« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006年8月30日 (水)

ブールジェ『現代心理論集』(1)フロベール

 ポール・ブールジェ(1852~1935)の『現代心理論集』(1883作 法政大学出版局・平岡昇・伊藤なお訳)は19世紀の文学作品に表れた時代の病理の解明であり、傑作の名に恥じない評論です。「一人の青年が、六月の日のこの美しい夕べに、文机に肘をついているとする」とブールジェは書き始めます。窓の下にはさまざまな花が悩ましげに咲いています。落日の黄金色が地平線を染めています。若い娘たちが近くの公園で語りあっています。青年は彼の本を、おそらくボードレールを、フローベールを、スタンダールを読んでいます。「現実を生きたほうがいいだろうに、と利口な人は言う、、、、ところがだ、彼はこの瞬間に現実を生きているのだ。しかも香り高い花を摘むよりも、憂愁にみちた西の空を眺めるよりも、若い娘たちの一人のたおやかな指を握るよりも、もっと熾烈な生を生きているのだ」「彼は好きな作者の文句の中に全身を投ずる。彼はその作者と、互いに胸襟をひらき、人間同士として語りあう。彼は作者が、恋愛や遊蕩や、幸福や不幸や、死や墓の彼方の暗黒の世界について啓示になる言葉を吐くのを聞く。そうした言葉は、それまで彼が気付かなかった感情の小宇宙のなかに彼を導き入れる」これこそ読書であり、『赤と黒』を全巻暗唱していたスタンダリアン、ブールジェらしい言葉です。人が19世紀の後半に青年であったとしたら、彼の読む書物は彼にどのような人生鑑賞のありかたを教えたのでしょうか。それは、まず何よりもペシミズムであった、とブールジェは書いています。「生きることの耐え難い倦怠、あらゆる営為の空しさの沈鬱な悟り」それが、ユイスマンス、バンジャマン・コンスタン、シャトーブリアン、等々の作品の背景だというのです。20世紀の批評家C.E.マニーもモーパッサンの全小説の背後には「人間の努力の空しさの認識」があると語っていました。フランス的な快活さは常に A quoi bon ? どうせ無駄だ、という感情に席を譲る、とブールジェは書きます。ブールジェのすばらしい分析の中から、ギュスターヴ・フロベール論とボードレール論を紹介しましょう。

