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2006年3月25日 (土)

加能作次郎『恭三の父』

 酔っ払って横になった父親が帰省している息子に、届いた葉書と手紙を読んでくれと頼みます。息子は面倒くさがって、暑中見舞いの葉書と礼状の手紙を適当に要約して伝えると、そんな読み方があるか、と父親は怒って息子にクダを巻きます。同じ暑中見舞いや礼状でもそれぞれ書き方があろう、それを文盲の自分にもわかるように読んでくれというのです。またある日、隣村に祭見物に出かけた父親は夜遅くなっても帰ってきません。家族が心配していると、泥酔して帰って来た父親は、夕飯を食べず待っていた家族に隣村の祭りの盛況と自分がいかに大事にされたかを自慢げに話します。『恭三の父』(明治43年作・新潮社・日本文学全集70)は、たったそれだけの話です。わずか、十頁余りの小説、しかし、この処女作には加能作次郎のすべてが詰め込まれています。父親は息子を溺愛し、成人した息子も父親を慈愛の目で見つめます。能登半島富来町の極貧の漁民の子として生まれた作次郎は一歳になる前に母を亡くしました。継母には二人の連れ子がおり、父親は彼女に気兼ねして作次郎を露骨に可愛がることができません。しかし、父親は非常な苦労をし、面目をつぶしてまで、学問をしたいという息子の希望をかなえてやります。作次郎は苦学して早稲田大学の英文科を出、博文館に入社して『文章世界』の編集を任されました。その頃から彼は故郷とそこに住む人々を題材にした小説を書き始めました。そして56歳でクルップ性急性肺炎で亡くなるまで生涯その珠玉のような小説群を書き続けたのです。
 『世の中へ』は京都の伯父の店で丁稚奉公をしていたときの話で、伯父とその妻と妾、やはり京都で住み込みで働く実姉、入院した病院で働く看護婦などとの交流が飾らぬ筆で淡々としかし愛情深く描かれている作品です。『厄年』もまた傑作です。夏休みに実家に帰省した主人公、しかしそこには肺病を病んで今は死ぬばかりの妹(継母の連れ子)が臥せっています。妹はすでに死相が出ながらなかなか死にきることができません。家族も三年越の看病に疲れ、今は彼女の死を待つばかり。「私」は幼い頃から妹とはそりが合わず、不幸な彼女を見ても同情がわかず、むしろ鬱陶しさを感じています。重病人のいる家の重苦しさに耐えきれず、「私」が町に遊びに出ると、その間に容態が改まって妹は血の塊を喉から垂らして死んでいきます。『故郷の人々』『霰の音』は閉鎖的な土地特有の親類同士の心の諍いを温かな眼で描いています。
 加能作次郎(1885~1941)は自然主義と私小説の申し子ですが、その透明さの源は自らを客観視できる性格の強靭さにあります。彼は自分を愛してくれる唯一の人間、父親のことを終生変わらぬ温かさで描き続けました。一生を息子のために捧げ、ただ息子が幸福に暮らせることだけを願った父親、彼は一介の無学無知な零細な漁師にすぎません。手は潮風で荒れ、額には年齢以上の皺が刻まれています。朴訥な父親はいつも自分の気持ちを押し隠しています。しかし、酒に酔った時に思わずその真情があふれて、息子の作次郎にだけはそれがわかります。「貧しい漁村から、苦労しながらも大学教育を受ける人間が出現したことは明治末年にあっては大変な事件であった、、、注意すべきは、主人公と作者が、その後、立身出世意識やエリート意識に毫もとらえられていないことである。ここに作者のあたたかな人柄がある」と平野謙は書いています。友人でもあった広津和郎は、作次郎の小説に登場する漁村の人々に触れ、誰にも知られずに忘れ去られたに違いない「これらの人々の小さな歴史を私は生涯忘れないだろう」と記しました。人々は天空にはりつく星々のように読者のこころの中で永久に輝くのです。石川啄木や室生犀星やその他ほとんどの作家たちは故郷を愛憎のこもった屈折した眼差しで眺めました。劣等感と優越感の混じった悲しい感覚、しかし作次郎にはそれがありません。「能登はやさしや土までも」とうたわれた風土性はこの作家の中にこそ息づいています。

