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2006年4月24日 (月)

ラーゲルレーヴ『ポルトガリヤの皇帝さん』

 おとろえることのない愛情というものはどれほどの価値があるのでしょうか。
 『幻の馬車』『キリスト伝説集』『ニルスのふしぎな旅』で知られるスウェーデンの女性作家セルマ・ラーゲルレーヴ(1858~1940)の『ポルトガリヤの皇帝さん』(1981岩波文庫・イシガオサム訳)は、父親の娘への愛情(献身的な、驚くべき)を描いて深い深い感動を誘います。
 スウェーデンの田舎に住むヤンは、希望のない無気力な極貧の日雇い労働者です。しかし、妻のカトリーヌが産んだ赤子を両腕に抱くと、彼の心も彼の人生も変わりました。その娘クラーラ・グッラは花のように明るく快活な女の子で、ヤンは愛情のすべてをこの娘に捧げました。猩紅熱にかかった時は一睡もせずに看病し、吹雪の日には娘を背負って危ない道を学校まで送りました。日曜には精一杯よい着物を着せて教会に連れていくと、村人の誰もが仲のよいこの父娘を羨みました。ところが、娘が十八歳になったとき、借りていた家屋のたまった代金の支払いのため、クラーラ・グッラがストックホルムに出稼ぎに行かねばならぬことになりました。家のためではあるが、年頃の娘にとっては広い世界に出ることは憧れでもあったのです。しかし、娘との別れはヤンにとっては胸を引き裂かれるものでした。楽しみにしていた娘からの手紙も約束の送金の後、一度もなく、風の便りでは娘は不幸な目にあっているとのことでした。
 その頃からヤンの様子がおかしくなってくるのです。クラーラ・グッラがポルトガルの女王で自分がその父親、つまり皇帝だと自認し、山高帽に杖を持って、胸には金紙の星をたくさん着け、毎日のように船着き場で娘の帰りを待つようになりました。村の子どもたちからは「ポルトガリヤの皇帝さん」と馬鹿にされていますが、しかし、ヤンは気がふれてから不思議な千里眼のような力を身につけて、しばしば村人の困ったところを救うようになったのです。
 十五年の歳月の後、ついにクラーラ・グッラが帰ってきます。都会で苦労をした娘は年よりもやつれて見えました。ヤンは涙を浮かべながら歓迎の歌を歌って「女王」を迎えますが、クラーラ・グッラは皇帝姿の狂った父親を見て驚き、恐れ、失望しました。そして、彼の傍らにいるのも堪え難くなり、わずか一週間の滞在の後、母親を説得して、父親を一人残して町に帰ろうとします。ヤンに内緒で荷物をまとめ、小型の定期船に乗って岸を離れていく娘と母親、しかし、空っぽになった家を見て取り残されたと知ったヤンは大急ぎで娘たちの後を追ってきます。船の上のクラーラ・グッラの目には、狂ったように土手を駆け下りてくる父親が映りました。ヤンは船を追うように湖に飛び込んで、そのまま何日も浮いてきませんでした。クラーラ・グッラは岸辺に棺を用意して父の遺体の発見を待っています。彼女は、湖に沈んだ父親が、自分を裏切った憎しみゆえに彼女に罰を与えることを恐れ、早く遺体を埋葬して神の下に返したかったのです。
 そのとき、リンナルト・ビョルンソンという男が彼女に話しかけてきました。ビョルンソンはかつて自分の父親と喧嘩して、30年間離れて暮らしていたのですが、父の臨終のときに、ヤンが20キロの道を徒歩で知らせに来てくれて、そのおかげで父の死に目に会い、劇的に和解することができました。そのお返しに、ビョルンソンはクラーラ・グッラにどうしても言わねばならぬことがあったのです。
 「ヤンさんと最後に話したのはおれだったんだ」とビョルンソンは言いました。「あの日、ヤンさんがおれの家の前をあたふたと通りかかって、女王さんがここを通らなかったかと聞くんだ。帰ってみると家は空っぽだったから、きっと船着き場に行ったに違いない、と涙をうかべている。それで、おれは馬車にのせてあげたが、道々、ヤンさんは、クラーラ・グッラを連れ出したやつらは彼女をいじめやせんかどうか、と聞くんだ」
 「連れ出したやつらって!」とクラーラ・グッラは聞き返しました。
 「おれも不思議だったから聞いてみたら、そいつらはクラーラ・グッラが帰ってきて以来、つけねらっていたやつで、今度は彼女におそいかかってとりこにして引いていった、というんだ」
 「あら、そんなふうに、、」
 「おれは言ったんだ、クラーラ・グッラのそばには見張りなんぞは見えなかった、って。すると、『さすがのリンナルト・ビョルンソンにも見えなかったか』という返事だ、『娘っ子がここを通るとき、あれの見張りをしていたやつらが? ほら、「見え」とか「無慈悲」とか、それに「悪」とか「欲」とかよ』」
 「ええ!」とクラーラ・グッラは足をとめて彼の方を振り返りました。
 「、、ヤンさんはすっかり失望して泣き出した。『ああ、神様に祈っておくれ、リンナルト・ビョルンソンや、わしが娘っ子をすべての悪から救ってやれるように! わしの身はどうなろうと、なんとかあれだけは助かるようにな』って。クラーラ・グッラ、まちがえるなよ、ヤンさんは自分の悲しみからのがれるために湖にとびこんだのじゃないんだ。あの人が船を追って身を投げたのは、ただクラーク・グッラを敵から救うためだったんだよ」
 やがて、ヤンの死体が湖から上がり、村の人全員が葬列に参加します。クラーラ・グッラはいまや昔の父の姿を、自分を背負って学校へ連れていってくれた父親の姿を思い浮かべることができました。父親の愛情が自分を満たしてくれるのを感じ、彼女はまた昔の輝きを取りもどしたのです。
 死してもなお、人を愛することができるということ、決してあせることのない愛情はどんなものにも増して価値があるということ、この小説の放つ言葉はひたすらその一点に注がれています。

