« 2006年4月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年5月27日 (土)

ルナン『思い出』(2)

 エルネスト・ルナン(1823~92)はブルターニュ半島の北岸であるトレギエの貧しい船乗りの家に生まれました。トレギエは修道院を中心としてできた小さな町で、修道僧と貧しい漁民が大半をしめ、裕福な町民層が存在しませんでした。そのため、町全体が修道院的雰囲気に満たされ、金儲けが軽蔑され、清貧が第一の徳目と考えられていたのです。13世紀に出来た大伽藍が見下ろすこの町では、現実よりも理想の中で生きる「まるで夢の中を泳いでいるような」人々の信仰あつい精神が五百年間、ひとつも変わらずに生き続けていたのです。
 ルナンがこの町の神学校で受けた教育は彼の生涯に抜きがたい痕跡を残しました。「私はこれ以上尊敬すべき司祭たちに出会ったことがない」とルナンは言っています。実際、彼ら教師は日常のささいな事柄に至るまで寸分の緩みもない宗教的自己犠牲に貫かれていました。彼らはルナンに、この世における絶対的徳というものの存在と、罪への恐怖を教えたのです。教師の講話は荘厳なものでした。gustans gustavi paululum mellis, et ecce morior (少しの蜜をなめしのみなるが、見よ、死す)。ヨナタスがなめたために死んだこの少しの蜜とは何を指しているのでしょうか。教師はそれについて何も話しません。ただ、tetigisse periisse (触れ、たちまち死す)と言うばかりです。さらに、mors ascendit per fenestras (死のぼりて、われらの窓より入り)。窓をつたって上ってくるこの死というのは、いったい何ものなのでしょうか。 少年ルナンは、絶対の信頼をおいている人々の口からいわれるこの危険について長い間考えました。17世紀の聖者伝を読んでいるとき、その答えがわかりました。少しなめただけで死に至るもの、部屋でじっとしていても窓から忍び入ってくるもの、蝶の羽のごとく触れると必ず汚れるもの、それは女性にほかなりません! ずっと後になって、ルナンは、彼ら徳と信仰の教師たちは悪魔の皮肉な誘惑にそっくり乗せられていたのではないかと疑います。すべては、けっきょくは大きな幻なのです! 禁欲の神聖さも、この世のすべてと同じむなしき戯れにすぎません。そして、60歳に近くなって、やっとルナンは「汝往きて、その愛する妻と共に、よろこびをもて汝のパンを喰え」という「伝道の書」の著者だけが賢者だった、ということに気づくのです。

 もし、ルナンが15歳でパリに出なかったとしたら、トレギエの神学校の司祭にでもなって一生を終えたでしょう。フランス全土に探索の網をめぐらせていたニコラ・デュ・シャルドネの神学校は、この成績抜群の少年を見出してパリに呼び寄せました。17世紀前半のカトリック改革運動の指導者の一人アドリアン・ド・ブールドワーズによって創建されたサン・ニコラ・デュ・シャルドネは、その歴史の中で最も華やかな時代を迎えていました。校長のデュパンルウ師は、あのタレーランを死の一時間前に奇蹟的に改宗させたことでフランスのカトリック界のみならず、社交界でもひときわ注目される存在でした。彼の下で、ニコラ・デュ・シャルドネは、優秀な聖職者の卵と、一流の名家の子弟をともに訓育するフランスで名だたる学校となっていました。ここに入学することは金には代えられない名誉なことでした。金持ちは多額の金を納め、それによって優秀な貧乏学生は給費されながら最高の授業を受けることができたのです。サン・ヴィクトール街のこの学校の窓からは、洗練されたパリの空気が流れ込んできました。校風は生徒の名誉を重んじる極めて自由なもので、罰則はただひとつしかなく、それは退学でした。退学者は校長の下に呼ばれ、次のような言葉をかけられます。「君はなかなか立派な青年だ。しかし、君の精神はわれわれに必要な精神ではない。それ以外のあらゆる美点を君は持っている。ほかでなら君はきっと成功するだろう。友人のまま別れよう。何かしてあげられることがあれば、遠慮なく言い給え」と。

