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2006年7月28日 (金)

アクサーコフ『家族の記録』(2)

 26歳になるアレクセイ・ステパーノイチはウファの高等法院で平凡に静かに勤めを果たしていました。美男で、おとなしくて、はにかみ屋で、誰にでも愛想の良い彼は、もしソフィアに出会わなかったら、やがて相応のもの静かで平凡な娘を妻に娶っていたことでしょう。ところが、教会で一目ソフィアを見た時から、頭が変になってしまったのです。彼は夜毎に彼女のことを思い、彼女に会うために、無理に公用を作って、副総督室で父親の代わりに応接しているソフィアに会いにいきました。度重なる訪問、長座の連続、ほてった頬、しどろもどろの口調、恍惚とした目つき、それらは周囲の人たちにすぐ彼の気持ちを気付かせました。真剣な恋をした男はいつの世も滑稽に見えるもので、ウファの社交界の連中はこぞってこの青年を笑い者にしていたのです。しかし、一人ソフィアその人だけは違いました。アレクセイはロシア小唄集ぐらいしか本を読んだことがなく、趣味は釣と狩猟しかないというきわめて非社交的な人間でしたが、ソフィアはその謙虚さに打たれ、自分への愛情のために皆からの嘲笑に耐えているこの青年を憎からず思っていたのです。
 アレクセイは、意を決して婚約の承諾を得るために父親の住むオレンブルグに旅立ちました。彼の家は由緒ある貴族であり、大地主であり、しかも彼は一人息子であったので、父ステパン・ミハイロヴィッチの承諾がどうしても必要だったのです。しかし、彼が故郷に向かって旅立った時には、ウファでの噂はオレンブルグの父親の家にも届いていました。アレクセイの四人の姉たち、特に三女のアレクサンドラ・ステパーノヴナは、弟の心を奪ったソフィアを激しく憎み、その悪口を父親のステパンの耳に入れようとやっきになったのです。ソフィアの祖父は貧しいコザックであり、父の財産はほとんどとるに足らず、本から得た知識で私たち田舎者を軽蔑し、アレクセイを言葉巧みにだまして、貴族の地位と財産を我がものにしようとしているのだ、と力説したのです。毎日のようにソフィアの悪口をきかされたステパン・ミハイロヴィッチは、しかし軽薄な娘たちの言い分をそのまま信じたのではありません。彼は学はないが、物事の本質をよく見ぬく頭を持っていたのです。
 アレクセイが帰省すると、ステパン・ミハイロヴィッチはさっそく彼を呼びつけてこう言いました。「おまえは今、ある女に夢中になっている。それはいい。聞くところでは、大変立派な女性らしい。おそらく、おまえとは結婚してくれないだろうが、一言言っておこう。自分より利口な女を妻にするのは、、、不幸だよ。尻に敷かれるのは目に見えている。わたしらは素朴な田舎者だ、牛は牛連れ、派手な町の暮らしに慣れた女はとても田舎は耐えられまい。おまえには財産のある呑気でおとなしい田舎の娘を見つけてやろう。そして退職したらのんびり余生を過ごすんだ。その女のことは今日限りきれいさっぱり忘れることだな」そう宣告されて、アレクセイは自分の部屋に閉じこもって数週間床に就き、それから死人のように憔悴しきった表情でウファに帰りました。広大な土地と、多くの農奴や使用人を抱える大地主の権力は絶対です。一度下された宣告はその権威に傷をつけないため決して覆えることはありません。ステパンの家族は皆この裁定に満足し、アレクセイもやがてはあの娘のことは忘れ、昔のように釣や散歩を楽しむようになるだろうと思っていました。
 ところが、ある日、郵便局から帰って来た召使いがもたらしたアレクセイからの手紙はステパンの家中を震撼させました。「慈悲深い父上と母上」と手紙は書き始められていました。「、、、尊敬するソフィア・ニコラーエヴナなしに生きることは私には不可能です。やがて死の弾丸が不幸なあなた方の息子の頭を貫くことでしょう、、、」女たちは、皆これを読んでパニックになりました。母親のアリーナはステパンの膝下に身を投げ出して、どうか息子の結婚を許してやってほしいと嘆願しました。ステパン・ミハイロヴィッチはそれでも動ぜず、いつもより早く床に就いて、朝4時に起きると若い馭者を呼び、最も丈夫な早馬二頭、燕麦と円形パンを至急用意するよう言いつけました。用意がされている間ステパンはペンとインクと紙を出し、「汝とソフィア・ニコラエーヴナとの結婚を許す。汝の父ステパン」と書きました。
 その日の昼前に二頭立ての馬車が家の前にとまるのを見て、アレクセイは寝台から飛び起きました。父の筆跡を震える手で確認すると、聖像に感謝の祈りを捧げ、直ちに親類の女性を仲介にしてソフィアに結婚の申し込みをしたのです。

