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2006年5月27日 (土)

ルナン『思い出』(2)

 エルネスト・ルナン(1823~92)はブルターニュ半島の北岸であるトレギエの貧しい船乗りの家に生まれました。トレギエは修道院を中心としてできた小さな町で、修道僧と貧しい漁民が大半をしめ、裕福な町民層が存在しませんでした。そのため、町全体が修道院的雰囲気に満たされ、金儲けが軽蔑され、清貧が第一の徳目と考えられていたのです。13世紀に出来た大伽藍が見下ろすこの町では、現実よりも理想の中で生きる「まるで夢の中を泳いでいるような」人々の信仰あつい精神が五百年間、ひとつも変わらずに生き続けていたのです。
 ルナンがこの町の神学校で受けた教育は彼の生涯に抜きがたい痕跡を残しました。「私はこれ以上尊敬すべき司祭たちに出会ったことがない」とルナンは言っています。実際、彼ら教師は日常のささいな事柄に至るまで寸分の緩みもない宗教的自己犠牲に貫かれていました。彼らはルナンに、この世における絶対的徳というものの存在と、罪への恐怖を教えたのです。教師の講話は荘厳なものでした。gustans gustavi paululum mellis, et ecce morior (少しの蜜をなめしのみなるが、見よ、死す)。ヨナタスがなめたために死んだこの少しの蜜とは何を指しているのでしょうか。教師はそれについて何も話しません。ただ、tetigisse periisse (触れ、たちまち死す)と言うばかりです。さらに、mors ascendit per fenestras (死のぼりて、われらの窓より入り)。窓をつたって上ってくるこの死というのは、いったい何ものなのでしょうか。 少年ルナンは、絶対の信頼をおいている人々の口からいわれるこの危険について長い間考えました。17世紀の聖者伝を読んでいるとき、その答えがわかりました。少しなめただけで死に至るもの、部屋でじっとしていても窓から忍び入ってくるもの、蝶の羽のごとく触れると必ず汚れるもの、それは女性にほかなりません! ずっと後になって、ルナンは、彼ら徳と信仰の教師たちは悪魔の皮肉な誘惑にそっくり乗せられていたのではないかと疑います。すべては、けっきょくは大きな幻なのです! 禁欲の神聖さも、この世のすべてと同じむなしき戯れにすぎません。そして、60歳に近くなって、やっとルナンは「汝往きて、その愛する妻と共に、よろこびをもて汝のパンを喰え」という「伝道の書」の著者だけが賢者だった、ということに気づくのです。

 もし、ルナンが15歳でパリに出なかったとしたら、トレギエの神学校の司祭にでもなって一生を終えたでしょう。フランス全土に探索の網をめぐらせていたニコラ・デュ・シャルドネの神学校は、この成績抜群の少年を見出してパリに呼び寄せました。17世紀前半のカトリック改革運動の指導者の一人アドリアン・ド・ブールドワーズによって創建されたサン・ニコラ・デュ・シャルドネは、その歴史の中で最も華やかな時代を迎えていました。校長のデュパンルウ師は、あのタレーランを死の一時間前に奇蹟的に改宗させたことでフランスのカトリック界のみならず、社交界でもひときわ注目される存在でした。彼の下で、ニコラ・デュ・シャルドネは、優秀な聖職者の卵と、一流の名家の子弟をともに訓育するフランスで名だたる学校となっていました。ここに入学することは金には代えられない名誉なことでした。金持ちは多額の金を納め、それによって優秀な貧乏学生は給費されながら最高の授業を受けることができたのです。サン・ヴィクトール街のこの学校の窓からは、洗練されたパリの空気が流れ込んできました。校風は生徒の名誉を重んじる極めて自由なもので、罰則はただひとつしかなく、それは退学でした。退学者は校長の下に呼ばれ、次のような言葉をかけられます。「君はなかなか立派な青年だ。しかし、君の精神はわれわれに必要な精神ではない。それ以外のあらゆる美点を君は持っている。ほかでなら君はきっと成功するだろう。友人のまま別れよう。何かしてあげられることがあれば、遠慮なく言い給え」と。

