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2006年1月31日 (火)

P.アクロイド『T.S.エリオット』

 「葬儀屋」というのがエリオットにつけられた綽名でした。完璧な身だしなみ、尊大な物腰、物静かで退屈、文学的愚者に対する軽蔑、それはまさに「冷蔵された人間性」と評されるに相応しい人物だったのです。「彼は苦痛を、自分のも人のものも、愛していた」とアクロイドは『T.S.エリオット』(1988みすず書房・武谷紀久雄訳)で書いています。十字架上で苦しむキリストの絵を好み、人間に関わることはすべて空虚である、と感じ、地獄の存在が唯一人生に意味を与えていると思っていた一人の男、彼は他人の人格を恐れ、誰とも深く知り合うことを避け、何よりも孤独を好み、金持ちになった後でもポットのお茶を決して残さない倹約家でした。
 T.S.エリオット(1888~1965)はミズーリ州セントルイスの裕福な名家に生まれ、優しい大家族に囲まれた末っ子として幸福な幼年時代を過ごしました。ハーヴァードを出た後、ロンドンで暮らし、そこで27歳のとき同年のヴィヴィアンという女性と結婚しました。ヴィヴィアンはイギリスの立派な中産上層階級の娘でしたが、幼い頃から神経症とそこからくる頭痛や胃痛に苦しんでいました。二人は結婚した直後に互いに後悔したようです。それは愛情のない半ば衝動的な結婚で、エリオットは人生の最も実りある30年間を不幸な結婚生活の重圧の下で過ごしたのです。絶えず病気であったヴィヴィアンはエリオットにきつく当たること多く、彼は妻の看護と治療の出費を賄うため朝9時半から夕方5時半まで銀行で働き、夕方からは雑誌の編集と新聞への書評を精力的にこなしていきました。代表作『荒地』が書かれたのは、一日十四、五時間も働いていたこの時期だったのです。やがて、ヴィヴィアンには精神病の症状が出始め、エリオットも心労で神経に変調をきたしていきました。夫婦はパーティの席でお互いに怒鳴りあい、ヴィヴィアンはエリオットに「この俗物!」と、彼がもっとも嫌った言葉を投げつけるのでした。ついに二人は別居し、その後、ヴィヴィアンが58歳で精神病院で衰弱死したとの知らせを受けて、エリオットは「おお、神様」と言って泣き崩れました。二人はお互いに相手が正確に何ものかを理解できないまま永遠に別れたのです。ヴィヴィアンにもエリオットにも落ち度はなく、すべての原因はきわめて頭の良い二人の男女がきわめて愚かな結婚をしたということにすぎないのでしょう。
 エリオットが結婚生活に耐えられたのは、人生が悲しみの通り道にほかならないという達観の故でもあったのですが、ヴィヴィアンの死後は、さらに孤独の中に閉じこもり、二人の女友だちからの求婚も退け、キリスト教的な背景をもった戯曲の制作にいそしみました。この間に彼の名声は頂点に達し、世界のどこでも彼は熱狂的な歓迎の嵐で迎えられました。しかし、ノーベル賞すら彼の本来の悲観的懐疑主義を懐柔することはできませんでした。彼は「隠れたところで静かに死にたい」とエズラ・パウンドに語っていました。
 ところがエリオットの最晩年にすべてをひっくり返す出来事が起こります。イングランド北部の田舎に生まれたヴァレリー・フレッチャーは14歳で『東方三博士の旅』の録音を聴いてエリオットのファンになり、自分はいつか彼の下で働きたいと思っていました。彼女は学校を出ると、秘書の専門学校に通い、22歳でちょうど空きのできたエリオットの秘書に採用され、8年間有能に仕事をこなしました。鈍感なエリオットは彼女が自分を愛しているのを知るまでに8年もかかったのです。彼は仕事場でヴァレリーに求婚しました。彼女は30歳、エリオットは68歳になっていました。「私は世界中でいちばん幸せな男だ」と彼は友人に語りました。著作の中で愛を平凡な人間の慰めにすぎないと笑っていた彼が、生涯の悲惨と孤独から一人の人間の愛によって救われたのです。夫婦は一時も離れることなく、エリオットは幼い日の思い出に勝る幸福な日々をヴァレリーと過ごしました。75歳で意識不明になったとき、妻は終始彼の傍らを離れませんでした。というのも昏睡状態から覚めた時、彼女の姿が見えるかどうかが生死を分ける、と言われたからです。エリオットは回復し、なお2年生きて77歳で妻の名を呼びながら穏やかに死にました。彼は、(子供の時と二度目の結婚の時のように)誰か信頼できる人に見守られているときにのみ本当に幸福だったのです。「わが始めはわが終り、わが終りはわが始め」詩人の墓碑にはそう刻まれています。

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