 ルナンはニコラ・デュ・シャルドネで三年間の修辞年級を終えた後、いよいよ当時世界でも第一級の神学校であったサン・シュルピスに入学します。サン・シュルピスはヴァンサン・ド・ポール、アドリアン・ド・ブールドワーズの仲間であった17世紀の宗門改革の代表者ジャン=ジャック・オリエが創建したもので、かつてのポール=ロワイヤルや盛時のソルボンヌの威光を19世紀になお保持していたのです。フランス有数の名家の出であるオリエ(1608~1657)は、当時のカトリックの堕落に抗議し、世俗に立ち混じる司祭の育成をまず第一に考えました。オリエがフランス史で最高の人間の列に加えられていないのは、謙譲を最上の美徳とする彼の持ち味がそのまま反映されているわけで、それはまたサン・シュルピスの今も変わらぬ特徴でもあります。「死者のように生きよ」とオリエは言いました。平凡であること、決して目立たぬこと、忘れられて生きること、それが理想なのです。
 ルナンは、サン・シュルピスが彼に植え付けてくれたもの、そして生涯そこから抜け出られなかったものを感謝をこめて思い出しています。謙虚であること、これは絶対の教えでした。人が謙虚であることを日々証明して生きることはたいへん難しい、というのも自分は謙虚であるなどと口に出して言った瞬間から謙虚でなくなるからです。サン・シュルピスの導者たちは、この点にかんして実に立派な掟を持っていました。良きにつけ悪しきにつけ絶対に自分を語らぬこと、です! 「これこそ真理である」とルナンは書いています。「今日は、頭が痛い」という言葉すら不遜の種になり得ます。自分自身などどうでもよいものだ、という意識無くして日々の修練は不可能です。修道院では私語が厳しく禁じられるのも、まさにこれゆえにほかなりません。

 ルナンは、サン・シュルピスで勉強と読書に明け暮れました。名だたる教師連も彼の力量を認め、(彼はすでにヘブライ語でフランス最強になっていました)神学者としての彼の未来は輝かしく開かれているかのようでした。しかし、科学的実証主義の洗礼を受けた彼の目には、サン・シュルピスの教えは納得いくものではありませんでした。彼は意を決して、サン・シュルピスの石段を下り、自由に研究できる無給の塾教師の道を歩みます。そして、ここで出会った生徒ベルトロと生涯の親交を結ぶのです。後に著名な化学者となったベルトロはパリの裕福な医師の家に生まれました。父親はベルトロの望みをかなえるべく30歳まで好きなように化学の研究に打ち込むことを彼に許しました。ルナンとベルトロは政治や人生のことで毎晩のように議論しました。ルナンの狭い部屋で遅くまで話し、たいてい結論が出ないので、実家に帰るベルトロを送りながら討論を続けます。ベルトロの家についても話は終わらず、今度はベルトロがルナンを送ります。こうして明け方まで互いの家を何度も往復してしまうのでした。二人の付き合いは、いつも尊敬する女性の傍らにいるように節度と高い精神に裏打ちされたものであったと、ルナンは語っています。サント=ブーヴが『ポール・ロワイヤル』の中で書いている、死ぬまで「ムシュー」と呼び合いながら同じ家で生涯を終えた孤独な人々のことをルナンは感動とともに思い出すのです。

 ルナンの邦訳は現在入手しずらいのですが、最近、忽那錦吾訳『イエスの生涯』『パウロ 伝道のオデッセイー』が人文書院から出ました。訳者によると、「昔はともかく、今はこのような本を読む人の数は限られている」という理由で多くの出版社から断られたそうです。私はほんの少しの間さびしくなりました。「人生ではすべてが可能だ、さいころの四つぞろいでさえも、、」と書いたルナンも、世紀を隔てて、この蒙昧主義の時代を予見することは出来なかったでしょう。

| | コメント (2)

2006年5月23日 (火)

ルナン『思い出』(1)