 こうしてボールはソフィアの側に投げられました。この結婚を受けるべきかどうか。彼女は深く悩みました。父親の財産は農奴40人とわずかの土地とわずかの蓄えのみ、父親が死ねば家計が苦しくなるのは目に見えています。アレクセイとの結婚は安定した生活と立派な家柄に恵まれて、彼女には理想的なように見えました。しかし、望まれていない家族の中に入っていくことは気苦労が多いだろうし、アレクセイは自分を守ってくれるでしょうか。さらに、自分はアレクセイに好感を抱いてはいるが、恋しているわけではない。そして、二人の教養、趣味はあまりに違いすぎるではないか、、、。ソフィアは、かつて自分を救ってくれたスモレンスクの聖母の像の前で必死に祈りました。どれだけ長い時間が経ったでしょうか。ソフィアは立ち上がり、きっぱりと自分に納得させ、明日、アレクセイに会い、そこで決めようと決意しました。
 死人のようにやつれたアレクセイを見て、ソフィアは驚きとともにある感動に打たれました。彼女は昨夜感じた思いを率直にアレクセイに話しました。アレクセイも田舎での出来事、家族の様子、その他、今と将来二人を取り巻くであろう状況を包み隠さずすべて話しました。何ひとつ隔てることのない、これ以上何も怖れることのない二人の率直さが事柄を幸せの方に導いたのです。突然、ソフィアは、この善良で謙虚で心がきれいで世間擦れのしていない男性を自分が教育してみようと思いました。彼はきっと自分の理想の男性になるだろう、そして、自分もついに彼を恋するようになるだろう、と想像しました。この予想の一つは当たり、一つは外れました。ソフィアは次第にアレクセイが好きになり、彼なしで一日を過ごすことは苦痛になりました。ところが、ソフィアにはついにアレクセイが新婚の時でさえ、妻の顔を見ずに一日中釣をしていられる理由がわからなかったのです。このことは女性には決してわからないことかも知れません、、、。
 二人は婚約の報告のため、豪華な馬車を仕立て、たくさんのお土産を持ってステパンの家へ向いました。行く先々で、跡継ぎ息子の新妻を一目見ようと農民の列に取り囲まれます。さらに驚いたことには、当主のステパン・ミハイロヴィッチがソフィアをすっかり気に入ってしまったことでした。彼は何でも思ったことを話す率直な女性が好きだったのです。ウファの新婚の家に戻った彼らに課せられたのは新しい世継ぎを産むことでした。最初は女の子で、生まれて4ヶ月で死亡し、ソフィアを立ち直れないほど落胆させました。やがて、彼女は再び妊娠します。ステパンは今度こそ男子と決めつけ、占い師に頼んで、すでにセルゲイという名まで決めてありました。1791年の9月20日にソフィアは二番目の子を出産しました。早馬が急遽仕立てられ、オレンブルグへ嵐のような速さで出発しました。老ステパンは午睡をしていましたが、女中が起こしに来て、「お坊ちゃまが生まれました」と告げると、黙って胸の上で十字を切り、立ち上がって、大きな系図を引っ張り出すと、アレクセイという名から線を引いて、セルゲイ、と書き加えました。
 自伝的作品はここで終わります。「彼らは偉人ではないが、思い出されるに値する人々である」と、セルゲイ・アクサーコフは自分の祖父母と両親について語っています。

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2006年7月23日 (日)

アクサーコフ『家族の記録』(1)

