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2006年9月17日 (日)

レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』

 ロック(1632~1704)が、イエスの行った奇蹟を誰も否定することができない、と言ったことで、レオ・シュトラウスは、17世紀後半に生きた有能な著述家にしてはあるまじきこと、とてもスピノザやホッブズの同時代人とは思えない、と書いています。ギリシア・ラテンの人文主義的教養、先進の科学知識の広く行き渡った当時を考えれば、素朴に宗教を信ずるなどはまずあり得ないことだったのです。友人のセルドゥンが死の床にあって牧師をよんだとき、ホッブズが「男らしく書いてきたあなたが、いま女のように死にたいのか」と言って友人の意志を撤回させた話は有名です。アリストテレスの権威さえ疑われていました。活動的生活よりも観照的生活をよしとするアリストテレスに対して、ヴェリュラム男爵、のちのセント・オールバンズ子爵、フランシス・ベーコン(1561~1626)は「、、、この人生という劇場においては、観客であることは神と天使だけに許されたことである」と批判しました。ベーコンの秘書であったホッブズはさらに徹底的に考えます。人間にとって生得的義務といったものはあるのか、人間を律する自然法といったものはあるのでしょうか。
 何もない、とホッブズは答えます。自然状態の人間は自分が自分の主人でした。彼は全くの自由人であったはずでした。ところが、ここで彼は自らの情念の犠牲になるのです。他人よりも優越したいという欲求、それを万人に認めてもらいたいという欲望、つまり虚栄心に打ち負かされるのです。「精神のあらゆる快楽とあらゆる喜びは、比較した場合に自分の方が優れていると思うことのできるような人間を発見することにある」とホッブズは書いています。偶然にも全く同時代のラ・ロシュフーコーの『箴言と考察』(1665)の根本主題も人間の虚栄心についてでした。虚栄心は、他人の不幸を望み、つまるところ、他人に軽蔑されることを怖れるあまり、他人を滅することを願います。この「万人に対する万人の戦い」を抑えつけるのがリヴァイアサンという「誇り高ぶる王」つまり高慢を屈服させる強大な力なのです。
 ホッブズ(1588~1679)の思想の背後には何があったのでしょうか。まず、理性の無力さについての確信です。人は戒律を守ることはできない、それほど情念は人間にあっては強いのです。だからベーコンのように情念を相争わせることで調整しようとしても無駄だし、ロックのように理性でコントロールできる社会を構想しても意味がありません。エピクロスが言ったように、そもそもわれわれは非政治的、非社会的人間なのです。よって、ホッブズの努力は、このような情念と調和するような政治論を構成することに注がれました。その基本原理は、暴力による死の恐怖からの脱却です。たゆまざる虚栄心は人間相互の抗争に陥らざるを得ず、その情念を制するのは死の恐怖によるしかないと言うのです。人は死の恐怖から免れるために強大な国家を作り上げます。虚栄心と死の恐怖、それが人間の自然状態まで降りていったホッブズが人間存在から捨象しえないとして残した二つのキーワードだったのです。
 ルソー(1712~1778)は、ホッブズの仮定した自然状態は、本当の原始の状態ではなく、彼の時代の彼自身の経験から割り出されたにすぎない、ホッブズは人間を非社会的としながら、その非難を社会的人間である自分自身から考え出している、と批判しました。そもそも人間社会がこれまで存続しえた理由は、生来の同情心、共感の心のおかげではないだろうか、というのです。また、ホッブズが社会を作り出す根拠とした「死への恐怖」も、後世、多くの疑念が起こってきています。
 しかし、ホッブズの偉大さは、やはり、その徹底性にあるのです。人間の自然状態は悲惨であり、人間は鉄鎖以外失うものは何ものも持たない、とホッブズは言いました。そして、人間を支えるどんな宇宙的支えもありはしないのだが、だからこそ人間は宇宙の主権者になりうると強調します。彼が対決したのはギリシア以来の伝統的考え、人間は国家社会を介してでなければその本性の完成には達しないという思想でした。そうではなく、大切なのは国家でなく個人なのです。国家が戦争で国民に死を要求することはできないはずだ、とホッブズは言っています。自己保存権の絶対的優先。「本性的な臆病は許容されねばならない」と内乱勃発のとき人一倍早く英国を逃れたホッブスは書きました。
 レオ・シュトラウス(1899~1973)の感動的な書物『ホッブズの政治学』(みずず書房1990・添谷育志・谷喬夫・飯島昇蔵訳)は91歳まで生きたこの思想家の思索の跡を周到に辿りながら、自由主義の根底に迫ります。「ホッブズは自由主義的文明理念が何に対して戦わねばならないかを見抜いていた。つまり、堕落した制度や支配階層の悪しき意志に対してだけではなく、人間は自ら生まれもっている悪と戦わねばならぬと見抜いていたのである。ホッブズは非自由主義的世界の中で、非自由主義的な人間的自然(本性)に抗して、自由主義の基礎付けを貫徹したのである。それに対して彼の後継者たちは、人間の生まれつきの善を信頼したり、また自然科学的中立性を根拠として、改善の希望を心に抱いている。もし人間が自分の経験を反省してみれば、そうした希望にはいかなる権利も与えることができないはずなのに、、、」

