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2006年3月17日 (金)

ベラ・バラージュ『視覚的人間』

 ベラ・バラージュ(1884~1949)の童話『ほんとうの空色』(岩波少年文庫・徳永康元訳)の主人公フェルコーは貧しい洗濯屋の息子ですが、クラスのどんな生徒も持っていないもの、屋根裏部屋を持っています。少年には屋根裏部屋はなんとすばらしい場所でしょう。太い横木によじのぼったり(これはかなり危険です)、積んである大きな道具箱をお城や地下通路に見立てて隠れたりします。風に大きく揺れる洗濯物は海賊船の帆で、斜めに切られた窓からは鳩が飛び込んできます。フェルコーは絵具を買ってもらえないので矢車草をしぼって藍色の絵具を作りました。それで道具箱のふたの裏に空を描くと、それはほんとうの空になって、月が輝き、星が流れ落ちてきます。フェルコーは悲しい時には屋根裏部屋にのぼり、箱の中に入って、いつまでも自分だけの空をながめているのでした、、、。
 バラージュの主著『視覚的人間』(1924発表・1986岩波文庫・佐々木基一、高村宏訳)は1920年代を代表する映画評論ですが、そこにはハンガリーの少年フェルコーの眼差しが活きています。「子供はみな事物の顔を知っている」と彼は書いています。机やたんすやソファーがぞっとするような顔をする薄暗い部屋の中を子供はドキドキ心臓をときめかせながら歩きます。大人になってすら、人々は雲の中に奇妙な形を認めたりするのです。事物の隠された相貌を引き出して強調し、万人に見える形にすることを表現主義といいますが、この「事物の顔」を描くのに映画ほどふさわしい芸術はありません。「映画の世界はまさしく子供の世界に近いのだ」なぜなら事物は背の低い子供たちが見ると、ずっとよく見えるし、また机や長椅子の下に這いこむことができるので、部屋の秘密の隅を大人たちよりずっとよく知っているからです。「子供たちは世界をクローズ・アップでながめる。しかし大人たちは遠い目標を目指して急ぎ足で進むので片隅での体験の親密さには見向きもしない。遊んでいる子供たちだけが、細々した事物にあれこれ思いをはせながら関わりあうのである」そして、ここにクローズ・アップという映画の技法の秘密があるのです。クローズ・アップとは、細々としたもの、もの言わぬものの鋭い観察です。鋭いけれど、そこにはいつくしみの情もまた含まれているのです。人は心から愛するものを細やかな注意深さで見守っていたいと思わないでしょうか。すぐれたクローズ・アップをたくさん含んだ映画を見ると、私たちの心には事物にたいする愛着の念がわきおこってくるのだ、とバラージュは書いています。
 「このようにずっと子供に近い心的構造を映画が持っているからこそ、アメリカ人はあんなに映画を心から楽しむことができるし、アメリカ映画はしばしば我々年老いたヨーロッパ人には決してまねのできない子供のポエジーを持っているのだ」子供と大人を平等に取り扱うアメリカ映画は、チャップリンとジャッキー・クーガンの、あの浮浪者と小さな子供の友情を描いた傑作『キッド』(1920)を生み出しました。「大人のアメリカ人が子供と理解しあう基盤は子供らしさである。概念的抽象を知らず、直接的に目に見える体験だけを知っているこの知的素朴さの世界では、子供の意味も大きくなり、ほとんど大人に匹敵するほどの演技力を持つに至る」バラージュの言うとおり、ヨーロッパ映画では子供は実際には成人としてふるまうが、アメリカ映画では大人が子供としてふるまうのです。
 『視覚的人間』の圧巻はデンマークの女優アスタ・ニールセンへの賛歌です。映画の俳優は舞台俳優と違って美しくなければなりません。なぜなら、映画にとっては空疎な装飾性こそすべてだからです。内面的なものは、ただ外面によって表示され、それゆえにすべての外面的なものにおいても内面的なものが表示されることになります。ヒロインは内面的に美しいがゆえに外面的に美しいのです。しかし、アスタ・ニールセンはどうでしょう。「彼女は決して美しくなくはない」とバラージュは書きます。その魅力は彼女が人生をそのままさらけ出している、つまりその子供っぽさの魅力なのです。バラージュは十何年もアスタ・ニールセンを銀幕の上で見てきました。最初は、その輝く若さに夢中になりました。やがて、彼女は秋雨にうたれて落葉する葉のように彼の目の前で老けていきました。「アスタ・ニールセンは、いまや公然と観客の目の前で年老いた。なぜなら、この女流芸術家には隠すものは何ひとつないからである」老年は敗北でも凋落でも破滅でもありません。「彼女がこの敗北・凋落を演ずることによって、老年は一つの役になるにすぎない。こうして、芸術が人生に打ち勝つのである」
 ある映画でアスタ・ニールセンは年下の恋人を持つ女性を演じました。恋人は彼女のために罪を犯し、十年の禁固に処せられます。その十年の間、貧困と病気のために彼女は年老いて醜くなります。塀の向こう側の恋人はまだ会ったはじめの輝くばかりに美しい彼女を心に思い描いています。恋人の出所の日、彼女は念入りに化粧します。生涯の最後の晩に鑿(のみ)をふるったミケランジェロのごとく、彼女は口紅の棒を持ちます。それは、見込みのない絶望的な戦いです。彼女は鏡の自分を見、さびしく肩をすくめます。恋人は刑務所を出てくると、人々の顔の中に待っているはずの彼女の姿を探し求めます。一人のやつれた女が半ば気を失ったように樹に寄り添って男の方を見ていることに気づきます。だが、男は彼女と気づかずにそのまま歩み去ります。最後は彼女のやせこけた頬の上を落ちる涙が映し出されます。それは「魂の死」にほかなりません。
 ベラ・バラージュは20世紀初頭のハンガリーを代表する芸術家・知識人たち(ルカーチ、コダーイ、バルトーク、マンハイムなど)の一人です。シナリオ・評論・詩・映画製作など多方面で名を知られましたが、彼のもっとも気に入った作品は『ほんとうの空色』だったそうです。亡命知識人として政治の奔流に巻き込まれましたが、死の床での最後の言葉は「私は人生を愛した。人生も私を愛してくれた」というものでした。

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