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2006年9月23日 (土)

スーザン・ソンタグ『反解釈』

 『反解釈』(1971竹内書店、1996ちくま学芸文庫・高橋康也、由良君美、出淵博、海老名宏、河村錠一郎、喜志哲雄訳)の意味するところは、要するに作品を様々に解釈することによって、解釈家は作品を変改してきたにすぎない、大事なのは作品をそのまま味わうこと、その外形から理解していくことである、ということです。形式から説き起こす優れた批評の例としては、パノフスキーの美術論、アウエルバッハの『ミメーシス』、バルトのロブ=グリエ論、ベンヤミンのレスコフ論などが挙げられています。むろん、これらは立派なもので、特にベンヤミンの『物語作家ーニコライ・レスコフ』はソンタグにとって理想の書評でしょう。しかし、人は自分と反対のものに魅かれると言われるように彼女の批評スタイルはこれらとはやや一線を画しています。
 ソンタグの魅力は、批評とは実際、批評家の趣味以上には出ないことを教えてくれたことにあるのです。批評とは「ひとつの美学、すなわち私自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究」にすぎないのだとソンタグは言っています。つまるところ、解釈も反解釈もない、内容も形式も関係ありません。ベンヤミンのレスコフ論は誰にも(ソンタグにも)模倣は不可能です。ベンヤミンの個人的趣向、人間よりも事物を愛すること、子供よりも玩具を、思想よりも書物を、現実よりも物語を、生活よりも街路を愛することの中に彼の本然の生が隠されています。もの言わぬ「物」への過剰な執着、それはアドルノが「生命を持たないものだけが、なお生き生きした生の比喩でありうる」といった事物への愛なのです。彼の批評にあって、形式が内容を凌駕するのは当然のことでしょう。しかし、ここにまたベンヤミンの欠点ともいうべきもの、関係性への怖れのようなものが潜んでいるのです。彼は、さまざまな事物が雑然と素敵にたたずんでいる森の中を彼一人が散歩しているときだけ幸福なのです。だからベンヤミンは女性たちと不幸な関係しか結べず、自分の魅力を彼女たちに伝えることができませんでした。目の前の、機械仕掛けではない人間への心くばり、その人の幸福と不幸について考えることが彼には欠けていたのです。
 ソンタグの本領はベンヤミンと違って、そのワイルド流の気取った、尊大で、スタイル重視の裏に隠されているものは、苦悩する人間への共感、苦悩する人間にだけ注がれた眼差しです。『反解釈』の中の一編「シモーヌ・ヴェーユ」を見てみましょう。これこそ、ベンヤミンには書けずソンタグにのみ書けたものです。苦悩をその一ミリ単位で測定しようとした女性、自らの体を測定器のように深淵にさらした女性、シモーヌ・ヴェーユはモンテーニュが問い、パスカルが答えようとした問い、なぜ人間は愚かにも悲惨なのか、という問いに答えようとしました。それは重力があるからだ、というのがあまりに簡明な彼女の答えです。生きている限り底なし沼のように落ちていく、それが人生であり、救いは恩寵にしかありません。自分とは対極にいるかのようなこの女性にソンタグは温かいまなざしを送ります。
 「苦悩する著作家の代価をもとに、われわれは真実を計量する、、、われわれの真実のひとつひとつに殉教者がいなくてはならない」とソンタグは書きます。「その誇張と自己毀損の程度において無茶といってよい生涯ークライストのようなキルケゴールのようなーがシモーヌ・ヴェーユの生涯であったのだ。私が念頭にしているのは、シモーヌ・ヴェーユの生涯の狂信的な禁欲主義であり、快楽や幸福に対する彼女の軽蔑であり、崇高だが馬鹿げた彼女の政治的身振りであり、彼女の精細な自己否定であり、不断に苦悶を求める彼女のあり方であるが、彼女の飾り気のなさ、肉体的なぶざまさ、偏頭痛、肺結核のことも除外してはいない。ヴェーユの生涯を愛するひとでも、こういう生涯を自分の子供に望もうとしたり、あるいは自分の愛しているいかなる者にも望もうとするひとはいまい。だが、生存はもとよりのこと、真摯さをわれわれが愛するかぎり、われわれはこのような生涯によって心を動かされ、心を養われるのだ。このような生涯に対して尊敬を払うことによって、われわれはこの世における秘蹟の現前を認めるのだ、、、」
 この文章こそスーザン・ソンタグです。「自分の生活を変えることはできず、また変えようともしなかったアルキビアデスが、それでもソクラテスに心を動かされ、ゆたかにされ、愛にいっぱいになってソクラテスに従っていったように」私たちは、ソンタグの語るシモーヌ・ヴェ−ユやパヴェ−ゼやカミユやミシェル・レリスなど、分裂し、破壊され、苦悩した生に魅惑されるのです。『反解釈』はハンナ・アーレントの『暗い時代の人々』と並んで、批評が人の心を深く動かし得ることを私に教えてくれた思い出の一冊です。

