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2006年2月 9日 (木)

モリエール『ドン・ジュアン』

 読み始めると止まらないモリエール(1622~1673)の作品の中でもこの『ドン・ジュアン』(1953岩波文庫・鈴木力衛訳)はテンポの良さ、場面展開の華やかさでひときわ面白いものとなっています。台詞の痛快さはいつものことで、小屋持ちの劇団を率いる作者の遊びではない厳しさがひしひしと伝わってきます。さて、ドン・ジュアンはいわゆる女たらしで、彼が披瀝するいっぱしの無神論的、合理主義的哲学も従者のスガナレルにすら嘲笑される有様です。要は、女性への征服欲にすぎないので、相手を自分と同様の人間とみなすことのできない自己中心的な欠陥的性格の持ち主にすぎません。モリエールの偉大さは、それを極限にまで戯画化することで普遍的性格喜劇まで高めたことにあります。その裾野は広く、小ドン・ジュアンの姿は私たちのまわりのどこにでも見いだされるでしょう。
 ドン・ジュアンの特徴は名家の出であるということです。これは幼い頃から召使いに囲まれて、自分を客観視できずに大人になった人間にありがちのことで、芸術的対象や学術的研究対象には鋭く没入できるものの、こと人間関係においては彼らは貧しい思考しかできなくなっています。バイロンやA.K.トルストイなどのドン・ジュアン擁護派には貴族が多いということも思い出されます。「一般に貴族と呼ばれるものは、他の人間よりは愛することが少ない」(マルクス・アウレリウス)、またサン・シモンの回想録には「ほかの女も自分と同じように指が五本あるのに驚いた」モットヴィル大公妃のことが書いてあります。以上の二つの引用はスタンダール『恋愛論』(岩波文庫・前川堅市訳)からのもので、彼のドン・ジュアン論は秀逸です。「旧家の名を持った男は、卵一つ焼くにも一都市を灰にしてもいいだろうと思う」「彼はあまりに自己愛に溺れきっているので、自分の引き起こす悪など忘れてしまって、この宇宙で楽しんだり苦しんだりできるのは自分だけだと思ってしまう」「女に没頭することを仕事にしている男はたいてい富豪の家から生まれている。いってみれば、うけた教育や少年期に周囲をまねた結果、みな利己主義者で無情な人物どもである」
 しかし、ドン・ジュアンが常に成功するのは、その持ち前の「勇気、策謀の才、溌剌さ、愉快な機智」にあるので、モリエールの『ドン・ジュアン』にも軽快に描かれています。彼は、複数の強盗に襲われた騎士を救い、貧しい聖者に金をやり、借金取りを巧みに追い払い、自分を諌める父親には偽善者ぶります。むろん、女性に対しては決して手を抜かず、優しい言葉を嵐のように浴びせ、どんなささいな機会も取り逃がしたりしません。彼が、劇の最後に、神の怒りに触れて雷に打たれて死ぬのもいささか重すぎる罰と思われるほどですが、たとえ非業の死を遂げなくとも「ドン・ジュアンの老後はまことに悲惨である」とスタンダールは書いています。年をとって器官が働かなくなれば残るは退屈ばかり、結局、ドン・ジュアンはスタンダール流にいえば不幸な男です。ドン・ジュアンは恋を楽しんでいるのでなく、恋を殺しているのです。「ドン・ジュアンの幸福は、確かに豊かな才智と活動力によって引き起こされた数々の結果にもとずく虚栄心にすぎない」しかし、ウェルテル風の情熱恋愛には百倍もの幸福があります。「三年間思い焦がれた恋人(メトレス)は、この言葉の最も強い意味で実際にメトレスであって、ふるえずには言葉もかけられない。しかも私はドン・ジュアンにいいたいが、ふるえる男は決して退屈しないものである。恋の快楽はつねに不安と正比例する」と、これはスタンダール流の幸福論です。
 

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コメント

バイロンが好きで、バイロンの未完の大作ドンジュアン上下巻は一回完読しただけだったのですが、モリエールの作品はタルチュフもそうですが、短くて面白く何回も読み返せますね。スガナレルの最初の「アリストテレスが何と言おうと、哲学が束になってかかってこようと煙草にまさるものはあるまい」と言うエセ学者よろしくの言葉と同じ様に僕も煙草がやめられませんw

投稿: マンフレッド | 2008年9月24日 (水) 18時03分

マンフレッドさん、コメントありがとうございます。
バイロンの『ドン・ジュアン』はまだ読んでいないのですが、読みたくなりました。
私は体質的に煙草が合わないようなので、戦争にでも行かない限り、すう機会はなさそうです。
それでは、また。

投稿: saiki | 2008年9月25日 (木) 13時12分

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