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2006年8月18日 (金)

幸田文『父ーその死』

 休みの日、暑さもやや静まった夕方近く、思い立って、千葉県市川市菅野の露伴終焉の地を訪れてみました。小林勇『蝸牛庵訪問記』には京成電鉄本八幡駅からの道順が詳細に記されていますが、今では町も様変わりしてほとんど役に立ちません。付近は一軒家やアパートがぎっしりと建ち並んでいて、当時の田舎町の風情は全く消え、ただ、白幡神社だけが夕立のように落ちてくる蝉のなき声とともに60年前の昔をしのばせてくれます。露伴の住居跡には個人の家が建っていて、作家の死の場所を示す標識の一枚すら見当たりません。
 昭和21年1月、露伴一家(露伴と娘文と孫娘玉)菅野に転居、時に露伴79歳、すでに読書もできなくなり、糖尿病で半分寝たきりの状態でした。戦後の混乱の中、慌てて探し当てた住居ですが、二畳・四畳半・八畳の手狭な平屋、写真を見ても田舎のみすぼらしい古家にすぎません。思えば露伴にとって最悪の時で、文化勲章・学士院会員・芸術院会員の肩書きも、荒んだ世相とさびしい田舎町のためにその威光を弱められ、生涯最後の一年半を安普請のベニヤ板の天井を見ながら送らざるを得なかったのです。おまけに露伴の新刊はほとんど売れず、売れても卵一個より安くては何の足しにもなりません。
 死の4ヶ月前、大作『芭蕉七部集評釈』の口述を完成した後、80歳の露伴はさらに衰えを増していきます。すべて自分一人で生活の大半を賄ってきた人間の通例でしょうか、身内の看病や家事には人一倍うるさく、それが40を越した娘文の神経を逆撫ですることしばしばであったのです。幸田文『父ーその死』(『父・こんなこと』1955新潮文庫・所収)は文豪露伴と、後の作家・随筆家幸田文のともに強情な精神の交錯が目立つのですが、しかし、それよりも、この書は露伴という人間を超えて、死と死に逝く人間の静かな考察となっています。確かに父と娘の愛憎の葛藤はあります。露伴は死ぬ前に自分の母親のことを娘に話します。露伴は自分を母親に愛されない子供だと思っていました。そして次女の文も、長女歌子(幼時に死亡)長男一郎(20歳で死亡)ばかりを可愛がって、自分には厳しく当たった父露伴を恨んでいました。しかし、それも看病の過酷な日常の中で昇華されていくかのようです。迫り来る死の力が、人に性格としての強さを与えるのです。
 昭和22年7月11日、歯茎からの最初の大出血。枕と敷布をべったり染めた血は、文には死が示した残酷な挨拶に思えました。目前に突きつけられた父親の死の予告、そして父露伴もまるで死がゆっくりと膝から背中から体を覆っていくように意識の混濁が訪れてくるのです。7月12日、13日、14 日、15日、16日と、毎晩一時すぎに歯と歯茎から血があふれてきます。糖尿のためか止血剤も効かず、綿の圧迫が唯一の処方でした。主治医である武見医師の高価な薬やリンゲルも弱っていく露伴を再起させることはできません。何も喉を通らず、氷だけを口に入れながら(その氷を手にいれるために家族が炎暑の中を走り回るのです)それでも意識のしっかりした時は鋭いまなざしを辺りに放ちます。娘はそんな時に父の痩せた手を握りながらやさしく話しかけるのです。吸い飲みに入れた氷がガラスにあたってからからと音を立てると、二人とも期せずして風鈴の音を思いおこします。懐かしい毎年の夏の思い出、風呂上がりの露伴は酒焼きのした首を団扇であおぎながら好物の豆をつまみに冷えたビールを飲んでいます。娘は薮蚊を追い払うために庭の隅で松葉をいぶしています。小石川蝸牛庵、向島蝸牛庵と何度同じ夏を二人は過ごしたでしょうか。吸い飲みを持つ娘の手は震え、父は娘のその心を察知します。ついに、父であり、明治の文豪であり、一代の趣味人であった露伴が逝ってしまうのです。
 7月23日、露伴81歳の誕生日。家族は奔走して、何とか小振りの鯛と赤飯と煮付けを準備します。露伴は寝たままの状態で、自分のために用意された膳を長い間眺めています。「折角だが、とてもたべられない」そういうと、娘の手をぐっと握って思いかけず笑みを浮かべるのでした。
 7月25日、突然露伴の顔つきが変わってきているのに娘は気付きます。まるで別人のように穏やかになり、家族の言葉にも素直に返事をし、食べられないはずのお粥をすっかりたいらげています。娘はその姿を見て戦慄を覚えます。もはや父親ではない何かが父親の形を借りて息をしているかのようです。露伴は、ここで、死を間近に見据え、それを味わおうとしているかのようです。幽冥境の真上に立ちながら、そこでしか体験できないもの、臨死の時の光と記憶と旅のすべてをー。もはや露伴は夜も眠ることはありません。頭の中をめまぐるしく光速の映像が行き交います。「夢をご覧になったんですか?」「ううん、そうじゃない」夢ではない生のさ中の体験です。「先生と、行ってきた」「先生? どなたです」「小さい時の先生」「菊池松軒先生ですか」「いや、おまえの知らない先生だ」「先生とどこへいらしたんですか?」「遠い処」「遠い処?」「渚にある家」「伊豆ですか?」「いや」「隅田川ですか?」「いや、おまえの知らない処」そして、何かに気付いたように娘にやさしく笑って「もう、いいよ」と言うのでした。
 7月27日、停電が長く続いて、やっと明かりがついたその明け方、露伴は「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」とさっぱり言いました。7月29日、ときおり痙攣。7月30日朝、永眠。
 明治20年、21歳の露伴は北海道余市の電信所を辞して、一人東京への帰途につきました。汽車賃が足りず、郡山から夜道を歩きました。草臥れて、道の真ん中に寝転んで「里遠しいざ露と寝ん草枕」と露伴の名の由来となる有名な俳句を口ずさみます。それから60年をまさに筆一本で生きてきたゆるぎない文人の最期でした。

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