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2006年2月13日 (月)

ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』

 ルナールはその有名な『日記』の中で「私はたくさんの人に知られ、少数の人に読まれたい」と書き付けています。『クレーヴの奥方』(1956新潮文庫・青柳瑞穂訳)を書いたラファイエット夫人(1634~1693)もきっと同じような気持ちだったでしょう。感受性に優れ、内省的で、心やさしい人間のみがこの小説を十全に味わうことができるのです。物語の背景は16世紀のフランス、アンリ二世の時代、策謀と色恋が飛び交うルーヴル宮を中心に、貴族の男女の華やかな日常が展開していきます。歴史的背景も簡潔に興味深く叙述されていますが、何よりこの物語は四人の人間の激しい情感の記録なのです。
 シャルトル夫人は宮廷に初めて出仕する娘に厳しい訓戒を与えます。宮廷に潜む様々な誘惑について教え、貞操堅固こそ女性の最高の美徳であると強調します。シャルトル嬢は宮廷に現れるやいなや、その息をのむほどの美貌で周囲を圧倒します。多くの求婚者の中で、その愛情の真摯さ、位の高さで、クレーヴ公が夫に選ばれますが、シャルトル嬢は彼に尊敬以上の気持ちを持つことができません。やがて、クレーヴ夫人となった彼女は舞踏会の時に、長くパリを離れていたヌムール公と顔を合わせます。ヌムール公は、容貌、機智、勇気に秀でて、宮廷中の女性の賛嘆の的でした。二人は会った途端に恋に落ちますが、クレーヴ夫人はその思いを必死に押し隠そうとします。自分が本当に愛されているか確かめたいヌムール公と、道ならぬ思いに身を引き裂かれそうになるクレーヴ夫人、そんな彼女を見て、母親の直感で娘の危機を悟ったシャルトル夫人は、重い病床に横たわりながら最後の訓戒を娘に与え、「堕落したあなたを見ずに死ねるのは幸福です」と言いながら息を引き取ります。クレーヴ夫人は、それでもヌムール公への密かな思いを断ち切ることができず、ついに誠実な夫のクレーヴ公に懊悩の心を打ち明けてしまいます。妻を深く愛しているクレーヴ公は、あまりの心痛に耐えられず、亡くなります。夫の死に責任を感じるクレーヴ夫人、寡婦となり自由の身となった彼女にヌムール公は激しく迫ります。相愛の二人は果たして結ばれるのでしょうか、、、。
 フランス心理小説の最初の精華といわれるこの小説は、恋人たちの不安な気持ちの推移を丁寧に追っていて読者を全く退屈させません。全編のうちで自然描写はわずか一カ所のみ、別荘で隠棲するクレーヴ夫人との面会を終えた後、ヌムール公は小川の流れる柳の木陰を一人でいつまでも歩き続けます。辺りに人影の見えなくなったところで、ヌムール公は誰はばかることなく抑えていた激情に身をゆだねます。胸がせまり、思わず涙が頬を流れます。それは悲しみの涙であり、また甘い恋の涙でもあります。「彼は百倍幸福であり、百倍不幸であった」と作者は書いています。一方、クレーヴ夫人は熱い思いを秘めながらもきわめて理知的です。ヌムール公の恋情がその不安ゆえに高まっているに違いないと思い、自らを彼の前に投げ出すことに躊躇します。この物語は最後に暗い静寂が覆います。登場人物たちは背後にそっと隠れます。そのとき、読者は「死」がこの物語を常に覆っていたことに気づくのです。母親と夫の死という二つの死がクレーヴ夫人を黄泉の国の方へ近づけます。彼らは死によって夫人の思いの中に深く入り込んでいくのです。最後は、あの快活なヌムール公さえも修道院の冷たい壁の前に膝を屈します。激しく愛し合いながら手さえも握れないこの二人の物語は遠い時間を超えて私たちの胸を打ちます。この小説は、すべてを投げうっても惜しくない恋の思い出を一生持ち続けている、スタンダールのあの「幸福な少数者たち」a happy few に捧げられているのです。

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