 フランスの思想家・宗教史家・言語学者エルネスト・ルナン(1823~1892)の『思い出』(1953岩波文庫・杉捷夫訳)の第一章は「麻ほぐし」Le Broyeur de Lin と題され、文学的香気に満ちたこの自伝の中でもひときわ印象深い章になっています。
 ブルターニュ半島北岸の港町トレギエがルナンの子供時代の思い出の舞台です。ルナンはこの町唯一の大きな病院(そこは養老院も兼ねていました)で、何度か狂った女性を目撃しました。45歳位の老嬢で、ルナンたち少年が病院の外を通りかかると血走った眼で野獣のようににらみつけて子供たちを震え上がらせるのです。ルナンの心に刻まれたこの女性の秘密は、遥か後に85歳になった母親の口からルナンに明かされたのでした。
 「ああ、それはね、麻ほぐしの娘さんだよ」と母親はルナンに話しました。ルナンの子供の頃、ケルメル館という貴族の屋敷がありました。父一人娘一人の寂しい家庭でしたが、父親のケルメルはその立派な人柄で地域の尊敬を集めていました。ケルメルは没落貴族の多くがそうであったように極度に窮迫していましたが、その家柄のゆえに野良に出ることなどできず、かろうじて家の中でできる麻ほぐしで糊口を凌いでいたのでした。麻を水につけて十分ふやかした後、一種の皮はぎをして織物になる繊維を残すのです。彼はそれで面目を保っていたのですが、皆はそれを知っていてケルメルを麻ほぐしと陰で呼んでいたのです。ところで、彼の年頃の一人娘はケルメルよりずっと哀れでした。貴族であるがゆえに一般住民とは縁を結べず、持参金を持たないため修道院にも入れません。ひとりぼっちで日がな一日家の中でじっとしていたのです。唯一の楽しみは教会のミサに列席することだったのですが、娘はそこで新しく赴任して来た若い助任司祭に心を奪われました。ミサを執り行うときのりりしく、また少年っぽい初々しさ、心と感覚がより高いところで統御されている人間のもつアウラのようなものを娘は鋭く感じ取ったのです。さらに司祭という階級は娘の階級と決してつりあわないことはなかったのです。娘はしだいにこの青年に惹き付けられ、やがて彼女の生活の全部を占めるまでになりました。しかし、ブルターニュの立派な坊さんが皆そうであるように、この助任司祭も決して娘に打ち解けた態度を示すことはありませんでした。せめて娘に対して避けたり、嫌ったりした態度をとってくれれば、自分の存在を意識してくれたことで少しは心も慰められたでしょう。しかし、彼は女性にしめす遠慮から中へは一歩も踏み込んできませんでした。週に一度、土曜日の告解の日の二人だけの半時間は娘にはそのまま天国の時間のように思えました。娘はそこで彼の言葉、彼の息づかいを感じたのですが、自分の気持ちをほんのかすかでも表すことなど気の弱い娘には出来なかったのです。
 やがて、娘の気持ちは追いつめられたものになっていきました。少しの間でも、彼の注意をひくことはできないのだろうか。彼の愛情を得られなくとも、少なくとも彼の身のまわりの世話ぐらいはできないだろうか、彼のためになること、彼の衣服を整えたり、食事をあつらえたり、つまり彼と起居を共にすること、、、それができたらほんとうに天国だろう! 娘は幾日も幾日もじっと椅子に腰かけて、このひとつのことを思いつめていました。空想の世界で彼の身のまわりの世話をやき、二人の家をきりもりし、彼の着物の裾に接吻していたのです。