 コーザーの『亡命知識人とアメリカ』(岩波書店・荒川幾男訳)によれば、レオ・シュトラウスは1899年南ドイツの小さな町キルヒハインに生まれました。両親は同化していない正統派のユダヤ教徒でした。彼はマールブルク、フライブルクその他の大学でカッシラーやハイデガーから指導を受け、1938年にアメリカに渡りました。彼は晩年の20年間をシカゴ大学で教え、そこでアメリカ史上類を見ない広範で影響力の大きい学問的カルト(宗派)を作り出しました。シュトラウスは綺羅星のごとく優秀な弟子たちを集めましたが、彼らは平民 vulgus には許されない秘教的な知識の通路を持っている選民の集団であると自認していたのです。シュトラウスは、古代から近世までの著作家の書物を読む際に、従来の解釈に信をおかず、その隠された意味を自らの手で理解するように教えました。彼は、永遠の智慧というものが存在し、それは巧妙に隠されているので秘教的手続きなしには理解し得ないものとみなしていました。この、精神生活に献身していた指導者のカリスマ性、知的貴族性は強く弟子たちの胸を打ち、彼らに、堕落した現代社会の再生の道はレオ・シュトラウスの著作の中に見出されると信じさせたのです。自分たちだけが真理に通暁し、他の庶民はそれに与る権利はないというエリート主義は、今や、ホワイトハウスの執務官たちの根底的思想として生きているとも言われています。
 レオ・シュトラウス自身は、全く気取りがなく、素朴であったと彼を知る多くの人が記しています。彼は、多くの名講義をする教授たちの芝居がかった講壇マナーを軽蔑して、人々に自分をただ「ミスター・シュトラウス」とだけよぶように言っていました。そして、多数の学生たちに最も強く印象づけたのは彼の学問への純粋な献身でした。彼はシナゴーグに行くことをやめてしまっていましたが、自らをマイモニデスのように、真と善の知識の探求が生涯を支配するあのラビたちの長い系列に属するものと見ていたのです。

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コメント

saiki様の素晴らしい香気あふれる文学エッセイが更新されることを、いつも心待ちにしています。地味なタイトルの人目につかぬ本が、著者様の筆にかかると埃を払われたように鮮やかな色彩でエキゾチックな光を放ち、魅了されずにはいられません。私にもこれだけの文章が書けたら!
唯一の欠点は、saiki様の本の紹介があまりに見事で、読んだ気になってしまい肝心の本を読まずに終わってしまう、ということでしょうか(笑)。でも、今回、つい勢いで紹介されたシュトラウスの本を借りてきてしまいました。
これだけの充実して神経の行き届いた文章を定期的に更新されるのは、大変な労力と推察します。これからも愛読させてください。

投稿: | 2006年9月18日 (月) 19時36分

コメントありがとうございます。遠い宇宙からの電波を受け取ったような予想外の驚きと喜びを感じました。たいへん励みになります。取り上げる本の選択からして迷いに迷うのですが、少数の方でも読んでくださる方々がいると思うと苦労もあまり感じません。
「わざわざ古い本を引っ張り出さなくても、、」とよく言われるのですが、書物と人間の間には人間同士のつながりに似て一言で言い表せない不思議なものがあります。『ホッブズの政治学』は十年以上前に初めて読んで難解でさじを投げたのですが、三度目にようやく私なりに理解できたように思えました。
これからもどうぞ感想をお寄せください。ありがとうございました。それでは。

投稿: saiki | 2006年9月19日 (火) 23時33分

こんにちは、トムです。
この本はIバーリンがレオ シュトラウスの書いたものの中で一番良いと誉めていたので覚えていました。今回初めて読みましたが内容は予想を超えたものでした。
ホッブズの作品自体はリヴァイアサンを途中まで読んだぐらいであまり馴染みがありません。(だんだん読むのが苦痛になってきます)ただ近代というものを考える上で転換点になる重要人物なのかもしれないと考えさせられました。同じ書物を読んでも読み手の技量でそこから汲み取るものに雲泥の差があるのですね。私はつくづくニーチェのいう「本を読む怠け者」にすぎないと痛感させられました。

投稿: トム | 2010年4月 3日 (土) 11時16分

トムさん、こんにちは。久しぶりではありませんか。
ホッブズもシュトラウスも、私には難解で手に余ります。
しかし、何かがきっかけで突破口が開かれてしまうというのも思想の本にはよくあることです。
ジッドが日記で、「今日は怠惰に過ごした」と記している日は、読書三昧で終わった一日を意味しているのですが、ニーチェも同じような意味で使ったのでしょう。
書き続け、考え続けることが、やはり大切ということでしょうか。
それでは。

投稿: saiki | 2010年4月 4日 (日) 13時24分

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