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2006年9月17日 (日)

レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』

 ロック(1632~1704)が、イエスの行った奇蹟を誰も否定することができない、と言ったことで、レオ・シュトラウスは、17世紀後半に生きた有能な著述家にしてはあるまじきこと、とてもスピノザやホッブズの同時代人とは思えない、と書いています。ギリシア・ラテンの人文主義的教養、先進の科学知識の広く行き渡った当時を考えれば、素朴に宗教を信ずるなどはまずあり得ないことだったのです。友人のセルドゥンが死の床にあって牧師をよんだとき、ホッブズが「男らしく書いてきたあなたが、いま女のように死にたいのか」と言って友人の意志を撤回させた話は有名です。アリストテレスの権威さえ疑われていました。活動的生活よりも観照的生活をよしとするアリストテレスに対して、ヴェリュラム男爵、のちのセント・オールバンズ子爵、フランシス・ベーコン(1561~1626)は「、、、この人生という劇場においては、観客であることは神と天使だけに許されたことである」と批判しました。ベーコンの秘書であったホッブズはさらに徹底的に考えます。人間にとって生得的義務といったものはあるのか、人間を律する自然法といったものはあるのでしょうか。
 何もない、とホッブズは答えます。自然状態の人間は自分が自分の主人でした。彼は全くの自由人であったはずでした。ところが、ここで彼は自らの情念の犠牲になるのです。他人よりも優越したいという欲求、それを万人に認めてもらいたいという欲望、つまり虚栄心に打ち負かされるのです。「精神のあらゆる快楽とあらゆる喜びは、比較した場合に自分の方が優れていると思うことのできるような人間を発見することにある」とホッブズは書いています。偶然にも全く同時代のラ・ロシュフーコーの『箴言と考察』(1665)の根本主題も人間の虚栄心についてでした。虚栄心は、他人の不幸を望み、つまるところ、他人に軽蔑されることを怖れるあまり、他人を滅することを願います。この「万人に対する万人の戦い」を抑えつけるのがリヴァイアサンという「誇り高ぶる王」つまり高慢を屈服させる強大な力なのです。
 ホッブズ(1588~1679)の思想の背後には何があったのでしょうか。まず、理性の無力さについての確信です。人は戒律を守ることはできない、それほど情念は人間にあっては強いのです。だからベーコンのように情念を相争わせることで調整しようとしても無駄だし、ロックのように理性でコントロールできる社会を構想しても意味がありません。エピクロスが言ったように、そもそもわれわれは非政治的、非社会的人間なのです。よって、ホッブズの努力は、このような情念と調和するような政治論を構成することに注がれました。その基本原理は、暴力による死の恐怖からの脱却です。たゆまざる虚栄心は人間相互の抗争に陥らざるを得ず、その情念を制するのは死の恐怖によるしかないと言うのです。人は死の恐怖から免れるために強大な国家を作り上げます。虚栄心と死の恐怖、それが人間の自然状態まで降りていったホッブズが人間存在から捨象しえないとして残した二つのキーワードだったのです。
 ルソー(1712~1778)は、ホッブズの仮定した自然状態は、本当の原始の状態ではなく、彼の時代の彼自身の経験から割り出されたにすぎない、ホッブズは人間を非社会的としながら、その非難を社会的人間である自分自身から考え出している、と批判しました。そもそも人間社会がこれまで存続しえた理由は、生来の同情心、共感の心のおかげではないだろうか、というのです。また、ホッブズが社会を作り出す根拠とした「死への恐怖」も、後世、多くの疑念が起こってきています。
 しかし、ホッブズの偉大さは、やはり、その徹底性にあるのです。人間の自然状態は悲惨であり、人間は鉄鎖以外失うものは何ものも持たない、とホッブズは言いました。そして、人間を支えるどんな宇宙的支えもありはしないのだが、だからこそ人間は宇宙の主権者になりうると強調します。彼が対決したのはギリシア以来の伝統的考え、人間は国家社会を介してでなければその本性の完成には達しないという思想でした。そうではなく、大切なのは国家でなく個人なのです。国家が戦争で国民に死を要求することはできないはずだ、とホッブズは言っています。自己保存権の絶対的優先。「本性的な臆病は許容されねばならない」と内乱勃発のとき人一倍早く英国を逃れたホッブスは書きました。
 レオ・シュトラウス(1899~1973)の感動的な書物『ホッブズの政治学』(みずず書房1990・添谷育志・谷喬夫・飯島昇蔵訳)は91歳まで生きたこの思想家の思索の跡を周到に辿りながら、自由主義の根底に迫ります。「ホッブズは自由主義的文明理念が何に対して戦わねばならないかを見抜いていた。つまり、堕落した制度や支配階層の悪しき意志に対してだけではなく、人間は自ら生まれもっている悪と戦わねばならぬと見抜いていたのである。ホッブズは非自由主義的世界の中で、非自由主義的な人間的自然(本性)に抗して、自由主義の基礎付けを貫徹したのである。それに対して彼の後継者たちは、人間の生まれつきの善を信頼したり、また自然科学的中立性を根拠として、改善の希望を心に抱いている。もし人間が自分の経験を反省してみれば、そうした希望にはいかなる権利も与えることができないはずなのに、、、」