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2006年4月17日 (月)

ウォルター・ペイター『ルネサンス』

 世に名著というものは数多いが、ウォルター・ペイター(1839~1893)の『ルネサンス』(1873作・2002筑摩書房ウォルター・ペイター全集1・富士川義之訳)ほどその名に相応しいものはありません。「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」という有名な言葉、また「千年にわたる男たちの欲望の対象」であった『モナ・リザ』への賛美、「宝石のような焔で絶えず燃えよ」という「結論」の言葉など、、、オスカー・ワイルドが「黄金の書」と呼んだこのような本を先入観なしに読めというのは全く無理なことでしょう。しかし、この本を読む者は、ことさら身構えて読む者も、また虚心に読む者も、長い時を経て再び頁を繰る者も、たとえば春の冷たい雨の音を聴きながら静かな部屋で、アールグレイの紅茶を飲みながら読む至福の時を存分に楽しむことができるに違いありません。
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 サンドロ・ボッティチェルリの「マニフィカートの聖母」を思い出しましょう。物憂い顔の聖母は、天上を見る幼子イエスを膝に抱きながら、イエスにも天上の光輝にも興味を示さず、眠たげにペンを手に持っています。天使たちは彼女を励まして、ノートに彼女を賛美する言葉を書かそうとするのですが、力無い聖母の手からはペンが落ちんばかりになっています。彼女は「すべての民の願い」である幼児イエスを抱いているのですが、イエスの敬虔で可愛げのない表情は彼が決して誰からも本当に愛されない存在であることを表しています。彼女自身は神にも別のものにもくみせず、本当の思いは粗末な家で待つ彼女の本当の子どもたち、貧しくつつましい、日曜だけ白い襟のついた洋服を着て教会へ行く不器量な子どもたちの方へ飛んでいるのです、、、。ダンテが天国にも地獄にも値しないと決めつけた優柔不断の人々をボッティチェルリは受け入れた、とペイターは書いています。フラ・アンジェリコの天上の善良さも、オルカーニャの地獄の邪悪さも持ち合わせず、いつも不安定な悩みを抱え、時おり情熱に突き動かされ、大いなるものにおびえながら、自分には何かすばらしいものが潜んでいると考えている、そうした人間への共感こそボッティチェルリの徳性であった、と。
 ミケランジェロの生涯には絶えず不協和音が鳴りひびいていました。ローマの町を「まるで死刑執行人のように歩く」彼をラファエロは目撃しています。ある時は餓死しようとして部屋に閉じこもり、ある時は「私が味合う甘味はすべて苦い」par che amaro ogni mio dolce ie senta と書いたりしました。しかし、彼は長命を得、隠れていた優しさが徐々に表に出てきたのです。彼は事物をありのままに見ようとします。フィレンツェ人はみな死にとりつかれていたが、彼はダンテのように不死を叫ぶのではなく、冷静に、むしろ愛情をもってあわれみの気持ちで死を見つめようとします。ピエタ(あわれみ)はミケランジェロの偏愛した主題で、いくつかの彫像のほかにたくさんのスケッチも残されていますが、彼はそこで、神々しい悲しみをではなく、異教的で普遍的な、すべての母親が死んだ子に抱く希望のない哀しみを表そうとしました。サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」は、硬直した四肢を抱え、子への憐れみと死に対する畏怖に襲われた一人の若い母親を描いているにすぎません。