恋はこの娘の中で宗教になり、純粋な崇拝になり、魂を狂い立たせるものになりました。これから後の話はブルターニュの人間の性格を勘定に入れなければ決して理解できないだろう、とルナンは書いています。ブルターニュ人の特質は恋にもっともよく表れます。恋は彼らにとって情熱以上のもの、身内の奥深くの快楽です。それは恋する者の身をすり減らし衰弱させます。南国の人間の情火とは似ても似つきません。恋愛沙汰からの人死がこれほど少ない人種も珍しく、自殺が極端に少ないのも特徴です。多くの人間は名付けようのない衰弱の中で緩慢に死んでいくか狂っていくのです。
 「麻ほぐしの娘さんの毎日は白い布をかがり、それに刺繍することで過ぎていきました」とルナンの母親は語りました。娘はもはや空想と現実の区別がつかなくなっていたので、この白い布は娘の頭の中で二人の共同の生活の用にあてられるものだったのです。幻想はさらに進んで、娘は敷布類やナプキンに、助任司祭の頭文字で、時には二人の頭文字を合わせたものを刺繍していくようになりました。何週間も、何ヶ月も、娘は自分の夢に浸りきって、針をせっせと動かしながら、みちたりた楽しい時間を過ごしました。自分はあの人のために働いているのだ、何かの仕事に没頭しているのだという幻想はついに奇妙な行為に娘をかりたてることになりました。
 降誕祭の近づいたある日、夜のミサの後には助任司祭はいつも村の主だった人々に司祭館で食事を出す慣わしでしたが、その夜、麻ほぐしの娘はミサの間に司祭館に忍び入って、すばやくナプキンやテーブル掛けをひっぱがして自分の屋敷に隠したのです。ミサがすんで人々はこの盗難にすぐ気づきましたが、何より白い布だけが盗まれているのを不思議に思いました。助任司祭は、お客に食事を出さずに帰すことをしのびなく思いましたが、その時、麻ほぐしの娘がいつになく明るい顔で現れて、「司祭様、こういう時こそ私をお役にたててくださいませ! 15分も待ってくだされば家の白い布を運びますから」と言ったのです。司祭はその言葉に甘えることにしましたが、娘の奇怪な幻想に気づくはずもありません。翌朝、この盗難が調べられて、聖器がかりの男の女房に疑いがかけられました。彼女は必死に無実を主張したので、皆はそれでは誰が犯人だろうかと疑問に思いました。折から、助任司祭がふとテーブル掛けの縁に刺繍された頭文字を目にとめて嫌な気持ちになりつつある時、ケルメルが蒼い顔で入って来て、実は犯人は娘であると告白したのです。裁判が行われました。ケルメルは死神のような顔で法廷に立ち、手袋とサン・ルイ十字勲章を外して置き、「私の名誉は皆さんの手中にあります。全部、娘のやったことです。でも、娘は泥棒ではありません、、、病気なのです」と言いました。目からはどっと涙があふれでてきました。陪審員は無罪を宣告しました。ケルメルは悲痛のあまりまもなく亡くなりました。その後、村の人々は相談して哀れな娘を養老院に入れたのです。
 「すべては、けっきょくは大きな幻なのです」と母親はルナンに言いました。川の流れが大きな岩にあたって、しかたなく向きを変えるように、みたされない情熱が強い繊細な想像力のおかげで架空の世界を作り出すのです。自分を欺くほど容易なことはなく、こうして、人は大きな迷いの中に踏み込んでいくのです、、。