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2006年3月17日 (金)

ベラ・バラージュ『視覚的人間』

 ベラ・バラージュ(1884~1949)の童話『ほんとうの空色』(岩波少年文庫・徳永康元訳)の主人公フェルコーは貧しい洗濯屋の息子ですが、クラスのどんな生徒も持っていないもの、屋根裏部屋を持っています。少年には屋根裏部屋はなんとすばらしい場所でしょう。太い横木によじのぼったり(これはかなり危険です)、積んである大きな道具箱をお城や地下通路に見立てて隠れたりします。風に大きく揺れる洗濯物は海賊船の帆で、斜めに切られた窓からは鳩が飛び込んできます。フェルコーは絵具を買ってもらえないので矢車草をしぼって藍色の絵具を作りました。それで道具箱のふたの裏に空を描くと、それはほんとうの空になって、月が輝き、星が流れ落ちてきます。フェルコーは悲しい時には屋根裏部屋にのぼり、箱の中に入って、いつまでも自分だけの空をながめているのでした、、、。
 バラージュの主著『視覚的人間』(1924発表・1986岩波文庫・佐々木基一、高村宏訳)は1920年代を代表する映画評論ですが、そこにはハンガリーの少年フェルコーの眼差しが活きています。「子供はみな事物の顔を知っている」と彼は書いています。机やたんすやソファーがぞっとするような顔をする薄暗い部屋の中を子供はドキドキ心臓をときめかせながら歩きます。大人になってすら、人々は雲の中に奇妙な形を認めたりするのです。事物の隠された相貌を引き出して強調し、万人に見える形にすることを表現主義といいますが、この「事物の顔」を描くのに映画ほどふさわしい芸術はありません。「映画の世界はまさしく子供の世界に近いのだ」なぜなら事物は背の低い子供たちが見ると、ずっとよく見えるし、また机や長椅子の下に這いこむことができるので、部屋の秘密の隅を大人たちよりずっとよく知っているからです。「子供たちは世界をクローズ・アップでながめる。しかし大人たちは遠い目標を目指して急ぎ足で進むので片隅での体験の親密さには見向きもしない。遊んでいる子供たちだけが、細々した事物にあれこれ思いをはせながら関わりあうのである」そして、ここにクローズ・アップという映画の技法の秘密があるのです。クローズ・アップとは、細々としたもの、もの言わぬものの鋭い観察です。鋭いけれど、そこにはいつくしみの情もまた含まれているのです。人は心から愛するものを細やかな注意深さで見守っていたいと思わないでしょうか。すぐれたクローズ・アップをたくさん含んだ映画を見ると、私たちの心には事物にたいする愛着の念がわきおこってくるのだ、とバラージュは書いています。