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 ペイターは『ルネサンス』のはじめに、古いフランスの物語二篇を置いていますが、それがこの本の基調をよく表しています。一つは「オーカッサンとニコレット」で、立原道造が愛したことで知られるこの物語は、サラセン人の血を引く奴隷の娘ニコレットが、大貴族の息子オーカッサンと苦難の末結ばれるという情熱恋愛の書です。オーカッサンの父親は、息子が奴隷の子と結婚することを防ぐため、二人を別々の塔に軟禁します。恋人に会いたい一心でニコレットはシーツやタオルをより合わせてロープを作り、それをつたって塔から脱出しオーカッサンのもとへ走ります。この物語の最も高名な箇所は、異教の女と結婚すると地獄に堕ちるぞ、と脅されたオーカッサンが、「老いた僧侶と天国へ上るよりも、ニコレットとともに地獄に落ちたい」と答える場面ですが、十二世紀末の人たちにとってはこのような情熱の解放は何と新鮮な響きをもっていたことでしょうか。「中世における理性と想像力の急激な出現、心の自由の確認、それを私は中世のルネサンスと名付けたのだが」とペイターは書いています。「その最も強烈な特徴の一つは、時代の道徳的、宗教的理念に対する反逆や反抗の精神である。、、『オーカッサンとニコレット』には、この精神のおそらく最も高名な表現が含まれている」
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 しかし、ペイター自身は情熱を開示することなく、生涯の大半を手入れのいきとどいた簡素な部屋、折り目正しい人々との交際の裡に過ごしました。マリオ・プラーツは『肉体と死と悪魔』(1986国書刊行会・倉智恒夫他訳)の中で、「真率な態度、宗教的感覚、ほとんど苦行者」のようなペイターが、常に死と凋落のイメージにつきまとわれていた、と書いています。しかし、ペイターにはスウィンバーンやワイルドのようなスキャンダルもヴィンケルマンのような痴情のからんだ最期もありません。ワーズワースの「ルーシー詩編」やラスキンなどに見られる少女趣味にも全く無縁です。ペイターの男性美への賛美には、肉感的というより、なにか友情を求めて、という趣があります。彼が「古いフランスの物語二篇」のもう一つに「アミとアミルの友情物語」を置いたのもゆえなしとしません。アミとアミルはローマで同じ日に教皇から洗礼を施され、その時、木製の子供用の小さな杯を記念にもらいました。成人した後、ある危急の折に、アミはアミルに代って生死をかけた試合を引き受けます。その後、癩病になったアミは妻からも見放され、古い友人のアミルを頼ろうと彼の屋敷を訪れます。応対に出たアミルの家の召使いは、アミが主人と同じ木の小さな杯を持っているのに気づき、主人にそのことを報告します。驚いたアミルは走って出て、自分を死から救ってくれた旧友を美しいベッドに寝かせ、いつまでもこの家にいるようにと言いました。ある夜、アミの夢の中に天使ラファエロがあらわれてきます。天使は彼に、アミルの子どもたちの首を切り落とし、その血で体を洗えば癩病は癒される、と告げます。アミはその夢をアミルに話しますが、アミルはその非道な話に絶句します。しかし、アミが危険もものともせず自分の命を救ってくれたことを思い出し、刀を持って子供部屋に入ります。嬉しがって寄ってくる子どもたちを抱きしめ、アミルは泣きながらその子らの首をはねます。流れ落ちる血を皿にうけて、友のところにかえり、その血で洗うと、アミの体は輝くもとの姿に戻りました。アミルはアミの手をとり、教会に感謝の祈りにいきます。家に帰り、子どもらを弔おうと子供部屋に入ると、二人の子は飛び回ってはしゃいでいます。首には赤い糸のような線が残っているだけでした。
 「木製の子ども用の杯」は、ここでは、アミルがアミを識別する重要な鍵となっています。『オセロ』の中の苺模様のハンカチのように、人生の決定的なことが些細なものによって左右されるということ、これ以上に美的なことはないでしょう。