| | コメント (0)

2006年5月16日 (火)

E.R.クルティウス『読書日記』

 クルティウスは、『バルザック』執筆中に、彼に対する同時代人の評価を調べるために、ゲーテの日記を探していました。しかし、ゲーテの完全な日記を収めているヴァイマル版は入手が実に困難でした。あるとき、彼がソーセージを一本買ったところ、それはほご紙にくるまれており、それが何とヴァイマル版の一ボーゲンで、まさに探し求めていたテキストを含んでいたものだったのです。「精神がひじょうに緊張しているときには、そのための努力をしなくても、求めるものが与えられる。私はこれを何度も確認した」と彼は書いています。『読書日記』(1972みすず書房・生松敬三訳)はドイツ最大のロマニスト、エルンスト・ローベルト・クルティウス(1886~1956) の晩年の小著です。全編、知的刺激に満ちていて、それはまさにサント=ブーヴの「文学という宗教」に捧げられた聖務日課表そのものなのです。

 たとえば、ヴェルナー・イエーガーの大著『パイディア』は、ギリシア人がパイディア(教え、教育、文化)と名付けたもの、つまりギリシア的教養理想、ギリシア的人間形成のありようを現代によみがえらせるべきだという精神に貫かれているのですが、クルティウスはそこにヒューマニズムと結託した現代の教育学の貧困を見て取ります。教育学はすべてを目的の観点から捉え、生徒の利益になるものとして、古典古代や国家意識を模範として押し付けます。そこにはギリシア人の「決定的体験」が抜け落ちているのです。「教育学 pedagogie は過去2000年と同じく将来もほんのわずかしか人間を変えることはできないだろう」なぜなら、「唯一の真の教育とは子供による両親の教育であるのだから」

 クルティウスは、18世紀の世界市民、秘儀に心を奪われていたディレッタント、カール・ハインリヒ・フォン・グライヒェンの『回想録』に記されている「知られざる哲学者」ルイ・クロード・ド・サン=マルタン(1743~1803)について書いています。サン=マルタンの著『誤謬と真理について』はマティアス・クラウディスによって独訳され、宇宙的なもののみが意味を持つというゲルマン的伝統に強い刺激を与えました。特にフランツ・フォン・バーダー(1765~1841)にとって、サン=マルタンは彼の生涯の決定的権威となりました。バーダーはサン=マルタンの全著作の注釈を書いています。バーダーは数奇な生涯(その大半は貧困と借金と投機に費やされた)を送り、電光のような135の著作を残しました(彼の思想は自然哲学と秘儀の融合で、ノヴァーリスを思い起こさせます)「この困窮し逼迫した生活から、その沈思熟考の不安の熱から、何条かの光線が洩れて輝き出る。一度この光に捕えられた人は、もう二度とそれを忘れることはないであろう」とクルティウスは書いています。

 サン=マルタンはバルザックに強い影響を与えましたが、同じくフランス革命の純理的反対者、教皇権の擁護者ジョゼフ・ド・メーストル(1753~1821)の思想もバルザックは取り入れています。メーストルが信じていたのは、あらゆる民族、あらゆる時代に共通な人間の根源的宗教であって、その精髄がキリスト教の啓示に保持されていると考えられたのです。クルティウスの記述はここから一気にルネ・ゲノン(1886~1950)に至ります。ゲノンはフランスの秘教的伝統主義者で、インド・アラブ・中国の奥義に通じ、最後はカイロでイスラムの聖者として死んだ思想家ですが、ルネサンス以来の西洋の知のパラダイムを逆転させました。「ルネサンスは何かの始まりではなく、むしろすべてのものの終りであった」とゲノンは言っています。真なるものは、昔の人々はそれを容易に理解できたが、現代ではたとえばカトリックの典礼の中に象徴として表されているにすぎない、とも書いています。ここで『読書日記』中の圧巻ともいうべき場面が描かれます。「その死の間近に、アンドレ・ジッドとルネ・ゲノンとが会ったようである。アンリ・ボスコはN.R.Fのジッド追悼号に、その会見について若干のことを書き記している。『もしゲノンの言うとおりだとすれば』と、ジッドは言った。『わたしの全著作などはかないものだ、、、わたしはゲノンの書いたものに何ひとつ異論を唱えることはできない。それには反論の余地がないのだ、、』しかし、さらにこうも言っている。『もう芝居は終わってしまった、わたしはあまりに年をとりすぎてしまっている、、それにわたしはこの人生を、多彩な人生を、情熱的に愛している』」

 クルティウスが最も愛したフランスの作家はバルザックで、最も親しくした作家はアンドレ・ジッドです。ジッドが死に瀕していたヴァレリーを最後に見舞った時、(彼は死の床にあってもヴォルテールの『諸国民の風俗と精神に関する試論』を読んでいたのですが)、ヴァレリーは旧友のジッドに何か重大なことを打ち明けようと半時間ほど喋りました。しかし、ジッドには一言も理解できませんでした。ヴァレリーの話し方は健康な時でさえ不明瞭であったのに、病気のためにさらに意味不明になっていたのです。ジッドがこの若い頃からの友人の別れの言葉をもはや理解できなかったことを告白したときの口調は悲劇的なものでした。「このことは彼に重荷としてのしかかっていたのであり、その重荷からのがれたいと思っていたのだ」とクルティウスは書いています。

