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2006年1月 9日 (月)

チェーホフ『犬を連れた奥さん』

 モスクワからヤルタに保養にきていたグーロフはそこで犬を連れた若い夫人と出会います。彼女はアンナ・セルゲーヴナという名で、ペテルブルグ近くの S 市の市会議員の妻でした。グーロフはモスクワの銀行に勤める裕福な40近い男で、学生結婚した夫人と三人の子供を持っていました。インテリで面白みのない夫人はグーロフに楽しみを与えず、そのためグーロフはもっぱら他の女たちとの情交で憂さを晴らしていました。それまで遊んだ女は数知れず、しかし彼は一度も恋したことがなかったのでした。グーロフとアンナは互いに愛しあうようになりますが、すぐに急用で夫人は S 市に帰ることになります。アンナは初めての浮気に気もそぞろで、別れの時に「二度と会えないけれど、あなたのことは決して忘れないわ」と涙ながらに叫びます。グーロフも淋しくは感じましたが、いつものようにこの女も思い出の中の一人になっていくのだろうと達観していました。
 ところが休暇を終え、モスクワに帰ったグーロフはなぜかアンナのことが思い出されてなりません。月日が経てば忘れるどころか、ますますはっきりとアンナの面影が浮かんできます。一人で家にいるときはもちろん、外を歩いても雑踏の中にアンナに似た顔を探していました。こんなことは彼の人生で初めてでした。部屋のどんな片隅からも彼女の息づかい、彼女の香りが漂ってきます。グーロフはついに出張を理由に S 市にアンナに会いに行きます。劇場でグーロフに会ったアンナは驚いて、すぐに帰ってくれ、私がモスクワに行くから、と懇願します。それから2、3ヶ月に一度の割で、激しく愛し合う二人の逢瀬がモスクワのホテルでくり返されました。
 物語は突然ここで終わります。偽りの結婚生活、偽りの世間体の空しさを知った二人は、互いに誠実であることを約束しながらもこれからどうなって行くのでしょうか。二人の行末は読者の想像にゆだねられています。そしてここにチェーホフ(1860~1904)の偉大さがあるのです。「彼は人生から一つの時間、一つのエピソードだけをとって書いた」とクロポトキンは言っています。それだけで十分なのです。グーロフは初めて自分の心を捉えたものが何であるかを必死に探ろうとします。それは毎日の仕事とか賭けトランプとか翌日に残る酒の香とは全く違うものでした。それは、この世の一切は美しいと思わせる強烈な感覚でした。ここで現実の枷(かせ)が彼を縛ります。アンナの待つホテルに行く途中、彼は小さな娘を学校に送って行きます。道々彼は娘に雪や雷の知識をやさしく教えてやります。アンナに逢うと、抱きしめ、涙にくれます。これがいわゆるそこはかとない「チェーホフの悲しみ」です。人生のあらゆる瞬間と同じように、最も困難なことは今これから始まるのです、、、。
 余分なものが全くない完璧に短いこの小説は神西清の名訳で『可愛い女・犬を連れた奥さん』(1940岩波文庫)に収録されています。

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