 「君はよく考えてみたかね」とフロベールは友人のマクシム・デュ・カンに言いました。「われわれがどんなに不幸になるように組成されているかをよく考えてみたかね」また、ある時には「奇妙なことだが、僕は幸福にたいする信仰をほとんど持たないで生まれてきた」と書いています。人生はとりかえしのつかないほど悲惨なものであり、人間の営為は結局は失敗に終わるということは、彼の目には永劫に変わらぬ法則と映るのです。なぜでしょうか。そのわけは、まず外的状況がわれわれの夢と背馳するからであり、次に状況の恩恵を受けたところで、魂は自分の幻想を心ゆくばかり堪能しようとして自らを食いつぶすことは避けられないからです。エンマ・ボヴァリーは処女の好奇心で優雅で豪奢な幸福を願います。しかし、美しい夢は「傷ついたつばめのように」空しく悪路の泥濘の中に落ちてゆきます。夫の愚鈍さと彼女の環境の惨めさから、エンマは最初の恋人に身を任せて捨てられ、二番目の恋人も利己主義な卑怯者でした。それでも不義に身を投げ出すときには理想への熱情があったのですが、実際は「特別なもの」は何もありませんでした。つまり、欲望さえもわれわれを欺くのです。
 『感情教育』のフレデリックは優れた資質に恵まれた22歳の青年です。しかし、自らの内部のこの善きものが破滅の原因となるのです。人は自分の才能から逃れることはできません。人より優れているという感覚は、同時に人から気にいられたいという強い欲望と表裏一体です。想像力の強さは他人の反感を予測し、月並みな交際や時間と財産の空費に彼を誘います。そして、彼は堅実なものを積み上げるかわりに、理想の幻影の追求と悩ましい無為のうちに疲弊していくのです、、、。ところで、人間は、経験するまえにそれについてのある観念を作り上げます。環境や事件によって破綻させられるのは、まずこの観念で、つぎに人間自身です。現実よりも現実のイマージュを、感覚よりも感覚のイマージュを、人は読書やその他の媒体によって作り上げます。タニットのことをあまりに考えすぎたカルタゴの乙女(『サランボー』)キリストのことをあまりに考えすぎたテバイド山の隠者(『聖アントワーヌの誘惑』)幸福のことをあまりに考えすぎたあの哀れな医者の妻(『ボヴァリー夫人』)自分の情緒のことをあまりに考えすぎた市民階級の青年(『感情教育』)無数の学説のことをあまりに考えすぎた二人の事務員(『ブヴァールとペキュシェ』)など、フロベールの小説の主人公ほど満たされた静かな幸福に無縁のものはありません、、、。
 仏教は、この虚無感を認識することによって救われるというでしょうが、フロベールは芸術的営為のうちにそれを見出しました。美的創造はそれ自体以外の目的を持たない、というのはフロベールのもっとも感動的な確信であり、自分の著作の実際的、社会的影響を全く無視することは天才のみにできることです。同じ1821年生まれのボードレールが『悪の華』を出版したとき、悪評にまみれたこの詩人にフロベールは激励と絶賛の手紙を寄せました。「あなたには人生の不都合がよくわかっています、、、あなたの著作の中では芸術がすべてに優先しています、、」と。フロベールは、この虚無の世界という廃墟のただ中に堅固な現実を打ち立てたいと思いました。彼はそれを自己の外にあり、また事物の外にもある、芸術作品の中に定めたのです。立派な文章は一種の不滅の性格を表し、万物の凋落に打ち勝ったある存在を生きるものに彼には思えました。「実際、言葉と言葉の関係には、それを改めようともしてもとうてい不可能なほど完全に正確なものがある。もし、芸術家がそういう関係をいくつか発見したなら、彼は数学者が明証を得て感ずる幸福にも匹敵する知的幸福の満足感に浸ることができる」こうして、フロベールの完璧な文章作成の苦しみについての無数の逸話が生まれることになります。一つの副詞を見つけるために何日も呻吟することは彼にとっては日常茶飯のことでした。彼は的確な、唯一の言葉を探しながら、過労のため58歳で脳溢血で倒れました。発作で神経が途切れたとき、やっとペンは彼の手から床に落ちたのです、、、。
 フロベールはエドガー・ポーに似て、自己を決して欺かず、霊感をも支配できる作家でした。こういう文学者には何か絶大なものがあるが、しかし決定的に欠けているものもある、とブールジェは言っています。このような金属に似た作家を読んだ後では、われわれは、自己の才能をあまり信じなかった不正確な天才、たとえばバルザックやシェークスピアのような作物を読みたくなる、、、しかし(とブールジェは続けます)、われわれはその時代の克明な風俗やブルジョアの正確な心理を知りたくてフロベールを読むのではない、そうではなくて、その著作に深遠な生の味わいを与えるのは、そこに一つの人間的魂が傷つけられ、苦しめられ打ちひしがれるのを知るからだ、と。そして、このことについて彼の書簡集以上に胸を打つものはありません。「私は老人のように幼年時代の思い出の中に埋没していきます。もう人生にはインクで汚すための一綴りの紙片しか期待していません。いずこを目指すともなく無限の荒野を渡っていく気がするのです、、、」そして最後の書簡は「私は骨の髄まで疲れています」という言葉で終わっています。「幸福なフロベール」とは一種の矛盾語であるでしょうが、彼は自ら誇るべきである、とブールジェは書いています。なぜなら、彼の苦悩は人間が経験できるうちで最も優れたもの、完成を求める苦しみに由来するからです。

 

| | コメント (0)

2006年8月18日 (金)