 W.H.ハドソンの『はるかな国 とおい昔』を読んでいたら、少年時代の愛読書にアクサーコフの『幼年時代の思い出』が出てきました。プーシキン、ゴーゴリと同時代の作家セルゲイ・アクサーコフ(1791~1859)は、その『釣魚雑筆』(岩波文庫)で私には忘れられない作家なのですが、その晩年に執筆した『家族の記録』(1856作・岩波文庫・黒田辰男訳)こそロシア文学の生んだ最上の宝の一つなのです。それは一つの家族の物語、ロシアの大地主であったセルゲイの祖父と両親の物語です。
 モスクワからそれほど離れていないウラル山脈の麓の景勝の地ウファの総督府にズービンという六等官がいました。夫人は12歳になる長女と小さな息子二人を残して病死したのですが、ズービンは、美しく利口なこの長女ソフィアをこよなく愛していました。ほどなくズービンはアレキサンドラ・ペトローヴナと再婚します。美人で魅力的なアレキサンドラは、父親から愛されているソフィアを憎み、継母の権力で目に余る虐待を少女に加えていました。汚い着物を着せて女中部屋に住まわせ、自分の二人の連れ子の部屋の掃除や汚物の世話までさせていたのです。新妻の色香に参っている父親のズービンはそれに気付いても黙っていることしかできませんでした。絶望的なまでに残酷な仕打ちと苦しみに耐えかねて、13歳になったソフィアはついに自殺を決意します。屋根裏の自分の部屋で、スモレンスクの聖母の像の前にひざまずいて最後の祈りをしていると、昨夜消したはずの聖母の前の蝋燭がパッと点きました。少女は驚きと怖れの声をあげますが、この奇蹟に全能の神の徴を見て、苦しみつつ、耐え、生き抜こうと心に誓います。その日から堪忍の鎧を着たソフィアは、どんな屈辱的な罰にも涙を見せず、いいつけはすべて果たし、頼るもののない毎日をじっと忍んでいました。
 やがて神の雷が落ちる日がやってきました。アレキサンドラ・ペトローヴナは、男児の出産の後10日ばかりで女盛りで死んでしまうのです。死の前夜、アレキサンドラは急いで良心の声に従おうとして、継娘を病床に呼びました。そして、證人を前にして、ソフィアにそれまでの非道な仕打ちを謝罪し、神の名において許しを請い、自分の子供たちの面倒を見てくれるようソフィアに頼みます。少女は継母を許し、子供の面倒を見ることを約束し、そしてその約束を守ったのです。
 継母の死はすべてを転倒させました。継母方の農奴に侮蔑されふみにじられていた襤褸着の少女は今や絶対的な権力者になっていたのです。彼女はすべての者を許し、妻の死後寝たきりになっていた父親も許しました。長い苦しみの日々をくぐって賢明になっていた17歳の少女は、突然に母に主婦に社会的な婦人にもなっていました。副総督になっていた父の仕事を代用し、多くの公用の人に会い、また弟妹たちにできる限りの教育を受けさせました。彼女は自分でもフランス語を習得し、多くの書物を読んで、一年半も経たずに立派な教養を身につけました。ウファの市で、聡明で教育のある人々はみなこの美貌と知性と思いやりの心にあふれた女性の魅力に打たれました。彼女は高慢で厚かましい人間にはつんとした態度をとり、おとなしい謙虚な人々にはいつもやさしかったのです。
 これがセルゲイ・アクサーコフの母親になる人でした。恋する権利のある男性はみな彼女との結婚を夢見る中で、ただ一人、自分にはその権利がないと思っていた気弱な男がいました。それがウファの高等法院で働くアレクセイ・ステパーノイチだったのです。(2に続きます)

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2006年7月 8日 (土)