 ルナンはニコラ・デュ・シャルドネで三年間の修辞年級を終えた後、いよいよ当時世界でも第一級の神学校であったサン・シュルピスに入学します。サン・シュルピスはヴァンサン・ド・ポール、アドリアン・ド・ブールドワーズの仲間であった17世紀の宗門改革の代表者ジャン=ジャック・オリエが創建したもので、かつてのポール=ロワイヤルや盛時のソルボンヌの威光を19世紀になお保持していたのです。フランス有数の名家の出であるオリエ(1608~1657)は、当時のカトリックの堕落に抗議し、世俗に立ち混じる司祭の育成をまず第一に考えました。オリエがフランス史で最高の人間の列に加えられていないのは、謙譲を最上の美徳とする彼の持ち味がそのまま反映されているわけで、それはまたサン・シュルピスの今も変わらぬ特徴でもあります。「死者のように生きよ」とオリエは言いました。平凡であること、決して目立たぬこと、忘れられて生きること、それが理想なのです。
 ルナンは、サン・シュルピスが彼に植え付けてくれたもの、そして生涯そこから抜け出られなかったものを感謝をこめて思い出しています。謙虚であること、これは絶対の教えでした。人が謙虚であることを日々証明して生きることはたいへん難しい、というのも自分は謙虚であるなどと口に出して言った瞬間から謙虚でなくなるからです。サン・シュルピスの導者たちは、この点にかんして実に立派な掟を持っていました。良きにつけ悪しきにつけ絶対に自分を語らぬこと、です! 「これこそ真理である」とルナンは書いています。「今日は、頭が痛い」という言葉すら不遜の種になり得ます。自分自身などどうでもよいものだ、という意識無くして日々の修練は不可能です。修道院では私語が厳しく禁じられるのも、まさにこれゆえにほかなりません。

 ルナンは、サン・シュルピスで勉強と読書に明け暮れました。名だたる教師連も彼の力量を認め、(彼はすでにヘブライ語でフランス最強になっていました)神学者としての彼の未来は輝かしく開かれているかのようでした。しかし、科学的実証主義の洗礼を受けた彼の目には、サン・シュルピスの教えは納得いくものではありませんでした。彼は意を決して、サン・シュルピスの石段を下り、自由に研究できる無給の塾教師の道を歩みます。そして、ここで出会った生徒ベルトロと生涯の親交を結ぶのです。後に著名な化学者となったベルトロはパリの裕福な医師の家に生まれました。父親はベルトロの望みをかなえるべく30歳まで好きなように化学の研究に打ち込むことを彼に許しました。ルナンとベルトロは政治や人生のことで毎晩のように議論しました。ルナンの狭い部屋で遅くまで話し、たいてい結論が出ないので、実家に帰るベルトロを送りながら討論を続けます。ベルトロの家についても話は終わらず、今度はベルトロがルナンを送ります。こうして明け方まで互いの家を何度も往復してしまうのでした。二人の付き合いは、いつも尊敬する女性の傍らにいるように節度と高い精神に裏打ちされたものであったと、ルナンは語っています。サント=ブーヴが『ポール・ロワイヤル』の中で書いている、死ぬまで「ムシュー」と呼び合いながら同じ家で生涯を終えた孤独な人々のことをルナンは感動とともに思い出すのです。

 ルナンの邦訳は現在入手しずらいのですが、最近、忽那錦吾訳『イエスの生涯』『パウロ 伝道のオデッセイー』が人文書院から出ました。訳者によると、「昔はともかく、今はこのような本を読む人の数は限られている」という理由で多くの出版社から断られたそうです。私はほんの少しの間さびしくなりました。「人生ではすべてが可能だ、さいころの四つぞろいでさえも、、」と書いたルナンも、世紀を隔てて、この蒙昧主義の時代を予見することは出来なかったでしょう。

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コメント

憂愁書架 ルナン『思い出』(2)を面白く読ませてもらいました。最後にサント=ブーヴの話が出てきて、かつて読んだサント=ブーヴの『愛慾(ヴォリュプテ)』を思い出しました。世界(世界の一部?)は、19世紀と21世紀で、やっぱり変わったなと思いました。

投稿: detour | 2007年3月29日 (木) 14時26分

detourさん、コメントありがとうございます。サント・ブーヴはよく知らないのですが、昔『わが毒』というのを感心して読んだ記憶があります。十九世紀は本当に遠い時代のように思われます。これからもよろしくおねがいたします。それでは。

投稿: saiki | 2007年3月30日 (金) 13時38分

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