幸田文『父ーその死』

 休みの日、暑さもやや静まった夕方近く、思い立って、千葉県市川市菅野の露伴終焉の地を訪れてみました。小林勇『蝸牛庵訪問記』には京成電鉄本八幡駅からの道順が詳細に記されていますが、今では町も様変わりしてほとんど役に立ちません。付近は一軒家やアパートがぎっしりと建ち並んでいて、当時の田舎町の風情は全く消え、ただ、白幡神社だけが夕立のように落ちてくる蝉のなき声とともに60年前の昔をしのばせてくれます。露伴の住居跡には個人の家が建っていて、作家の死の場所を示す標識の一枚すら見当たりません。
 昭和21年1月、露伴一家(露伴と娘文と孫娘玉)菅野に転居、時に露伴79歳、すでに読書もできなくなり、糖尿病で半分寝たきりの状態でした。戦後の混乱の中、慌てて探し当てた住居ですが、二畳・四畳半・八畳の手狭な平屋、写真を見ても田舎のみすぼらしい古家にすぎません。思えば露伴にとって最悪の時で、文化勲章・学士院会員・芸術院会員の肩書きも、荒んだ世相とさびしい田舎町のためにその威光を弱められ、生涯最後の一年半を安普請のベニヤ板の天井を見ながら送らざるを得なかったのです。おまけに露伴の新刊はほとんど売れず、売れても卵一個より安くては何の足しにもなりません。
 死の4ヶ月前、大作『芭蕉七部集評釈』の口述を完成した後、80歳の露伴はさらに衰えを増していきます。すべて自分一人で生活の大半を賄ってきた人間の通例でしょうか、身内の看病や家事には人一倍うるさく、それが40を越した娘文の神経を逆撫ですることしばしばであったのです。幸田文『父ーその死』(『父・こんなこと』1955新潮文庫・所収)は文豪露伴と、後の作家・随筆家幸田文のともに強情な精神の交錯が目立つのですが、しかし、それよりも、この書は露伴という人間を超えて、死と死に逝く人間の静かな考察となっています。確かに父と娘の愛憎の葛藤はあります。露伴は死ぬ前に自分の母親のことを娘に話します。露伴は自分を母親に愛されない子供だと思っていました。そして次女の文も、長女歌子(幼時に死亡)長男一郎(20歳で死亡)ばかりを可愛がって、自分には厳しく当たった父露伴を恨んでいました。しかし、それも看病の過酷な日常の中で昇華されていくかのようです。迫り来る死の力が、人に性格としての強さを与えるのです。
 昭和22年7月11日、歯茎からの最初の大出血。枕と敷布をべったり染めた血は、文には死が示した残酷な挨拶に思えました。目前に突きつけられた父親の死の予告、そして父露伴もまるで死がゆっくりと膝から背中から体を覆っていくように意識の混濁が訪れてくるのです。7月12日、13日、14 日、15日、16日と、毎晩一時すぎに歯と歯茎から血があふれてきます。糖尿のためか止血剤も効かず、綿の圧迫が唯一の処方でした。主治医である武見医師の高価な薬やリンゲルも弱っていく露伴を再起させることはできません。何も喉を通らず、氷だけを口に入れながら(その氷を手にいれるために家族が炎暑の中を走り回るのです)それでも意識のしっかりした時は鋭いまなざしを辺りに放ちます。娘はそんな時に父の痩せた手を握りながらやさしく話しかけるのです。吸い飲みに入れた氷がガラスにあたってからからと音を立てると、二人とも期せずして風鈴の音を思いおこします。懐かしい毎年の夏の思い出、風呂上がりの露伴は酒焼きのした首を団扇であおぎながら好物の豆をつまみに冷えたビールを飲んでいます。娘は薮蚊を追い払うために庭の隅で松葉をいぶしています。小石川蝸牛庵、向島蝸牛庵と何度同じ夏を二人は過ごしたでしょうか。吸い飲みを持つ娘の手は震え、父は娘のその心を察知します。ついに、父であり、明治の文豪であり、一代の趣味人であった露伴が逝ってしまうのです。
 7月23日、露伴81歳の誕生日。家族は奔走して、何とか小振りの鯛と赤飯と煮付けを準備します。露伴は寝たままの状態で、自分のために用意された膳を長い間眺めています。「折角だが、とてもたべられない」そういうと、娘の手をぐっと握って思いかけず笑みを浮かべるのでした。
 7月25日、突然露伴の顔つきが変わってきているのに娘は気付きます。まるで別人のように穏やかになり、家族の言葉にも素直に返事をし、食べられないはずのお粥をすっかりたいらげています。娘はその姿を見て戦慄を覚えます。もはや父親ではない何かが父親の形を借りて息をしているかのようです。露伴は、ここで、死を間近に見据え、それを味わおうとしているかのようです。幽冥境の真上に立ちながら、そこでしか体験できないもの、臨死の時の光と記憶と旅のすべてをー。もはや露伴は夜も眠ることはありません。頭の中をめまぐるしく光速の映像が行き交います。「夢をご覧になったんですか?」「ううん、そうじゃない」夢ではない生のさ中の体験です。「先生と、行ってきた」「先生? どなたです」「小さい時の先生」「菊池松軒先生ですか」「いや、おまえの知らない先生だ」「先生とどこへいらしたんですか?」「遠い処」「遠い処?」「渚にある家」「伊豆ですか?」「いや」「隅田川ですか?」「いや、おまえの知らない処」そして、何かに気付いたように娘にやさしく笑って「もう、いいよ」と言うのでした。
 7月27日、停電が長く続いて、やっと明かりがついたその明け方、露伴は「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」とさっぱり言いました。7月29日、ときおり痙攣。7月30日朝、永眠。
 明治20年、21歳の露伴は北海道余市の電信所を辞して、一人東京への帰途につきました。汽車賃が足りず、郡山から夜道を歩きました。草臥れて、道の真ん中に寝転んで「里遠しいざ露と寝ん草枕」と露伴の名の由来となる有名な俳句を口ずさみます。それから60年をまさに筆一本で生きてきたゆるぎない文人の最期でした。