 『読書日記』には他にも、ジャン・パウルについて、ヘルマン・グリムとブレンターノ一族について、アレキサンドリアの文化的価値とその裏の背景ともいうべきビザンチンについて、等々、この小さな書物から信じられないほどの豊かな知識があふれてきます。最後に、クルティウスの精神的バックボーンともいえるゲーテについて紹介しましょう。クルティウスがこの書物の中で書き留めているゲーテの著作は『スイスからの手紙』(別名『ヴェルテルの手紙』)です。ヴェルテルは一人の芸術愛好家と知り合い、彼の蒐集品を見せてもらいます。最後に彼は秘密めかした身振りでヴェルテルに一つの箱を示します。それを開けると、膝に黄金の雨を受けている等身大のダナエの像が見えました。ヴェルテルはそれまで、人間の形姿をこれほどしっかりと見たことはありませんでした。彼は自然の究極の姿である人間の裸体を見て精神的覚醒に達するのです。その後ヴェルテルは友人フェルナンドを誘い、湖で泳ぐのですが、友人の均整のとれた見事な裸体に賛嘆します。「被いのない人間こそが真の人間なのだ、、純粋なものにとってはすべてが純粋である、、」とゲーテは書いています。クルティウスの興味は偉大な文学者の覚醒の瞬間に注がれます。彼は別のところで、バルザックが深夜、パリの街を半分横切って妹のところに会いに急ぎ、「自分は、今、天才になろうとしている」と息せき切って話す場面を深い感動をもって描いていました。

  

| | コメント (2)

2006年5月 7日 (日)

クラウス・マン『転回点ーマン家の人々』

 クラウス・マン(1906~1949)の『転回点ーマン家の人々』(晶文社・小栗浩、渋谷寿一、青柳健二訳)は邦訳で六百頁を越す大部の自伝です。「天才の子供であるというのは容易ならぬことだ」と彼は書きます。シュニッツラーの娘が自殺したとき、シュニッツラー(多くの死を日常茶飯のように描いてきた作家であるが)は「ああ、わが子よ、、、おまえのしたことを本当に悪く思ったことはなかったのに。なんということだ、、」と絶句しました。長男が額にピストルの弾丸を撃ち込んで自殺したとき、ホーフマンスタールはその葬儀の朝に発作で倒れて死にました。クラウス・マンが43歳でカンヌで睡眠薬自殺をしたとき、父トーマス・マンは「なんとか(クラウスを)地上にひきとめてやりたかったのに、、」と嘆きました。
 「乳母車は失われた楽園である。、、、思い出があるところに幸福はない。われわれの郷愁はわれわれの意識とともに始まるのだ」クラウス・マンは「幼年時代の神話」の章でそのように書いています。子供は楽園の中に生まれるが、その幸福な無知の時代はわずかしか続かない、知識は常に不安とともにやってきて、私たちを初源の無知の揺籃への憧れで満たします。苦痛に裏打ちされた生、エーリク叔父はアルゼンチンで借金のため自殺に追い込まれ、女優だったカルラ叔母はクラウスの家で自ら酸を飲み、断末魔の苦しみに喘鳴して死んでいきました。ルーラ叔母は首をくくって自殺、そしてオルガ叔母はベルリンで窓から飛び降りて死にました。隠そうとしても子供の耳に入ってくる身内の人々の死は、この世を尋常ならぬものに、甘い楽園の陰にひそむベラドンナのような危険なものに思わせたのです。
 
