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2006年3月 3日 (金)

C.E.マニー『アメリカ小説時代』

 クロード・エドモンド・マニー(1909~1966)の Les Sandales d'Empedocle (1945) (『文学の限界』1968竹内書店・三輪秀彦訳)は「形而上的批評」の宣言ですが、いささか硬いのが欠点です。その応用版ともいうべき『アメリカ小説時代』(1969竹内書店・三輪秀彦訳)を紹介しましょう。
 『クレーヴの奥方』や『アドルフ』や『危険な関係』などは非常に高度な知性を持ち、一日中思案にくれることができる主人公を必要とします。また20世紀初頭のフランス文学のほとんどは中産上流家庭が舞台でした。ところで、アメリカ小説の登場人物の多くは放浪者、失業者、不良少年、酔っぱらい、差別された貧乏な有色人種たちです。彼らは、考え抜く知性も時間もありません。彼らの「内面」なぞ書きようもありません。そこで、恐らく映画の技法にインスパイアされて、アメリカの作家たちは、人間を描くのに徹底して客観的に、行動主義的に描くようになりました。それは「作家は誠実でなくてはならない(勝手な解釈をしてはならない)」というピューリタン的な考えも満足させてくれるのです。視点は、神のようなあるいは知的な強者である人間からではなく、平凡な人間の欠陥だらけの眼から描かれます。また、人物の観念で起こることは外観の描写で巧みに、あるいは強引に処理されます。ベーコンをチリチリに焼いて熱いコーヒーと食べる場面はヘミングウェイでもスタインベックでも、主人公の気持ちが高揚したときに現れなかったでしょうか。そして、極度に客観化された描写はある普遍性に近づきます。チャップリン映画が地球上のあらゆる地域でほとんどの世代に愛されたように、アメリカ文化は常にこの普遍性を意識しまた主張してもいます。さらに、また、アメリカ小説はそっけない客観描写がむしろ心の衝撃をもっともよく、しかも十分に読者に伝えるものだという認識に達したようです。確かに内的な生活など存在しないかもしれないし、意識はとるにたらないものであるのかもしれません。人間は自分で思っているほど内面的でないのかもしれないのです。
 しかし、ここで問題が起こります。作家自身は単純でも純粋でもなく、外面だけで生きているわけでもありません。「合衆国で作家になることは必然的に不幸に、いや絶望的になることである」というマニーの言葉の真意はこれに関係してくるのです。(ただし、それが書かれたのは1948年でしたが)。『ミス・ロンリー・ハート』のナサニエル・ウエストは自動車事故で36歳で死に、『グレート・ギャツビー』のスコット・フィッツジェラルドは神経疾患で、いやほとんど絶望によって45歳で死に、『天使よ故郷を見よ』のトマス・ウルフは脳腫瘍で38歳で死に、『サマーラの町で会おう』のジョン・オハラは若死にしないまでもキャリアの後半をハリウッドでみじめに過ごしました。これらの作品は、ゲーテの自己中心的で偏屈な『ファウスト』やプルーストの発育不全で意志薄弱な『失われた時をもとめて』やシェークスピアの退屈な『ハムレット』などと比べて明らかに劣っているでしょうか。劣っているのは文化的伝統のみなのではないでしょうか。アメリカは、ニューイングランドのささやかな文学的伝統を除けば、作家があらゆる方面からの圧力を加える社会との闘いに際して、しっかりとよりかかれる強固な伝統を欠いていました。メルヴィルやホーソーンやディキンソンは、島国的な無理解に対して寓意のヴェールで作品を覆わねばなりませんでした。彼らは英雄的に孤立していたのです。
 さらに、アメリカには描くべき二つのアメリカがあって、作家は常にそれに直面します。神の御国アメリカ、ハリウッドと電化製品のアメリカと幸福のためのあらゆるものを持っていながら無惨にも自殺する、あるいは酔いつぶれるアメリカ、絶望と倦怠と不安のアメリカです。マニーはここからの脱出をフォークナーの「真に神聖といいうる共同体の再建」に見ています。「すべての人々が、彼らのうちの一人によって犯された同じ過ちを負担し、各人がそれぞれの資質に応じたさまざまな方法で償い、このようにして救済の可能性にまで達しているために、分ちがたく結ばれた人々の集団の再建」に。たしかにフォークナーの作品にはそれが感じられます。小説の中で犯された罪の責任は登場人物すべてにあるのです。
 マニーはフランスの女性の批評家で、サルトルと同世代ですが、晩年の10年間をアルコール中毒のまま誰にもみとられずに寂しく死にました。彼女もまた、ドス・パソスの小説の登場人物のように「アルコールの中に彼の生存の空しさの避難所を探し求めながら生き、熟しすぎた梨のように真ん中からくずれかけた」そういう人たちの一人だったのでしょうか。

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