| | コメント (0)

2006年8月 6日 (日)

サマセット・モーム『ドン・フェルナンドの酒場で』

 初めてグラナダを訪れた24歳の青年は、着いた日の夜、夕食をすましてから、興奮してじっとしていられず、町に降りて行きました。若気の至りで町の娼家に入り込み、一人の娘を選びましたが、彼女はスペインの昔の小説に出てくるヒロインのように緑色の瞳をしていました。しかし、服を脱ぐと、まだ子供らしい体つきで、尋ねると13歳とのことです。「どうしてこんなところに来た?」と聞くと、「アンブレ(飢え)」とだけ答えました。感受性の強い青年は、この悲劇的な言葉に胸を打たれて、金を与えると、また着物を着るように言い、情熱も消えはて、ゆっくりと丘を登って寝床に入ったのです。
 この青年こそ、ロンドンの病院での5年間のインターン生活から解放されて、自由にスペインの旅を始めた頃のサマセット・モームでした。「私はこの国を歩きまわった。そして、初めて見る光景のすべてに感激した」と彼は書いています。まず、彼を捉えたのは、スペイン語の華麗なまでの簡潔さ、平易な言葉に秘められた力と繊細さでした。hambre という、その言葉にはスペインの悲劇性のすべてがこめられています。スペインは、世界の半分を征服していた時でさえ、つねに飢えていました。不安な心は、満腹と眠りのためのベッドが得られないために、彼らを絶えず向こう見ずな冒険に駆り立てたのです。ピカレスク小説の傑作『ラサリリョ・デ・トルメスの生涯』に出てくる立派な騎士、剣を腰帯に差し、威厳ある外套と胴着を着け、街路を堂々たる身振りで歩く騎士が、二日前から何も口に入れていないなどと誰が信じることができるでしょうか。名誉心は貧しさや飢えに打ち勝つのです。ゆえに『ドン・キホーテ』は、その高邁な理想主義と卑俗な物質主義ゆえにスペインの一典型となったのです。
 W.S.モーム(1874~1965)の『ドン・フェルナンドの酒場で』(2006原書房・増田義郎訳)はモームのスペイン賛美の書です。セヴィリアの定宿の近くにあるドン・フェルナンドの酒場、そこでモームは主人のドン・フェルナンドから羊皮紙で装丁された一冊の小さな本を買わされます。それは1586年に刊行されたイグナティウス・ロヨラの伝記で、そこからこの素晴らしいエッセイは始まります。27歳で、それまでの放蕩の生活から神への献身の生へと転身したロヨラは、『霊操』という画期的な書物を著しました。彼はそこで、すべてを瞑想によって体験し、不安定でとりとめのなく片意地な人間の魂を統御する方法について教えています。「すべてのものの最後の瞑想は愛についての瞑想だということは驚きである」とモームは言っています。そこから、モームの書物は神秘主義の深遠な領域に入るかと思うと、そうではなく、あちこちとさまよい、ローペ・デ・ベガの巧妙な戯曲群とその華麗で敬虔な生涯について詳述し、カルデロンの有名な『サラメアの村長』を紹介し、あの解説不可能なエル・グレコの偉大な作品を逍遥し、今度はなんとバレンシア風米料理(アンダルシアではパエリアと呼ばれる)の信じられない美味しさについて語ります。「世界はひどい所だ。しかし、慈悲深い神は、人間の哀れな運命を和らげるため、時たま安らぎをお与えくださる」それがパエリアなのです。時間をかけて料理されるパエリアはそれほど美味しいのです!