 青年時代に遭遇した二人の親友の自殺がさらにクラウスを死の国に近づけます。一人は無名の芸術家で幼い頃からの遊び仲間リッキー・ハルガルテンです。きわめて裕福なユダヤ人実業家の息子、何不自由ない暮らし、この世の甘美さを享受する意志と能力を完全に備えていた青年、この世の万物に魅せられ、花、山、書物、絵画、音楽、動物、帆船、女、演劇、建築、すべてを愛した若者、しかし彼は死をも愛し、生を恐れていたのです。彼は死をまるで宿命的な義務であるかのように語りました。「そうならざるをえないなんて馬鹿げている、、こともあろうに小さな家にヴォルファラムといっしょにいる今の今になって、、」ヴォルフォラムとは彼の飼い犬の黒いテリー犬の名前です。クラウスとクラウスの姉エーリカはリッキーを死の誘惑からそらすためにもう一人の女友だちを加えて四人でペルシア旅行を計画しました。最初は乗り気でなかったリッキーも次第にその計画に魅せられ、自分で防水テント、地図、魔法瓶、サングラス、ペルシア語の文法書まで買い込みました。しかし、彼は同時にもう一つの旅、たった一人で赴く孤独な旅の準備もしていたのです。テヘランに向かう旅の出発の前夜、リッキーは美しい丘に建つ小さな別荘で、ピストルで自分の心臓の真ん中をぶち抜きました。
 もう一人の親友(クラウスの親友はこの二人だけでした)は詩人のルネ・クルヴェルです。フランスのブルジョア階級の出で大きな美しい瞳を持った青年でした。ルネはブルジョアの持つすべてを嫌い、なかんずくその典型である母親を憎悪していました。いや憎悪していると信じていたのです。カトリック、軍隊、アカデミー・フランセーズなど権威づくで彼の前に現れるものにルネは激しい敵意を覚えました。ルネはシュールレアリスムの領袖アンドレ・ブルトンに心酔しますが、共産主義にも深く共感しました。だから、ブルトンとソ連の文化代表イリヤ・エレンブルグが白昼公道で殴り合いの喧嘩を始めたとき、ルネの心は激しく揺れたのです。1935年(リッキーの死んだ三年後)反ファシズム作家会議の準備中にルネは「もう、なにもかもいやになった」と紙片に書き付けて、多量のファノドルムを飲みガス栓を開けて自殺したのです。「人はなにゆえに自殺するのか」とクラウスは自問します。「次の半時間、次の5分間を生きることをもはや望まぬからだ。もはや生きることができないからだ。突如、人は死せる地点に、死の地点にいる。これが限界だ、もう一歩も進まれぬ、、、」「私はルネから絶望への勇気を教わった」