 「このようにずっと子供に近い心的構造を映画が持っているからこそ、アメリカ人はあんなに映画を心から楽しむことができるし、アメリカ映画はしばしば我々年老いたヨーロッパ人には決してまねのできない子供のポエジーを持っているのだ」子供と大人を平等に取り扱うアメリカ映画は、チャップリンとジャッキー・クーガンの、あの浮浪者と小さな子供の友情を描いた傑作『キッド』(1920)を生み出しました。「大人のアメリカ人が子供と理解しあう基盤は子供らしさである。概念的抽象を知らず、直接的に目に見える体験だけを知っているこの知的素朴さの世界では、子供の意味も大きくなり、ほとんど大人に匹敵するほどの演技力を持つに至る」バラージュの言うとおり、ヨーロッパ映画では子供は実際には成人としてふるまうが、アメリカ映画では大人が子供としてふるまうのです。
 『視覚的人間』の圧巻はデンマークの女優アスタ・ニールセンへの賛歌です。映画の俳優は舞台俳優と違って美しくなければなりません。なぜなら、映画にとっては空疎な装飾性こそすべてだからです。内面的なものは、ただ外面によって表示され、それゆえにすべての外面的なものにおいても内面的なものが表示されることになります。ヒロインは内面的に美しいがゆえに外面的に美しいのです。しかし、アスタ・ニールセンはどうでしょう。「彼女は決して美しくなくはない」とバラージュは書きます。その魅力は彼女が人生をそのままさらけ出している、つまりその子供っぽさの魅力なのです。バラージュは十何年もアスタ・ニールセンを銀幕の上で見てきました。最初は、その輝く若さに夢中になりました。やがて、彼女は秋雨にうたれて落葉する葉のように彼の目の前で老けていきました。「アスタ・ニールセンは、いまや公然と観客の目の前で年老いた。なぜなら、この女流芸術家には隠すものは何ひとつないからである」老年は敗北でも凋落でも破滅でもありません。「彼女がこの敗北・凋落を演ずることによって、老年は一つの役になるにすぎない。こうして、芸術が人生に打ち勝つのである」
 ある映画でアスタ・ニールセンは年下の恋人を持つ女性を演じました。恋人は彼女のために罪を犯し、十年の禁固に処せられます。その十年の間、貧困と病気のために彼女は年老いて醜くなります。塀の向こう側の恋人はまだ会ったはじめの輝くばかりに美しい彼女を心に思い描いています。恋人の出所の日、彼女は念入りに化粧します。生涯の最後の晩に鑿(のみ)をふるったミケランジェロのごとく、彼女は口紅の棒を持ちます。それは、見込みのない絶望的な戦いです。彼女は鏡の自分を見、さびしく肩をすくめます。恋人は刑務所を出てくると、人々の顔の中に待っているはずの彼女の姿を探し求めます。一人のやつれた女が半ば気を失ったように樹に寄り添って男の方を見ていることに気づきます。だが、男は彼女と気づかずにそのまま歩み去ります。最後は彼女のやせこけた頬の上を落ちる涙が映し出されます。それは「魂の死」にほかなりません。
 ベラ・バラージュは20世紀初頭のハンガリーを代表する芸術家・知識人たち(ルカーチ、コダーイ、バルトーク、マンハイムなど)の一人です。シナリオ・評論・詩・映画製作など多方面で名を知られましたが、彼のもっとも気に入った作品は『ほんとうの空色』だったそうです。亡命知識人として政治の奔流に巻き込まれましたが、死の床での最後の言葉は「私は人生を愛した。人生も私を愛してくれた」というものでした。