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2006年4月 8日 (土)

R.L.スティーヴンソン『旅は驢馬をつれて』

 
 旅を愛し、というより旅そのものが人生だったロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850~1894)の『旅は驢馬をつれて』(1879作・岩波文庫吉田健一訳)ほど旅への賛歌を書きしるしたものはありません。彼は一人旅、そして徒歩の旅を好みました。自ら考案したスリーピングバッグをロバにのせて、彼は南フランスのセヴェンヌ地方を十二日間かけてゆっくり旅をします。秋のすばらしい天候にも恵まれ、ほとんど未開といってよい山間の村々を、ある時は野宿しながら、ある時は粗末な宿屋の箱形の寝台で過ごし、とっつきにくい村人や、親切な修道士などに助けられて彼はこの幸運な旅を終えました。この旅行記には人生の秘密を解き明かすヒントなどどこにも見られません。それは、風変わりな男の気ままな旅にすぎません。しかし、一匹の灰色の小さなロバのおかげで、この本は忘れることのできない余韻を私たちに残します。
 出発地モナスティエの市場で、スティーヴンソンは、灰色の小さな牝のロバを見つけました。持ち主のアダンじいさんは、このロバの性質のおとなしいことを示すために次々に子どもをロバの背中にのせますが皆ふり落とされてしまいます。スティーヴンソンはそのロバを80フランで買って、モデスティヌmodestine と名付けますが、その時、アダンじいさんの目から涙が一滴ほほを落ちるのを見てびっくりします。
 モデスティヌは、荷物をいっぱい背中にのせると、ハアハア息をして、歩くより遅い速度で進みます。スティーヴンソンはその遅さに絶望的になってロバの横を歩いていくと、道ですれちがった人が茂みから枝を持ってきて、「ロバを甘やかしてはいけません、これで打ちなさい」と教えてくれました。その枝を鞭のかわりにしてロバを追うと、モデスティヌはやっと並の速度で歩き出しました。それでも、横道を見ると入ろうとしたり、立ち止まって草を食べたり、牛に見とれたりします。スティーヴンソンも鞭を使いすぎて腕が痛くて上がりません。疲れきって宿屋に到着すると、宿屋の主人が「突き棒」というロバ用の棒を作ってくれました。翌朝、先端から針の出たその棒でモデスティヌを追うと、ロバは昨日までとは打ってかわって従順に言うことをききます。モデスティヌのお尻から血がにじんでも同情することはできません。スティーヴンソンは何とかさぼろうとしているモデスティヌに愛情よりも苦々しさを感じざるを得ませんでした。
 それでも、共に野宿し、共に黒パンを食べ、共に険しい峠を越えるうちに、心のつながりのようなものが芽生えてきます。ロバはもともと人間に強い愛着を抱く動物です。モデスティヌは主人からパンをちぎって与えられることを喜びました。スティーヴンソンも食事の時にモデスティヌの好きな栗の葉をたくさん集めてやります。気が乗らなかったモデスティヌも、旅の終りには険しい丘のある15マイルの道程を六時間で踏破するようになりました。12日目、サン・ジャン・ド・ガアルの町で医者に見てもらうと、モデスティヌは疲労がたまっていてもう旅は無理だと宣告されます。アレイの町に早く着かねばならないスティーヴンソンは市場で35フランでモデスティエをついに手放しました。身軽になって駅馬車に乗り込み、岩の多い道を走っていると途端に別離の悲しみに襲われました。「私はモデスティヌを失ったのだった。私はそれまでモデスティヌを憎んでばかりいた。しかし、もういなくなると、ああ、それは私にとってなんという違いだろう」モデスティヌとの最後の食事のことが、サン・ピエールの丘の上で、月光を浴びながら、パンをちぎって食べさせるとうれしくて体を寄せてくるモデスティヌのことが思い出されました。「モデスティヌは忍耐強く、鼠のような上品な灰色の毛をして、何とも小さかった。その欠点はその種族に共通のものであって、その美点は彼女独特のものであった。さらば、そして、もし永遠にさらばであるならば、、、」
 アダンじいさんはモデスティヌを売った時に泣きました。駅馬車にゆられながら、スティーヴンソンの目からも涙があふれてきたのです。


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2006年4月 2日 (日)