 コーザーの『亡命知識人とアメリカ』(岩波書店・荒川幾男訳)によれば、レオ・シュトラウスは1899年南ドイツの小さな町キルヒハインに生まれました。両親は同化していない正統派のユダヤ教徒でした。彼はマールブルク、フライブルクその他の大学でカッシラーやハイデガーから指導を受け、1938年にアメリカに渡りました。彼は晩年の20年間をシカゴ大学で教え、そこでアメリカ史上類を見ない広範で影響力の大きい学問的カルト(宗派)を作り出しました。シュトラウスは綺羅星のごとく優秀な弟子たちを集めましたが、彼らは平民 vulgus には許されない秘教的な知識の通路を持っている選民の集団であると自認していたのです。シュトラウスは、古代から近世までの著作家の書物を読む際に、従来の解釈に信をおかず、その隠された意味を自らの手で理解するように教えました。彼は、永遠の智慧というものが存在し、それは巧妙に隠されているので秘教的手続きなしには理解し得ないものとみなしていました。この、精神生活に献身していた指導者のカリスマ性、知的貴族性は強く弟子たちの胸を打ち、彼らに、堕落した現代社会の再生の道はレオ・シュトラウスの著作の中に見出されると信じさせたのです。自分たちだけが真理に通暁し、他の庶民はそれに与る権利はないというエリート主義は、今や、ホワイトハウスの執務官たちの根底的思想として生きているとも言われています。
 レオ・シュトラウス自身は、全く気取りがなく、素朴であったと彼を知る多くの人が記しています。彼は、多くの名講義をする教授たちの芝居がかった講壇マナーを軽蔑して、人々に自分をただ「ミスター・シュトラウス」とだけよぶように言っていました。そして、多数の学生たちに最も強く印象づけたのは彼の学問への純粋な献身でした。彼はシナゴーグに行くことをやめてしまっていましたが、自らをマイモニデスのように、真と善の知識の探求が生涯を支配するあのラビたちの長い系列に属するものと見ていたのです。

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2006年9月 7日 (木)

ブールジェ『現代心理論集』(2)ボードレール

 「十七歳で『悪の華』を読むことは、それまで未知であったさまざまな感覚の一世界に踏み込むことである」と、ポール・ブールジェは書いています。

 汝は、匕首の閃くごとく、わが愁いし心に突き入りぬ、、、(「吸血鬼」)

 汝、淑やかなりとて何かあらん!
 ただ美しくあれ哀しくあれ、、、(「悲しき恋歌」)

 われは汝を夜の穹窿(そら)のごとく讃う、
 ああ、悲哀(かなしみ)の満てる甕よ、丈長の物言わぬ女よ、、、(「作品24」)

 このような詩句に誘われて、危険な好奇心はさまざまな夢想に落ちていきます。「魂の育成者としては、ボードレールよりももっと厳正で適切な教訓をたれる人がいる」とブールジェは言います。「しかし、ボードレールほど暗示的で、かつ一層魅惑的な育成者はいない」ブールジェが『現代心理論集』を発表した1883年は、ボードレールの死(1867)からそれほど時が経っていず、彼の評価はまだ賛否半ばしていました。その後、年を追うごとに彼の評価は高まり、ヴァレリーが「ボードレールは今や光栄の絶頂にあります」という有名な言葉を発したのは1924年でした。ヴァレリーはその講演で、マラルメやヴェルレーヌやランボーも決定的な年頃に繙いた『悪の華』の読書がなかったとしたら、あのような詩人にはならなかったであろう、と言っています。

 ブールジェは、まず、ボードレールの恋愛についての特殊な概念について説明します。ボードレールは恋愛詩においては同時に神秘家であり、放蕩者であり、分析者であるというのです。この三者は個別に競い合っているのでなく、ボードレールの中で神秘的で官能的で知的な恋愛の概念は三重の労苦のように渾然と一体になっているのです。

 聖母(マドンナ)よ、いとしき人よ、
 おんみのためにわが苦悩の底に、
 地下の祭壇を築かん、、、  (「聖母に」)