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2006年3月10日 (金)

ベッケル『緑の瞳・月影』

 グスターボ・アドルフォ・ベッケル(1836~1870)は幼くして父母に死なれ、孤児として育ちました。成長して単身マドリードに出、さまざまな仕事を経験した後、あまり幸福でない結婚をして、34歳で肺炎で死にました。彼の名声が高まったのは死後においてです。国民詩人として百ペソ紙幣にも肖像が印刷されているのですが、宮沢賢治同様、過大に褒められ華やかすぎる衣装を纏うと本来の奥底から光る最も繊細な部分がかすんでしまうのではないでしょうか。
 彼はカスティーリアの古跡を訪れることを愛し、中世の騎士と美しい娘との伝説に耳を傾けました。月を見ることが好きで、死者の持つ気高さ、強さ、透明さにひかれました。ベッケルの物語の背景をなす森、湖、山はすべて亡霊のように息づいています。そこで夢見がちな若者が死者の国に半身を浸した少女と恋に落ちるのです。彼の物語は、スコットの『湖の麗人』やフーケの『ウンディーヌ』とはなんと違っていることでしょう。ベッケルには物語を語るという気負いは少しもありません。炉辺でおもむろに足を組みながら、マテ茶の茶碗を置いて、「ある夏の午後、トレードの庭園で、、」と私たちに語りかけます。冗長さを憎み、簡潔さを求める作風はまさに天才のものでしょう。『緑の瞳・月影』(1979岩波文庫・高橋正雄訳)に訳された14篇の中からベッケルにしては珍しくも現世的な物語「はたご屋『ねこ』」を紹介しましょう。
 アンダルシーア、セヴィリアの郊外、サン・ヘロニモの修道院への途中に、いかにもアンダルシーアのはたごという感じの小さな古いはたごがありました。店先の空き地にベンチを置き、亭主は椅子に座って煙草をくゆらせ、若者は音楽に興じています。片方では青年たちがギターを弾いている若者を中心に恋心の唄を歌うと、片方ではタンバリンを鳴らしながら少女たちがそれをからかう唄を歌います。どうやらギターを弾く若者と少女たちのうちで一番すらっとした黒髪の娘が恋人らしいと「私」は気づきました。はじめてそのはたごを訪れた「私」は店の片隅で、手持ちぶさたに、そのすらりとした黒髪の少女をスケッチし始めました。それは、南スペイン、アンダルシーア地方のもっとも美しい日の午後、もっともアンダルシーアでは毎日が美しいのですが、そうした暖かく風のない日の午後だったのです。やがて、日も暮れかかり、若者たちが姿を消していくと、「私」もスケッチした絵を鞄に入れて飲み代を払い立ち上がりました。すると、さきほどギターを弾いていた若者が近づいてきて、スケッチした絵を自分に譲ってくれないだろうか、と言い出しました。「そのかわり、僕は貧しい者ですが、僕にできることならなんでも言ってください」そう言われて「私」は黙って鞄から絵を取り出して若者に与えました。若者は喜びで顔を輝かして、「私」をどうしても町の門まで送っていくと言ってききません。道々、彼は自分のことを話しました。彼の父親ははたご屋の主人で、黒髪の娘は捨て子だったが、一緒に育てられ、そして今はお互い愛し合って、間もなく結婚してはたごも継ぐつもりであると。彼の瞳は生き生きとした幸福感でいっぱいでした。その幸福感は伝染するらしく、若者と別れた後も私はなぜかたのしい気持ちがずっと続いていたのです。
 それから永い間「私」はセヴィリアを訪れませんでしたが、ギターとタンバリンと娘たちの歌声とその町の片隅に秘められた幸福感の思い出は消えませんでした。機会があって、十年ぶりにセヴィリアを訪れた時、「私」は真っ先に友人に、あの郊外の小さな町とそのはたごについて尋ねました。おそらくは幸福な二人は結婚し、老いた父親は孫と日向で遊びながら余生を過ごしているのではないかと。「えっ、知らなかったの」と友人は私の顔を見て言いました。「あそこは、今、墓場になっているよ」
 そう聞いて半信半疑で「私」はサン・ヘロニモ修道院に近いその町に行ってみました。近づくにつれて、風景は同じながら異様な冷々とした感じがおそってきます。死者の通る道は草花さえもその色を失うように思えました。喪装した車が通り、黒い服を着た僧侶、消えた蝋燭を持つ墓場帰りの老人たちとすれ違います。目当ての場所に着くと、はたご屋はまだありました。しかし、店内は寂しく荒れていて、一人のやつれた老人が店番をしていました。よく見るとはたごの主人です。「私」がその変わりように驚いてただしてみると、次のような話をしてくれました。「近くに墓場ができて、突然辺りがさびしくなりました。が、それよりも、もっと悪いことが重なったのです。孤児院からもらって育てたアンパーロ(それが娘の名で、私の家の宝のような子でした)の父親がたいへんな金持ちだったことがわかって、彼らは裁判に持ち込んで強引に娘を連れていってしまったのです。結婚を約束していた息子は絶望し、また田舎育ちで明るい太陽のようなアンパーロも金持ちの家で水の枯れた花のようにしおれて死んでしまいました。その葬列がこのサン・ラサロの道を通ったとき、息子は走りよって棺の中の娘を見ると、気を失って倒れました。それ以来、気がふれて、奥の部屋から一歩も外に出ず、ほとんど何も食べず、娘の絵姿を見ながら、ときたま歌を歌うのです、、、」気がつくと、たえず低い歌声が店の中を漂ってきているのでした。
  葬いの車にのって この道を
  いとし あの子は 行きました
  片手を外に 出していた
  それであの子と 知れました
 美しいアンダルシーアの思い出と、この素朴で悲しい歌声だけは今も「私」の耳底に響いています。
 

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2006年3月 3日 (金)