 ヒトラーが政権をとって以来、マン家の亡命生活が始まりました。クラウスも放浪の果てに、アメリカで新天地を切り開こうとします。彼は亡命者の雑誌を計画し、賛同者を訪ね、資金を調達します。が、そんな仕事のさなかに、おそろしい憂愁の時間がやってきます。死の願い。無の氷のような慰めが。「10月25日、死の願いーそれだけだ。10月26日、死の願い(いつまで我慢できるか?)10月27日、死の願い。私は死を願う。人生はいやだ。私はもう生きたくない。もう生きていなくてよいのなら、どんなによいだろう」
 ところが、ここで何度も拒否されていたアメリカ軍入隊の許可が下りました。クラウスは狂喜し、新兵訓練に張り切って参加します。そしてイタリア・北アフリカ戦線に派遣され、危険な戦闘や面倒な戦後処理などに活躍します。1949年、南仏カンヌで自殺。
 自殺の理由に、期待していた世界平和の希望が崩れ、米ソの二極化に世界が動いていったことが言われますが、何とも肯定しがたい考えです。クラウスは親友のリッキーと同じく、享楽主義者で、同性愛の機会はなんとしても逃したりはしません。世界的大作家の息子で、たとえ金に困ってもスポンサーにこと欠くことはありませんでした。(父親のノーベル賞の賞金はクラウスの借金返済にもあてられました)。魅力的な容貌、愛想のよさ、誰にも好かれる性格、そして何よりも自分自身の欲望に忠実であることを信条としていた人間です。自ら命を絶つほどの理由はどこにあったのでしょうか。
 ヒントの一つはシュテファン・ツヴァイクの自殺です。1942年、ブラジルでのツヴァイク自殺の報はクラウスに強い衝撃を与えました。なぜなら、亡命中とはいえ、ツヴァイクは世界的名声をもつ作家であり、金もあり、多くの友人に恵まれ、若い夫人も付き添っていました。ツヴァイク自身、享楽主義者で楽天的で幸福に慣れきっていたはずなのです。遺書によれば戦争、野蛮の勝利、破壊的な原始本能の発現に失望したと言うような記述がありました。「そんなに簡単なことなのか? ああ、私たちに何がわかろう」とクラウスは自問します。クラウスはさっそく残されていた数年来のツヴァイクからの手紙を読み返してみます。旅行、観劇、批評、お礼などの何でもない文章に混じって、時折、おしころした倦怠、アイロニー、嘆息の言葉が見つかりました。「私はそれに少しも気づかなかった。私は彼を、何事も気にかけることのない食道楽の世俗的な文士だと思っていた。その彼が絶望していたのだ!」クラウスはニューヨークで最後に彼に逢ったときのことを思い出しました。道で偶然すれ違うとき、ツヴァイクの顔は目つきがすわって悲哀に満ちていました。クラウスに気づくと、びくっとして、一瞬後には自分を取り戻し、いつものように愛想良い顔に戻ったのです。おそらく絶望が癌のように長い時間をかけて彼を浸食し、リオのカーニバルを見ての失望は単なる引き金にすぎなかったのではないか、、。

 自殺に心ひかれている人間にはどこか明るさがあります。死の恐怖を感じない人間の独特の明るさ。半分死者の世界に足を踏み入れているので、地上の重力はあまり彼を束縛しません。暗い軽さというようなものがつきまといます。クラウスは戦争に行くことを、戦うことを望みました。死に赴くことが、生の恐怖から逃れるひとつの方法となるのです。死を宿命であると思いながら、何とかそこから抜け出すことに「いかがわしい楽しみ」すら感じるのです。
 人生に絶望するとはどういうことでしょうか。人の世の楽しみを無意味なものに思わせるものとは何でしょう。作家の川口松太郎はあるとき「二度と人間に生まれたくない」と語ったそうです。『新吾十番勝負』『愛染かつら』の作者のどこにそれほどの絶望がひそんでいたのでしょうか。むろん、性格そのもの、遺伝的特質もあります。マン家は多数の自殺者を出しているし、父トーマス・マン自身、その小説の中に生への歓びを見つけるのは困難でしょう。
  いつの日か愛撫なしに生きよう
  と、私は約束する、、  
これはトーマス・マンが日記の片隅に書きとめていたアウグスト・フォン・プラーテンの詩です。

 暗い話の最後にクラウスの最も楽しかった頃の思い出を話しましょう。父親のトーマス・マンは朝九時から十二時まで執筆し、夕方は昼寝します。その時間帯は決して邪魔してはいけないのですが、夜になると書斎に子供たちを集め「さて、みんな坐るところがあるね」と言って、本を読んでくれるのです。長女のエーリカ(後にW.H.オーデンと結婚)、長男クラウス、次男ゴーロ(後の歴史学者)、次女モニカ、三女エリーザベト、三男ミヒャエルの六人の子供は、いっぱいの書物をかきわけて自分たちの坐るところを確保しました。父親は、トルストイやゴーゴリの物語を読みながら、しばしば自ら笑い出して中断してしまいます。ある夜はマーク・トウェインやフェニモア・クーパー、ある夜はメーリケやグリルパルツァーやゲーテを、またある夜はスウィフト、デフォー、キップリングなど、セルマ・ラーゲルレーヴの北欧のおとぎ話すらも語られました。「何と楽しい夜だっただろう」。アドルノやエリオットやベンヤミンなどと同じように子供時代は幸福の元型を彼に与えたのです。
 

| | コメント (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年7月 »