 大部分のボードレールの詩には、カトリックの儀式の背景とパリの悪徳の背景がそっくりある、とブールジェは書きます。彼は教会の聖体顕示台の上に娼婦部屋の臭気を、色褪せた白塗りの売女の顔に霊化された光を見出します。このような態度の底には、失われた幸福を悲しむ哀惜とか遠い幸福をこい願う詠嘆ではなくて、救うすべのない虚無感、存在に向っての決定的な呪詛があるというのです。
 「この人間はカトリックの教育を受けた。そして霊的実在の世界が彼に啓示された。多くの人々にはこの啓示はとるにたりないものである。しかし、神秘的な魂にとってはそうはいかない。ボードレールの魂はそのようなものであった。この魂は神を見ていたのだ、、、この魂にとって神は言葉でもなく象徴でもなく抽象でもなく、魂がもろともに暮らすある存在であった。その感動はあまりに甘美で強烈であったので、それが去ってしまうと、もはやそれほど強烈でない代替物の容れる余地を残さなかった、、、彼がどれほど侮蔑をもって『人類』や『進歩』を自己の神とみる二流の信者どもを罵倒したか知るべきである」「とすれば、彼のうちに残っている彼岸への憧憬に応える具体的『理想』を探し求めてもしようのないこの世界に対して、彼が空虚な感じに打たれるほど自然なことがまたとあろうか」

 確かに俺は出ていかう、行為と夢とが兄弟に
 なれないようなこの世から、俺としたらばいさぎよく、、
                (「聖ペテロの非認」鈴木信太郎訳)
 
 そこで、この空虚を満たし、あるいは欺くために、昂奮剤の猛烈な探求となります。また、「いずこにか世界の外へ」any where out of the world の魂の逃避を賛美したすべての作家たち、プロクロス、エドガー・ポー、デ・クインシーなどハシッシュのように昂奮させ非現実へ誘う書物に耽溺することになったのです、、、。

 ブールジェはさらにボードレールにおけるデカダンスの精神を指摘します。デカダンスdecadence とは、もともとローマ帝国の「衰亡」を表すのに使われた言葉で、ブールジェの『現代心理論集』におけるそれは文学のある傾向を説明するのに使われた最も早い例の一つです。ローマでは、その興隆期には、他の部族との闘いのために、健康な子供を多く生み、多数の優秀な兵士を作り出すことが市民の義務であり、またそれが社会一般の美徳の規準を決めていたのです。ところが、市民が裕福な暮らしに慣れてくると、ほとんど子供を生まなくなり、親としての苦労を避け、子供も兵営生活の粗野を嫌います。快楽への理解、萎縮した思考、繊細な懐疑、移り気なディレッタンティズム、それがローマ帝国の社会的創傷でした。デカダンスに反対する論拠は、デカダンスが明日を持たないということと、蛮族に滅ぼされるということですが、高邁な精神は暴虐なマケドニアの勝利よりも頽廃したアテネの敗北を選ぶでしょう。そして、ボードレールこそは、デカダンス(頽廃期)の中にあって、自分がデカダンと宣言し、自分の生涯のすべてを自己の快楽と自己の表現の探求にかけた人間でした。
 ボードレールは二つの志を持っていた(と私は思います)、ひとつは自分のやむにやまれず描き出す言葉と世界がパスカルが企てたように人間と社会の運命を含むすべての領域まで到達可能であるということ、そしてそれゆえに時代を越えて、さらに次の時代へも生き延びるだろうことです。ヴァレリーは次のように言っています。青年ボードレールは自分の虚弱な体質と病気から考えて、自己を完成し、後世に名を残すためにはおよそ20年の歳月しか残されていないのを知っていた、と。そして、ここから彼の悲惨な生涯の凄まじさが想像されうるのです。アンリ・トロワイヤ『ボードレール伝』(2003水声社・沓掛良彦・中島淑恵訳)によると死ぬ一年前、安ホテルを渡り歩いていたボードレールと偶然出会った友人が彼を自分のアパルトマンに泊めると、なかなか眠れずに寝返りを繰り返していた彼はやおら立ち上がって計算を始め、大声で、韻文詩、散文詩、翻訳、新聞雑誌への寄稿など自分の生涯の全収入は15892フラン60サンティームだった、と叫びました。友人、カトゥル・マンデスはそれを聞いて、同情と憤りで胸が熱くなりました。人気作家がメロドラマで大金を稼いでいるのに、この偉大な詩人、手厳しく繊細な思想家、完璧な芸術家は、労多き26年の文筆生活で、一日にわずか1フラン70サンティームしか稼ぎだしていなかったのです!シャルル・ボードレール(1821~1867)はベルギーのサン・ルイ教会で倒れ、8月31日パリで死亡。雷雨の中、ごく少数の会葬者に見守られてモンパルナス墓地に埋葬されました。
 

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