シング『アラン島』

 J.M.シング(1871~1909)はダブリンに生まれ、フランス、ドイツ、イタリアなどを放浪した後、もっとも文学的親近性を感じたパリに滞在していました。彼はフランスで文芸批評で身を立てようとしていたのです。1899年、同じアイルランド出身のW.B.イェイツが同郷の友人の紹介で、カルチェ・ラタンの安下宿にいたシングを訪ねてきました。自分より貧乏な青年がいることに驚いたイェイツは、またシングの隠れた才能にも気付きました。そして、書くべきことを見出せず、日々くすぶっているシングにこう忠告を与えたのです。「ラシーヌなど読んで何になる? フランス文学の批評ならアーサー・シモンズに敵いっこない。アラン島に行ってみな。そこで土民の暮らしをして、かって表現されたことのない生活を表現してみるんだ」と。これこそアドバイスです。シングはただちにパリを発ち、その年の五月にアイルランド西の洋上にあるアラン諸島に降り立ちました。
 シングはアーサー・シモンズが批評において行った深さと同等のものをアラン島で見出したかったに違いありません。シモンズの『象徴主義の文学運動』は他に並ぶもののない著作です。彼はそこで、文学は日常の奥に潜む真実の生の姿を魔術的な方法で捉える技法であると語りました。果たして、シングの目指すアラン島は彼にそれ以上の真実を告げてくれるのでしょうか。アラン島はシモンズ描くところのステファヌ・マラルメのあの「火曜会」の行われたローマ通りの四階の狭く素朴な居室のように、そこから退室する人間すべてに魂の全力をあげて一編のソネット、一編の散文を書き上げようとする力と意欲を与え得ることができるのでしょうか。
 アラン島に着いたシングが見たものは、ところどころ波が洗う荒涼とした岩地でした。吹きすさぶ風、どこにも緑地はなく古代の異教徒の城塞の廃墟だけが残る不毛の土地です。岩が突出しているため汽船は近づけず、人々はカラハ(木で枠を組み麻布か牛皮を張った小舟)で沖合に出ていくのです。荒波にカラハは翻弄され、手だれの乗り手もしばしば転覆し溺死します。波と競争し、波を回避し、波に横腹を打たれて、危機一髪のところを切り抜けて、人々は漁に出たり、近くの島に渡ったりするのです。危険だがこたえられないスリル、原始時代の狩人の機敏さがよみがえるようです。そして、静かな夜にカラハの上で釣り糸を垂れ、波の音、風のそよぎ、海草の香を感じるとき、自分の意識がそれらの中に埋没していこうとする不思議な感覚はどうでしょうか! 
 この島には文明化された何ものもありません。時計もないので、食事の時間は不規則に訪れ、丸一日なにも食べなかったり、少しのパンと芋で一日を過ごしたりします。揺りかごも、桶も、家も棺桶も自分で作るので、この島の人々には多方面の熟練した腕が必要とされ、何より退屈さからは半永久的に免れています。激しい日照り、何日も続く長雨、寒風の厳しさ、昨日の嵐から今日の晴天まで極端なこの気候の変化は人々に悲喜こもごもの芸術家的感性を与えます。人々は未だ純朴で、気取りやはにかみがなく、古代的な洗練された気質を持っているかのようです。島には犯罪は極めて少なく、かつては犯罪を犯すと、書類と運賃を与えられ、ひとりで不定期の漁船に乗って本土に着くと、海岸を何マイルも歩いて警察に出頭し、刑期を終えると、同じ道順で島に帰ってきたものでした。しかし、多くの犯罪は同情の目で見られます。たまに来る嵐のように人間はときおり狂暴なものに心を奪われます。父親を殺した男は、罰するよりも、隠れて静かに生きることがよいのだと考えられています。なぜなら、好き好んで父親を殺す人間はいないのだから、さぞ苦しんだに違いなかろうと判断されるのです。
 シングは、まず、荒涼たる自然に心を打たれました。カラハに乗って、珍しくも静かな海の上に浮かんでいると、黒い雲がすごい速さで動いてきて、やがて大粒の雨が降り始めます。「灰色の世界の中を、黒いカラハは静かに進んでいくと雨は静かに降りそそぐので、私は我々が世界の凡ゆる不思議な美しさを経験しようと残して置いた短い瞬間を無限の悲哀を以って実感するような気持ちになった」(岩波文庫・姉崎正見訳)
 そして島の人々の生活、一緒に話していると、親しみの混じった漠然とした感動がわき起こってきます。しかし、その中で自分だけが宿無しの人間のようにも覚えてきます。あるとき、シングは下宿先の農家で、人々が仕事に出払った後、ひとり炉端で坐っていました。梁や壁の白さが、煙突からのかすかな明かりでぼんやりと浮き上がってくるのを見ると、なぜか何ともいえない悲しい気持ちになってきます。「というのは、この世界の表面にある小さな片隅にも、またその中に住んでいる人たちにも、私たちには永久に窺い知ることのできない平和と尊厳を持っていると思ったからであった」
 ティヤール・ド・シャルダンは「一人一人の魂はそれぞれ代替しえない仕方で世界全体を縮約している」と書いていますが、シングの発見もそれによく似ています。ずっと後になって、人々の日常生活が圧倒的な政治的暴力にさらされた時、ヴァルター・ベンヤミンは農夫の家の椅子や、子供の絵本や、人形劇の人形の中に、決して失われることのないもの、人間の救いに先立つ事物の救い、を見出したのでした。
 シングはアランへの四度の滞在の後、文学史に残る戯曲を次々発表しますが、それらはすべて、アラン島で見聞きしたことに基づいていました。『海へ騎り行く人々』Riders to the Sea では息子を次々に海で失っていく母親の悲哀を、『西国の伊達男』The Playboy of the Western World では島民の気質の滑稽な一場面を実に生き生きと描いています。生来病弱であったシングは、恐らく癌と思われる病気で、ダブリンの病院で独身のまま死を迎えました。死の前日、見晴らしの良い病室に移してもらった彼は、しかしダブリンの山々が見えないので涙を流したということです。翌日の早朝、「もう、これ以上、死と戦ってもだめだ」と看護婦に言って息をひきとりました。まだ37歳でした。

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