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2006年7月 8日 (土)

シング『アラン島』

 J.M.シング(1871~1909)はダブリンに生まれ、フランス、ドイツ、イタリアなどを放浪した後、もっとも文学的親近性を感じたパリに滞在していました。彼はフランスで文芸批評で身を立てようとしていたのです。1899年、同じアイルランド出身のW.B.イェイツが同郷の友人の紹介で、カルチェ・ラタンの安下宿にいたシングを訪ねてきました。自分より貧乏な青年がいることに驚いたイェイツは、またシングの隠れた才能にも気付きました。そして、書くべきことを見出せず、日々くすぶっているシングにこう忠告を与えたのです。「ラシーヌなど読んで何になる? フランス文学の批評ならアーサー・シモンズに敵いっこない。アラン島に行ってみな。そこで土民の暮らしをして、かって表現されたことのない生活を表現してみるんだ」と。これこそアドバイスです。シングはただちにパリを発ち、その年の五月にアイルランド西の洋上にあるアラン諸島に降り立ちました。
 シングはアーサー・シモンズが批評において行った深さと同等のものをアラン島で見出したかったに違いありません。シモンズの『象徴主義の文学運動』は他に並ぶもののない著作です。彼はそこで、文学は日常の奥に潜む真実の生の姿を魔術的な方法で捉える技法であると語りました。果たして、シングの目指すアラン島は彼にそれ以上の真実を告げてくれるのでしょうか。アラン島はシモンズ描くところのステファヌ・マラルメのあの「火曜会」の行われたローマ通りの四階の狭く素朴な居室のように、そこから退室する人間すべてに魂の全力をあげて一編のソネット、一編の散文を書き上げようとする力と意欲を与え得ることができるのでしょうか。
 アラン島に着いたシングが見たものは、ところどころ波が洗う荒涼とした岩地でした。吹きすさぶ風、どこにも緑地はなく古代の異教徒の城塞の廃墟だけが残る不毛の土地です。岩が突出しているため汽船は近づけず、人々はカラハ(木で枠を組み麻布か牛皮を張った小舟)で沖合に出ていくのです。荒波にカラハは翻弄され、手だれの乗り手もしばしば転覆し溺死します。波と競争し、波を回避し、波に横腹を打たれて、危機一髪のところを切り抜けて、人々は漁に出たり、近くの島に渡ったりするのです。危険だがこたえられないスリル、原始時代の狩人の機敏さがよみがえるようです。そして、静かな夜にカラハの上で釣り糸を垂れ、波の音、風のそよぎ、海草の香を感じるとき、自分の意識がそれらの中に埋没していこうとする不思議な感覚はどうでしょうか! 
 この島には文明化された何ものもありません。時計もないので、食事の時間は不規則に訪れ、丸一日なにも食べなかったり、少しのパンと芋で一日を過ごしたりします。揺りかごも、桶も、家も棺桶も自分で作るので、この島の人々には多方面の熟練した腕が必要とされ、何より退屈さからは半永久的に免れています。激しい日照り、何日も続く長雨、寒風の厳しさ、昨日の嵐から今日の晴天まで極端なこの気候の変化は人々に悲喜こもごもの芸術家的感性を与えます。人々は未だ純朴で、気取りやはにかみがなく、古代的な洗練された気質を持っているかのようです。島には犯罪は極めて少なく、かつては犯罪を犯すと、書類と運賃を与えられ、ひとりで不定期の漁船に乗って本土に着くと、海岸を何マイルも歩いて警察に出頭し、刑期を終えると、同じ道順で島に帰ってきたものでした。しかし、多くの犯罪は同情の目で見られます。たまに来る嵐のように人間はときおり狂暴なものに心を奪われます。父親を殺した男は、罰するよりも、隠れて静かに生きることがよいのだと考えられています。なぜなら、好き好んで父親を殺す人間はいないのだから、さぞ苦しんだに違いなかろうと判断されるのです。
 シングは、まず、荒涼たる自然に心を打たれました。カラハに乗って、珍しくも静かな海の上に浮かんでいると、黒い雲がすごい速さで動いてきて、やがて大粒の雨が降り始めます。「灰色の世界の中を、黒いカラハは静かに進んでいくと雨は静かに降りそそぐので、私は我々が世界の凡ゆる不思議な美しさを経験しようと残して置いた短い瞬間を無限の悲哀を以って実感するような気持ちになった」(岩波文庫・姉崎正見訳)
 そして島の人々の生活、一緒に話していると、親しみの混じった漠然とした感動がわき起こってきます。しかし、その中で自分だけが宿無しの人間のようにも覚えてきます。あるとき、シングは下宿先の農家で、人々が仕事に出払った後、ひとり炉端で坐っていました。梁や壁の白さが、煙突からのかすかな明かりでぼんやりと浮き上がってくるのを見ると、なぜか何ともいえない悲しい気持ちになってきます。「というのは、この世界の表面にある小さな片隅にも、またその中に住んでいる人たちにも、私たちには永久に窺い知ることのできない平和と尊厳を持っていると思ったからであった」
 ティヤール・ド・シャルダンは「一人一人の魂はそれぞれ代替しえない仕方で世界全体を縮約している」と書いていますが、シングの発見もそれによく似ています。ずっと後になって、人々の日常生活が圧倒的な政治的暴力にさらされた時、ヴァルター・ベンヤミンは農夫の家の椅子や、子供の絵本や、人形劇の人形の中に、決して失われることのないもの、人間の救いに先立つ事物の救い、を見出したのでした。
 シングはアランへの四度の滞在の後、文学史に残る戯曲を次々発表しますが、それらはすべて、アラン島で見聞きしたことに基づいていました。『海へ騎り行く人々』Riders to the Sea では息子を次々に海で失っていく母親の悲哀を、『西国の伊達男』The Playboy of the Western World では島民の気質の滑稽な一場面を実に生き生きと描いています。生来病弱であったシングは、恐らく癌と思われる病気で、ダブリンの病院で独身のまま死を迎えました。死の前日、見晴らしの良い病室に移してもらった彼は、しかしダブリンの山々が見えないので涙を流したということです。翌日の早朝、「もう、これ以上、死と戦ってもだめだ」と看護婦に言って息をひきとりました。まだ37歳でした。

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