C.E.マニー『アメリカ小説時代』

 クロード・エドモンド・マニー(1909~1966)の Les Sandales d'Empedocle (1945) (『文学の限界』1968竹内書店・三輪秀彦訳)は「形而上的批評」の宣言ですが、いささか硬いのが欠点です。その応用版ともいうべき『アメリカ小説時代』(1969竹内書店・三輪秀彦訳)を紹介しましょう。
 『クレーヴの奥方』や『アドルフ』や『危険な関係』などは非常に高度な知性を持ち、一日中思案にくれることができる主人公を必要とします。また20世紀初頭のフランス文学のほとんどは中産上流家庭が舞台でした。ところで、アメリカ小説の登場人物の多くは放浪者、失業者、不良少年、酔っぱらい、差別された貧乏な有色人種たちです。彼らは、考え抜く知性も時間もありません。彼らの「内面」なぞ書きようもありません。そこで、恐らく映画の技法にインスパイアされて、アメリカの作家たちは、人間を描くのに徹底して客観的に、行動主義的に描くようになりました。それは「作家は誠実でなくてはならない(勝手な解釈をしてはならない)」というピューリタン的な考えも満足させてくれるのです。視点は、神のようなあるいは知的な強者である人間からではなく、平凡な人間の欠陥だらけの眼から描かれます。また、人物の観念で起こることは外観の描写で巧みに、あるいは強引に処理されます。ベーコンをチリチリに焼いて熱いコーヒーと食べる場面はヘミングウェイでもスタインベックでも、主人公の気持ちが高揚したときに現れなかったでしょうか。そして、極度に客観化された描写はある普遍性に近づきます。チャップリン映画が地球上のあらゆる地域でほとんどの世代に愛されたように、アメリカ文化は常にこの普遍性を意識しまた主張してもいます。さらに、また、アメリカ小説はそっけない客観描写がむしろ心の衝撃をもっともよく、しかも十分に読者に伝えるものだという認識に達したようです。確かに内的な生活など存在しないかもしれないし、意識はとるにたらないものであるのかもしれません。人間は自分で思っているほど内面的でないのかもしれないのです。
 しかし、ここで問題が起こります。作家自身は単純でも純粋でもなく、外面だけで生きているわけでもありません。「合衆国で作家になることは必然的に不幸に、いや絶望的になることである」というマニーの言葉の真意はこれに関係してくるのです。(ただし、それが書かれたのは1948年でしたが)。『ミス・ロンリー・ハート』のナサニエル・ウエストは自動車事故で36歳で死に、『グレート・ギャツビー』のスコット・フィッツジェラルドは神経疾患で、いやほとんど絶望によって45歳で死に、『天使よ故郷を見よ』のトマス・ウルフは脳腫瘍で38歳で死に、『サマーラの町で会おう』のジョン・オハラは若死にしないまでもキャリアの後半をハリウッドでみじめに過ごしました。これらの作品は、ゲーテの自己中心的で偏屈な『ファウスト』やプルーストの発育不全で意志薄弱な『失われた時をもとめて』やシェークスピアの退屈な『ハムレット』などと比べて明らかに劣っているでしょうか。劣っているのは文化的伝統のみなのではないでしょうか。アメリカは、ニューイングランドのささやかな文学的伝統を除けば、作家があらゆる方面からの圧力を加える社会との闘いに際して、しっかりとよりかかれる強固な伝統を欠いていました。メルヴィルやホーソーンやディキンソンは、島国的な無理解に対して寓意のヴェールで作品を覆わねばなりませんでした。彼らは英雄的に孤立していたのです。
 さらに、アメリカには描くべき二つのアメリカがあって、作家は常にそれに直面します。神の御国アメリカ、ハリウッドと電化製品のアメリカと幸福のためのあらゆるものを持っていながら無惨にも自殺する、あるいは酔いつぶれるアメリカ、絶望と倦怠と不安のアメリカです。マニーはここからの脱出をフォークナーの「真に神聖といいうる共同体の再建」に見ています。「すべての人々が、彼らのうちの一人によって犯された同じ過ちを負担し、各人がそれぞれの資質に応じたさまざまな方法で償い、このようにして救済の可能性にまで達しているために、分ちがたく結ばれた人々の集団の再建」に。たしかにフォークナーの作品にはそれが感じられます。小説の中で犯された罪の責任は登場人物すべてにあるのです。
 マニーはフランスの女性の批評家で、サルトルと同世代ですが、晩年の10年間をアルコール中毒のまま誰にもみとられずに寂しく死にました。彼女もまた、ドス・パソスの小説の登場人物のように「アルコールの中に彼の生存の空しさの避難所を探し求めながら生き、熟しすぎた梨のように真ん中からくずれかけた」そういう人たちの一人だったのでしょうか。

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