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2006年4月 2日 (日)

エドワード・W・サイード『オスロからイラクへ』

 サイードの名を高らしめた『オリエンタリズム』は執拗できらびやかな引用で彩られた難解な書物です。しかし、彼がエジプトの新聞「アル=アフラーム」などに発表した政治的文章は、ずっと軽く、平明で、誇張や繰り返しの多い、読みやすいものとなっています。インターネットで逐次公開されたこれらの文章は、たまたま目にした誰か一人の読者が、どんな箇所を読んだにしても一瞬にして著者の意図がわかるように工夫されています。それは単なるプロパガンダにすぎません。しかし、それはゾラの『私は弾劾する』J'accuse. にも増して現代世界の最も良心的な部分に伝えられた血のメッセージなのです。サイードは必死で、死の直前まで、白血病の苦しい治療の合間、かろうじて平静な意識を保つことのできるわずかの時間にこれらを書き上げました。ついに書くことも読むこともできなくなった時、サイードはベッドの上で大泣きに泣きました。自分はパレスチナの人々のためにもっと何かをしてやれたのではないか、と。
 『オスロからイラクへ』(2005みすず書房・中野真紀子訳)は彼の遺著であり、この時代が後世に残す希望の書です。シャロンが死んでも彼が墓場に持っていくものは「アラブ殺し」という汚名だけだろう、とサイードは書いています。「しかし、私たちは奇跡的に生き延びたヴィジョンと社会を未来に伝えるのだ」
 サイードのメッセージは次のようなものです。パレスチナの問題は本質的にプロパガンダの問題である。イスラエルとアメリカは巧妙にパレスチナ人=アラブ=テロリストという図式を広めてきた。その根底には、西欧だけがルネサンスを通じて「個人」と自由の価値を理解し得たという思い上がりがある。しかし、アラブ側にも問題はある。ナセル以来、信頼しうる存在感のある指導者はほとんどいない。インフラは整備されず、道路・建物への無駄な出費、そして教育の貧困ー相も変わらずコーランの丸暗記、優秀な若者は絶望して海外に流出する。国主は保身のみを考え隣国を牽制しアメリカの顔色を伺う。彼らは、自分たちの立場を主張し広く世論に訴えかける努力を怠ってきた。その要約がパレスチナだ。アラファトは自らの地位の保全だけに固執し、パレスチナの窮状を広範にシステマチックに世界に知らせるという意識すらない。財産と家を奪われ難民となった数百万のパレスチナ人、さらに一日も休みなく肉体的精神的に迫害され脅迫される西岸地区の人々。パレスチナの自爆テロは繰り返し世界に流れるが、イスラエルによる殺人、暴行はメディアをかするだけであるか、あるいは全く報道されない。出口はあるのか、またはパレスチナに希望はあるのか?
 希望はある、とサイードは書いています。粘り強く世論を喚起すること、イスラエルの中の理性的な人たちとともに偏狭なシオニズムに打ち勝つこと、高い志を持った仲介者による合理的な相互理解を目指すこと、そして共存できるひとつの国を作ること、です。憎みあうものが共存できるか、という問いに、サイードは真の豊かさは対立するものたちの存在によって保証され、文化はそれを包み込むことによって成り立つと答えます。しかし、ここに障害があって、それは今や唯一の超大国となったアメリカなのです。それは白を黒と言い得る唯一の国であり、人種的偏見が宗教的イデオロギーにまで高められた国なのです。『オスロからイラクへ』の半分以上はブッシュ政権とその新保守主義への批判に埋められています。イスラエルの安全と石油供給の安定しか望んでいない彼らにとってイラク人もパレスチナ人もチェス盤の駒と同じようなものです。この壁を崩していくことは容易ならざるように見えますが、サイードはまたもや「良心と相互理解の共同体」に望みを託します。暴力による反撃など問題にはなりません。大義はパレスチナの側にあり、それを辛抱強く世界の人々の想像力に訴えかける以外にありません。正義の戦いは正義の手段を必要とします。彼が自爆テロを非難するのも故なしとしないのです。
 最後にサイードが常に強調する品格と尊厳(dignity) について触れましょう。これあるがゆえにパレスチナの人々は生き抜いてきたのであるし、ブッシュのアメリカがイラクで行い、シャロンのイスラエルがパレスチナで行っていることもその dignity を辱めるためなのです。コンラッドは『闇の奥』で文明的なロンドンも突然予告なしにアフリカの奥地と転換可能であることを示しました。自らだけが人間的愛情と民主主義を持っていると自負する人々は、まさにそれゆえに自分が闘っているテロリズムに酷似してくるのです。

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コメント

ブログ主様、初めまして。

エドワード・サイードと夏目漱石をキーワードに検索してこちらにたどり着きました。

「真の豊かさは対立するものたちの存在によって保証され、文化はそれを包み込むことによって成り立つ」というサイードの言葉に打たれました。文化は歴史と同様に重なり合い、関わり合って育まれるものであり、一方のみで成立するものではなく、多様性と変化を受け入れる姿勢が大事なのだ、ということだと思います。

「文学とはなにか」を模索した夏目漱石と、比較文学論の分野で文学が社会に果たした役割を思索しつづけたエドワード・サイード。彼らのお陰で良い言葉に出会えました。ありがとうございます。

投稿: 海坊主 | 2013年5月 4日 (土) 21時13分

海坊主さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
早いもので、サイードが死んでからもう10年も経ちましたね。ご覧のとおり、今でも偏狭なナショナリズムや差別的愛国主義は健在なのですが、それでもインターネットの凄まじい普及は政治における「プロパガンダ」 の意味を根っこからくずしつつあります。多くの議論はあるが、私はそこにこそ救いはあるのだと思います。
それでは。

投稿: Saiki | 2013年5月 5日 (日) 12時54分

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