エドワード・W・サイード『オスロからイラクへ』

 サイードの名を高らしめた『オリエンタリズム』は執拗できらびやかな引用で彩られた難解な書物です。しかし、彼がエジプトの新聞「アル=アフラーム」などに発表した政治的文章は、ずっと軽く、平明で、誇張や繰り返しの多い、読みやすいものとなっています。インターネットで逐次公開されたこれらの文章は、たまたま目にした誰か一人の読者が、どんな箇所を読んだにしても一瞬にして著者の意図がわかるように工夫されています。それは単なるプロパガンダにすぎません。しかし、それはゾラの『私は弾劾する』J'accuse. にも増して現代世界の最も良心的な部分に伝えられた血のメッセージなのです。サイードは必死で、死の直前まで、白血病の苦しい治療の合間、かろうじて平静な意識を保つことのできるわずかの時間にこれらを書き上げました。ついに書くことも読むこともできなくなった時、サイードはベッドの上で大泣きに泣きました。自分はパレスチナの人々のためにもっと何かをしてやれたのではないか、と。
 『オスロからイラクへ』(2005みすず書房・中野真紀子訳)は彼の遺著であり、この時代が後世に残す希望の書です。シャロンが死んでも彼が墓場に持っていくものは「アラブ殺し」という汚名だけだろう、とサイードは書いています。「しかし、私たちは奇跡的に生き延びたヴィジョンと社会を未来に伝えるのだ」
 サイードのメッセージは次のようなものです。パレスチナの問題は本質的にプロパガンダの問題である。イスラエルとアメリカは巧妙にパレスチナ人=アラブ=テロリストという図式を広めてきた。その根底には、西欧だけがルネサンスを通じて「個人」と自由の価値を理解し得たという思い上がりがある。しかし、アラブ側にも問題はある。ナセル以来、信頼しうる存在感のある指導者はほとんどいない。インフラは整備されず、道路・建物への無駄な出費、そして教育の貧困ー相も変わらずコーランの丸暗記、優秀な若者は絶望して海外に流出する。国主は保身のみを考え隣国を牽制しアメリカの顔色を伺う。彼らは、自分たちの立場を主張し広く世論に訴えかける努力を怠ってきた。その要約がパレスチナだ。アラファトは自らの地位の保全だけに固執し、パレスチナの窮状を広範にシステマチックに世界に知らせるという意識すらない。財産と家を奪われ難民となった数百万のパレスチナ人、さらに一日も休みなく肉体的精神的に迫害され脅迫される西岸地区の人々。パレスチナの自爆テロは繰り返し世界に流れるが、イスラエルによる殺人、暴行はメディアをかするだけであるか、あるいは全く報道されない。出口はあるのか、またはパレスチナに希望はあるのか?
 希望はある、とサイードは書いています。粘り強く世論を喚起すること、イスラエルの中の理性的な人たちとともに偏狭なシオニズムに打ち勝つこと、高い志を持った仲介者による合理的な相互理解を目指すこと、そして共存できるひとつの国を作ること、です。憎みあうものが共存できるか、という問いに、サイードは真の豊かさは対立するものたちの存在によって保証され、文化はそれを包み込むことによって成り立つと答えます。しかし、ここに障害があって、それは今や唯一の超大国となったアメリカなのです。それは白を黒と言い得る唯一の国であり、人種的偏見が宗教的イデオロギーにまで高められた国なのです。『オスロからイラクへ』の半分以上はブッシュ政権とその新保守主義への批判に埋められています。イスラエルの安全と石油供給の安定しか望んでいない彼らにとってイラク人もパレスチナ人もチェス盤の駒と同じようなものです。この壁を崩していくことは容易ならざるように見えますが、サイードはまたもや「良心と相互理解の共同体」に望みを託します。暴力による反撃など問題にはなりません。大義はパレスチナの側にあり、それを辛抱強く世界の人々の想像力に訴えかける以外にありません。正義の戦いは正義の手段を必要とします。彼が自爆テロを非難するのも故なしとしないのです。
 最後にサイードが常に強調する品格と尊厳(dignity) について触れましょう。これあるがゆえにパレスチナの人々は生き抜いてきたのであるし、ブッシュのアメリカがイラクで行い、シャロンのイスラエルがパレスチナで行っていることもその dignity を辱めるためなのです。コンラッドは『闇の奥』で文明的なロンドンも突然予告なしにアフリカの奥地と転換可能であることを示しました。自らだけが人間的愛情と民主主義を持っていると自負する人々は、まさにそれゆえに自分が闘っているテロリズムに酷似してくるのです。

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