 あちこちさまよいながら、しかし、モームの筆は次第に本質に迫ってきます。サンティアゴ・デ・コンポステーラの街路はせまく、何世代にもわたって踏みならされ、すりへった石で舗装され、その道が上がったり下がったり、曲がりくねったりしています。しかし、つまるところすべての道は、何世紀にもわたり無数の巡礼者たちの終着点であったあの完全な美しさを持った大聖堂に通じています。それはゆっくりと次第に心を捉える魅力ではなく、嵐のようにいきなり人の心をつかみます。そのサンティアゴ・デ・コンポステーラの町と壮麗な大聖堂のようにモームの書物は寄り道をくいながらも「スペインの神秘主義ーサンタ・テレサとルイス・デ・レオン」の章に収斂していきます。
 スペインで長く山を見ずにいることはできません。山は人の面前に、荒涼としてものさびしく、厳しい姿を見せます。雪の衣をまとったシェラ・ネバダの近づきがたい姿、しかし、明け方や日暮れには、この世のものとも思えぬ美しい色に彩られて輝きます。そのように、俗世の雑踏にどっぷり浸かっているようにみえる情熱的な多くの人々の、意識の閾のすぐ下に、われわれの人間的なものすべてが抵抗する異様な魅力をそなえた神秘主義が潜んでいるのです。人間のこれまでの科学的知識の最も深いものも、この巨大な神秘を説明しうるほど大きくはありません。神秘的体験とは、宇宙のより大きな自覚、自我がより大きな自我にとけこむ体験であり、生命力の奔流、力の感覚、深奥の真理がわが手中にあるという感覚です。それは陶酔に他なりません。サンタ・テレサの著作は、退屈さとはほど遠く、それは彼女の生き生きとした性格、魅力的で、元気できっぱりとした性格の表れなのですが、彼女は陶酔の体験もそれが実生活を豊かにすることでその価値があると語っています。彼女はスペイン中を歩き、32の修道院を建設しました。修道士であり、スペイン散文の巨匠といわれるルイス・デ・レオンを思い出しましょう。サラマンカ大学には、まだ彼の講義した教室が残っています。ルイス・デ・レオンは喧嘩っ早く、粗野で、気性が激しい男でしたが、小さい子供にはたいへん優しく、愚者と偽善者を嫌い、不正とたたかうためにはどんな危険も怖れませんでした。異端審問所の牢獄で四年間をすごした後、彼は人々の熱狂の中をサラマンカに帰ってきました。彼は神秘的体験を一度も体験したことのない神秘主義者です。恍惚の状態に憧れながら、俗世の忙しさがそれを彼に許さなかったのでした。「愛することなしに生きることはできない No  se  puede  vivir   sin  amar.  という彼の言葉は心に迫る悲劇的意味を持っている」とモームは書いています。  スペインは何も、芸術も、科学も、政治も発明しませんでした。彼らの卓越性は、自分自身を越えようとする信念、その性格にあったのです。この力強い民族のエネルギーのすべては人間の創造に向けられ、人間こそ彼らの作品であったのです。

| | コメント (0)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »