。赤坂並木に陶然として、舞台も客席も最後の一節が終わるまで渾然とそのへだたりを失います。
 しかし、汗びっしょりになって楽屋に戻ってくるなり、二人の喧嘩は始まります。「あそこの、ハアを、先代はウンと上から冠せたが」「えーだも、ハアこりゃこりゃ」「そのハアが弱い」「何云いやがんでえ、名人面するな」と、鶴八も女らしくない伝法な声で鶴次郎を罵ります。しかし、この二人、仲が悪いかというとそうでもなく、『風流深川唄』のおせつと長蔵のように自分の気持ちを率直に表せない深川ッ子の恥ずかしさがあります。またこれが浅草で生まれ育った川口松太郎の好みでもありましょう。
 二人の新内節の評判が高まっていくなか、先代鶴八の追善法会の帰りに、めずらしくしんみりと鶴八が鶴次郎に話しかけます。「あなたには隠していたけれど、私は近々に身を固めようと思っているの」「身を固めるとはお嫁にいく話かい」鶴次郎はびっくりして鶴八を見ました。「まあ、大体、、、」「今までそんな噂はちっとも聞かなかったじゃないか」「自分でもどうしようか迷っていたんで、誰にも相談しなかったんです」「相手は誰なんだ、芸人か、堅気か」鶴次郎はあわてて聞きただします。「松崎さんといって、下谷の、ほら、、、」「伊予善かい」鶴次郎の問いに黙って鶴八はうなずきました。「そりゃ出世だ」下谷の伊予善といえば会席料理の老舗で数寄屋町一帯を地所に持つ百万長者としても知られています。
 鶴八が気付いて後を振り向くと、鶴次郎は歩みをとめて、暗い道ばたの杉の樹の下に佇んでいます。「どうしたのよ」「、、、、」「ね、どうしたの次郎さん」「どうもしやしない」と云った鶴次郎の目に涙が光っています。「ねえ、次郎さん、何を泣いているの」後から肩を抱くと、鶴次郎はいきなりお豊(鶴八の本名)を振り返って、「お前に嫁に行かれちまって、一体あたしゃあ、誰の三味線であしたっから、、」と云いかけ耐えきれない涙が堰を切って流れます。「止しておくれよ、お豊ちゃん、お嫁に行くんならあたしんとこへ来ておくれ、外へはいかないでおくれ、、」「次郎さん、一体、、」と鶴八は鶴次郎の手をしっかり握り返します。「あんた、私を好いてくれるのかい」「わかんないかい、それが」「わからない、年中喧嘩ばかりして私をいじめて、、、なら、なぜ一ぺんでもそう云ってくれなかったの、、、私の方じゃ、次郎さんのお内儀(かみ)さんになれると思っていたから、、、でも喧嘩ばかりふっかけてくるし」「、、、」「そうだろう、次郎さん」「そうだ、ほんとうに、そうだ」「次郎さんさえ私を好いてくれるなら、誰が好んで嫁になんか行くものか」と、お豊も胸の内を吐き出します。
 鶴次郎は念願の自分の寄席を持ったら、晴れて鶴八と夫婦になろうと決めていました。だが、それには二万円の金が必要で、今の貯えは三千五百円しかありません。早く式をあげたい鶴八は、お母さんの残したものを全ておろして工面すると云って、鶴次郎の前に一万五千円の現金を差し出します。喜んだ鶴次郎、お成町にあった古い寄席を予算の半額で買い取って、宿願の自分の席を開くことができました。ところが、会場当日の招待状に伊予善の松崎宛のものがあったのに気付いた鶴次郎は、肝煎りの人に、実は鶴八が工面した一万五千円は伊予善から借りたものだと打ち明けられます。怒った鶴次郎は鶴八のもとに怒鳴り込んで、俺を騙したな、松崎と切れたといったのは嘘だったかと難詰します。お豊にしてみれば、松崎の名を出せば鶴次郎の心持ち悪かろうと黙っていたのですが、鶴次郎の怒りは収まらず、お豊も罵詈雑言を浴びせられて、手元の煙草箱を投げつけ怒鳴り返します。
 結局、これですべてが元の木網になり、婚約は解消、寄席もまた売りに出され、二人は顔さえ合わせなくなりました。「早く夫婦になりたさで借りてきたお金を、淫売だの、妾だのって、馬鹿にするのもいいかげんにしろ」と鶴八は腹の底から憤慨し、前後の分別もなくなって、ついに伊予善に片付くことを決意します。並びない天才といわれた二人もこうしてはなればなれの運命を拓くことになりました。

 鶴八と喧嘩別れした鶴次郎、三味線を弟子の鶴市に弾かせて高座に出ましたが、片割れ月の物足りなさ、とうていそれまでの人気を維持することができません。持ち前の美声に衰えはないものの、人気というものは捉えどころのないもので、実力ばかりで押し切れないこの世界、一度落ち目になると興行主たちも温かい言葉をかけず、一年もたたぬ間に落ち目から落ち目へ坂を転げる速さは尋常ではありません。一方、伊予善に嫁したお豊は、芸人の世界からきっぱり足を洗い、夫にも愛されて幸福な毎日を送っていました。新内語りを嫁にとる家だけに芸事に理解があり、一家親族悉く芸好きで、お豊も何かにつけて三味線を弾くこと多く、一族すべてから愛される全く順調な生活でした。
 「今になってこんなこと云えた義理じゃございませんが」と、元鶴次郎の舞台番の佐平が思いあまって、お豊の家を訪ねてきました。「二代目さんと別れたのが運のつきで、鶴次郎さんは今や落ちぶれて場末の席を廻っております。昔は一滴も飲まなかった酒を浴びるように飲んで、、、私ゃ、次郎さんをもう一度世に出したいんです」落ち目になった鶴次郎と聞くと、お豊の胸がなぜかつまって、何も言えません。「二代目さん、堅気の立派な奥様になっておられるあなたにこんなことを云うのは初めから無理だと承知していますが」と佐平は切り出しました。「どうで、ござんしょ、今度丸の内の有楽座でまた名人会がございます。その時だけもう一度昔の鶴八師匠に帰って頂くことはできねえでしょうか」「三年もたった今となっては、もう忘れられているでしょう」「とんでもねえ、鶴八鶴次郎が再び名人会で赤坂を語るとなりゃあ、有楽座の六日間はきっと満員しますぜ」と佐平の顔には必死の色が浮かんでいます。思えば惚れあった仲、その鶴次郎が自棄酒をあおっていると聞くと、昔の人気は取り戻せなくとも、せめてもう一度華やかな名人会の昔を見させてやりたいとお豊は思いました。夫に頼むと六日間だけならとの許しがあり、こうして再び名人会の看板の下に二人の名前が掲げられたのでした。
 鶴次郎は酒を断ち、開演までお豊の家へ通い、六日間の語り物を順々にさらって、お豊はお豊で、練習中は家のものを立ち入らせず、三年の昔を取り返そうと懸命でした。初日の客はまず七分の入りで、昔の馴染みの客も多く見られました。初日の出し物は新富座の時と同じく赤坂で、場末の高座ですさんだと思われた鶴次郎の声量も、むしろ一種の錆が加わり、陰影多い魅力がついて聴衆を魅了します。初日は大成功で、楽屋には昔のひいきが押し寄せ、とりわけ人気役者の守田勘弥が連続で来て感心して帰ったとの噂は直ちに内外に広まりました。二日目は蘭蝶、三日目が千両幟、四日目明がらす、五日目は酔月情話で、最後の六日目はもう一度赤坂でした。「お豊さん、ありがとう。あんたのお陰で生き返ったよ、ありがとう、ありがとう」と鶴次郎は頭を下げます。お豊も、長く忘れていた人気芸人の華やかさに浮き足たって顔をほてらせています。六日目、補助椅子を出すほどの盛況になった最後の舞台に出ようとする時に、有楽座の主任が守田勘弥からの言づてで、勘弥が帝劇で蘭蝶をやりたいので鶴八鶴次郎の二人に帝劇への出演を問い合わせてきた、と告げました。帝国劇場といえば一世一代の晴れ舞台、芸人冥利とはこのことでしょう。お豊は二つ返事で出演を承諾し、「芸人の血が帰ってきた。夫が何といおうと私はやる」と興奮して頬をふくらませます。「次郎さんの傍らに並んで三味線を弾いている気持ちは堅気の奥様ではわからない。今となってはもう堅気には戻れない気がする。帝劇でも寄席でもどこでも出ようよ、次郎さん。私は、本当に本当に松崎とは別れるよ」
 最後の赤坂も熱狂的な好評のうちに終わって、「おめでとうございます。おめでとうございます」という祝い言葉が八方から寄せられるのをよそに鶴次郎だけがなぜか冷めているようです。楽屋に帰ると、鶴次郎は三味線をとりあげて、「お豊さん、どうもあそこがおかしかった。初日も変だと思ったが、今日もやっぱりいけなかった」「どこが、どこがいけなかったの」「木遣だよ」「そこがどういけないの」「どうって、まるでだめだね」「まるで」むっとして、お豊は鶴次郎から三味線を引ったくりました。後は売り言葉に買い言葉、お互い雑言を投げあいます。「拙いとも、拙すぎる、はっきりいやあなってねえよ」と鶴次郎が云うと、お豊の両手はぶるぶる震えて「私が出たからこそ名人会の顔付けにものったんだ、それを何だ、何だい一体、、、」お豊は楽屋の梯子段を駆け下りていきました。
 「駄目だなこいつは」と主任が佐平につぶやきます。「鶴次郎の馬鹿にもあきれらあ」

 「馬鹿だよ、お前さんは全く馬鹿だ。これほどの馬鹿とは思わなかった」その夜遅く、上野の腰掛けの呑み屋で、佐平と鶴次郎が差しで飲み、二人はもう好い加減に酔っています。「つくづく呆れ返ったか」「呆れた。腹の底から呆れた」と、手酌の猪口をぐっとさすと、「あれほど乗り地になって来たお豊さんを、怒らせるのが馬鹿の証拠だ、何たって帝劇に出ねえという法はねえ、いくらお豊さんの芸が拙いからっといって、、、」「拙くはねえんだよ」と鶴次郎は佐平の言葉を押さえつけて、「拙いどころじゃねえ、鶴八は名人だ、これから先、女の芸人であれほどの奴は決して出やしねえ」「だって、さっきはお前、、、」「あれは覚悟の上で仕組んだ芝居だ、落ちぶれた三年の間に、俺はしみじみ芸人がいやになったんだ、長い盛りでなし、盛りを越した芸人の惨めさはまだ鶴八には判らねえ、今のままでいりゃあ生涯奥様と呼ばれて暮らせる鶴八だ、女にとってこれ以上の出世はねえ、芸や人気が何になる、盛りの短い目先の欲で可愛い女の生涯を踏みつけるこたあできねえ」「、、、、」「そう思ってくれねえか」「うん」かすかに佐平はうなづいて目を落としながら「判ったよ」とつぶやきます。「不景気な面ァするねえ、男一匹、流しをしたって喰うには困らねえ、飲みねえ、さ、ぐっと、姉さん、熱いの二つかためて持ってきてくんな」「飲もうよ、次郎さん」見合わせた二人の目には涙が湧いています。
 川口松太郎(1899~1985)のこの傑作はアメリカ映画『ボレル』(1934)のリメイクとしても知られていますが、ダンサーの世界を新内の世界に置き換えただけでなく、まだ新内語りが人気のあった大正の東京の風情をうまく描いています。松太郎の本質はペシミズムで、『鶴八鶴次郎』の「芸や人気が何になる」とか『風流深川唄』の「義理ほど辛いものはない」という言葉にその本質のいくらかは覗かれるでしょう。

| | コメント (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »